44.吉兆の瞳
前々から、少しだけ食卓の話題には上がっていた。アキラの両親が、彼とその妹に虐待をしているかもしれないという話だ。
三歳の時に一度会った際は、アキラは瞼の上にガーゼを張っていた。それに服も少しボロくて、服の裾が解れていた。今にしてみればあれは殴られた痕で、服も禄に買い与えて貰えていなかったのだろう。
伯父の性格は私も知っている。母から何度も聞かされて来たが、若い頃から何かに付けて問題を起こす人だったらしい。
喧嘩で相手を入院させたことを武勇伝のように語るような人間で、軽犯罪で何度か捕まってもいる。そんな人が結婚して子供を作れば、どうなるかなんて分かりきっていた。
伯父の結婚相手も相手で、まともな人間じゃなかった。専業主婦と言ってはいるが、長く伸ばした爪や派手なネイルを見た事がある私からすると、明らかに家事が出来るような風体ではない。
実家に集まったときも、アキラをお婆ちゃんに預けてパチンコへ出かけるような人たちだった。
そんな様子だから、母は日頃からアキラが心配だと言っていたし、ジュリが生まれてからは一度話し合いをするべきだと口にしていた。
けれどそれももう、最悪の事態が起こってしまった後では手遅れだ。
家の前にはパトカーと救急車が停まっており、白い布を被せられたジュリと点滴を刺したアキラが担架で運ばれていく。
ジュリの方は、もう死んで半日経っている。アキラも栄養失調と脱水症状が見られ、そのまま一日病院で入院することになった。母はその付添いで向かい、警察も動き出した。
私はただそれを眺めているだけで、彼に一体なんて声を掛ければいいか分からずにいると、やがて救急車はサイレンを鳴らして走り去って行ってしまった。
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涼やかなせせらぎの音を聞きながら、何処を見るでもなく、師匠はただぼんやりと宙空を眺めていた。川の土手に寝そべり、その横には釣り竿が刺さっている。
師は開拓村からやや離れた川の上流、そこに即席で建てられた小屋に住んでいた。
そもそも俺の頼みで、此方に来ていることは他の使用人たちにも知らせていない。もし連れてきた使用人の中に内通者がいた場合、賢者が近くにいるというだけで何もしなくなる可能性があるからだ。
「そう言えば、師匠は何故アイザックにマギアテックの残骸を渡したんですか?」
「んぅ?」
村に戻ってきてから、俺は直ぐにここへと飛んだ。
師匠は修行の時以外はこうして釣りをするか昼寝をするか、道楽者のような生活をしており、今もこうして釣り糸を垂らしながら雲を眺めている。俺はその土手の上に座り、師匠を見下ろしていた。
「どういう目的でそんな事をしたのか純粋に疑問なんですよ」
マギアテックは年代的に言うと古代より少し先の、丁度師匠の時代の技術だ。現代魔術と古代魔術を組み合わせた物でもあり、その何方にも長ける師なら自分で復元が出来る筈。
「アイザックを技師の道に唆したのも師匠なんでしょう? 自分で出来る事を、何故他人にやらせるのか気になってしまって」
「そりゃあねえ、僕の専門とは畑違いだし。農家に漁業をやらせようとするようなものだよ。それにマギアテック自体には興味ないし?」
師はそう言うと、一つ大きなあくびをした。
「だとしても、何故アイザックだったのですか?」
「彼はそういう可能性を秘めている、と僕の右目は言っていた」
それから生理的に滲んだ涙を拭うついでと言わんばかりに、右目を隠すように巻かれたターバンを解いた。
顕になった瞳は黄金色をしており、深い緑の瞳孔は縦に細長い。その水晶体には謎の言語が刻まれ、明らかに魔眼の類であることは確かだった。
「アランに余計な知恵付けをされたみたいだね。本当は数年後に話す予定だったんだけど、知っちゃったなら仕方がない」
「その目は……」
「察しの通り魔眼――その中でも世界に六つしか無い『真竜の眼』の一つ『アスピシャスの瞳』だ」
師匠は布が無くなったことで降りた長い白髪を掻き分けて、そう言った。
「僕の師の師のそのまた師匠が真なる竜ライズヴェルグから下賜されたものでね、リフカの賢者は代々この魔眼を継ぐ事になっている」
アスピシャスとは、吉兆やを意味する言葉。アランから聞いた通り、師匠の魔眼はやはり未来を見るものだ。しかも言っていることが本当なら、俺に継承されるらしい。
「これは人の可能性を見る魔眼、特に良い方向に進む未来を教えてくれる」
「それを使って、アイザックのことを見た……と」
「あの子はそういう可能性があった。十年、あるいは数年でマギアテックの技師として大成するようなね」
アイザックのマギアテックに対する類稀なる情熱は俺も知っている。少し知識を分けただけで、もうその仕組みの一部を解明する程度にはだ。
「ですが、本人にそのことを告げたわけではないんですよね」
「うん、口にすることで変わる未来もあるからね。特にあの子みたいな没頭するタイプは、自分の意思でマギアテックと向き合っているという自覚がある方が良い」
未来の事を告げた結果、歴史が変わるなんて話はフィクションの中でもよく使われる設定だ。中にはそれを利用することもあるが、殆どの場合未来なんて知らない方がいいに決まっている。
師匠の言うように、アイザックにマギアテック技師としての可能性があったとして、それを教えられた彼が自分の未来を知って慢心するかもしれない。逆に可能性があることによってやる気になるかもしれない。
いずれにせよ、本来の彼とは違う未来を辿る事になるのは確かだ。
「……あれ? では、もしかしてモニカ先生も?」
