第153話 あとがき②
ロシア南東部。イルクーツク州。バイカル湖。
南に100kmほど進めば、モンゴルにたどり着く地点。
9月初旬でありながら、雪が降り、湖の表面は凍っている。
周囲にある山々は白く染まっており、広大な氷の大地が広がる。
――言うなれば、氷雪地帯。
ロシア出身のアサド・クズネツォフの心象風景に紐づいた世界。
独創世界『鋼鉄要塞』で起こった予期せぬ衝突により、道が開かれる。
「……」
ひび割れた空間から現れたのは、少年ジェノ。
青い隊員服に袖を通し、顔は灰や煤で汚れている。
無言で立ち尽くし、深夜のバイカル湖を見つめていた。
表情を変えず、言葉を発することもなく、鑑賞を続けていた。
何を思い、何を考えているのか。その胸中が吐露されることはない。
ただ、自然を目の当たりにして、足を止めたという事実だけは確かだった。
「……こ、ここって」
ひび割れた空間から、遅れてやってきたのは、アザミ。
服は赤の眼鏡、灰の鳥打帽、黒の革ジャン、紺のジーンズ。
腰には刀を差しており、長い黒髪のカツラはつけたままだった。
きょろきょろと視線を右往左往させており、混乱した様子を見せる。
「恐らく、風景から見るに、ロシアのバイカル湖じゃの」
「厳密に言うなら、極東連邦管区内にある領土の一部ね」
続いてやってきたのは、茶髪の女性とオカマだった。
青のセーラー服に、黒の指貫グローブを着けるのが広島。
赤髪のアフロに、モノクロの道化服を着たオカマがバグジー。
それぞれ視覚的情報から位置を割り出し、早くも状況を把握する。
「きょ、極東は分かりますけど、連邦管区って言うのは?」
「ロシアの領土は広い。大日本帝国が45個分ほど入る大きさなの。だから、ある程度の区分に分けて、大統領の息がかかった側近に地方を管理させてるってわけ。ここはロシア内なら南寄りの場所で、このまま少し南に進めば、モンゴルの国境よ」
アザミが尋ね、バグジーが快く質問に答える。
地理的な情報だけで言えば、満点に近い回答を出す。
目先の疑問が解消したところで、三人の意識は少年に向く。
「は、把握しました。ただ、問題は」
「ジェノか、白き神か。戦うか、戦わんのか」
「戦う準備は出来てるけど、アナタは今、どっちなの?」
アザミ、広島、バグジーが順に語っていく。
危険を承知で、わざわざ異国に足を踏み入れた理由。
それは、物思いに耽っている褐色肌の少年、ジェノにあった。
「…………」
彼は何も答えることなく、背を向けている。
深い沈黙を保ち続け、ピクリとも体は動かない。
代わりに流れるのは、雪が通り抜ける音だけだった。
それがある種の演出となり、三人の緊張感を高めていく。
耳を赤く染め、白い息を吐きながらも、その時を待っていた。
「――――」
次に響いたのは、バタリという音だった。
ジェノは、雪が降り積もる地面に倒れ込んでいる。
「……っ!!」
誰よりも早く反応を示したのは、アザミだった。
倒れるジェノの身を起こして、腕で頭部を支えている。
当の本人は目を閉じており、顔色は驚くほど白くなっていた。
異変に気付いたアザミは、反射的に手のひらをジェノの額に当てる。
「あ、熱い……。や、休む場所を探さないと、このままじゃ……」
アザミはジェノの病状をおおよそ察し、辺りを見回す。
しかし、そこは深夜の山間。近くにあるのは凍った湖だけ。
地面で休ませようにも、降り続ける雪が確実に体温を奪う状態。
――放っておけば、死ぬ。
それを理解していながら、アザミは動けずにいた。
ここは右も左も分からない異国の地。休息地にあてはない。
立ち往生せざるを得ず、自然の脅威と自身の無力さを痛感していた。
「……位置も時刻も全て的中と来たか。さすがは、オユン様」
そこで聞こえてきたのは、広島でも、バグジーでもない第三者の声。
