ビターオランジェット
午後は眠気との戦いだ。
眠ってしまった方が良いと、心の内側で思っているせいかもしれない、と少年は独り言をもらす。そうしていないと本当に眠ってしまいそうなくらい、その少年の目は眠たげで、虚ろに見えた。
しかしそこに、控えめなノックの音が響くと、先程までの様子が嘘のように、少年は飛び起きた。物音が慌ただしくならない限界まで急いで、慣れた様子で、ノックの主を部屋に招き入れた。
「おかえり、楢野さん」
「......今井、君」
そこそこの音を立てて開いた、古ぼけた引き戸の向こうには、少女が一人立っていた。困惑と悲哀と絶望が綯い交ぜになった表情をした、楢野と呼ばれた少女は、今井と呼んだ少年の顔を見るなり、膝をついて、泣き出してしまった。
世界は、あまりにも唐突に滅んだ。
者も物も選別なく、消滅や崩壊の憂き目に遭った。その瞬間に何があったのか、理解出来た者は居らず、同時に、出来るかもしれなかった者も粗方居なくなった為、真相はもはや闇の中だった。
同時に、世界は僅かに変革した。
かつて無かったモノが現れ、旧き秩序は淘汰された。粗方に含まれなかったモノ達は、直にそれに気付き、心許なくもそれを拠り所にして、生き延びる努力を始めた。
少年にとってのそれは、力だった。
「【母さんのオムライス】、【給食のラーメン】、にえーっと、【ペ○シコーラ】、に【ス○ライト】で良い?」
「......」
少年が、写真を片手に写る物の名前を唱えると、広くもない上にアルバムのつまった本棚で狭まった写真部の部室はすぐに、食欲をそそる匂いに包まれた。
「......」
「......僕も、気付いてすぐはそんな感じだったけど、生きてるんだから、何か食べないと」
何処か自分に言い聞かせる様に少年は呟くと、オムライスを手元に、ラーメンを少女にむけて、机の上を滑らせた。母親の手料理を少年が選んだ事の意味を、少女が理解し傷付く事を、理解した上で。
案の定またすすり泣きを始めた、少女が泣き止むのを待って、二人は遅い昼食をとる事になった。
「......ご馳走様でした」
「お粗末様でした。って、僕が言う事なのかは分からないけど」
「ううん、良いと思うよ」
無理なく見える様におどけてみせる少年に、少女も力無く笑って応える。そのやり取りには、たどたどしくも何処か信頼が見えた。
泣き腫らした顔に歪な笑みを浮かべて、縋る様に、少女は少年と会話を繋いで行く。
「こうして二人で話すのなんて、なんか凄く久しぶりだね」
「楢野さんは人気者だったからなぁ」
「話しかけてくれて良かったのに。......昔みたいに」
「......それってもしかして、あいちゃん、って? それこそ無理だよ。中学入りたての頃、間違えて呼んじゃった時は火消しが大変だった」
「そんな事もあったね。私も、洋太くんとすら呼びにくくなっちゃった」
思い出を二人で温め直す。自分達が居る今を、そこに繋がる過去を、記憶に深く刻み直す。自分達に今がある事を、暗黙の内に確かめ合う。
「ヨウくんの写真、見たいな。また、上手くなったんでしょ?」
「是非。それに、勿論僕も成長してるから。まぁ、もう僕自身で解説しながらってのが出来ないのだけ残念だけど」
「......あぁ、そっか」
「そうそう。ここに鳥とか猫とか車とか......電車とか、そうだね、城とか。出て来ても困るでしょ」
「ふふ、城は流石に邪魔だなぁ。でも猫は居ても良いかも」
今となってはいつ失われるとも知れない、次の一瞬を共有し、積み重ねて行く。喪失の恐怖に蓋をして、一時の幸福の甘受を繰り返す。
「ふぁ......」
「あれ、眠い? 丁度いいかも。今から寝ればきっと夜から朝に起きられる」
「......夜?」
「地上が暗いと星が綺麗に見えるって言うだろ。普段は見られない朝焼けなんて奴も、きっと綺麗だよ」
「ん......そうだね。ねぇ、ヨウくん......」
「何?」
「......これって、何撮ったの?」
「___」
少女は寝息をたて始め、少年が残される。語る言葉も相手も無いまま少年は、机の上に置いたままになっていた食事の空容器を無造作に窓から捨て、少女が最後に気にかけていた、被写体の無い写真を破り捨てる。
少年は、少女の隣で睡魔に身を委ねた。
「___ん。ねぇ、ヨウくん!」
「......んぁ?」
「思いっ切り、寝過ぎたよ! 星、見れなくなっちゃう!」
目を覚ました時には既に空の端が、午夜の闇から逃れつつあった。互いに手を貸しあって、所々崩れた校舎を急ぎ足に上に進んでいく。
「わぁ......」
「............凄いね」
屋上に辿り着いた時には、空の端は最早白み始めていた。だが残る闇を彩る無数の星々は、存在を主張する様に負けじと瞬いていて、それは何処か、自分達と通じる様に思えた。
「............楢野さん、泣いてるの?」
「......今井君こそ。人の事言えないけど?」
気付けば揃って、涙を流しながら笑っていた。暖かい雫が傷んだコンクリートの屋上に染みて、痕を残す。
「戻ろうか」
「撮らないの?」
「カメラ、部室に置いて来ちゃった。それに、この景色は自分の目で取っておきたい」
「そう。良いと思う」
「戻ったらアルバムの続き、見よう。まだまだ見せた事の無い写真、沢山あるんだよ」
「うん。楽しみ」
来た道程を戻る足取りは、二人共軽い。競う様に、走っても叱る者の居ない校舎を駆けて、行きよりも遥かに速く屋上と部室の間の距離を踏破した。
アルバムを挟んで思い出を話す姿は、間違いなくかつての二人の再現で......戻らない日々の、再演だった。
そして終わりは、訪れる。
「......あ、れ」
「......あいちゃん?」
「ううん......なんか、目眩が、して」
「そっか......疲れたのかな。休んだ方が良いよ」
「そう......そう、だよね。久しぶりにヨウくんと、沢山話せて、張り切り過ぎちゃったのかも」
「きっとそうだ。一眠りすると良いよ。......怖かったら、手だって握っててあげる」
そんな訳ない。分かっていて、装って、欺いて、偽って、幸福な嘘のままに、世界を閉じる。......もうそれが、誰の為の嘘なのか分からなくても。
解けていく。繋いだ手の温かさが、朧気になっていく。正午の鐘が律儀に鳴って、疲れた様に眠った少女の姿は、世界に溶けて消えた。
「............【楢野......愛莉】......」
涙は、溢れなくなった。少女の写真がまた一枚、被写体を失った。虚像が現実を侵食する。少年はただその変化を眺めていた。
「......今井、君......?」
「こんにちは、楢野さん。......君が無事で、良かった」
酷い欺瞞だ。口に出さずに、少年は独り言ちる。幾度となく繰り返した、少女に向けた文言は、悩む間もなく口から溢れ出る。
その間にも騒がしい胸の内は、涙声でずっと同じ言葉を叫んでいる。罪悪感は鋭利な刃物の様に、ただ一つの後ろ向きな願いを、心に刻み付けて行く。
君と同じあの日に僕も、
いっそ消えてしまえば良かった。