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自立までの記録

 何か自分の記録を書いてみよう、一人暮らしをするようになってからそう思うようになった。私の人生なんてどうってこともないんだろう、でも誰でもそれぞれにいろいろなことがあるはず。自分しか経験していないことも何かあるだろう。どうせ忘れてしまうことはいっぱいあるんだから、何かに残すのもいいんじゃないか。じゃあどうするのが簡単か?写真もビデオも見えない自分にはあまりありがたくもないし、自分の言葉にするのがいいのだろう。そうは思いつつも、書き始めるまでには長い時間がかかった。途中で挫折するのではないか、そんな気もしないでもない。またそれもいいんだけど。それが自分なんだから。

 ってことで、まだ27年間しか生きていない私ではあるけれど、今までにあったいろいろなこと、自分の記憶のために、そして興味を持ってくれるかもしれない誰かのために、自分のペースで書いてみることにした。それがこの文章である。

2006年10月11日


第1章 子供のころ


1.小学校に入る前までのいろいろ

 昭和54年6月9日、1390グラムの未熟児として生まれた私。そんなころの記憶があるわけがないが、大きくなってから教えてもらったことである。親からそう言う話しを直接に聞いたことは記憶になく、祖父母からよく聞かされた。未熟児網膜症と言うことで右目で光を感じられる程度、左は0。それが自分の知っている現実。手術とかいろいろしたんだとか、親以外の人間から少しは聞くことはあったが、詳しいことは知らない。まあ、知っていたところで何かが変わるってこともないんだろうから、それはそれで今となってはどうしようもないことだ。

 何歳ぐらいからの記憶があるんだろうか。はっきりしないが、小さいアパートの2階で両親と自分の3人で暮らし、それほど離れていない距離に母方の祖父母、親戚のおじさん(母親の弟)が住んでいた。家にお風呂がなかったから、おじさんの家によく入りに行ったんじゃないかなあ。父親は夜に仕事をしていたはずで、昼間は家で寝ていた、だから母親と外に出ることが多かったんじゃないかなあ。何をしていたんだろうねえ。いろいろな人の家に行ったのかなあ。祖父母の家、おじさんの家によく言った記憶がある。(祖父母とおじさんは、私が5歳か6歳だかのころ、引越しして一緒に暮らすようになったはずだ。)あまり覚えてはいないけれど、周りは大人ばっかりだったんだろうなあと、それは確実なんじゃないかなあ。強烈な記憶としては、昼間に母親にパチンコに連れて行かれたこと。3歳か4歳じゃないかなあ。まだ幼稚園とか行く前だと思う。うるさくて面白くもない、長い長い時間を過ごしていたんだろうか?あの店の雰囲気は今でも嫌いである。

 おじさん夫婦はいろいろなところに連れて行ってくれた。はっきりと場所とかを覚えてはいないが、何処かに行ったってことはよく思い出せる。でもそこには両親はいない、記憶がないだけか?最近聞いたことだが、よく小さいころに預かったんだよって言ってたから、両親の姿はなかったのだろう、私の記憶違いではなさそうだ。ついでに言えば、何処かから帰ってくると、母親がおじさん夫婦のいる前で私に聞くんだそうだ、「面白くなかったでしょう」って。いったい何を考えているんだか。それはおじさんが母親の弟だからと言っても許されることではないだろう。そんなことがあったのに、いろいろなところに連れて行ってくれてありがとうと、おじさんには言いたい。

 未熟児だったからなのか、体はあまり丈夫ではなかったようだ。小児科にはよく行っていたようだし、オレンジ味とかの粉薬をよく飲んだ。気管支肺炎になりかけて入院したようなこともあるらしい。入院したことは何となく覚えている。大きくなってからは丈夫にはなったけれど、小さいころはかなり弱かったようだ。

 自分が見えないこと、人と違うことはいつ意識したんだろうか?人とは違うってことは、かなり小さいころから言われていたと思う。目が悪いんだからとか、祖父母は何気に言っていた。人は人、自分は自分と母親はよく言った。ちゃんとは理解してないにしても、何か違うんだろうことは思っていたんだろうな。でも自分が人と違うことを実感したのは、一般の幼稚園に1ヶ月ぐらい?行ったときだ。

