9.脅威の認識
その後、本命の狩りをする為に丘を降りて森へと入った。
狩りの時に使うセーフハウスに荷物と馬を置き、アランは案内役の猟師――ディルクと共に罠の様子を確かめに行った。流石に大型の獣は獲れないが、ウサギやリスなんかは予め仕掛けておいた罠で捕まえるらしい。
セーフハウスの前に残されたのは俺と俺の世話役のジェーンと、その二人を守る護衛の三人。森の浅い部分とは言え、女子供だけでは、何かあった時に対応しきれないからな。
まあ、一応俺もバリア系に分類される魔法を一つ使えるようになっているので、猪程度ならまだなんとかなるかも知れない。
「お嬢様、ちゃんと私から離れないようにしてくださいねぇ。ほら、抱っこしてあげます」
「それにしても近すぎる気がしますけど……? 一人で歩けますから」
「ええ!? 折角初めて一緒にお出かけしたんですから、もっとくっつきましょうよ!」
「何が折角なんですか」
俺としては怖いのはどちらかと言えば、隙あらば俺を愛でようとしてくるジェーンの方だ。時々恐ろしい程の視線を向けられる時があるし、最近は真性のロリコンなのではないだろうかと疑っている。
一人歩き出来るようになっても、なにかにつけて抱っこしようとするのがいい証拠だ。
「ほら、そろそろ父様たちも戻って来ますから……ちょっと、あの……ジェーン!? 聞いてます? 早く離れてくださいってば!」
「ふへへ、お嬢様のいい匂い……」
しかもコイツ……中々離れないどこか匂いまで嗅いでやがる……!
思わず鳥肌が立ち、すり抜けるようにしてジェーンの腕の中から脱出する。そのまま慌てて木の陰へと逃げ込み、威嚇するように睨みつけた。
「あーん、お嬢様ぁ……そんな凄い勢いで逃げなくてもいいじゃないですかぁ」
「ジェーン! あなたはこれから必要な時以外、私の半径一メートル以内に近づくことを禁じます! ほんとに!」
一歳児にこれだと、成長したら何をされるか分かったもんじゃない。今のうちから釘を刺して、彼女が超えてはいけない一線を超えないようにしておかないと。
ここまでキャラが濃いと、原作にいてもおかしくないくらいだ……と言うか、俺が忘れてるだけでいたかもな。ペドコンの変態メイドなんて現実世界に然う然う居ていい存在じゃないぞ。冗談みたいなキャラは二次元だけにしてくれ。
「ッ!?」
「……ジェーン?」
俺が渋面でそんなことを考えていると、ジリジリ距離を詰めていたジェーンの顔色が変わった。血の気が引いて、口を魚のように開閉しながら宙を指差している。
「お嬢様! う、後ろに魔物が!」
「なんですか、私の気を逸らそうとしてもそうはいきませんよ」
「そうじゃなくて、本当に! 早くこっちへ!」
「だから、しつこいです――――」
――――はじめは俺の気を逸して、その隙に捕まえにくるのかと思っていた。しかし、その蒼白の顔が向いた方向へと俺も視線を動かすと、彼女が冗談で言っているのでは無いことを理解した。
「ね……」
「グルルルルル……」
そこにいたのは、二足で立つ――見上げるほどに大きな熊だった。大体体長が三メートルはあるだろうか、テレビで見た在来種の熊よりも一回り程大きい。
棘のような焦げ茶色の体毛、人の柔らかい肉位なら容易く抉り取りそうな爪。涎の滴る口元からは鋭い歯が見え、その双眸は明らかに殺気立っていた。
何より、俺の目には熊が人間などとは比べ物にならない魔力を纏っているのが見えていた。これはただの獣ではない、体内に魔力を宿す強力な『魔物』だ。
「あっ……」
その魔力と殺気に当てられて腰が抜け、地面へとへたり込んでしまう。
怖い、殺される、逃げないと。
頭に過ぎったのは理性的な思考では無く、とにかくこの場から逃げなければいけないという一点だった。俺は生まれて初めて、他の生物に対する圧倒的な恐怖を覚えた。
力の抜けた体は動いてくれず、熊は徐に体を屈めて俺へと鼻先を近づける。
「ひぃ」
間抜けな悲鳴を上げる俺の匂いを嗅いで確かめているようだった。一瞬状況が飲み込めず、もしかしたら襲う気が無いのかとも思ったが――次の瞬間に熊が大口を開けて俺の頭へと齧りついてきた。
「お嬢様ぁ!!」
生臭くて温い吐息が鼻を衝く。このままでは本当に喰われて死ぬ、拙い、拙い拙い拙い――――
「『凝固』」
その牙が俺へと届く直前、震える声でなんとか紡ぎ出した言葉によって体内のオドが放出、凝結し、俺と熊との間に透明な壁を作り出す。熊の牙は一瞬その障壁に阻まれ――
「グオッ……!?」
直後、熊の首筋に一本の矢が飛来し、体がぐらついて俺から後退っていく。その飛跡を辿ると、ディルクが弓に矢をつがえていた。
今しがた刺さった矢には魔力が籠もっており、ディルクの体にも魔力が迸っている。あれは身体強化と武具強化の魔法だろう、普通の矢では魔獣の剛毛を貫く威力は出せないはずだ。
ただ、この程度では熊の方も死にはしない。
