恋しい人
ドアが閉じられた後、ライオネルはベッドに腰掛けるシルヴィアの前にしゃがんだ。
「…俺が誰か分かるか?」
「アシュ…?」
その眼に自身が映っていないことを再確認し、ライオネルはため息をつく。
「違う。…お前、そんなにご主人様が恋しいのか?」
「どうしたのアシュ?いつもみたいに呼んで…?」
不安そうに、縋り付くような目で見てくるシルヴィア。いつもの呼び方など知らないし、彼女のこんな目もライオネルは知らない。
「ずっと会いたかったの…寂しかった…。帰りを待てなくてごめんなさい、私…」
「だから、俺はお前の恋しい男じゃねえ!食べてもわからないのか?」
「ぅん…?」
そう言ってライオネルはシルヴィアに口付けて吸精を促す。他の男だと思われ求められるなど御免だ。なぜこんなにも苛立つのか。その理由にはさすがに薄々気づいている。だからこそ余計にあの男の代わりになどなってやるものか。
「ん…ぅ…」
「ほら、好きなだけ食べていいから」
1度唇を離したが、ライオネルは再びシルヴィアにキスをする。徐々に押し倒しながらそれを2度、3度と繰り返す。
「…はっ…」
「…女神の祝福まで受けている婚約者が分からないとか言うな。シルヴィア、俺は誰だ?」
誰…?言われてシルヴィアは頭の中で何かが弾ける感覚がした。その瞬間、彼女はライオネルの下でぱちぱちと瞬きをする。
「あ…れ…?ラ、イ…?」
「正解だ。…正気に返ったか?」
シルヴィアはキョトンとした顔でライオネルを見つめた。
「…え…?あの…するの…?」
状況をよく理解していなかったが、なぜかライオネルに押し倒されていることだけはわかったシルヴィア。そこから察して顔を赤くして尋ねてみたのだ。
「いや、し、ねぇよ…?」
言われたライオネルもつられて顔を赤くし、なぜか疑問系で半端に否定した。
「しないんだ…」
「そりゃあ…当たり前だろ…」
言いながらゆっくりとシルヴィアの上からどき、ベッドからも降りるライオネル。シルヴィアも起き上がり衣服の乱れを整える。
「…まだ戦の後始末が残ってる。術が解けたのならお前も一緒にこい」
「…ライの意気地なし」
ぽつりとシルヴィアが呟く。
「はぁ!?言っておくけどな、お前がつまんない魔術に引っかかってたんだからな!?」
「でも解けたもん」
「1人で解いたみたいに言うな!お前俺の事をご主人様と間違えて盛ってきて大変だったんだからな!?」
売り言葉に買い言葉。シルヴィアの言葉ひとつひとつに倍にして噛み付くライオネル。彼にしてみれば肉欲に溺れず超理性で耐えた己を誇りたいところだ。
「アシュとライを間違えるわけない!そんなわけない!」
「じゃあ甘えて擦り寄ってきたのは何なんだよ!もっと触れって言ってきたのは!?」
「知らない!ライに欲情したんだよそれなら!」
「はあ!?」
ご主人様のことを言われたからか、まだ精神感応魔術の名残があるからなのか、いつもよりシルヴィアもやけに感情的になっている。割ととんでもないことを言っていることに気づいていない。
「お前っ…!俺がどれだけ紳士的に耐えたか知らないな!?」
「じゃあ何もしてないの??」
「そりゃあ何も…!して、なくは…いやちょっとはまあ、したけど…」
何もしていないとは言い難いことに気づき、ライオネルはどもり出す。
「…ライのスケベ」
「それはお前の方だろが!結局やられたいのかやられたくないのかどっちなんだよ!!」
コンコンコン!とノックの音が響く。
「聖王猊下、怒鳴り声が響いてますがプレイの一貫でしょうか?」
「バース!んな訳ないだろが!」
明らかにふざけたバースの声が扉の外から聞こえたため、ライオネルは怒りながら扉を開く。
「え、もう終わったのか?」
「変な誤解するな!説得で魔術を解除しただけだ。やましいことはしてねえよ」
「ちょっとはしたって言った」
さすがに早すぎないかと言いたげなバースに、ライオネルはすぐさま変なことはしていないと宣言した。横からシルヴィアに茶々を入れられるが。
「とにかく、遊んでる場合じゃねえ!さっさと後始末に行くぞ!」
「承知した」
「はーい」
さすがに場所が場所だけに、言われたバースもそれ以上ライオネルをからかうのはやめて職務に戻ることにしたようだ。
そのまま前を歩くライオネルの背をシルヴィアはじっと見つめながらついていく。
ご主人様と他の男を間違えた?そんなわけない。いくら魔術にかけられていたとはいえ、とんだ失態だ。そんなことを考えながら、屋敷を改めながら指揮をするライオネルの背を見つめる。
「精神魔術によほど自信があったのか、他に罠は張っていなさそうだな」
「そうみたいだな。だがまだ油断は…ああ??」
後ろからぎゅっと抱きついてきたシルヴィアにライオネルは動揺する。
「おい!?いや待てなんだまだ魔術が解けてないのか??」
「違う。確認」
顔を赤くしながらもライオネルはされるがままだ。これ幸いとシルヴィアは冷静に確認作業をする。
手の感触、体温、匂い、全部違う。この人はご主人様じゃない。大丈夫、ちゃんとあの人のぬくもりは忘れていない。遠く離れたせいで契約紋からたとえなんの熱も感じられなくても、自分は覚えている。
「うん、大丈夫。全然違う」
「なんだか分からないが腹立つな!?お前人をおちょくるのも大概にしろよ!?」
ひとしきりベタベタ触った後なぜか納得顔で離れたシルヴィアに、ライオネルは苛立ちを隠せない。いやむしろ怒鳴っている。
「…今猊下に抱きつくのを気づいてましたよね?なんで止めなかったんですか?」
「あれは止めなくていいやつだ。見てろこの後の結界張りを。へたすると今回は領地中に届くぞ」
近くにいた若い聖騎士がバースに尋ねた。他の令嬢が抱きつこうとする時には暗殺の恐れもあるからと止めさせるのに、と。
確かにシルヴィアが手を伸ばしてきた時に気づいたし止めることもできたが、あえて放置した。危険はないし、むしろ女神もそれをお望みのため神聖力も強まるはずだと。
そしてバースの読み通り、ライオネルはこの後彼自身も驚くほど広域に純度の高い聖なる結界を張るのだった。