無言歌
「おじいちゃーーん、来たよーー」
子どもは畑のそばの木の下で休む老爺に手を振った。
老爺は声を上げるかわりに手を上げた。
大きく、大きく、子どもは何度も両手を振る。
暑い、暑い夏のことだ。
老爺はあまり話さない。
そもそもが口下手で、人付き合いも苦手で愛想がない。
戦争に行くときも、帰ってきたときも何も話さなかった。
悲しいとも、さみしいとも、辛かったとも。
ただ黙って戦争へ行って帰ってきた。
老爺はいつも話さなかった。
戦争から戻ってきたら父も兄も死んでいて、まだ若い彼の肩に家族の生活がかかったときも。
すぐ上の姉が妊娠していて、父親が本土から来ていた兵隊の1人で、終戦とともに帰って行ったと知ったときも。
1番下の妹が、占領国の基地の人間と結婚して国を出て行ったときも。
彼はいつも何も言わなかった。
怒りも喜びも、涙ひとつ見せなかった。
島はいつも暑くて、暮らしにくくて、笑って助け合って生きるしかなくて。
水を手に入れるのにも苦労した。
風土病で苦しむものも多かった。
虫や寄生虫がいて食べるものにも気をつけた。
人付き合いが苦手な老爺はいつも黙って、でも誰かに囲まれて助けられてきた。
「おじいちゃーーん、スイカ切ったよーー」
畑のむこうへ届けと子どもが声を上げる。
老爺は何も答えなかった。
聞こえないのかと木の下へ走って行った子どもはすぐに戻ってきた。
「おじいちゃんなんて?」
「おじいちゃん寝てたよ」
「この暑い中で?」
「まずいんじゃないか。じいちゃん水飲んでるんだろうな?」
子どもの父親が顔をしかめて立ち上がる。
その日はとても暑かった。
老爺はいつも話さない。
その罪も悔しさも喜びも愛しさも。
誰にも何も話さなかった。
だから誰も老爺の心のうちを何も知らない。
憎しみのひとかけらでさえ。
老爺は何も残さなかった。
その体は火に焼かれて灰になり、大きな大きな亀の甲羅に似た墓に入れられた。
土に還ることもなく、風にも海にも混ざることもなく。
ただ無言の暗闇の中にいる。
老爺は書き物ひとつ残さなかった。
文字を書くのがあまり得意ではなかったから。
彼の人生がどうであったのか、知る人はもう誰もいない。
彼は何も残さなかった。
ただ家族を守って何も言わずに死んでいった。
けれど。
夏になれば、島内から、本土から、外国から、一族が集まって墓の前で酒を飲む。
酒を飲み、ご馳走を食べて老爺のことを話す。
うまい酒、うまい料理、綺麗な服。子ども達はひとかたまりになって駆けまわる。
そこに涙はなく、憎しみもなく、怒りもなく。
彼は何も話さなかった。
怒りを伝えず、憎しみを伝えず、復讐を伝えず。
縁者たちは好きに笑い、好きに泣いて、好きに憎んで罵り合う。
墓の前で喧嘩になって、周りはそれを見て眉をひそめたり、笑ったり。
「国に帰るまでにはちゃんとしろよ」
誰かが酒を飲みながらそう言った。