#24 健康で元気な赤ちゃん
「りょ、りょうせ……ぐゆ?」
寵児は頭上に疑問符を浮かべた。
2003年12月20日、梨佐は無事に子供を出産した。
3200グラムの元気な男の子……と言いたいところだが、そうも言えなかった。
「両性具有です。男性と女性両方の身体的特徴が見受けられる状態です」
担当医が伏し目がちに答えた。
「じ、じゃあ、性別は……」
「現時点では、どちらとも言えないです」
「そ、そんな……」
妊娠20週目のエコー検査では外性器が確認できていたので、担当医も男の子と断言していた。
梨佐は男の子用のベビー服を揃え、寵児は男の子用の名前を考え、共に手を取り合って喜んだものだ。
それが、いざ産み出してみれば、性別不明みたいなことを言われたのである。
両性具有は『半陰陽』とか『性分化疾患』などとも呼ばれており、2000人に1人の発生頻度との調査報告がある。
肉体的性別と自信が認知している性別との不一致に苦悩する状態、すなわち『性同一性障害』とは似て非なるものである。
今回の寵児夫妻のケースを単純明快に説明するなら「あらあら、欲張りな女の子ね。おチンチンまで付けて出てきたわ」といったところか。
男であり、女でもある。
また、男でも女でもない第3の性ともいえるし、性という枠を超越した存在ともいえた。
「この度は、さぞ驚かれたことでしょう。心中お察しします……」
院長が神妙顔でやって来て、丁寧に頭を下げた。
こんな事態、産婦人科医歴40年の彼とて初めてである。
「今後についてですが……」
院長は慎重に言葉を選びながら助言・提案を口にした。
「まず、性別をどちらかに決めた上で養育されることをお勧めします。ですが、後々明確になるでしょうご本人による性認知、これが不一致となることも充分あり得ます。そんな場合でも理解を示し、受け入れる度量といいますか、覚悟といいますか、そういうものが必要になってくるかと……」
まぁ、要するに、男として育てていて、急にスカートを穿きだしても、咎めずに応援してやれということだ。
あと、場合によっては手術の選択を迫られる日が来るかもしれないが、その際も本人の意思を尊重した上で慎重に慎重を重ね判断すべし、ともつけ加えた。
医者に言われるがまま陰茎を切除して女として育ったものの「やっぱ男だ、僕は」となった場合、取り返しがつかないからだ。
「な、何でだよ……何でこんなことに……ウソだろ……何かの間違いだッ」
だが、ウソでも間違いでもない。
現実とは、かくも残酷で理不尽で不公平なものなのだ。
「……と、とにかく、赤ちゃんは健康で元気です。まずはそれを喜びましょう」
院長はもう、そう言うしかなかった。
寵児は不憫なる我が子に、忍と名付けた。
この先、いばらの道が待っているだろうが、どうか耐えてほしい、我慢強く生き抜いてほしい……そんな切なる願いを込めての命名である。
それに、忍なら、男でも女でも通用する。
中性的という点では申し分なかった。
だが、性別はそうはいかない。
TPOに応じて男と女を使い分けるなんて許されないのだ。
犬山寵児・梨佐夫妻は、14日という期限ギリギリまで悩んで悩んで悩み抜いた末に、男を選んだ。
長男として役所に届け出たのである。
実は「追完」という方法をとれば性別欄を空白にできるのだが、当時はそんなこと知らなかった。
あの院長でさえもだ。
寵児の凹みようは酷かった。
試合は精彩を欠き、115キロあった体重も100キロを切るまでになってしまった。
これには皆、首を傾げた。
あんな若くて綺麗な嫁さん貰って、子供も無事生まれて、幸福の絶頂のはずなのに、と……。
一方の梨佐は、それほど悲観してはいなかった。
とにかく、五体満足で生まれてきてくれたこと、それが何よりありがたかったからである。
とはいえ、性別を訊かれるのはやはり辛かった。
子供が生まれたと知って、性別を訊かない者なんてまずいない。
一度「ご想像にお任せします」と答えてみたら、変な顔をされた。
だから以後は「僕ちゃんです」くらいの返答にしておいた。
そんな両親の気苦労をよそに、長男・忍はすくすくと成長していった。
寵児は、忍が小学校に上がるのに合わせて、念願の一戸建てを購入した。
銀行のローン審査に通ったからだが、寵児の足掛け11年に及ぶレスラー稼業がやっとこさ実績として認められた形だ。
所在地は、都心へのアクセスも比較的便利な埼玉県大藁輪市の田藁町という所。
猫の額ほどだが庭があって、そこで寵児は忍にボンバイエを仕込み始めた。
言わずと知れたアフリカン護身術――実際は人体破壊術――である。
まぁ、いじめ対策の一環だ。
忍は羊のようにおとなしく、また臆病な性格でもあったから、喧嘩もプロレスも格闘技も、争い事全般好きではなかった。
だが、寵児がしきりに強調する“護身”というワードには少なからず惹かれるものがあった。
というのも、当時流行っていたアニメに『いてまえ!こえぴょん』なるものがあったのだが、そこに登場する“マスターおいぼれ”という爺さんがまさに護身術の達人だったのである。
しかし、彼はめちゃんこ強いにも関わらず、いつだって「逃げるが勝ちじゃ~♪」と敵前逃亡してしまう。
そして、弟子のこえぴょんが敵を全滅させたところへひょっこり現れて、
「よいか、護身術とはあくまで身を守るもの。決して喧嘩の道具ではないぞ。だから、できる限り戦いは避けるべきなのじゃ~♪」
と、こえぴょんに説教を垂れてエンディング……毎度このパターンだった。
当然、視聴者の大半は懲悪ヒーローこえぴょんを支持するのだが、忍は違った。「逃げるが勝ち」も、最後の説教も全部ひっくるめて、マスターおいぼれに傾倒していたのである。
で、そのことに加え、1ヶ月続けた毎に「何でも欲しい物を買ってやる」と寵児に言われたもんだから、忍としてはもうやるしかないと腹を決めたのだ。
でも実をいうと、寵児はあまり期待していなかった。
1年かかって基本動作が覚えられればいいくらいに思っていたのだ。
それが、いざ蓋を開けてみれば、たったの4ヶ月でマスターしてしまった。
体つきは華奢だし、腕力もたいしたことない。
だが、スピードと瞬発力にかけては寵児も目を見張るほどのものが、忍には秘められていた。
身のこなしに天賦の才が感じられたのである。