第154話 あとがき③
目の前に広がるのは、クレーターと無数の洞窟。
懐かしの我が家であり、慣れ親しんだ我が独創世界。
両側には険しい岩壁がそそり立ち、高い崖が形成される。
その更に上空には、複数の黒龍が編隊されたように飛行する。
「……さてと、手遅れになる前に急がないとね」
歩みを進めるのは、モノクロのシャツワンピースを着た女性マルタ。
長い白髪で、容姿は二十代、体躯は細く、若々しい見た目を保っている。
その背中には、氷漬けになっている青いセーラー服を着た紫髪の女性がいた。
――臥龍岡アミ。
戦獄時代を終わらせた英雄、臥龍岡夜助の子孫。
縁もゆかりもない他人、というわけじゃなかった。
むしろ、その逆。切っても切り離せない因縁がある。
義理で助けるというより、心から助けてやりたかった。
「悪いね、うちの馬鹿弟子が迷惑をかけて」
マルタが口にするのは、秘めていた事実。
凍結の原因を作った最上位級悪魔、南光坊天海。
骸人を作った起源であり、不死の術を受け継いだ弟子。
夜助に負け、この世を去ったが、皮肉にも因果は巡ってきた。
生き返った天海が、夜助の子孫にやり返したような形になっている。
「……」
その当事者となった、アミからの返事はない。
全身が凍りついて、物理的に話せない状態が続く。
このまま放置すれば、まず間違いなく、人命に関わる。
医者に診せるのも手だが、ここに来たのには理由があった。
「……まったく、我ながら面倒な宝物庫を作ったもんだよ」
洞窟の最下層には、今までに集めた蒐集品がある。
その中で黒鋼という物品を使えば、治癒は可能だった。
自由に出し入れできる便利機能は、残念ながらついてない。
独創世界の主人と言えども、正規のルートで進むしかなかった。
いつもなら穴に飛び降りてショートカットするが、そうもいかない。
「かっ飛ばしたいところだけど、ワレモノ注意なんだよねぇ」
強い衝撃が加われば、凍結状態のアミは簡単に壊れる。
破損の程度にもよるが、取り返しがつかなくなる可能性が高い。
時間はかかるが、洞窟を通り、最下層を目指すのが一番安全と言えた。
「……まぁ、魔物が襲ってこない分、イージーかね」
独り言をこぼしつつ、マルタが辿り着くのは、地下一層目の洞窟。
クレーターの周囲を螺旋状に穴が掘られ、地下三層まで繋がっている。
宝物庫の番人も兼ねる魔物は、下に行くほど強まるが、主人は襲われない。
――散歩と同じレベル。
時間がかかる以外にデメリットは存在しない。
侵入者と比べれば、待遇は天と地ほど差があった。
極めて楽な条件で、洞窟に足を踏み入れようとした時。
「…………?」
洞穴に広がる深い闇が、わずかに揺らいだ。
ほんの些細な違和感。普段なら錯覚と切り捨てる。
ただ、人の命を背負っている以上、雑な行動はできない。
(あいつは……)
センスで目を凝らして確認すると、見えたのは痩せ型の中年男。
右目には眼帯、黒のスーツに袖を通し、右手には黒い鉱石を持っていた。
「欲しているのは、こいつか? 魔物の主」
名前はカモラ・マランツァーノ。シチリア系マフィアの元ボス。
紛れもなく黒鋼を手にし、宝物庫に足を踏み入れたことを意味する。
(まさか、一人で……。そんな柔な難易度にした覚えはないんだけどね)
最後に顔を見たのは、数週間前。ドイツにいた頃。
野垂れ死んだと思っていたが、生き残っていたらしい。
問題は、どうやって宝物庫まで攻略することができたのか。
――その答えは、すぐ明らかになった。
「……」
『ヘケっ!』
奥から現れたのは、全身に黒い体毛を生やす狼男。
そして、丸いフォルムに尻尾と耳を生やした黒い魔物。
(ガルムとヘケヘケか。この二匹がいれば、攻略は可能だね……)
双方ともに、マルタの手から生み出したキメラ。
数ある作品の中でも、最高傑作クラスの個体だった。
(いや、それよりも――)
ひとまず納得し、意識を現実に向ける。
尋ねられた問いには、答えないといけない。
