1話 ポスト
結婚した。苗字が変わった。上野美雪になった。
夫の実家に同居している。仕事は続ける。残業はしょっちゅうあるし休日出勤もある。平日の家事は姑がやってくれる。
理解のあるお義母さんです。おかげ様で仕事に集中できます。
けれどもお弁当は私が作ります。朝四時に起きて、自分と夫の分のお弁当を作ります。夫も私もフルタイムで働いていますが、お弁当は私が作ります。
懸賞に当たった。いまどき珍しくハガキをだしたのがよかったのかな。当選品は、いくつかご当地グルメからランダムにひとつ送られると書いていた。なにが届くか楽しみだ。
当選品が届いてないか、ポストを覗いてみる。いつ届くのかも分からなかった。毎日わくわくする。
仕事は、電化製品を作る職場でサブチーフをやっている。二十七歳でサブチーフは、標準の階級だった。
作業者がラインで作業をする。私はその他のフォローを担当している。
部品が足りない、品質の確認、トラブル対応、トイレに行くので代わってくれなど。サブチーフとは言っても、雑用というか、メイン作業をスムーズに遂行するための要員だった。
実のところ、作業者にはとても気を遣う。ほとんどが年上のマダムだというのもあるが、ライン作業のスキルが一番高いのが作業者からだ。
毎日同じ作業を繰り返しているので、スピードもあるしミスも少なく変化点にもすぐに気づく。
トイレに行く人と代わったとき、私が入ると一気にラインのスピードが落ちてしまう。普段なら十個作れるところが七個、などというのはよくあった。
生産中、トラブルが起こった。装置の復旧に一時間ほどかかると言われた。その間、マニュアルの見直しや個人目標達成に向けての計画書の作成などの指示がチーフから出された。
指示に従わず、大声で話をしている作業者がいる。なかには、マニュアルを読んでいるふりをする人がいるが、それでもいいのだ。仕事中に堂々とお喋りをしているのがよくない。
いらいらする。ここで甘い顔をしたらなめられる。私は今まで努力して階級を上ってきた。それなのに、あんな風に遊びで仕事をしているような人と同じ職場にいるなんて嫌な気持ちだ。
「水木さん、マニュアル読んでくれますか?」
私は笑わず、少し必死めいた表情で言う。ここで笑うと冗談にとらえられ、相手も笑って終わらせるから。他のみんなは読んでいるよ、私は無言でオーラを発する。
「ああ、はいはい」
水木さんは仏頂面で返事をした。今まで隣の人と笑って話をしていたのに、わざと私にそんな表情を向ける。
水木さんは四十代の主婦で、元気はつらつ、という人だ。いつでもハキハキと、言いたいことをはっきりと言う人だった。味方も多い。だから自由に振る舞っている。
水木さんがマニュアルを持ち、また誰かと話している。マニュアルを持っていればいいというわけではない。せめて目を通してほしい。どうしてそれが分からないのか。会社員なのだから、ある程度規範は理解しているべきだ。
私の視線に気づいたのか、水木さんは隣にいた誰かと向こうへ行ってしまった。立ち去るときに、私に嫌悪の視線を投げかけて。
トラブルがあったので残業になってしまった。家に帰ると晩ごはんは用意されていた。ありがたい。手を洗い、食卓につく。
いただきます。今日のおかずは肉じゃがだった。味がよく染みていて、ごはんによく合う。
おみおつけの具はシンプルにネギと豆腐。副菜はにんじんの子和えとお刺身。お刺身が副菜とは驚いたが、お義父さんの晩酌のつまみだと思う。お義父さんだけ食べるのも気が引けるので私たちにも出したのだろう。
お漬物はきゅうりとかぶの浅漬けだった。ご近所からもらった野菜でお義母さんが漬物の素で作ったものだ。きゅうりは乱切りだった。
「きゅうりのこの形、つかみにくいわよね」
お義母さんは自分で切ったのに文句を言っている。なにげない会話の一端なのだろうが、納得がいかない。
私はきゅうりの乱切りが嫌いだ。お義母さんが言った通りつかみにくいのが理由だ。それならば、乱切りにしなければいいのに。
けれどもきゅうりのお漬物はこの形だと、お義母さんのなかで決まっているのだろう。晩ごはんを作ってもらっている手前、絶対に言えないけれども。
夕食後、ポストを確認しに行く。当選品はなにが届くか分からない。それに、宅配便とは限らない。
肉じゃがとお刺身、きゅうりの乱切りでイライラした気持ちを落ち着けるため、わくわくしてポストに向かう。
取っ手を引き上げ、白いポストを開ける。
「うっ」
ポストを開けた瞬間、強いにおいがした。私はとっさにポストの取っ手を離した。
鼻をつくにおい。においの成分が鼻穴から入り、食道の途中にひっかかる感じがする。私はむせた。