13.
ルーシェは階段を下って森に到達すると辺りを見回した。
去った時と寸分変わらず、住んでいた小屋が眼の前にある。
(やっぱりあの森は本物ではなかったのね…)
自分が育ってきた場所が、実は幻想だったと知って少し寂しく思う。
ベランダを躊躇いなく飛び降りた狼を思い出す。「ルーシェ!」と叫んだ声が耳から離れない。とても大好きな声。
「リカルド…、さん」
彼の名前を呟くと押さえていた感情が一気に溢れだす。左手で胸元の服を握り、溢れだす涙も拭わずにその場にしゃがみ込んで泣いた。
「……っ、ふっ…、うぅ…」
彼から離れたいわけじゃない、でも今は一緒に居られないと思った。
これ以上、醜い感情をさらけ出して彼に嫌われたくない。
彼を愛しているの。
助けて、リカルドさん…。
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「リカルド隊長…。こぼしていますよ」
「……」
「リカルド隊長!!」
「んぁっ!?」
「こぼしています」
トントンとテーブルを叩く。
「あ、あぁ…」
口の手前で傾けたティーカップから盛大に紅茶がこぼれていた。
ローランドはすかさず胸ポケットからハンカチを取り出すとリカルドの隣に回り、こぼれた紅茶を拭き取る。
「悪い…。どうもルーシェの事が頭から離れなくてな…」
「まだ見つからないのですか? 仕事を休んでお探ししては?」
「いや、公私は分けたい」
どの口が言う…。とローランドは思った。
ここ連日、隊長自ら街の巡回にあたりルーシェの気配を探っていた。そして書類仕事など室内でじっとしている職務の時には、この様にぼーっとしている事が増えた。
「あー…、目星は付いてるんだ」
「えっ? どこにいらっしゃるんです?」
意外な事にすでに居場所を突き止めていた。それなのに迎えに行っていないのは何故なのか。
「放置しておくので?」
「……、いや? 俺だって早く会いたいし、抱きしめたいよ。 だけど、こればっかりは相手が居る事だからな。ルーシェに戻ってきたいと思って貰わないと…」
「で?どうやって戻って来て貰うんです?」
「なぁー。どうしよう、な…」
腕を組んでうんうんと悩むリカルド。そちらにチラリと視線を向けてローランドも考えた。何故、場所が特定出来たのだろう…。巡回中にそれらしい態度は見せなかったはず。
「あの。何故お分かりになったんです?」
「あぁ。匂いだよ。シシリー草を食ってないからな。ばっちり香りがするんだよ。うちの屋敷の裏庭から」
「えっ? だってあそこには何もないじゃないですか。 あんなに大きな森があったのに一夜にして無くなったから街でも噂になっています。「一夜で出来た森が一夜で無くなった」ってね」
「あぁ。あれな…。俺が婚約者に捨てられたってやつな」
「………」
ルーシェが来た日に一夜にして出来た森。
そしてリザベルが蜂に叩き出されて、一夜にして森が消える。
人間国と違ってエルフ、獣人、が住まうこの国ではもちろん精霊の話は普通に知っている。
これらの事からルーシェが精霊の愛し子だと予想を付けた者がいるのだろう。
一夜にして森が消えると言う事はリカルドが見限られた…と噂がたってもおかしくない。
「ま、噂なんてどうでもいんだよ。森も見えないだけでそこに存在はしている」
投げやりに答えるが、この人は不名誉な噂なんて全く気にしていないのだろう。
「で?手は打っているんですか?」
「あぁ。毎日森に向かって話しかけてる」
「えっと。 何もない空間にお一人で話しかけているんで?」
「もちろん、そうだ」
想像すると苦笑いしか出てこない。
大丈夫か、うちの隊長は…。と思うローランドであった。
翌朝、日課になっている出社前の行動。
何もない、ただ広いだけの土地に一人で話掛けるリカルド。
森に居たルーシェもこの時間にリカルドが来る事を知っているので待っていた。
リカルドからは姿は見えていない。
しかしルーシェからはあちらの景色は見えている。
「なぁ。俺とローランドの会話を聞いたって言ってたけど、それって…全部か?
俺、結構恥ずかしい事言っちゃったんだよな。 そうだな…。今日は俺の話でもしようかな」
リカルドは何もない空間に手のひらを翳す。
その大きな手のひらにルーシェは自分の手を重ねた。互いに触れた感触はない。
「獣人はさ、番ってもんに強い憧れを持ってんだよ。それは俺も例外なくね。だけど、普通は出会えるもんじゃない。だから最初っから諦めていたんだ。それなりに恋愛もして来たつもりだが、付き合ってもみんな同じで心が揺さぶられない。本気になれない。空虚なんだよ。だから流されて付き合うのも疲れて、それからはフリーだった。
ルーシェと出会った時は、命の恩人でもあるが可愛くてほっておけない感じがして気になる存在だったよ。別れの時が近づくと環境の事もあって獣人国に連れて帰った方が良いかなとは思ったんだよな。だけど、立ち去る前に人間国の状況を見ようと離れた時にシシリー草の薬効が切れて森に近づいたら、そこに番が居るってわかったんだ。
初めて認識した番に震えたよ。
全然違う!