「タダでくれるほど、慈善家じゃないんだろ。……条件を言いな」
清濁併せ呑むマルタは、カモラが持つ黒鋼に目を向け、言った。
向こうから取引を持ち掛けてきた以上、こちらの目的はバレている。
それもワレモノ状態のアミは、戦闘に発展すれば、ほぼ確実に破損する。
――交渉は不利な立場にあった。
行動は大幅に制限され、最も欲する物が取引材料。
どんな条件を提示されようが、呑まざるを得ない状況だった。
「俺を不老不死にしろ。確約できるなら、今じゃなくても構わん」
カモラが発したのは、単純ながら欲深い条件。
何もない平常時だったら、突っぱねて終わりの案件。
数か月前でも数週間前でもなく、今だからこそ有効な提案。
行き当たりばったりとは思えない、周到で綿密な計画性を感じた。
(数か月か、数年。……いいや、それ以上前から仕込んでそうだね)
揺るぎないカモラの瞳を見つめ、予感が正しいと確信する。
しかも、不老不死の術に関与し、今、扱えないことまで把握済み。
(能ある鷹は爪を隠す、か。本性を知らない以上、不老不死を渡すのは危ういね)
マルタは最上級の評価をカモラに下し、思考する。
有能であっても、人格者であるかは、全くの別の話だった。
悪しき心を持つ者に、『不老不死』が渡れば、更なる混沌が訪れる。
(――ただ)
諸々の事情を踏まえた上で、背後に視線を向ける。
そこにいるのは、驚いた表情のまま氷漬けになったアミ。
取引に応じるか否か。両方を天秤にかけて、マルタは選択する。
「仕方ない、乗ってやるよ。……ただし、察しの通り、今すぐは無理だね」
「その調べはついている。具体的には、何が必要になる」
「不老不死に必要なのは、二つに分けた術の継承。八重椿と臥龍岡夜助の命だよ」
◇◇◇
『……死屍葬送』
思い返されるのは、屍天城頂上での最終決戦。
夜助の黒い短刀が、骸人の長の肌を引き裂く瞬間。
『見事だ、人間……。褒美に、我の力の一部をくれてやろう……』
散り際の天海は、自らの命を捧げ、呪いをかけた。
それは、奴が有していた『不死』の能力の継承だった。
身体は老いていくものの、決して死ぬことはできない状態。
――この世は生き地獄と化した。
身内の大半は死に絶え、致命傷を負っても身体は再生する。
子供や子孫が生まれても、死に際を看取らないといけなかった。
それが何より辛い。普通の人生なら味わうことはない苦行と言えた。
死のうと思えば死ねたが、やり残したことのせいで今まで死ねなかった。
――それも、もうじき終わる。
「…………」
老いた夜助が訪れたのは、とある病院の霊安室だった。
数ある棺の中から一つを選び、丁重に引っ張り出していく。
棺上部の扉を開くと、そこには金髪サイドテールの女鬼がいた。
「遅くなったな、ナナコ」
天海討伐の旅に同行した一人。元は八重椿の付き人をしていた者。
鬼の身でありながら、重い病を患い、死亡寸前の状態で保存されていた。
――原因は、椿の魔眼。
両目で見た相手の時間を停止させるもの。
ただ、延命措置にすぎず、根本的な治療ではない。
「少し時間がかかったが、約束通り持ってきたぞ」
くたびれた黒い和服の中から、夜助は紫紺色の草を取り出す。
そっとナナコの口を開き、優しく咀嚼させ、そのまま嚥下させる。
「――――」
すると、ナナコの姿形は変わり、長い黒髪の少女と化した。
依然として瞳は閉じたままで、病が治るような兆しは見えない。
――与えたのは、上変化草。
マンハッタンの地下に生じているダンジョンコキュートス。
その第六層で入手した品。中身は識別済みのため、間違いない。
効能は、頭の中で思い浮かべた人物に十分ほど変化するというもの。
それだけではなんの解決にもならないが、本命は、その副作用にあった。
――十年分の時間の逆行。
十分の変化が終われば訪れる、実質的な若返り効果。
病が発症する前に戻れば、対策も完治も可能だと踏んでいた。
問題は、この効能が事実かどうか。成功すれば、時間停止すらも遡る。
