第98話 苦痛
鼓動が早まる。ドキドキする。顔が熱くなる。
思いを伝えた。唇を重ねた。どちらも一方的だった。
同意なんてなくて、彼のためとはいえ、自分の欲に従った。
――紛れもない、逆レイプ。
メリッサがためらっていたのも、分かる。
相手は年下で、訴えられたら有罪になる行為。
七つの大罪で言うところの色欲に分類されるもの。
後ろには目撃者もいるし、言い逃れる余地はなかった。
――問題は、相手に響いたかどうか。
それは、罪の有無よりも優先すべきこと。
意中の人に気持ちが届くよりも、重要な事柄。
神から欲望を引き出し、堕天させないといけない。
「「…………」」
アザミは唇を離し、相手の反応を待つ。
成功したのなら、返事の内容で分かるはず。
罪に問われるかは、その時に考えればよかった。
上手くいってくれるなら、糾弾を喜んで受け入れる。
「……それで、お仕舞?」
しかし、その時はやってこなかった。
人格は変わってない。紛れもなく白き神。
ジェノだったら、そんな反応は絶対にしない。
響いた気配はなく、さらなる刺激を要求していた。
「あ、あ……」
告白の失敗。計画の頓挫。魅力の欠如。
結果を受け止めきれず、頭が真っ白になる。
これ以上なんてなく、今のが自分の全力だった。
要求されたところで、何をすればいいか分からない。
「舞えないなら、退場してもらいますね」
すると、白き神の目つきが変わる。
完全な無。機械的に処理するための表情。
殺意は感じないけど、それがむしろ、怖かった。
(た、戦うしか……。でも、それだと……)
腰の刀に手を伸ばすものの、わずかな戸惑いがあった。
気掛かりなのは、白き神がジェノの身体を使っていること。
きっと、全力では戦えない。傷つけることを心が拒んでしまう。
「くっ……」
一瞬の苦悩の果てに、アザミは刀に頼るのを諦める。
必要なのは、自衛の手段。相手を傷つけずに乗り切る方法。
邪遺物『羅刹』に触れ続けたことで体を侵食し、発現した、異能。
「――」
吹き抜けるのは、横殴りの強風だった。
結果として、白き神が放つ拳は、空を切る。
それどころか、彼との距離は見る見る遠ざかる。
熱風が肌を突き抜け、森から脱し、到達したのは壁。
「…………っ!!!」
ドンと背中に衝撃を受けて、ようやく停止する。
そこは針葉樹の森を抜けた、化学工場の外壁だった。
物理的な痛みはなかったものの、別の痛みを感じていた。
「…………振られ、ちゃった」
自然と眦が熱くなり、涙がこみ上げてくる。
感じるのは、精神的な苦痛。やりきれない思い。
今度は、優しい言葉をかけてくれる人なんていない。
一人で向き合い、一人で答えを出さないといけなかった。
「魅力、なかったのかな……」
すぐに切り替えられるほど、楽な出来事じゃなかった。
心に重くのしかかり、立ち上がろうとする気力が失せていく。
Vtuberになり、議員になり、総理大臣になっても手に入らないもの。
――ジェノ・アンダーソン。
心に深く刻み込まれた男性に振られた。
厳密には違うけど、振り向かなかったのは確か。
女としての魅力がないと直接言われたようなものだった。
「……いや、大丈夫。後もう一度ぐらいだったら、頑張れる」
そこでアザミは両頬をパチンと叩き、気合いを入れた。
こんなところで心が折れるなら、あの日にきっと折れている。
希望がないわけじゃないし、もらった恩はどうしても返したかった。
「でも、どうしたら、振り向いてもらえるんだろう……」
アザミは前向きな思考で、改善点を考える。
すぐには答えの出せない問い。自問自答だった。
二次元では頑張れても、三次元ではまた違ってくる。
経験では推し量れない問題に、思考の迷路に入りかけた。
「ありのままがいいんじゃねぇか? 下手な変装を解いてな」
そこで返ってきたのは、的を得たアドバイスだった。
聞くからに経験豊富そうな中年の声。含蓄がある物言い。
「あ、あなたは確か……ルーカスさん?」
振り向くと、見知った男の人が立っていた。
無精ひげを生やした、ボサボサ髪の中年の男性。
黒のロングコートを着て、RPG-7を肩に担いでいた。
その隣には、黒服を着たアフリカ系の男性も立っている。
「適性試験ぶりだな。積もる話は後にして、協力するから案内してくれねぇか?」
差し伸べられたのは、右手。
あの日と同じようで少し違う展開。
「あ、あの……ジェノさん以外の、男の人には触れません」
「あぁ、そうか。そういや、男性恐怖症だったな。忘れてくれ」
どうしても触れらず、ルーカスは発言を取り下げる。
このままいけば、一人。アドバイスをくれる人はいなくなる。
「でも、ぜひ協力してください!」
そこで、アザミは勇気を出し、恥を忍んで、頭を下げた。
できないことはできない。でも、できることは何でもやるべきだった。