青の民族衣装を着た、黒い辮髪の男が、湖とは反対方向から現れている。
「並みの使い手、ではなさそうじゃの……」
「それ以上近付くなら、敵対行為とみなすけど、いい?」
広島とバグジーはセンスを纏い、臨戦態勢に入る。
異国の地に現れた、見ず知らずの男。面識のない相手。
接近を簡単に許すわけもなく、敵意をむき出しにしていた。
「失敬……名乗りがまだであったな。拙者はボルド・ガンボルド。イタリアで行われた武道大会『ストリートキング』では、そちらの少年に世話になった。その恩義を返しに来たと言っておこうか。信じるか、信じないかは貴公らの勝手だがな」
両手を上げたボルドは、かいつまんで事情を話す。
わずかなセンスを纏うことなく、無防備で無抵抗な状態。
拳を握り、センスを纏い、行動に移すまでに必ず遅れが生じる。
そのため意思能力者同士の間では、白旗を上げるに等しい行為だった。
「伸るか、反るか……。一見、筋は通っとるように思えるが」
「仮に事実だとしても、本人だという証明にはならないのよねぇ」
広島とバグジーは共通して、否定的な反応を示す。
冥戯黙示録という鉄火場にいたせいか、神経は過敏。
疑り深く、人を信じることが困難な精神状態にあった。
一触即発の雰囲気に満ちていき、修羅場一歩手前の状態。
「……ま、待ってください。ひとまず信じましょう。責任はわたしが取ります」
切迫した状況で声を発したのは、アザミだった。
物理的にも精神的にも、ジェノと一番近い距離にいる。
真っ先に介抱するという行動が、その関係性を物語っている。
二人はアザミと深い関係値ではないものの、空気で感じ取っていた。
――発言権は、彼女の方が上。
後は、発言を受け入れるか、無視するか。
深く考えるまでもなく、二人の答えは決まっていた。
「あんたが、そこまで言い切るんじゃったら、信じてやってもええ」
「ただし、先に計画を明かしなさい。どういう手段で助けるつもり?」
一部を認めた上で、ボルドに向けるのは、疑いの眼差し。
譲歩できるギリギリのボーダーラインは、手段を問うことだった。
「世界で最も寒い都市『ヤクーツク』。そこに住まうと言われる、『凍土の魔女』に引き合わせて、熱を下げる。それ以外の手段では助からんと聞いている。ソースは有力な情報筋としか言えんが、意思能力が絡んでいるとだけ補足しておこうか」
ボルドが惜しまず明かしたのは、計画の一端。
『ヤクーツク』は、極東連邦管区内に存在している。
現在地から、北東に約3000kmほど進んだ場所にあった。
車なら44時間。意思能力者が全力疾走すれば、更に早く着く。
「魔女か……。どうも、胡散臭いのぉ……」
「ただ、地理的に考えれば、行けない距離じゃないのよねん」
否定と肯定、異なる意見を出し、二人の視線はアザミの方に向く。
行動の最終決定権は彼女にあるが、その瞳には一切の迷いがなかった。
「の、乗ります! 全面的に信用するので、先導してください!!」
ジェノを助ける。四人が共通した目的の中、ロシアの旅は始まる。
助かるか否かは、ボルドが口にした人物。『凍土の魔女』が鍵を握っていた。
◇◇◇
ロシア北東部。世界で最も寒い都市ヤクーツク。
白に染まる街を優雅に歩くのは、長い銀髪の少女。
耳は尖っており、露出が多い白のローブに身を包む。
その周囲には、逃げ惑う姿勢で凍り付く住民達がいた。
「や、やめ――」
その最後の一人となった、茶髪の男性警官は凍り付いた。
都市を彩るオブジェと化し、出迎える準備は万端の状態となる。
一部始終を見届けながら、ステップを踏み、機嫌よさげに言い放った。
「あぁ、待ち遠しいわぁ。早くこないかしら。……愛しのジェノ様」
『凍土の魔女』は、思い人を待ち焦がれる。
色褪せない思い出の続きが始まるのを夢に見る。
言葉で分からずとも、心で通じ合えると信じていた。