 どう言う道順があってそうなったのかはよく知らない。4歳か5歳のころなんだろう。一般の幼稚園に行った。障害児を受け入れてくれるところはどうやって探したのだろう、あまり近くはなかったと思うが一般の子供のいる幼稚園に行けた時期があった。たぶん、同年の子供と接する最初だっただろう。そこで自分は人と違うんだってことに気がついたんだろう。幼稚園で何をしたとか良いことは思い出せない。給食が食べられなくて部屋に自分だけがいたことが鮮明に思い出される。朝にバスで到着して靴を履き替え、どうしたらいいか分からなくなって、ふらふらと迷って、ただ歩いていた時間がとても長かった。絵本を持たされても見えないからそれがどう言うことなのか、他の子供がどうしているのかも分からない、話しかけても相手にされてない感じがする、とにかく良い思い出がない。やっぱり虐められたりなんかもしたのかなあ、砂場で服の中に砂を入れられたりとか、そんなことはあったような。あまり長く行ったわけでもなさそうだ。受け入れできないみたいなことになって、行かなくなったんじゃないのかなあ。もう20年よりも前のことなのに、悪いことだけをいっぱい覚えているってことは、やっぱり行かないことが良い選択だったんだろうとは思うけれど。幼稚園から帰ってからよく泣いていたような気もするし。行くのも嫌だったんじゃないかなあ。ってことで、友達ができるようなこともなく、短い一般幼稚園での生活は終わった。

 それが何歳の何月だったのかが全く分からないが、小学生になる前の1年は、盲学校の幼稚部に行った。朝の9時半から午後1時半までの4時間。自宅からは母親が運転する車で4・50分はかかっただろうから、母親は盲学校の近くで時間を過ごしていたようだ。それはそれで大変なことだったんだろうとは思う。私はと言えば、そこでの悪い記憶がないので、楽しく過ごしていたんだと思う。ただ、同じ年の女の子がいたが、自閉症で話しをしたりできる子ではなかった。だから、ここでも何となく一人だったような気がするんだな。幼稚部の担任だった先生は、小学3年生のときにも担任だった。幼稚部のころはよく泣いてたよと言われたのを覚えている。

 これに前後して、就学前訓練をしてくれるような施設にも定期的に行っていたはずなので、簡単な点字は読めていた。父親も少し勉強していたようで簡単な読み書きはできたようだ。母親は、私は「あ」と「め」しか知らないと自慢げに言っていたのを鮮明に覚えている。母親がこんなことでいいんだろうか?家族の誰もが点字を覚えなければいけないとは言わないけれど、全盲の子供を持つ親がこうではねえ、もう少し努力すべきでは?でもどうしようもないことなのかなあ。盲学校の職員だって、私は点字はできないからと大きな顔して言える現実があるんだから。


2.小学生低学年

 小学生になるころ、いや、もう少し前なのかもしれない。祖父母とおじさん夫婦が一緒に暮らすようになった。それと前後して、居心地が良かったからか、いや、それだけではないだろうが、私もそこにいることが多くなった。言ってみれば預けられていたようなものである。そんな生活は小学3年生が終わるまで続いた。両親のいる家に帰ったことはほとんどないと思う。学校に行かないほとんどの時間を祖父母の家で暮らしていたのは間違いない。どうしてそうなってしまったのだろう?それって何かおかしいのではないか、今になって思う。

 幼稚部からそのまま盲学校の小学部に入学。同じクラスはこれから長い付き合いとなるIとの2人。小学4年生になって3人になり、6年になって4人になったが、やっぱりIと過ごす時間は長かったなあ。よく虐められたなあと言う記憶がある。今となれば良い思い出なのだが。こう言う刺激があって鍛えられた部分ってやっぱりあるんだろうなあと今は思うよ。

 Iと話しをするようになって、何となく自分とのギャップを感じることも多かった。彼にはお兄さんがいるからそう言う話しもするし、自分には実感として分からないことが多かった。そして保育園のこと。こんなこと言うと怒られそうだけど、彼からはよく聞いたことだった。自分はと言えば、盲学校の幼稚部、そこでの経験は彼とはあまりに違っていた。幼稚園に行ったことがあるとは言っても、ほとんど悪い記憶ばかり。ちょっと寂しいなと思っていたのは事実である。休みに何をしたとか話してくれることも多かったが、これもまた、周りに大人しかいない私とはあまりに違い過ぎた。自分は人とは違うんだなと、母親が言った「人は人、自分は自分」と言う言葉をよく思い出していた。最終的には疎遠になってしまったそうだが、保育園に行っていたと言う理由もあるのだろう、家の近くの友達がって話しもよく聞いた。自分には家の近くに友達なんていなかった。