「相変わらず頭の回転早いねぇ! 好きだぜ、キミのそういう所」
師匠が意図してアイザックと接触したというのなら、他の――今まで彼と関わって来た人の殆どは未来の可能性を見られている。
それは両親や祖父も例外ではなく、モニカは更に特別ということになるのでは無いだろうか。
モニカは師匠に連れられて国を出て、学院へと入り、そしてまた国へと戻ってきた。そこで得た知識を俺へと伝え、また彼女の繋がりが俺と師匠を出会わせた……ことになる。
「ま、運命ってのは案外そういう風に出来ているのさ」
こうなる未来まで予測していたのなら、師匠の持つ魔眼と先見の明は恐ろしい。時々驚いた素振りも見せるが、この事実を知ってしまうとそれも全て演技のように見えてくる。少し身近に感じていた賢者が、また少し遠い存在のように思えてきた。
そしてもう一つ、俺には聞かなければならないことがある。
「では、私には何が見えますか?」
正直聞きたくないと言うか、良い方向へ進む未来を見る力だと分かっていても、アーミラという存在の先行きを知るのは恐ろしい。
俺の問いを聞いた師匠は、少し考えるような素振りを見せる。即答しない事に一抹の不安を覚えながらも、出来るだけ平静に返答を待った。
「――――とても沢山だ」
「えっ」
「普通の人の未来は多少変化はあっても、ある程度一定の方向性を持っているんだけど、キミは違う。今この瞬間一分一秒ごとに、全く違う可能性が無数に見える」
「あの……それは、そんなに異常な事なのでしょうか?」
人の可能性なんて無限大、色んな未来があっても良いはずだ。それこそ裏ボスルート以外の、救済される世界線など。何より師匠が今見ているのはそういう未来だろうから、別に悪いことではないのでは?
「いや、異常だよ。八百屋の息子が急に騎士になるような振り幅で、何度も可能性が変化するのは普通じゃない。今日まで見ていただけでも、キミからは探窟家、盗賊、母親、商人の順で可能性が切り替わって見えているんだ」
「えぇ……私が母親……?」
それは恐らく俺の中でもっとも可能性の低い未来であろう。男と恋愛する気は無いし、かと言ってこの体で女の子と付き合うのもどうなのって感じだし。いや、でもこの場合中身が男であれば同性愛では無いのか……?
「理由は定かじゃないけど、きっとキミの未来の何処かに特異点のような物があって、そのせいで色んな可能性を孕んでいるんだと思う」
「私はそのターニングポイントまでの小さなきっかけ次第で、何にでもなる……ということですね」
これは十中八九、魔族の侵攻の事だろう。そこで――もしくはそこに至るまでに俺がどう動くかで、無数の未来に分岐するのだ。それから吉兆であることを考えると、また更に同じ数だけ悪い未来も存在する。
逆に言えば、きちんと生き延びる未来も十分ありえるということだ。
「ただ、キミが僕の弟子になる未来は絶対だったみたいだ。僕にはそうでなかった場合の可能性が見えていない」
そしてこの言葉から分かるように、リフカに師事しなかった場合――俺は確実に死ぬか不幸な未来を歩むのだろう。モニカに教わった魔法と、独学で得た知識では七年後の戦いに勝てなかったという説が妥当だ。
つくづく運だけは良いと言うか、断る理由も無いのに断った世界線の俺の思考回路を疑う。弟子になったとしても、貴族の令嬢として生きる以外にも無数の未来があるというのに。
「それから、これは…………いや、やっぱり何でもないよ」
「いや、凄い気になるんですけど?」
「世の中には聞かない方が良いこともあるんだよ、うん。例えば、キミが母親になった場合、一体子供を何人産むのか――とかね」
「……今この瞬間の私としては一人も産みたくないです」
俺はよしんば結婚しようとも、子供だけは絶対に作らないと前世から誓っている。
理由はデリケートな内容なので伏せるが、俺の中にもあるクソみたいな遺伝子を後世に残したくないからだ。肉体が変わろうと、そういう部分が魂から受け継がれることが分かったことも大きい。
「と言うか、無理ですよ……私がまともな人付き合いとか、それも恋愛なんて……」
「あ、今までまともじゃなかった自覚あるんだねぇ」
「普通、こんな喋り方する子供はいませんよ」
ただ、こちらは時効なので白状しよう。実は前世の新卒で入った会社で、一ミリも周囲に馴染めていなかった。そのこともあって、浮いていた俺は上司のミスを擦り付けられ、退職する羽目になっている。
昔から苦手なのだ、人付き合いが。
相手との距離感が分からないから遠すぎたり、逆に近すぎて引かれたり……唯一何も気にせず話せた相手も極度の変人だったこともあって、俺はまともなコミュニケーション能力というものを育むこと無く大人になった。
何方かと言えば、俺は社会不適合者に分類されるような人種だ。
今、こういう喋り方をしているのも、敬語であれば全ての相手に対して一定の距離を置けるからだ。基本的に失礼にならず、かと言って馴れ馴れしくもない。そういう部分でズルをしている。
「確かにキミは、人と話す時にキャラを作ろうとするなぁ……とは僕も思う。でも素の状態で人と話せない子って、実は結構いるものだよ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものさ。まあ、別に人付き合いなんて苦手なままでも死にはしないから、そんなに深く考えなくても良いんじゃない?」
だから、師匠のその言葉に少し救われた気がした。
「僕は今のキミも面白くて好きだしね」
「師匠のその発言は信用ならないんですけど」
本人は特にそんなつもりで言ったわけではないのかもしれないが。