「グ……オオオオッ!!」
呻き声を上げて動揺してはいるが、その目から殺意は未だ消えてはいなかった。咆哮を上げると、俺からディルクの方へと敵視が向く。強靭な四本の脚で地面を蹴り、駆け出した。
「――ッ」
だが、その脚が二度持ち上がることはなかった。
二者の間へと抜剣したアランが飛び込んだのだ。それこそ瞬きをしている間に、凄まじい速度で切り込んだのを見られたのは偶然だっただろう。
「うちの娘に……ッ、何しとんじゃーーーーッ!」
剣がぶれて鈍色の光が煌めいたかと思うと、次の瞬間には熊の首が宙を舞っていた。何が起きたのかは見えなかったが、きっとアランが斬ったのだ。
その体に宿る魔力はディルクの比ではなく、刃のように研ぎ澄まされて一片の無駄もなかった。荒げた声とは裏腹に波立たず、ただ斬るという動作にのみ注がれている。
こんな状況だが、俺は思わず感動してしまった。人というのはここまで極まれるのかと。頑強な獣骨をたった一振りで両断することが出来るほど、鍛え上げられるのだ。
「凄い……」
ゲームでは当たり前のように屠っていた魔物は、現実になれば凄まじく恐ろしい。目の当たりにした今、その強大さが身に沁みて分かる。
そしてその魔物を簡単に倒せるアランですら、八年後には殺されてしまう。この世界は強さの天井が地球とはまるで違って、可能性の分だけ弱者に厳しい。
俺は今のアランを、そしてアランよりも強い敵よりも更に強くなる必要がある。
これはちょっと焦らないと、中々にヤバそうだ。
◇
庭で解体が進む魔熊を尻目に、腕組みをしたリリアナが俺とアランを見下ろしていた。一見微笑んでいるように見えるが、その実目は笑ってないしこめかみには青筋が浮いている。
「それで、何か申し開きはあるかしら?」
「あうかしら~?」
母親の真似をするリーンに頬が緩みかけるが――今はそういう空気じゃないんだ、勘弁してくれ。
――――命の危険があったものの、色々と学ぶことのあった猟は俺の事を考慮して早々に切り上げられた。
当初はアランも冷や汗を掻いていたが、寧ろまだその程度の状況だったらしい。ディルクが矢をつがえてたから、どうとでもなっただろうと。俺が魔法を使おうが使わまいが、間に合っていたようだ。
しかもどうやら俺の魔法の発動の痕跡は二人には見られておらず、完全にディルクのファインプレーという事になっている。
魔熊という収穫もあったことだし、帰り道でも問題は無いとアランは豪快に笑っていた。死にかけた直後だが、あの程度のハプニングで一々動揺していたらこの先やっていけないので俺も一緒に笑った。
その笑顔が凍ったのは、玄関で待ち受けていたリリアナと目が合った瞬間だった。俺にはその時、彼女の背中に修羅を幻視した。魔熊と対峙した時とは違う、別種の恐怖を感じて引き攣った声が出た。
結果としてアラン共々正座させられ、かれこれ一時間はこの姿勢のまま烈火の如く怒り狂う母の説教を聞かされている。
「街を見せたら、アーミラは屋敷に帰ってくるって約束だったわよね? それが何がどうなったら魔物に襲われるの?」
「いや……本当に……マジですんませんでした……」
どうやらリリアナには――俺が外出するのは街を見学する為であって、アランの狩りに連れて行くとは伝えていなかったらしい。
しかも俺が魔物に襲われたという情報をジェーンが漏らしたお陰で、もう怒髪天も怒髪天。何故か俺まで正座で叱られるという始末だ、全部アランが悪いのに……。
「だが、あんな森の浅い所に魔熊がいるなんて……」
「言い訳は結構、結果としてアーミラを危険に晒したことに変わりはありません!」
「ヒッ……」
「約束を違えた罰として、あなたは暫くお酒禁止! アーミラもお出かけは当分させませんからね!」
「そ、そんなぁ……!」
ああ、なんてことだ。あれだけ格好良く俺を救った筈の父親は、母の一言で縮み上がって震えている。無類の酒好きのアランにとって、禁酒は死ぬより辛い罰だろう。
「……父様」
「何も言うな娘よ、これ以上リリアナを怒らせないように素直に罰を受け入れるんだ。そうしないと、本当に暫く太陽を拝めなくなるぞ」
死んだ目でそう言うアランのその姿になんとなくシンパシーを感じると同時に、俺にはこの世で一番惨めで弱々しい生き物に見えた。世の父親というのは、やはりカーチャンには勝てないのか。
この時初めて、将来嫁と娘に囲まれたアランの肩身が狭くならないよう、せめて俺だけは味方で居てあげようと思ったのだった。
【TIPS】
[魔術:『凝固』]
魔術師に広く使われる、防御魔法の術式の一つ
オドを凝固させることで物理的な壁を生成し
外敵からの攻撃を防ぐ事が出来る
術式によって形状も様々であり
自身を覆うような球状から部分的な盾のような役割まで
幅広く用いることが出来る為
かなり使い勝手の良い魔法と言える