全身を雷で撃たれたようだった。
砂漠でカラカラに乾いた喉を潤す為に水を求めるように、正気で居られなくなった。
奪いたい。
求める感情が抑えられなかった。
今までのタイプとは違って可愛らしいルーシェに俺の愛情は重すぎるからな。
……。ルーシェが今まで知らないような欲望を俺は持ってる。
可愛くて、可愛くて、食べてしまいたい…。
って朝からする話じゃないか…。
だからお前には悪いが手離す気なんて、これっぽっちもない。
かといって恋愛初心者のルーシェに無理させたいわけでもないし、嫌われたくないからな。毎日森の精霊に頼んでシシリー草を分けて貰って食ってた。
俺の愛情を独り占め出来んのはルーシェだけなんだけど、…どうする?
受け入れてくれるなら、さっさと籍入れて番休暇も取る。
ま、俺が本気で好きな奴なんてルーシェしか居ないから、森から出てきたら待つつもりもないけどな。我慢して逃げられたらたまんない。俺の愛を知って貰わないと。 な?」
少し頬を染めて頭を掻きながら屈託のない笑顔で笑うリカルド。
それに引きかえ、リカルドの熱烈な告白にルーシェは途中から立っていられなくなり腰を抜かしたように座り込んだ。
「~~~」
リカルドの言葉に心に痞えていた重苦しい塊が取り除かれる。
彼は仕事の為にその場を離れたが、ルーシェは立ち上がれないので落ち着くのを待った。
「今、顔を見たばかりなのに……。もう会いたいよ…」
リカルドの側を離れてから、ゆっくりと考える時間があった。
だが、考える事はリカルドの事ばかり。側を離れてからの方が、より彼を愛してると感じるなんて。寂しくて、会いたくて仕方がない。
その日の午後、ルーシェが住まう森の前にローランドが訪れた。
「ルーシェ様。そちらにいらっしゃいますか? リカルド隊長の話ではこうやって話しかければルーシェ様に声が届くとの事だったのですが…。一人でこれをやるのは恥ずかしいですね」
隊長は何をやっているのでしょう…と続く。
ちょうど花に水を与えていたルーシェはローランドの声がしたので屋敷の方へと近づく。
もちろん、あちらからはこちらの様子は見えていない。
「今日はリカルド隊長には内緒なんです。ちょっとあなたとお話しがしたいと思いまして」
ローランドは広い土地に向かって一礼する。そして話を続けた
「リカルド様と向き合わなくて宜しいのでしょうか? 現在、森が一夜にして消えたので世間では番に捨てられたリカルド隊長と言われています。 そして…、妻の座を狙っている女性達が再びリカルド隊長に群がっていますよ。 あなたにとって彼は他の女性に奪われても良いような存在なのでしょうか?
私はリカルド隊長になら命を預ける事が出来る程、彼を尊敬しています。
ですから、番であっても彼を傷付ける人は…。
許せません。
その事だけは覚えておいて下さい」
ローランドはリカルドに強い憧れを持っており尊敬をしていた。
本人の前では絶対に口にしないし、こんな事を言うのを嫌うだろうから口が裂けても言えないが、もし戦場で彼を庇って死ぬのなら本望とさえ思っている。
婚約者がいても…。
ルーシェは多くの情報に混乱した。
リカルドに【番に捨てられた】などと不名誉な噂が流れている事。
令嬢達が再びリカルドに恋慕している事。
そして何より、リカルドを尊敬してるローランドを失望させてしまった事。
このままここに留まっている場合ではない。
愛する人をこれ以上悲しませたくないし、奪われたくない。
リカルドに相応しい人になりたいって思っていたのにいつの間にか弱くなってしまった…。
リカルドと向き合わなければ。強く願う。
「森の精霊さん。 居たら返事をして。 我儘でごめんなさい。私、リカルドさんの元に帰りたい! 彼ときちんと話し合ってやり直したいの」
すると、辺りに緑と金の粒子が輝き出した。
その輝きが中央に集まるとゆらゆら揺れて声を発する。
「ルーシェ。私の愛し子よ」
「精霊さん、いつも私を守ってくれて…、有難う!! 私は一人だったけど、いつもあなたに守って貰えて本当に幸せだったわ」
光がゆらゆらと揺蕩う。
「ルーシェ。 リカルドにとって君が番ならば、それは君にとって運命の相手はリカルドだ。 出会えた奇跡を大切にしなさい。 与えて貰うばかりではなく、愛情をリカルドにも示しなさい。 これからは互いに支え合って生きていくのですよ。 私はずっと見守っているから」
夜明けと共に、森は再び姿を現すだろう。
きちんとリカルドと向き合う準備をし、何を話すか考えておきなさい。
と言うと光は小さくなり消えてしまった。