セットリング
サーペントはなす統べなく石ころの様に落ちていく。
コクピットの中では固定されていないファイルや資料、床に溜まっていた埃などが一斉に舞い上がる、一体何が起こった。
「セットリングだ!
ピッチ最低、ノーズ・ダウン、急げ! ゴフッ」
私はサッドに返事も出来ず、それでも咄嗟に指示通りコレクティブ・レバーをフルダウン(最低位置)つまりメイン・ローターの迎え角をフラットに、サイクリック・ステッィクを前方へと操作した。
急激な落下は止まらない。いや、コレクティブを最低位置まで下げているので止まる訳は無いのだが。サイクリック・ステッィクを前方に操作してはいるが、手応えがスカスカだ、ローターが空気を掴んでいないに違いない。
このまま地面に激突するのではないかと恐怖が過る。
どれだけ落下が続いたのだろうか、ほぼ垂直に落下するだけだったサーペントだったが、少しづつだが機首が下を向き始めた。徐々にではあるが姿勢のコントロールが戻って来た証拠だ。それに伴って垂直に落下するだけだった機体もジワリと機首方向へと進み始める。
よし、前進速度が付いてきた。相変わらず落下は続いているけど、これでなんとかリカバリー出来そうである。
今度は慎重に、ダイブからリカバリーする要領で機体を引き起こしにかかる。
但し、セットリングによる落下によって機体は再び雲の中に突入した為、視界は閉ざされ周囲は真っ白で視界はゼロだ。
私は、まずコレクティブ・レバーをジワリと引き上げ、それにやや遅れてサイクリック・スティックを後方へ操作する。
頼りのHMDSの表示で機体が反応しているのが確認出来る。良かった、舵が利き始めてる。
引き起こしによって機体に掛かるGを加減しながら徐々に水平飛行に戻す。よし、もう大丈夫よ。
機体を水平に戻した私は高度指示を確認してゾッとする。現在高度6000ft。
雲の上に出た時は1万ftを超えてたから、今の一瞬で4000ft以上も落下したのだ。高度に余裕が有ってホントに良かった。
今、私達が陥った状況はセットリングだったみたい。しかもかなりディープな。
正式名称【セットリング・ウィズ・パワー】
別名、ボルテックス・リング・ステートとも呼ばれる現象だ。
以前、ヘリコプターはローターが常に回転してるから飛行機と違って前進して無くても失速しない、だからホバリングも可能なのよって話をしたけど覚えているだろうか。
しかし、そんなヘリのローターでも失速してしまう事が有る。
ホバリング状態のヘリがゆっくりと垂直に降下した時、ローターが自分で作り出した下向きの空気の流れに入ってしまって、ローター周りの空気の流れが下方へ流れ去らずに再び上面へと回り込み気流の循環が起きてしまう事がある。
ローターを通る流れがローターを循環してローター回転面に巻き付く様に渦輪を作ってしまうのだ、結果ローターは揚力を発生出来なくなる。これが、セットリングである。
セットリングに入る条件は幾つかある、例えば高空でのホバリングだ。所謂余剰馬力が無い状態である。
高空では綺麗なホバリングは難しい、何故ならホバリングで空中の一点に安定して停止させる為に必要な目標が殆ど取れないからである。だからホバリングに失敗して高度が落ちてしまっても中々自分では気づけない。
そんな自分の意図しない降下を止めようとコレクティブを使う場合、高空の為に余剰馬力が無いから舵を騙し騙し使ってしまう事になる。或いは高空故にコレクティブ・レバーの使用に対してパワーが付いてこない事も十分有り得るだろう。
そんな場合にディープなセットリングに入ってしまうのだ。さっきの私が正にそれである。
一度セットリングに入ってしまったら、後はただ落ちるしかない。メイン・ローターが揚力を発生して無いんだから当たり前である。
でも、セットリングからの脱出方法も当然有る。
それが、さっきのサッドからの指示。コレクティブ・レバー、フルダウンによるメイン・ローターのフラット・ピッチ。そして、サイクリック・ステッィク、フォワード。つまり前方に倒す事によって前進速度を獲得する事。正に適切な指示だったわ。
その二つの操作によってローターの吹き下ろし速度を小さくし、尚且つ落下中に前進速度を付けてメイン・ローターで循環してる渦を後方へ吹き飛ばすのである。
それによってセットリングからは回復出来るのだが、回復操作でコレクティブ・レバーを最低位置にする必要がある為どうしても高度損失が大きくなってしまうのだ、1000ft~2000ftはあっという間に落ちてしまう。今回の私達は一瞬で4000ftも落下したわ。
セットリングに入る条件が不安定なホバリングによる高度低下と余剰馬力の不足だから、低空ではほとんど起こり得ないのだけれど、もし低空でセットリングに入った場合は、リカバリーする為の高度が無い為に回復する暇もなく地面に激突してしまうでしょうね。
◆
一方、雲から飛び出したジュリエット達のサーペントを偶然捉えたプリンス/ロックのハインドはどうなったのか。
二人は今まさに、今度こそ獲物を仕留めるべくジュリエット達へ襲い掛かろうとしていた。
「よし、照準に捉えた」
「? 何か接近が早くねえか、こっちの速度は?
おい、少しばかり減速した方がいいぞ!」
オン・トップ(雲上)での戦闘の為、プリンス/ロックのハインドはジュリエット達との相対速度を見誤ってしまっていた。まさか相手がほぼホバリング状態である事など思いもよらず、通常の接敵要領で接近してしまっていたのだ。
当然、相対速度は想定したそれより過大となり、あっという間にお互いの距離が近づく。
「! 撃て、プリンス!」
「うわっ、何!どうなってんだ、クソッ」
プリンスは予想を超えた速度で大きくなる標的に対して反射的に機関砲のトリガーを引く。
ヴォン
辛うじて短い一連射を加えるのとほぼ同時に、衝突を回避するための急旋回を打つ。射撃のタイミングは当初の思惑を外れて滅茶苦茶だったが、標的が照準環からはみ出すほどの距離まで近づく事になり、結果外しようが無い理想的な射撃となった。
ロックでさえ撃墜を確信したその時、信じられない事に目標は掻き消すように消え失せた。
いやロックは今度こそ、その行方を見失わなかった。降下と言うよりも落下とでも言った方が良い様な、機体姿勢を変化させない垂直降下で射弾を回避したのだ。
ハインドからの弾は空しく虚空を切り裂き、青空の彼方へと消えていく。
そして、こちらの射撃を回避したサーペントは再び雲中へと逃げ去ってしまった。
「……、あー、帰るか」
「おい、何がどうなった」
「まんまと逃げられちまったな。
仕方が無い、今回は向こうが一枚上手だったって事だ」
「ッググ、……」
「生きていれば、又チャンスは有る。
そもそも、初陣を生き残れるだけでも立派なもんだぜプリンス」
「…生き残ったのは僕の実力じゃ無い。
アンタが付いていてくれたんだ、敵機を撃墜する位はして見せたかった…」
「ま、敵機を撃墜するってのは簡単な事じゃ無い。このワシにしたってな。
アドルフ・ガランドもこう言っとる。
《戦果を上げるには、最優秀戦闘機パイロットですら優れた兵器と運、その両方を必要とするのである》
ってな」
「誰だよ、それ」
「もう燃料が心許ない。さっさと帰るぞ、プリンス」
「クソッ。プリンス、プリンスって。大体なんでプリンスなんだ。
僕は女だぞ」
「ガハハハッ」




