#11 超人 M
さて、ここでようやくチャイムが鳴った。
悪夢のような一限目が終わり、10分間の休憩タイムの訪れである。
犬山忍は教室を出ると、中央階段の方へ足早に廊下を進んだ。
途中、景山輝とすれ違い、不審に思う。
『あれ? 景山さんは確か、教室にいたはずじゃ……』
だが、まぁ、見間違いかもしれない。はたまた、他人の空似かも。
そんなことより、おしっこおしっこ……という訳で、特に気に留めることもなく犬山は先を急いだ。
一年生の教室があるこの北棟2階から、中央階段で1階へ降りると、すぐ右手にジュースの自販機、左手には来客用のトイレがあった。
ここのトイレは男女兼用なので、犬山にとっては好都合なのだ。
もちろん、使用許可は取ってある。
入学説明会の日に、犬山の叔母にあたる人物=塔子が太刀校長と個別面談し、次の3つの許可を取り付けたのだ。
①体操着での登下校
②来客用トイレの使用
③水泳授業の参加免除
「あー、漏れちゃう漏れちゃう……」
犬山は、入口に並んでいる専用サンダルに履き替えると、せかせかとトイレの奥へ足を運んだ。
「……ふぅ~。危機一髪だったな」
上靴に履き替えてトイレを出ると、階段脇の自動販売機が目に入った。
「出すもの出したし、今度は補給しとくか」
別段、喉が渇いていたという訳ではなかったが、犬山は飲んでみたいと思った。
中学校まではウォータークーラーしかなかったのだ。
それが今や、学校の敷地内で堂々とジュースを飲めるのである。
飲まない手はないじゃないか。
犬山は自販機の前に立った。
1商品につき2本ずつ、全12種・計24本が3段に分かれて展示されている。
そのラインナップは……
コーヒー、コーラ、オレンジジュース、豆乳、青汁、甘酒、冷やし飴、おしるこ、オニオンポタージュ、まむしドリンク、トマトサイダー、ドリアンネクター、といったものであった。
コーヒーとコーラとオレンジジュースの3種を除けば、正直、金払ってまで飲みたくないかも的顔ぶれだ。
中でも青汁は200円、まむしドリンクに至ってはわずか120ミリリットルで300円という高値だった。
ちなみに、これらはすべて“つめた~い”である。
甘酒も、おしるこも、オニオンポタージュでさえも……。
「んん~、どっちにしようかなぁ……」
コーヒーかコーラかで犬山は迷っていたのだが、
「よし、コーヒーに決めた」
と、100円玉を投入し、商品ボタンを押そうと指を伸ばす段になって「あっ」と気がついた。
「なんだよ、売り切れかよ……」
コーヒーだけではない。コーラにも売り切れランプが灯っていた。
となると、残る選択肢は必然的にオレンジジュースとなる訳だが、果汁100パーセントだったので、犬山はちょっと躊躇した。酸っぱ系があまり得意ではなかったのだ。
犬山が、どうしたものかと迷っていると、
「俺が選んでやるよ」
突如、背後から手が伸びて、下段左端の商品ボタンを押してしまった。
「えっ」
思わず振り返ると、空手部二年生の山田と木村が憤怒の形相で立っていた。
「おい、さっきはよくも恥かかせてくれたな」
地の底から響いてくるような不気味な低音で、山田が言った。
「タダで済むとは思ってねぇよな?」
指の関節をボキボキ鳴らしながら木村。
「あ、いや、その……も、もう行かなくちゃ」
と、慌ててその場を離れんとする犬山だったが、木村に制され、髪の毛を鷲づかみにされてしまう。
「まぁ待て、木村。その前に、死に水を取ってやろうじゃねーか……」
そう言うと、山田は自販機の取り出し口から1本の缶を拾い上げた。
まさかというか、やっぱりというべきか、それはドリアンネクターに他ならなかった。
「や、やめてッ、それだけは……後生だからッ!」
目に涙さえ浮かべて懇願する犬山だったが、山田は構わず缶のタブを引き起こした。
途端に異臭が立ち込め、3人の鼻を容赦なく衝く。
「ははっ、相変わらず強烈だなぁ」
「くぅ~ッ、目に染みるぜ」
木村は羽交い絞めの体勢に移行して、犬山の自由を完全に奪った。
犬山は唇を固く結んで抵抗するのが精一杯だったが、山田に鼻をつままれ、あっさりと開口してしまう。
「い、嫌だッ。助けてッ……お母さぁんッ」
「へっへっへっ、観念しな」
山田は、犬山の口内へドリアンネクターを流し込んだ。
「あががぁ~ッ、おごごぉ~ッ、んごんごッ……ん?」
意外にイケる……いや、むしろ旨いかも。
「て、てめぇ、何ゴクゴク飲んでんだよッ!」
「そーだよッ、空気読めよッ、コラァ!」
「ず、ずいまぜぇ~ん……」
と、そんな彼らに対して、
「あのぉ、盛り上がってるとこ悪いんですけど、そこどいてくれませんかね?」
とっさに、声の主へ視線を向ける山田・木村・犬山の3人。
それは、何とも涼し気な目元をした、割かし端整な少年であった。
体格は中肉中背。
くせっ毛なのか、緩やかにウェーブした黒髪を後方へ流している。
「ッ!? ……」
「ッ!? ……」
「ッ!? ……」
山田・木村・犬山の3人が思わず絶句したのは無理もないことだった。
その少年には、驚くべき身体的特徴があったからだ。
それは、腕が長いこと。
どれくらい長いかと言うと「気をつけ」の姿勢をとったら指先があと少しで地面につく、というほどだ。
「な、何だ、お前は……」
ようやくと山田が反応した。
「あ、俺ですか? 新入生の明星守といいます」
あっけらかんと答えて、明星守は軽くお辞儀した。
「そ、その新入生が、何だってぇ? どけ、とか抜かしやがったな、おいッ」
と、木村も気を取り直した。
「いや、自販機の真ん前でわちゃわちゃされるとですね、邪魔というか迷惑というか……」
「なにぃッ、てめぇ、この野郎ぉ! 一年坊主の分際で先輩に盾突こうってのかッ!?」
カチンと来た木村は、肩を怒らせながらズンズンと明星へ詰め寄った。
そして、胸ぐらでもつかもうと思ったのか、右手を出した瞬間、物凄い勢いで上方へぶっ飛ばされた。
廊下の天井に背中を激しく打ち付けて落下、木村は泡を吹いて気絶してしまったのである。
唖然、茫然、驚愕、驚倒……どの言葉を用いても、この驚きを表現するには物足りなかった。
山田と犬山は無言のまま、顔を見合わせた。「おい、見たか?」「見ましたとも」そんな感じで、この時ばかりは、苛め役と苛められ役の関係性など素っ飛んでいた。
しかしだ。普通なら、ここで、
「ほほぅ、やってくれるじゃねぇか。次は、この俺が相手だッ」
と、なるところだが、山田はそこまで愚昧ではなかった。
自分よりは多少劣るものの、中学時代は喧嘩上等で鳴らし、校内でも一二を争う強者だったのだ、木村は。
そんな彼を、まるで赤子の手をひねるが如く秒殺してしまうこの明星守なる少年に、真っ向挑んだところで勝ち目など皆無なことは火を見るよりも明らかだ。