第92話 バトルフラッグ㊷
迫るのは、紫光。荷電粒子の収束体。
亜光速で迫るそれは、眼前に見えている。
並みの人間なら、回避も防御も反撃も不可能。
――気付いた頃には当たっている。
成す術はなく、撃たれた時点で終わり。
各方向に散って、被害を抑えるのが正攻法。
一人を切り捨て、二人を生き残らせるのが安牌。
短い打ち合わせの中、真っ先に話題に上がったもの。
――ただ、それは『武士道』に反する。
独りよがりであってはならない。
帝国における武士が持つ、行動規範。
倫理や道徳に重きを置く、精神的な教え。
武力を持つ人間の所作、振る舞いを問うもの。
肉体的な鍛錬に重きを置いた『武道』とは異なる。
その思想が根付いたのは、ある武器が原因と言われる。
――それは、刀。
武士は必ず刀を持ち、平民とは力の差があった。
素手の人間を、訓練を受けた武士が殺すのは簡単だ。
だからこそ、刀の扱いには、重大な責任が問われていた。
生涯において、刀を一度も抜かずに死んでいった武士もいる。
多大な力を持つが故の責任論。生半可な扱いは『武士道』を穢す。
――今、その是非が問われている。
「…………」
量子刀を握るのは、強化外骨格を纏うベクター。
上段に構えて、振り下ろす瞬間を心待ちにしている。
亜光速で迫り来る荷電した粒子に、真っ向から挑む姿勢。
――常識的にはあり得ない。
刀を振り下ろす速度には、限界があった。
いかな達人でも、亜光速の領域には至れない。
仮に間に合っても、荷電粒子は分断できない性質。
時間的な問題。人体的な問題。物理的な問題が山積み。
普通なら、やる前から諦める。そもそも、挑戦すらしない。
――だからこそ、試す価値がある。
刀に重くのしかかるのは、自身を含めた三人の命。
失敗すれば、全員死ぬ。とっくに自分だけの問題じゃない。
「この一刀に、俺の『武士道』を賭ける……っ!!!!」
ベクターが行ったのは、言葉を発するという暴挙。
時間的に考えれば、言い終わる頃には荷電粒子に接触。
刀を振り下ろす暇もなく、命が取り立てられるはずだった。
――しかし、迫る光は徐々に遅くなる。
結果だけ見れば、時間的な問題を解決していた。
それは、生死の狭間に身を置いた場合に起こる現象。
死の瀬戸際に、走馬灯が流れていくのと同じような理屈。
――超感覚。
時間を圧縮し、超人的な動きを可能とする。
残すところは、人体的な問題と、物理的な問題。
超感覚に肉体が伴うか、刀で荷電粒子を斬れるのか。
問題は同時に存在するようで違う。一つが重なっただけ。
「…………っっ!!!」
ベクターが直面するのは、人体的な問題。
強化外骨格をもってしても、想定しない挙動。
ピシリと全身の血管が血走って、激痛を伴わせる。
それは、時間の反作用。人の限界を超えたデメリット。
超感覚は、身体と心臓に多大なる負担をかけるものだった。
圧縮しようとする時間が、短ければ短いほど、負担は増大する。
(姉なら……ミネルバ・フォン・アーサーなら、諦めはしなかった……!!)
意識が朦朧とする中、ベクターが思い浮かべるのは長女。
騎士道を重んじ、不利な戦場でも、決して背を向けなかった。
死の間際まで生き様を示し続け、今や遠く及ばない存在になった。
存命中に、どのような功績や、善行を積もうと勝てない偉人になった。
――ただ、彼女の意思を受け継ぐことはできる。
「…………………………ッッッッッ!!!!!!!!!」
赤く染まる視界中、ベクターは声にならない叫びを込めた。
もう言葉は必要としない。行動。生き様。心意気で示すのみ。
痛みか気合いか、自分でも判別がつかないまま身体は動き出す。
それは、人体的な問題の解決を意味する。残す問題はたった一つ。
――荷電粒子を斬れるか、否か。
粒子とは、物質を構成するための単位の一つ。
質量を持ち、位置と速度が特定できる点状の物体。
一つ一つが非常に小さく、刀で芯を捉えるのは不可能。
構造上、斬れ込みが入ったとしても、真っ二つにならない。
魚群に刀を振るうような感覚。効果があるのは、接触部分だけ。
群れ全体の流れまでは食い止められない。それが物理的問題だった。
――しかしそれは、普通の刀の場合に限る。
粒子を含めた物質には、さらに最小単位が存在する。
連続的なエネルギーや運動量ではなく、非連続的なもの。
複雑な物理現象を、一つ一つに分解して、観測を可能にした。
――その名は、量子。
奇しくも、ベクターが持っている刀についた名と同じ。
粒子の状態や結合に、直接干渉できる性質を秘めていた。
「…………ああっぁぁあああぁぁぁああああああああッッッ!!!!!!!」
両腕が引きちぎられるような感覚があった。
全身の血液が一瞬で沸騰したような気さえする。
それでも、刀を振るう手は止めない。止められない。
諦めれば、終わり。理想の存在から背を向けるのと同じ。
自分のためであり、誰かのためであり、姉を思うがゆえに。
「――――――――――――――――――っ!!!!!!!!!!」
ベクターは、誰にもできなかった偉業を成し遂げる。
荷電粒子を斬る。彼の『武士道』は不可能を可能にした。