目を覚まし、なんの憂いもなく、数百年振りの再会を遂げることになるだろう。
――そうなれば、思い残すことはない。
「…………」
夜助は、懐中時計を取り出し、時間が過ぎるのを待った。
これまでなんとも思わなかった一分一秒が、えらく遅く感じる。
『椿様、申し訳ございません! またやり過ぎてしまいました……』
その間に思い返されるのは、ナナコとの初対面。
骸人の奴隷となり、武器屋の店番を任されていた頃。
戸を叩いた勢いで、店の一部が壊される。それが出会い。
『好きとか嫌いとかよく分かりません。ただ欲しいんです。あなたの赤ちゃんが』
骸人の掃討作戦。各国を巡り、任務が終わった頃。
雨の日の寝室で、なんの恥じらいもなくナナコは言った。
今後の国の行く末を憂いた結果の生産的行為。それが馴れ初め。
『夜助さんなんて知りません! もう二度と顔を見せないでください!!!』
平和が訪れた日本。広島で余生を過ごしていた頃。
遊郭での浮気が発覚し、憤りを露わにするナナコは告げた。
好きか嫌いかハッキリしないまま、共同生活は終わる。それが別れ。
――そして。
「………………」
変化した姿が元に戻り、見覚えのある鬼がパチリと目を開いた。
目と目が合い、正常に目覚めているなら、状況を理解しているはず。
ただ、正体に気付いたのかは分からない。あれから数百年も過ぎている。
忘れられたか、見る影もないか。どう考えても良い方向に転ぶとは思えない。
「ではな」
残酷な現実を知る前に、夜助は顔を背ける。
本音を言えば、これ以上傷つきたくはなかった。
物事に期待をしなければ、不幸を感じることはない。
それが、数百年間、逃げ続けてきた結果の処世術だった。
「――」
すると、ドゴンという音が鳴り響き、腕を掴まれる。
持ち前の怪力を使い、棺の横から片手を突き出している。
完全に気を抜いていた。敵対する可能性が頭の中になかった。
(仕方ない。適当にあしらうか……)
物悲しい気持ちになりながら、戦闘思考に切り替わる。
人の感情を知るよりも、戦いに身を置く時間の方が長かった。
こっちの方が自分らしい。そう言い聞かせながら、黒いセンスを纏う。
「……っ!!!?」
しかしナナコは、それすらも上回る怪力を発揮。
体表面には、尋常ではない量の赤いセンスを纏っている。
(衰えた身体では、ナナコの膂力が少しばかり上か……っ)
体勢を崩しつつある身体で、懐に手を伸ばす。
取り出したのは、白鞘に包まれている鍔のない短刀。
歯で鞘を噛み、左手で柄を引き、露わになったのは、黒刃。
――滅葬具『小刀・濡羽烏』
現在では邪遺物と呼ばれる代物。死んだ父親の意思が宿る逸品。
効果は、夜に近付くほど切れ味を増し、伸縮自在になるというもの。
数々の名のある骸人を葬り去り、その親玉の南光坊天海にさえ届いた刃。
――それを味方に振るうとは、なんと皮肉なことか。
一時は背中を預け合い、国家の危機を救い、床入りした仲。
その最後が刃を交えることになろうとは、自分事ながら笑えてくる。
(殺しはせん。……ただ、露を払うまで)
時刻は深夜。濡羽烏が最も力を発揮する時。
膂力で敵わぬなら、切れ味で勝負するのが正攻法。
「夜闇を吸え……濡羽烏」
昔を思い出しながら、夜助は言霊を乗せる。
それに従い、黒い刀身は伸び続け、長さは三尺三寸。
大太刀に相当する長さとなり、切れ味が劣化することはない。
「燃え盛れ、赤火大蛇っ!」
対するナナコは、棺の中から取り出したのは、長槍。
赤い蛇の鱗のようなフォルムに、銀色の輝きを放つ三叉。
ナナコの怪力を最も活かすことができ、振るうほど力を増す。
――滅葬具『炎槍・赤火大蛇』
効果は、空気抵抗や摩擦により発する赤熱。
勢いが最高潮に達した時、槍先には炎の刃が生じる。
父親が遺した七振りの滅葬具の一つ。忘れるわけがなかった。
「「――――――」」
甲高い音を奏で、刀と槍は空中で衝突する。
切れ味か膂力か。技量か力業か。様々な要素が絡む。
