38.転移魔法
古代魔法に使われる魔法言語は二十六の文字と幾つかの記号を用い、母音と子音を組み合わせて発音をする。地球で言うローマ字に近い言語で、五十音順に並べることも出来る。
「空間魔法は空間そのものを武器にする。重力、斥力、縮尺を操る魔法などがあるけど、僕らが最も一番使うのは空間を移動する魔法――"転移魔法"と呼ばれるものだ」
リフカによる指導が始まってから数週間、俺は家の庭で空間魔法の要である転移魔法について学んでいた。所謂ワープという奴で、人に限らず物を遠く離れた場所に飛ばしたり引き寄せたりする。
「理屈は空間に穴を開けて別の次元、世界の裏側を介して遠くに移動している。表の世界とは時間の流れと距離感が違うから、普通の人間からすると一瞬で移動しているように見えるだけだけどね」
「先日言っていた、ヴォイドという世界でしたっけ」
「まあ、その世界の表面に近い場所かな、僕は『裏世界』って呼んでる。ただ実際にそこからヴォイドに行ける訳じゃないよ。水面に反射した月を掬えないのと一緒で、蜃気楼のように揺らめいた他次元が見えるだけだ」
「……ちょっと何言ってるか分かりません」
世界の裏側がイコールでヴォイドではなく、世界の裏側では物理的に繋がっていない別次元にあるヴォイドが反射して見えているだけ……という感じなのかな? 俺の頭では理解するのが少々難しい。
「裏世界では時間の流れる法則が表と違って一瞬だけど、長さにすると無限なんだ。術者でさえ通過した事自体を認識出来る時のほうが少ないから、あんまり気にしない方がいい」
「その……ますます分からなくなったんですけど」
「実は僕も殆ど分かってないから大丈夫。要は裏世界にある一瞬で通れるトンネルを使って、現実世界を楽に移動出来るってことだけ分かればいいんじゃないかな?」
「本当にそれでいいんですか……」
師匠は無言で頷くと、徐に何もない空中を指さした。
「じゃ、実際にやってみて。失敗して異次元に放り出されると、時間の経過を認識出来ないから一生身動き取れないけど大丈夫。僕がちゃんと引っ張り出して助けてあげるから」
「その台詞聞いた後だと不安しか無いんですけど?」
座学で理論と術式は教わったけど、失敗した時のリスクについては今聞いたよおい。本当に大丈夫なのかこの術。宇宙空間に放り出された究極生命体みたいになりそうで怖い。
「ほら、空間魔法は実際にやってみないと身につかないから。怖がるより先に、一回やってみ? 意外と大丈夫だから」
「分かりましたって…………では《空転じて穴に》《昏き洞より点を繋ぎ》《虚空を歩みし者に道を》」
オドを籠めて、自分のいる地点から数メートル先に視認する空間へと見えないトンネルを作るイメージを膨らませ、複雑な術式を構築していく。
それから最後の一節を組み上げ終えた直後に、視界の端に青黒い光の粒子が生まれ――俺の体が浮遊感に包まれた。
「きゃんっ!?」
「あらら」
次の瞬間には視界が幾らか高くなっており、重力を感じて体が地面に叩きつけられる。有り体に言えば空中に放り出されて、落下した拍子にお尻を打った、非常に痛い。
というか何だ『きゃんっ』て、乙女かおのれは……この歳のおっさんが言っても何も萌えないぞ。
「出てくる座標の設定がちょっと甘かったんだろう。入るときよりも高い位置から出てきちゃったねぇ」
「いてて……失敗しました……」
どうやら設定した移動先までしっかりと転移出来たようだが、高さの見積もりを失敗したらしい。元いた場所から、上斜め前に転移してしまった。
「いやいや、初めてでちゃんと入って出てこれるだけでも凄いと思うよ。僕なんか何度も失敗して師匠に異次元から引っ張り出されたからね、上出来上出来!」
まあ、失敗するとそもそも出てこられないので、一応初挑戦でこれは良い結果なのか。
俺は上機嫌な師匠を横目に、先程まで自分の立っていた場所を見ながら距離感の確認をし、今度は無詠唱でそこへと戻るように術式を組んだ。
「おっと……」
「わお……凄いね。頭の中に術式全部書いたでしょ、今」
若干バランスを崩しかけたが、誤差の範囲で跳ぶ事に成功。詠唱よりも時間が若干かかる分、刻印魔法と同じ要領で正確な術式が組める。
「こっちの方が良さげですね」
