第86話『愛と裏切り』
やはりチル様は、東京に行った時に皇居から形代の草薙の剣を盗み出していた。
俺の部屋にある、熱田神宮の草薙の剣と取り替えるために……。
そして俺の部屋から草薙の剣を盗み出したチル様は、明智光秀が封印されし場所、明智光秀の首塚へ赴いた。
首塚のお堂の中にある紫色の玉を、草薙の剣で切り裂く。
すると辺り一面真っ白に覆われ、チル様の目の前に明智光秀が現れた。
念願だった、明智光秀の封印をやっと解くことができたのだ。
千年の時が経つか織田信長が復活したら、封印を解く。
それがチル様と明智光秀の間で交わされた約束だった。
しかしチル様にとって、本当は織田信長のことなんかどうでもよかった。
いや、むしろ、早く織田信長が復活することさえ願っていた。
なぜなら、そうなることで千年もの時を待たずして、愛する夫と再び会うことができるのだから……。
約四百年もの長い間、ただひたすら愛する夫と再会することだけを夢見て、チル様は生きていた。
そしてようやく、再会することができたのだ。
永遠とさえ思える長い間、溜まりに溜まった涙を流しながら、チル様は愛する夫を眺めた。
夫の顔は、封印する前と何も変わっていなかった。
本能寺の変の後、天海と名前を変えて生きた明智光秀が封印された時の年齢は、百歳を超えていた。
もちろんチル様の神通力で、老化は60歳で止まっている。
決して若くはないが、チル様にとっては最も夢見た顔だった。
「何年経った?」
愛する夫からの第一声は、これだった。
再会を祝うものでもなく、封印を解いた礼を述べるものでもなく、ただ無機質な言葉だった。
「四百年、経ちました」
チル様は、強く答えた。
それだけの間、待ったのだ。
分かってくれたなら、労いの一言でも貰えるだろう。
そう期待したチル様だったが、明智光秀は何も言わず、どこかへ去ろうとした。
「どちらにおいでですか!?」
そう聞くと、明智光秀はチル様に顔も向けず答えた。
「伊勢に」
「一体なぜ!?」
「アマテラスに会いに」
天照皇大神は、チル様の姉、サクヤ様の義母にあたる。
日本の神々の中で最上位の神だ。
なぜそんなことが必要なのだ?
愛する夫の言っていることが分からない。
困惑するチル様だったが、夫が白装束を纏っていることに気が付き、言った。
「とりあえず、服を買いましょう」
そうしてチル様と明智光秀は、新京極へ服を買いに行ったということだった。
新京極に着き、チル様たちは古着屋を訪れた。
白いアンダーシャツに、黒のレザージャケット、黒のデニムパンツ、赤いブーツ。
チル様の趣味で買った服装だが、明智光秀は何も言わず、それらを身に纏った。
着れれば何でもいいようだった。
無愛想な夫だが、チル様はそれなりに楽しかったそうだ。
数百年振りのデート。
そんな感覚だった。
しかし、そんな楽しい時間はほんの一時だけだった。
封印が解かれてから、何一つ顔の表情を変えなかった夫だったが、魔法を全く使わない街の人々に気付き、興奮した表情を浮かべた。
「おお……。この世界は、魔力の無い世界が続いているんだな……」
夫は魔力のない世界を作るために過去へ跳んだ。
だから、魔力のない世界を作りあげられたことに、感動しているんだろうとチル様は思った。
「はい。まだこの世界に魔法は存在していません」
そう告げると、明智光秀は不敵な笑いを浮かべた。
「なら、よい」
そう言って両手を広げ、続けた。
「さあ、私を元の世界へと帰せ」
「魔王を討ちに行かれるのですね?」
そう聞くと、明智光秀はさらに笑った。
「フフッ。魔王か……。それもやらねばなるまい」
無表情だったくせに、急に表情を変える夫を、チル様は不審に思った。
それもやらねばって、それ以外の目的なんてあるはずがない。
信長を討ち滅ぼすことが出来なかったから、自らを封印したのではなかったのか……。
「さあ、私を元の世界へ」
そう言う明智光秀に、チル様は首を横に振った。
「嫌でございます」
「もう一度言うぞ。私を元の世界へ帰せ」
そう言う明智光秀の顔を見て、チル様は絶句した。
それは、今まで見たことのない夫の顔だった。
まるで、汚物でも見るような顔でこちらを睨む愛する明智光秀に、チル様は恐怖を感じた。
たじろぐチル様に追い討ちをかけるように、明智光秀は叫んだ。
「帰せ!」
次の瞬間、チル様は自分の目を疑った。
明智光秀は右手を掲げ、巨大な炎の玉を作り出したのだ。
それを、あろうことか京都市役所めがけて放ったのだった。
建物が破壊する巨大な轟音とともに、激しい熱風が辺りを包んだ。
周りのあちこちから悲鳴と助けを呼ぶ声が聞こえる。
一瞬の出来事で、時間を止める間もない出来事だった。
取り返しのつかないことになった……。
「さあ、帰せ! それとも足りぬか?」
チル様は俯き、右手を掲げた。
涙を流しながら、変わり果てた夫を転移させる。
「みんな、ごめんなさい……」
その場で崩れ落ち、なぜこんなことになってしまったのか、自問自答する。
そして、夫に反論したことと、時間を止められなかったことに、激しく自分を責めたのだった。