#18 すっちゃかめっちゃか
犬山は大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、四つん這いになった。
そして、神原天法の脚の間を不承不承くぐり抜けた。
「ふんッ、負け犬が……」
聞こえよがしに神原が言った。
と、その瞬間、犬山の脳裏に懐かしい顔が浮かんだ。
以前飼っていた雑種犬の顔である。
『コ、コロタン……』
ころっころに肥えていたから、そう名付けた。
『コロタン、久しぶり』
だが、コロタンは冴えない表情である。
そりゃ、当然か。
可愛いコロタンは……大好きなコロタンは……かけがえのないコロタンは……。
そして、耳底から湧いてくるは、あの忌まわしき嘲り……。
やーい、負け犬! 負け犬!
やーい、負け犬! 負け犬!
やーい、負け犬! 負け犬!
『――殺してやる』
犬山の中で、あの日いだいた殺意が蘇った。
それは一気に膨張し、臨界点に達した。
「キエーッ!」
すっくと立ちあがった犬山忍は、突如、怪鳥のような奇声を発した。
何事か、と振り返る神原天法。
そんな彼のみぞおちに、犬山は肘鉄を突き刺した。
その動きの、速いこと速いこと。神速と言っても過言ではなかった。
「グッ!? グベェ~ッ」
思わず体をくの字にして苦悶する神原。
みぞおちは、目や喉、金的などと並んで鍛えようのない部位である。
たとえ、女・子供の拳でも、いいのが入れば即ダウンとなるほどの急所だ。
それなのに犬山は、渾身の力でエルボーをぶち込んだのだ。
エイトパックの腹筋を誇る神原でさえも、呻吟せざるを得なかった訳だ。
「キョエーッ!」
間髪入れずに、今度は尖った膝頭を神原の顔面に打ち込む犬山。
グワシャと鼻骨がへしゃげる不快音がした。
「ブッ!? ブベェ~ッ」
くの字の体勢から一気にのけ反る神原。
そのガラ空きの喉元へ、右手を伸ばす犬山。
だが、喉仏を握られる間一髪のところで手首をつかみ、神原は防御した。
「ゴッ、ゴノガマァ~ッ(このアマ)」
そして、がっちりつかんだ犬山の右手に、あろうことか噛みついたのだ。
途端に鮮血が飛び散り、神原の血まみれの顔に上塗られた。
その狂気に満ちた形相は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「キキィッ、キキキィッ、キィエーッ!」
悲鳴なのか、気合なのか、完全に別人格へと変わり果てた犬山忍は怪鳥声を発し続け……やがて何を思ったのか、噛まれている右手を神原の口内へグイグイ押し込み始めた。
神原のグロテスクな乱杭歯が傷口を広げ、深く肉に食い込み、出血量を増やした。
だが、構わず右手を押し込み続ける犬山。
まさか、内部から喉頭隆起を握り潰すつもりか?
肉を切らせて骨を断つ、とはよく言うが、これはあまりにもクレイジーな試みである。
そのうち、口の中いっぱいにまで血が溜まって、辛抱堪らず咳込む神原。
犬山の右手を引っこ抜くと、前蹴りを放って後方へぶっ飛ばした。
もんどりうって倒れた犬山だったが、すぐに起き上がると、神原めがけ猛進した。
神原のカウンター狙いの正拳突きを巧みにかわしながら懐へ入った犬山は、四指の関節を軽く曲げた左手で、神原の目元を引っ掻いた。
「ゴォギャア~ッ」
視界を奪われた神原は、怒気を孕んだ悲鳴を上げてたじろいだ。
そこへすかさず、金的蹴りを叩きこむ犬山忍。
「ブビベェ~ッ!!」
と、股間を抑えて飛び上がったところへ、左の掌底――手のひらの手首に近い硬い部分――を乱打、乱打、乱打。
それでも倒れない神原天法に業を煮やした犬山は、彼の左の膝頭に正面から蹴りを見舞った。
現代の格闘技界全般で禁じ手とされている“正面関節蹴り”である。
ヒグマのように太く逞しい脚だから、犬山の正面蹴りで膝関節が逆方向へ折れ曲がるなんてことにはならなかったが、それでも充分過ぎるほどのダメージを被った神原は、ついにくずおれてしまった。
「キョエーッ! キョエーッ! キョエーッ!」
ぐったり座り込む神原へ、なおも攻撃し続ける犬山。
側頭部めがけ、狂ったように回し蹴りを連打する。
場に居合わせた誰もが、これ以上は危険、と判断したところでようやく制止が入った。
体育教師の牛尾剣骨が、スピアータックルで犬山忍をぶっ倒し、押さえ込んだのだ。
一握りの勇気と正義感を持ち合わせた誰かしらが、職員室で握り飯を頬張る牛尾の元へ知らせに走ってくれたお陰である。
「キエーッ! キョエーッ!」
丸太のような牛尾の腕の中で、犬山は叫び続け、もがき続ける。
「もうええ、終わりやッ。お前の勝ちや!」
そう耳元でがなられても、まだ収まらない犬山。
だが、そのうち手足の動きが鈍りだし……カラータイマーの残量が尽きたのか、脱力・弛緩、ようやくおとなしくなった。
そして、そのまま寝入るように意識をなくしてしまったのである。
それから間もなくしてチャイムが鳴った。
この壮絶なる死闘をかぶりつきで見守っていた空手部員たちも、その大半が無様に尻餅をつき、肌に粟さえ生じさせていた。
また、立っていられた者にしても、決して豪胆な訳ではなく、単に畏れの余り、硬直していたにすぎなかった。
腕と脇腹とをこっ酷くやられた明星守は、意識朦朧たる様相で、早々に自爆した切り込み隊長・近森斗呂偉も、額に大きなたんこぶを作って未だ伸びている。
そして、座して死を待つ的状態の神原天法といったらもう、その血だるまの顔は、焼いた餅の如く見るも無残に腫れ上がっていた。
吹く風は相変わらず爽やかで、降り注ぐ日差しも小脇に汗にじませるほど快活だ。
空だって、こんなにも長閑で青々している。
それなのに、この屋上一帯に限ってはまるで、どしゃ降りだった。
失恋した日に失業した、みたいなどんより陰鬱な雰囲気が漂っていた。
だが、それにしても、あの華奢な犬山が……人一倍怯懦な犬山忍がだ。一体全体、何をどうすれば、あのような異常なファイターに変貌するというのだ?
しかも、特筆すべきはその強さである。
手長の超人・明星守をも、巨人の空手王・神原天法をも凌駕してしまった。
人間は通常、持てる力の3割程度しか使えてない、などとよく言われるが、残りの7割も自在に操れる能力者なのだろうか、犬山忍は。
さらに、その攻撃内容といったら、喉潰しに目潰し、金的蹴りに膝皿蹴り、と禁じ手ばかり。
格闘術というより、人体破壊術に近い。
犬山は、このような技術をいつどこで、どのようにして身につけたのであろうか?
頭に残るは疑問符ばかりである。
だが、ともあれ、チャイムは鳴った。地獄のランチタイムは終わったのだ。
さあ、気持ちを切り替えて五限目に臨もう。
こんな時こそ、勉学に励むべきなのだ。