 小学生になるとスクールバスを使えるようになる。バスが到着する駅まで、朝の満員電車を利用して通うこととなった。母親かおばさんが付き添ってくれた。満員電車って言うのは今でも嫌いだが、小さい子供にとっては辛いだろうなあ。それに小学生は歩いて行ける距離に学校があるのが当然だろうから、1年生にして満員電車を経験するなんてあまりないのでは?小学1年生となると、昼過ぎには終わってしまう。帰りのスクールバスはとっても遅い時間だったから、学校まで迎えにきてもらっていた。

 でもこんな生活も長くは続かなかった。1学期は1ヵ月半ぐらいしか登校していない。100日咳にかかり、5月の半ば?から休み、夏休みの前の日は学校に行ったはずだが、9月まではずっと祖父母の家にいた。今になって考えれば考えるほどおかしなもので、夏休みの家庭訪問にも祖父母の家に先生はやってきたんだよな。いったいどうなってたん

だろう?

 9月になったら平穏な生活になるのかと思ったが、そうでもなかった。10月に弟が生まれると言うことで送り迎えができなくなる。だから2ヶ月か3ヶ月、学校を休むように言われ、そうさせるつもりだったはずだ。さすがにまた休むのは納得ができなかった。Iは入学当時から寄宿舎に入っていた。だからそう言うことは自分もできるんじゃないかと思ったんだね。Iから話しには聞いてはいたけど、どんなところかよく知らなかった。でも寄宿舎に入れてくれるように頼んだんだ。少なくとも学校を休まなくてもいいんだろうってことだけは知っていたから。

 かなり反対だったようだ。祖母は泣いたと今でも言う。でも結果的にはそれが良かったわけだけど。こうして、月曜日の朝に送ってもらって、土曜日に学校が終わったら迎えにきてもらう、そして祖父母の家に当然のように帰る生活が始まった。忘れもしない、10月13日のことだった。

 最初は寂しくて、祖父母は週に2回ぐらいは電話をしてくれていた。祖父母も辛かったことと思う。祖父母と話しをした記憶はあるのだが、母親とも少しは話しをしたと思うが、父親と話しをした記憶がない。当時、夜の仕事ではなく、トラックの仕事をしていたはずの父親とは、週末にときどき話しをしたのかなと言うぐらいの記憶しかない。お風呂に入れてくれたりするようなこともあったんだろうと思うけれど、話しが難しくて苦手だった。学校の送り迎えは祖母かおじさん夫婦がしてくれていた。

 寄宿舎での生活には、なかなか慣れることができなかった。よく泣いていた。Iとは学校でも寄宿舎でも、それこそ朝から晩まで一緒だったから、よく虐められたりもしたもんなあ。それに、集団生活にもなかなか慣れなかったし、集団で遊んだりすることが苦手だった。一人で本を読んでいたりとか、そんなことしてることも多かったね。そうそう、1年生のときだけなんだけど、部屋の都合がつかなかったらしく、全盲だけだって言う理由と私が小さかったからだろう、女子の部屋に入れられていた。なかなかない経験なんじゃないかと思う。

 初めての集団生活、その中での強烈な思い出。片親しかいないんだとか、親とは暮らせないんだとか、よくは知らないけれど複雑な家庭も多かったようだ。何か大変な状況があること、父親と母親がいることが当然ではないらしいことを知った最初だった。で、お年玉をどれだけもらったのかって言う話しを正月明けにしたんだ。誰々はいくらって聞いているうちに自分の順番がくる。親戚は多いので、それなりにもらえていたから、上級生(5年生)とかの金額よりも多かったんだ。でもそんなことは怖くて言えなかったんだよね。1年生だし、大きい人よりも多かったなんてやっぱり言えなかった。上級生よりも何千円か少ない金額を言ったんだ。それでも多い多いって言われたね、小さいころにそんなに多くはなかったって。でも上級生よりも多い金額は言わなくて良かったんだろうね、やっぱり。算数できて良かった世ね。

