30.5.ギムレット
薄暗い路地の一本を、白い外套のフードを目深に被った女性が歩いていた。砂利を踏みしめるブーツの音が、不自然な程静まり返った空間に木霊する。なれどその身に纏う金属鎧は一切の音を立てず、軋みすら上げずに静寂を守っていた。
女性は徐に真っ直ぐと、路地の先を目指して歩いていた。その道中には浮浪者が幾人も横たわり、物珍しい客に不躾な視線を送っていた。
しかしてその浮浪者の内の一人、とある男――髪にフケが積もり、無精髭が頬までびっしりと生えた老齢の男の前で、女性のポケットから一冊の手帳が落ちた。それを気にすることもなく歩いて行ってしまうのを見送り、男は手帳を拾い上げる。
「……一番街の煙草屋に赤い服の新しい常連、それから値上がり、ただ看板娘は愛想は良いが学がねぇ。暫く行くのは様子見、常連との付き合いは一人ずつ」
一番新しいページをまじまじと眺め、取り留めの無い言葉を口にすると、そのまま紙を千切って丸め、嚥下した。それから側にあった扉を開けてとある家屋の中に入ると、机に置かれた汚れた炭片で手帳の新しいページへと数字を刻み始める。
ひとしきり数字を書き、男はそれを持って再び外へと出た。裏路地を抜けて表通りの隅を、如何にも浮浪者じみた不審な態度で歩いていく。その最中、宿の客引きとすれ違い様、他の通行人に悟られぬように手帳が手渡された。
「……チッ、なんだおっさん。営業の邪魔だからどっか行け!」
「あっ、あ……どうもすいやせん……」
二人ともそんなことが無かったかのように振る舞うが、客引きの青年は直ぐに宿の横にある厩舎へと向かい、暇をしていた御者の中年へと手帳を預ける。
「贔屓の伯爵様からだ、ひとっ走り頼めるかい?」
「あいよ」
渡ったそれは馬に引かれて城下を抜け、貴族たちの住まう区域へと向かった。その一角、使用人が使う為に作られた住居の前で止まると、御者は門衛に手帳を見せる。
「頼まれていた物資を届けに参りました」
「ご苦労」
そう言って門衛は幾つかの荷物と共に手帳を受け取り、家の中に入っていった。中には二人の騎士風の男女と、本物の使用人らしき女性が数人。
「[白煙]から新しい情報だ」
「尾行は?」
「無い」
机を囲む彼らの前に例の手帳を置いて、門衛は静かに中身を検める。
「――――これは、監視対象に接触があったらしい」
「種類は?」
「赤だ」
「敵対者だと? 当然始末したんだろうな?」
「全て片付けたようだ。どこの人間かは追って情報が来る」
全員が手帳を覗き込むようにして言葉を交わし合う中、くすんだ金髪の若い女性の騎士が胡乱な視線を門衛に向けていた。
「……まさか、もう外部に情報が漏れたのかしら」
「目的は長女の誘拐だったようだが、その真意までは分からん」
「なによルーク、それじゃ判断のしようが無いじゃない」
「だからそう言っているだろうミランダ、それに奴らが何者かは直ぐに分かることだ」
門衛――ルークと呼ばれた男は、女騎士のミランダを一瞥して溜息を吐く。その態度が気に入らないのか、ミランダはますます目を眇めてルークを睨みつけた。
「どうでも良い事で争うな、話し合いの時間を長引かせるつもりか?」
それに呆れたこの場の長とも言うべき壮年の男、ゼヘクが諫めると、二人は鼻を鳴らして席に戻る。
「それよりも、彼の御方たちに悟られたかどうかが問題だ」
「聡く、襲撃をいなせるような才能はあるが、側付きの少年と喧嘩をする程度には相応に子供なようだ。親は兎も角として、子供に気付かれることはまず無いだろう」
「本当かしら? アイツの話じゃ、前に定期連絡を見られたって言ってたじゃない」
「見られても問題は無いよう、偽の理由付けはしてある。心配するな」
――――彼らの正体はリガティア王国の裏側の住人、通称『ギムレット』と呼ばれる暗部だった。
反乱分子の監視から要人の警護まで、護衛対象にすら正体を明かさず暗躍する事で今日までその存在を秘匿し続けて来た。そしてここはその拠点の一つであり、構成員は王都を中心にした近辺の領地を担当している。
「で? 後は何かあるの?」
「増援の必要はないと言っているな」
「人数が増えれば別の勢力に察知されかねん。一先ずは様子を見させるのが良いと俺も思っている」
ゼヘクの言葉に、残りの面々も静かに頷く。だが、目下の議題が終了したことで若干緩みの入った二人を一瞥して、間髪入れずに口を開いた。
「次はハーゼシュタインの内情についてだが、こちらも奇遇にも白煙が先日接触したようだ」
「おい、それはジークが探りを入れていると言っていなかったか? 流石に他人の仕事に首を突っ込むのは拙いだろう」
「落ち着け、偶然成り行きでそうなっただけだ。門衛に変装した奴が、情報を共有したとの報告が入っている」
「……ならいいが」
現状、ギムレットの任務は三つ。
一つはとある貴族家の監視及び護衛、またそれらを狙った賊の殲滅。二つ目は、数年前より社交界に殆ど顔を出さなくなったハーゼシュタイン家の内情の調査。最後に、リガティアへとその魔手を伸ばした『ウロボロス・ファミリー』の牽制と排除。
中でもここにいる面子はウロボロスの監視と、他の任務に出た仲間の報告を受け取り、上層部へと報告することを仕事としている。故に情報の管理は完璧であったし、今まで一度たりともその正体が露呈したことはない。
「俺たちは引き続きウロボロスの動向を監視する、質問が無いなら解散とするが」
「あの……一ついいかしら?」
「何だ」
「その手帳、魔術が掛けられてるんだけど……」
「……は?」
ただ、今この瞬間にそれは瓦解した。
手帳には明らかに外部の人間による魔術が付与されており、それは現在も発動中であった。余りにも精緻な術式と巧妙な魔力の隠蔽によって、暗部の人間全員が欺かれていたのだ。
「盗聴……それに文章の模写!? 今までの会話も全て聞かれているぞ!?」
「クソッ……やられた! 一体何処の間者だ!?」
悪態を吐きながらもゼヘクは迅速に火の魔術で手帳を燃やすと、仕込まれた魔力の残滓が丸に簡素な目と笑みを浮かべた口が描かれた絵を映し出す。その下には『情報提供ご苦労』の文字が。
ルークもそれを見て苛立ち混じりに机を叩き、乱暴な仕草で椅子へと座り込んだ。
「拙いな、これ程の術者だと痕跡を追うことも不可能だ」
「あの白煙が気付かなかったということは、どの段階で仕掛けられたのかも分からん……」
「こんな悪戯みたいな仕込みまでして、やった奴は巫山戯てるわね」
三者共に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、馬鹿にするような――魔力で形作られたその笑顔のスタンプを見上げる。
「ミランダ、今すぐにこの魔力痕を追え。何としてでも犯人を見つけて捕まえるぞ」
「……もうやってるわよ、アタシだってこれだけ馬鹿にされて黙ってられないわ」
かくして、建国以来一度たりとも情報漏洩を許した事のない組織は、ほんの些細な出来事をきっかけにその内実を何者かによって抜き取られてしまったのだった。
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