そこにセンスの多寡と、足腰のバランスが付け加えられていく。
――結果。
「……………っっっ」
バタンという音と共に、夜助は押し切られる。
地面に倒れ、刃は弾かれ、仰向けの状態になっていた。
――鬼+怪力+滅葬具+センス量。
全ての要素が相乗効果を生み、それが結果として現れていた。
病を克服した今、弱点となるのは、額に生えた二本の黒い角のみ。
恐らく、全盛期を超えるほどの戦闘力。一方、こちらは老化している。
――敵うわけがなかった。
仮に身体が、天海討伐時だったとしても怪しい。
単純な力勝負なら、勝てる光景が全く浮かばなかった。
「殺せ。どうせ、再生するがな……」
行き着く先は、投了することだった。
手札を明かせば、見逃されるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き、負け犬のような姿を晒す。
「――――」
対するナナコは、和服の襟元を掴み、身体を引っ張り上げた。
表情に色はなく、何を考えているのか全く想像することができない。
「……何を」
「あなたを今から殺します」
反論する余地もなく、ナナコは行動を開始する。
手には長槍を持っておらず、殴り殺しがお望みらしい。
防御するのも面倒臭い。センスを解き、無防備な状態を作る。
後は目を閉じ、気が済むのを待つのみ。いつかは終わりがくるはず。
――そう思っていた。
「……っ!?」
突如、何かに口を塞がれ、柔らかい感触がした。
思ってもいない展開に、何が起きたのか理解できない。
(どう、なったんじゃ……)
たたらを踏み、夜助は後退することで、ようやく把握する。
そこにいたのは、赤面する鬼の姿。恥じらう心を持った、ナナコ。
(そうか……こやつは……)
その光景を見て、何も思わぬほど鈍感ではない。
状況をおおよそ把握し、その答えは彼女の口から告げられた。
「お慕いしていました。同棲してから、今までずっと」
それは、数百年間、胸に潜めていた思いの発露。
短い言葉ながらも、その中に心情が凝縮されていた。
「気でも狂ったか? わしはヨボヨボのじじいで、そっちは鬼なんじゃぞ」
「構いません! 外見が変わったとしても、中身はずっと変わってませんから!」
後ろ暗い言葉を跳ね除けるように、ナナコは言い切った。
根暗と陽気。優柔不断と勇猛果敢。月と太陽のような関係性。
あの頃から一つも変わらん。本来なら、相容れるはずのない存在。
「…………よもや、この年になって生きる希望を見出せるとはの」
だからこそ、惹かれ合う。
気付けば自然と好意を受け止めていた。
「もっとハッキリ言ってください! 私はちゃんと言いましたよね!!」
ただ、今のではイマイチ伝わらんかったらしい。
耄碌したせいか、こざかしい手ばかりが浮かびよる。
普通に、無難に、年相応に、そうやって縮こまってきた。
わしという一人称も、見た目と世間体を気にしてつけたもの。
望んで言いたかったわけではない。世間がそうしたと思っておる。
――だからこそ。
「……ナナコ、俺のものになれ」
夜助は、恥も外聞もなく、若かりし頃と同じ感性で言葉を紡ぐ。
ハッキリ言えば、痛い。数百年の集大成がこれかと思うと痛々しい。
ただ、後悔はしておらん。幻滅されようと、愛想尽かされようと構わん。
別れた当時の関係から前に進むのなら、これ以上の言葉は思いつかんかった。
(年甲斐のないことをしてしまったの。どうせ、引かれるだけじゃろうに)
心は前向きながら、大した期待もせず、ナナコの反応を待つ。
人に期待しない感性だけは、何を言われようと変えられなかった。
「きゅん……」
すると相手は、胸をぎゅっと抑え、バタンと倒れ込む。
息はあるようだが、しばらくは起き上がれないような雰囲気。
「殺すと言った割に、殺されたのはお前さんのようじゃの」
これが、前途多難な第二の人生の幕開け。
それを肌で感じながら、悪い気はしなかった。
今のナナコとなら前を向けるような気がしていた。