 1年生の終わり、日帰りで父親とサファリパークに行った記憶がある。当時のテレビコマーシャルでよく宣伝していて、行きたい行きたいと言ったのだろう。実際に何をしたのかとか、そんなことはあまり覚えていない。ただ、「行きたいって言うから連れてきてやったんだ」みたいなことを言われたことだけはよく覚えている。言い方はもう少し違ったんだろうけれど、車の中でそう言う内容のことを言われたのは確かだ。父親は話しをするのは上手ではなさそうだ。これはこの先にも記すだろうことからも推測できるが、子供にはあまりに難しい話し方しかできない人だった。もっと父親が違う人間だったら、この先のいろいろは、もう少しは違っていたんじゃないかと思う。

 地域の学校(本来障害がなかったら行くはずだったところ)との交流学習、私がその学校に年間に何回か行くのだが、そんなのが始まったのは2年生のときだった。幼稚園だって1ヶ月ぐらいしか行ってないし、家の近所に友達がいたわけでもなく、新鮮な経験はしたと思うが、最後の最後までお客さんだった。寮生活では週末か祝日しか家には帰らない、いつもは違う学校で勉強している私が彼らの中に入ることはできなかった。近所に住む人たちだったはずだが、友達ができるようなこともなく、経験と言うことだけで終わった。これは中学生まで続けられたがあまり状況の変化はなかった。あくまでも最後までお客さんだった。受け入れる学校や担任の先生によっても違うようだが、行事によく呼ばれて、年間に5回も6回も行く人、何日も連続で行く人、土曜日の半日しか行かせてもらえなくて、1学期に1回あればいいなど、対応はばらばらだった。

 2年生になり、初めてIとは別の授業をする時間ができた。通常の授業とは別に、歩行能力を高めたり、いろいろな訓練をする時間があった。1年生のときは一緒に学校の中を一人で歩く訓練などをしていた。2年生になったら一つ上の学年の人と同じグループにされて、また校内を歩くことが続いた。このころはまだ白杖などを使うことはしていない。Iは別のグループで白杖を使って外を歩くことなどをしていたようだ。今になって思えば、動きがあまり良くなかった自分が、彼と一緒に歩くことなんてまず無理だっただろうけれど、当時はそれが羨ましくて、どうして自分がそこに入れてもらえないのか、どうして他の学年の人となのか、どうしても納得できなかった。私が校内を中心に歩くことは小学3年生ぐらいまで続けられ、4年生になって初めて白杖を使う練習が始まった。しかし、一つ下の学年の人とだったのが、これまたどうしても納得できなかった。

 このころには寄宿舎には少しは慣れていたが、まだ集団の中に入って遊ぶことが苦手だった。一人で本を読んでいたりする時間はやっぱり多かったんじゃないかなあ。

 このころも祖父母の家に帰る生活はまだ続いていた。休みは何をしていたのかなあ。自分のラジカセがあったので、音楽を聞いたり、意味も分からずにラジオ聞いたりすることが多かったのかなあ。祖父母の家は快適で、休みになるのがとても楽しみだった。このまま学校が始まらなければいいのになんてよく考えて、あと何時間ここにいられるとか、意味もないのに数えたりしていたものだ。送り迎えは母親が車でするようになっていた。

学校での生活は3年生の終わりまでは平穏に過ぎて行った。


3.小学生高学年

 それは急にやってきた。大人の話しが分からないだけで、前々から進んでいたことなのかもしれない。小学3年生の終わりのころ、もうすぐ終業式ってときだったろう。その日は父親が学校に車で迎えにきた。いつものように帰ったのだが、祖父母の家には行かなかった。一瞬は行ったはずだ。「あ、違うわ」と言った父親の言葉を今でも覚えているから。で、到着したのは今日から家族で住むことになる家だった。引越しをしたのだ、お風呂のある、今までよりは広い家に。それまでは祖父母の家にお風呂に入りにきていたはずだ。

 自分の部屋が与えられた、あくまでも物理的には。そして、物質的なものは必要なだけ与えられてはいた。何かがないとかって言うことでの不自由はなかったと思う。ただ寂しかった。あまり両親と生活したこともない、その中で自分の居場所がよく分からなかった。両親はテレビゲームが好きでそう言うものをよくやっていたと思うが、自分にはそう言うものは分からない。7歳も年の離れた弟とは遊びも合わない。衣食住は両親の家だったが、休みには歩いて1・2分ほどの祖父母の家によく行っていたものだ、祖父母に迎えにきてもらって。そんな生活は、その先もずっと中学生になるぐらいまで続いた。祖父母の家に行かないときは一人で過ごした。食事は与えられていたが、家族で何かするみたいなことは少なかった気がする。父親は長距離のトラックに乗っており、あまり家にはいなかった。母親と弟、ときには父親も含めてよく外出し、私は一人だけで家にいることが多かった。人が家にきたら、ドアを閉められて人には見せないようにされた。隔離みたいなものである。

