33.ユニ・ラーセル
「暁です、今日からお世話になります」
ある日私の前に現れてそう挨拶をした少年は、頬と顎にガーゼを貼った、なんとも痛々しい面をしていた。
吸い込まれそうな程黒い、夜のような瞳。工作用の鋏で無理やり切ったのか、不揃いで女のように長い髪。乾いた唇は半開きで、そこから感情を読み取る事が不可能に思える。
まるで幽霊のようだと、私は思った。今にも霞んで消えてしまいそうな程、生きる力が希薄なように見える。ただ、そこにいるだけ、生きてはいるけど死んでいないだけ。それがはじめに、私が彼――アキラに抱いた印象だった。
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樹木でさえも息を潜める夜半、ユニの意識は微睡む間もなく覚醒した。
「……変な夢」
少し汗ばむ夜着の襟を摘んで扇ぎ、乾いた喉を湿らすように息を呑む。まだ三歳の誕生日を迎えたばかりの少女は、ベッドを降りると慣れたように魔法の言葉を紡いで明かりを灯した。
「『灯火よ』」
個室にしては些か広すぎる部屋が、月明かりと仄かな蝋燭の火に照らされた。すると魔法の発動か、はたまたその光に気付いてか、侍女が部屋の扉を叩く。
「入って」
「ユニお嬢様、如何致しましたか」
「なんでもないわ、ちょっと喉が渇いただけ。水を頂戴」
魔導王国ファルメナ、ラーセル大公家息女――ユニ・ラーセル。彼女は歳不相応な口調と態度で以て頭を振ると、差し出されたコップに口を付けた。
「……この世界は少し夜が長過ぎるわ」
プラチナピンクの髪を揺らし独り言ち、ユニの口からは小さな溜息が漏れる。意志の強そうな黄金色の双眸が憂うように細められ、窓の外に浮かぶ月を見てもう一度大きく息を吐いた。
「怖い夢でも見られましたか?」
「別に」
「明日の試験が不安なのでしたら、心配はございません。ユニ様であれば必ず合格すること間違い無いでしょう」
「……そんなのは当たり前よ、私を誰だと思っているの?」
ユニ・ラーセルは齢弱冠三歳にして、既に雷精七段の称号を持つ麒麟児である。生まれた瞬間からその身に収まりきない膨大な魔力を宿し、可視化できる程に濃いそれを見た両親は驚愕したと言う。
父は先代国王の弟であり、母はかの誉れ高きリスタリア学院の学長補佐を務める魔術師のエリート家系と言えど、これほどの才能は建国から今に至るまで例を見ない。
二歳になる頃にはおおよそ術師が学ぶべき事柄を全て学び終え、三歳の時点で既に大人の魔術師相手に模擬戦ながら勝利する実力を持っている。何より希少である雷属性への適性を持ち、このままゆけば星天の号に手が届くとも言われる――貴族たちの話題の種でもあった。
このように周囲からは三年後の学院初等部への入学も含めて大いに期待されてはいるが、当のユニにとってそれらは全くもってどうでも良いことだった。
そもそも学院で学ぶ予定であった知識も技術も今の時点で全て修めており、今さら学び舎へと赴く必要が無い。寧ろ逆に教師たちが彼女に教わる側とも言える程、魔術への造詣は並の魔術師のそれとは一線を画す。
なれどその力とは裏腹に、ユニは地位や名誉、魔術師の名家としての矜持にすら興味が無かった。家格に相応しい振る舞いこそすれど、立場に固執するような人間性を持ち合わせていない。
ただ一つ、ユニ・ラーセルが求めているのは、『魔法』という理すらも捻じ曲げる力のみである。
その点で言えばなんら不自由なく魔術と魔法について学べる環境に生まれたことは幸運であると思っており、学院へも自由な研究・実験が行える研究院生の立場が目的で入学するつもりだった。
院生であれば通常の学生には規制の掛かる本を閲覧することができ、ともすれば学院長自らが管理する禁書庫への出入りすら可能になるやもしれない。そしてユニはそこまでの労力を掛けてまで成し遂げたい事があった。
「もう寝るわ。すまないわね、夜中に起こしてしまって」
「いえ、私共はこれが仕事ですので。それではおやすみなさいませ、ユニお嬢様」
使用人が出ていくのを見送り、ユニはベッドへと体を沈めるように横たえる。天蓋には星を模った刺繍が微かに煌めいていた。
その中の聖エネリオル星群――主に竜星座と呼ばれる、凡そ百三十の星々が連なり形作るそれへ徐に手を伸ばす。小さな手は当然ながら届くことはなく宙を掴み、微かな諦観がユニの瞳に浮かんだ。
「……私の捜しているあなたは、本当にこの世界にいるの?」
彼女は『捜す者』、ユニ・ラーセル。
生まれ落ちたその時より彼女の心の中には、ある事柄に関して強迫観念とも言える程の強い目的意識があった。それはまるで神の宣託のようで、また抗えない輪廻の因縁の如く魂に深く結びついていた。
救世の御子、神託の勇者、冒険者の英雄――やがて、望まれずともそう呼ばれるようになる青年を見つける事。それがユニの中に根付く使命であり、彼と共に世界を救うという未来を夢の中で幾度となく見た。
夢がいずれ現実となることを信じて疑わないユニは、来る日に向けて準備をする。それが自分のするべきことだと、考えずとも本能が告げていた。
そして、それとは別の――確信めいた思いと共に、とある少女と出会うことも予感している。厄災の子、絶望を告げる者、いずれ世界を脅かすであろう存在と。
その二つの邂逅の先に、どのような未来が待ち受けているかは分からない。なれど、約束のような記憶と共に、ユニはひたすら前へと進む。
やがて彼の力になれるよう、もう二度と離れ離れにならぬように。