「そうそう、キミのやった通り、空間魔法は基本的に刻印か無詠唱で使う方が精度が高いんだ。魔法一つ使うにしてはかなーり時間が掛かるけどね」
丁度良い機会なので説明しておくと、無詠唱で魔法を使う事のメリットに、発動時間の短縮は含まれない。詠唱がない分早く打てるイメージがあるかもしれないが、術式を頭の中で組み上げる事を考えると詠唱以上に時間が掛かるのだ。
無詠唱魔法のメリットは"相手にこちらの手を悟らせない事"が最も大きく、それ以外では大まかな術式の枠組みを速攻で組み立てられる詠唱魔法の方が強かったりする。
「実際、これでは戦闘中だと発動に時間が掛かり過ぎて実用的ではありませんね」
「キミは基本的に何でも実戦想定だねぇ、別に良いけどさ。それもその通りで、このままだと使い物にならないからちょっとした裏技を使うんだ。これ、賢者とその弟子たちだけが知ってる秘密ね?」
「裏技ですか、それはどういう物なのでしょう?」
このクソ長い術式構築の時間を劇的に短く出来る方法があるなら、先に教えておいて欲しかったが。次の言葉で俺の想定と違う答えが帰って来た為、この不満は意味がなくなった。
「えっとね、うーん……なんて言ったら良いかな……そう、"頭"をもう一つ増やすんだよ」
「……頭?」
「頭」
頭を増やすと聞いて、俺は真っ先に双頭の何かを想像した。もしかして師匠は俺に顔が二つある化け物になれと言っているのか……いや多分そうじゃないんだろうけど、それにしても頭を増やすとは一体どういうことだ?
「あの……もしかしてそれ、並列的に二つの思考を行うという意味で言ってます?」
「それそれ、並列思考! 正確には感情とかを排除した思考回路だから、演算と言うべきかな。それを作るんだ」
これで正解を当てられた俺は絶対偉い、誰がなんと言おうと偉い。
普通に考えて『頭を二つにする』で、理解出来る奴がいるわけ無いだろ。知識と技術は兎も角として、教えるのは死ぬほど下手くそだなこの人。モニカの授業の方が何十倍も分かりやすいぞ。
と言うか賢者だと頭をもう一つ生やすぐらいは出来そうだから、本当にそっちの意味で言ってるのかと少し思ってしまった。
「では、ここで一つ問題だ。人間は物を考える時、どこを使ってると思う?」
「それは当然脳でしょう」
人間の思考は感情は脳から発される電気信号によって生まれる……筈だ。多少仕組みが間違っていたとしても、絶対に脳ありきで人間は思考し、生きている。
「うん、正解。じゃあ次の問題だ。僕らのような肉体を持たない種――精霊や死霊は一体、どうやって思考をしているのか分かるかい?」
「それは……ええっと、その…………分かりません」
肉体を捨てた知的生命体である精霊は、言ってしまえば火や水そのものだ。脳のような器官を持たず、それでも人間と同じように――いや、それ以上に高度な知性を有している。
その理由を尋ねられて初めて、俺は何故彼らが普通に思考をして生きているのか疑問に思った。今までそういうものだと思っていたけど、よく考えると不自然だ。
「――――答えを言う前に、まず説明をしよう。そもそも人という存在の本質は、幾つかの要素に分けられるんだ。存在の根底である魂、その魂から生まれる精神、そして魂を宿す為の器である肉体の魄。僕ら人間はこの魄に強く依存している」
「魂だけでは生きられず、肉体と言う依代を必要としていると言う事で間違いありませんか?」
「概ね合ってるよ。でだ、精霊なんかはこの魄を持たない、つまり魂と精神だけで成立する生き物なんだよね。ここまで言えば後は分かるかな?」
……魄とは魂を宿す為の器であり、脳もその一部。そして肉体を持たない精霊は精神と魂のみの存在、魄が無くとも生きられる生命だ。
つまり人間と精霊――この二種族共が持っている残りの要素さえあれば、思考は可能ということ。人間は魄があるが為に、全ての活動をそこへ依存しなければならない。
「……しかし魄のない精霊は、魂で物事を考えている」
「正解。もっというと魂によって支えられた精神が、脳であり肉体であり思考なんだ。そして彼らに出来ることは僕らにも出来る」
恐らく師匠は肉体ではなく、その内側にある魂によって思考をさせようとしている。無論簡単には行かないだろうが、並列思考が可能になれば出来ることは格段に増えるだろう。