 どうしてそうなってしまったのだろう。両親は朝はいつでも喫茶店に行っていた。そこに自分が行けばことは解決したかもしれない、ただ喫茶店とかは好きではなかった。まあ、子供の好きな場所ではないだろうねえ、たぶん。今は喫茶店は嫌いじゃないよ。それに両親と外出したとしても、自分の居場所がよく分からない。飲食店に行けば、何がいい、何がいいと聞くばかりで、ここに何があるのか分からないから答えようがない。そう言うことをするのは母親が多く、言わなければ分からないだろうと父親はそう言うことは思っていたようだが、それでも何か気まずかった。家でご飯を食べるにしても、何があるとかをはっきり教えてくれたことはほとんどない。音を出して食器を置くとか、わざとそうしていたのかどうだか分からないけれど、それだけが唯一の情報だった。聞けばいいんだろう。でもそうしなかったのには、そうできない雰囲気とかがやっぱりあったんだよね。毎日、何があるか聞かなければ教えないのもどうなんだかと思うね。だから置かれているのが分からなくて、1品食べないとかって言うことも多かったはずだ。手で食卓を確認するようなこともあまり歓迎されなかった。そう言う行動が許せなかったようだ。止めるようによく言われたよね。見えなくて何がどうなっているのか分からないのにさ、だからって何かを説明してくれるってこともないくせに。見えないから分からないと言っても、ちゃんと分かるようにやってあげてるみたいなこと言う人たちだったし。箸がないって言って困っていれば、自分で探せばいいと言うんだよ、何かが矛盾してるよね。

 通常の休みはまだ耐えられたけど、長期の休みは辛かった世ね。授業がない長い休みの嬉しさはあっても、その休みをどうやって使うのかがよく分からなくてね。宿題なんかも自分でやれるものはやるようにはしていたけど、休み南下だと、お家の人と何かやるように、みたいなのとかも出たりするよね。話しだけはするけど、やらなくていいって言われることは分かっていたし、いつも答えは同じだったよね。家庭科の宿題なんかで、家で料理をしなさいなんて言われたのは最悪。料理なんてしなくてもいいと、危ないだの言ってやらせないでしょ。でも先生はやれって言うでしょ。正直に話したら、やってもらえるようにお母さんに言いなさいって言うだけでしょ。どうにもできない状況ってあるんだって、先生分かってよってよく思ったものだ。だから、自分だけで解決できない宿題なんてやったことはないよ。だから家で料理なんかしたこともないし、それは許されることではなかったんだ。日記だって家にいるばっかりの生活では書くこともなくなっちゃうよね。よく困ったものだ。

 このころ、地域の障害者の団体の旅行とかに、母親と行くようになっていた。ただ、自分と同じ障害の人はいないし、知的障害がほとんどで話しもできず、旅行でいろいろな経験をしたけれど、人間関係が深まるようなことは最後までなかった。でも楽しくなかったわけじゃない。家に帰って寂しい生活に戻るのが嫌で、帰ってきてから一人で泣いていたこととかあった。精神的に不安定だったんだろうね。今なら問題になりそうだけど、当時、そんなこと言って気にする人なんて周囲には誰もいなかったけどね。また泣いてる、せっかく連れて行ってやってるのにばかじゃないのかって怒声が飛んだよね。

 さて、学校での生活では、少しばかりの変化が出てきていた。どうしてそうしたのか分からない。生活の歪みとか、いろいろなことが重なっていたんだろう、とにかくいろいろなことに反抗しようとした。宿題を忘れたと言って、怒られても怒られてもやらなかった小学4年生。学校と寄宿舎の往復、家に帰っても特別に何かするでもなし。そんな生活の中で反抗するんだとしたら、与えられたものをやらないこと、宿題をやらないぐらいのことしかなかったんじゃないかなあ、当時は。まさかそこまで考えて実行したわけではないが、そう言う反抗の気持ちをぶつけられるところって、そんなぐらいしかないんじゃないのかなあと今になって感じる。学校には行きたくないと言って、気分が悪いとか腹痛だとか言って、多くの人に迷惑をかけたものである。不登校にならなかったのは、学校や寄宿舎の職員の皆さんのおかげかもしれない。寄宿舎に入っていなかったら、家に閉じ込められていたかもしれないよね。こう言う行動は5年生になるときになくなった。学校では安定した生活ができるようになっていた。

