第147話 神に歯向かう理由①
生まれ育ったのは、マカオ中区の古びたアパートだった。
物心がついた頃には父親はおらず、家族は母親が一人だけ。
頼れる親戚はおらず、いわゆる、母子家庭というやつだった。
「今日も留守番よろしくねぇ」
アパートの狭い玄関前、母は流麗な中国語で語る。
服装は、薔薇のレースが入った、黒のミニワンピース。
黒のヒールのつま先をコンと叩き、黒髪を夜風に靡かせた。
――仕事はスナックのママ。
夜型の人間で、休日という概念はない。
日々、何かに追われるように出かけていく。
生きていくためにはお金が必要で、うちは貧乏。
働かなければ、生活は困窮し、明日を生きられない。
不平不満は特になく、「いってらー」と母の背中を見送る。
――家族関係は良好だった。
母に理解を示し、テレビを友とし、十代を過ごす。
何も考えずに、恋愛ドラマを見る日常も悪くなかった。
このまま何事もなく働いて、結婚して、子育てして、死ぬ。
頭の中で平凡な将来設計を描き、その通りになると思っていた。
――『あの人』が来るまでは。
「この人と結婚することになったから。粗相のないようにね」
母の紹介で玄関に現れたのは、白い司祭服を着た黒髪の男性。
容姿は四十代ぐらいで、頬は痩せ、表情に生気はなく、目は虚ろ。
言葉を選ばなかったら、末期の薬物中毒者のような見た目をしていた。
「…………」
本音を言えば嫌だったけど、口にはできなかった。
『あの人』のことは何も知らない。容姿で人を判断できない。
言いたいことを全部呑み込んで、こくりと頷き、同居人が一人増えた。
――この日を境に、母は少しずつおかしくなった。
時は流れて、小学六年生。12歳になったばかりのころ。
時刻は夕方。珍しく早起きした母は、手料理を振る舞った。
三人前の炒飯とモヤシ炒め。食卓には、母と『あの人』が座る。
あれから白を基調とした家具や服が増え、日常は白に染まっていた。
「アンタに何が分かんのよ! 親に食わせてもらってる分際で!」
パシリと音が鳴り、頬に痛みが走る。
その日、母から初めて暴力を振るわれた。
何で言い争っていたかは、正直覚えていない。
ただ、親に殴られたという事実だけが頭に残った。
「…………」
その後、弁明も謝罪もしなかった。
母の心は、何かが原因で壊れかけている。
結果を受け止めて、そういうものだと理解した。
「その目……人を下に見るような、その目が気に食わないのよ!」
暴力はエスカレートして、母はボールペンに手を伸ばした。
目を突き刺せば、きっと我に返る。そう考えながら、傍観する。
抵抗することなくペン先は迫り、そのまま目をえぐろうとしていた。
「――それ以上は、いけない。白教の教えに背きます」
止めたのは、意外にも母の再婚相手の『あの人』だった。
それがきっかけで、白教という宗教に興味を持つようになった。