 家での生活は相変わらず居心地が悪かった。ある意味で反抗期?だったわけだが、家に帰るとよく父親は難しい話しをしていたものだ。覚えていない。でも当時の自分には難しくて言わんとすることは理解できなかった。自分から何か親にしゃべったりすることは確かに少なかった。それが気に入らなかったらしい。しゃべることがないはずはない、しゃべれしゃべれとよく言われた。母親はそう言うことに関心はなさそうだったが、父親はよく言った。でも私はしゃべれと言われても何をどうすればいいか分からず、会話らしい会話はほとんどなかった。親が子供をしゃべらせるように持って行くのが普通じゃないか?そんな、しゃべれと言うだけでしゃべれるものなのか?今でもそう思っているよ、私は。祖父母とは会話はできた。向こうからもいろいろ聞いてくれるし、話しかけることもできた。でも両親にはそう言うことは自分にはできなかった。そう言うのも気に入らなかったらしい、他人にはぺらぺらしゃべるくせに、どうして親には言わないのかよく問われた。いくら問われてもそれが事実なんだ、今なら言える。当時は無理だったけど。

 小学5年生の1学期の最初は学校に行っていない。尿道感染症で入院していた。春休みに血尿が酷くなり、町医者で膀胱炎だろうと言われて、薬を飲んでいたが改善が見られず、大きな医者を紹介されて行ったところ、すぐに入院となったのだ。10日ほど入院したんだろうか。退院してしばらくしてから登校となったが、とにかく尿は近いし血尿は痛いし、どうにも大変だったのをよく覚えている。そこへダブルパンチ!父親が病院のベッドに寝ている私に難しい話しをする。病気になるのは自分が悪い、どれだけ人に迷惑をかけてるのか分かってるかと。確か似そうだ、入院すれば付き添いもいるし誰彼に迷惑はかかる。だからどうだって言うんだ?入院しないですむなら入院なんてしないよ。学校にも行けないって言うのに、どうして入院なんかしなければならない?そう思っていたね。それからだね、病気になるのは自分が悪いって言うから、本当に辛くてどうしようもなくなるまで誰にも言わなくなったのは。通常のときならまだしも、辛いときにまで、迷惑をかけるなとか分かってるのかとか言われたくないもんね。何でも言えばいいじゃないかと言う。でも言ったことで帰ってくるものが何か、それが納得できないからだんだん言わなくなるんだよね。言うと辛い思いをするんなら、言わずにいたのが幸せだと思ってたしね。

 とにかく歪んだ生活だった。死んだらどうなるかを初めて考えた。3歳か4歳のころ、何を思ったのか死ぬのは嫌だと泣いた記憶があるが、できるわけもないのに、「自殺」とか考えた。父親の分からない話しを聞かされてから、部屋中のコンセントを抜いて、与えられたご飯を食べずにいたら死ねるだろうかと考えた。お菓子の乾燥剤を飲んだらどうなるだろうか?実行するまでの勇気はなかったが、本気で考えていたものだ。

 死にたいとか考えていたくせに、将来何になりたいかと聞かれて、先生になるんだと答えていた。どうしてそう言っていたのか、はっきりした理由は分からない。でも、働く人の姿として、近い存在だったのは何だろう?父親はトラックに乗っている、見えないからまず無理。そうなるとタクシーの運転手さんも無理だ。お店屋さんもできないだろう。電車やバスの運転も無理だ。ラジオやテレビに出る人、そう言う人はいるわけだけど存在としては遠い人たちだしよく知らない。自分は見えないんだって言うことはよく分かっていたから、それぐらいのことは10歳にして分かっていた。だったら何が残る?当然、マッサージとかの仕事のことはまだ遠い話しに聞くだけで分かるわけもなく、だったら先生ぐらいしか残らないよなあ。今になって冷静に考えればそうなると思うのだがどうだろうか。


第2章 思春期


1.中学生

 そのまま盲学校の中学部に進んだ。勉強はできたわけではなく、成績は悪かったが、それほど問題もなかったようだ。部活動は吹奏楽、野球部と吹奏楽ぐらいしか選ぶものはなかったので、吹奏楽を選んだ。当時は楽器の知識とかもほとんどない。トランペットがやりたいとか言ってはみたけれど、最終的にはテナーサックスをやることになった。中学3年生のとき、愛知県で行われた障害者国体の開会式で演奏するなど、なかなかない経験をいくつかさせていただいた。吹奏楽は高校1年まで続けたが、あまり集中できなくなって引退したが、音楽をする良いチャンスにはなったと思う。それから何年かは、いろいろやっていたので。

 生活上は充実していたが、問題がなかったわけではない。このころからだ、単独で家に帰るクラスメイトが増えてきたのは。そこにはもちろん親の協力はあったと思う。今は違うそうだが、当時の学校はほとんど協力をしなかった。学校の周辺の歩行訓練などは行われていたものの、「先輩も自分たちでやってきた」と言うだけで、圧力をかけるだけかけ、自宅から学校までの往復は親任せ、本人任せだった。私の親がどう言うか、もう感じ取っている人は少なくないかもしれない。「送り迎えはするから自分で行くようなことは考える必要はない、私らにはあんたに教えることみたいできん」それが答え。学校と親との間でどうにもならなくて悩んだ。学校では誰々もしているのにどうしてやらないかと言われる、あなたの先輩もやってきたことだと。それを親に言えば、学校は家のことなんかは分からない、私らが送り迎えするだけのことなんだから言わせておけばいい。どうにもできなくて耐えた。家に帰る前の日の夜、明日は何時に終わると寄宿舎から公衆電話で電話した。それは人に見られることはなかったからまだいい。帰る時間になって、親が待っているのがとても嫌だった。また、そのときの状況によっては、早く終わったり遅くなったりする。そう言うときも耐えるしかなかった。遅くなれば文句は必ず言われる。迎えがあると言って出てこいとはよく言われたことだ。でも遅くなるのはまだいい。都合で1時間も早く終わってしまい、単独で帰れる人はどんどん帰る。自分だけ残った1時間、行くところもないからひたすら待つだけである。その時間の長いこと長いこと。単独で帰れないからこう言うことになるんだ、ぶつけるところのない怒りに耐えた。そう言う姿を見て、「自分で帰れないからそう言うことになるんだよ、早く自分で帰れるようにしたら?」って簡単に言う人々がまた許せなかった。言うだけで何もしてはくれないくせに。そんなことは中学の3年間、ずっと続くこととなった。 何回か、寄宿舎の職員が家の途中の乗換駅までの道順を教えてくれたことがある。ただ、回数的には限られてくるし、「私には教えられないし、単独で歩かせることとは違うからよく覚えておくように」と言われていたため、知識が増えたぐらいに終わってしまったのは残念なことだった。

 中学3年のころ、1年生のクラスに聴覚にも障害のある人がいた。彼はどうしてなのか知らないけれど、歩行訓練の指導をする専門の人に、学校から家までの指導をしてもらっていた。その光景は何回か目撃していた。彼は耳も不自由だから特別なのか?なんて私は思っていた。そして彼が指導してもらえることは羨ましく思っていた。そんなことがあって、何処からか親の耳にも入ったようだ。私は言ってはいないと思う。親は学校に怒鳴り込んだ。どうしてあの耳の悪い子は専門の人に指導してもらえて、うちの子供には何もしてくれないんだ、と。親には、学校では必要な指導はしていると言うだけしか言わなかった。当時の担任は私にもそうやって納得させようとした。でも違う、何かが違う。学校は何もできてはいない、必要な支援はしていない。もし必要な支援ができるんだとしたら、耳の悪い彼にだって学校の人間が指導すればいい。どうして学校外の人間が指導することになったのか、その詳細は知らないけれど、学校だけでは指導ができない事実をよく表してはいないか?私は最後の最後まで納得できなかった。親は学校ではなくて、指導する人がいるリハビリテーションセンターに直接怒鳴り込んだらしい。基本的には18歳までは指導しないこと、どうしても指導が必要なら学校を通せと言われたそうだ。そこまでして、やっと学校は動いた。最終的には高校1年の夏休みに10回の訓練をすることで話しがまとまった。これだけは親に感謝する。ただ、歩行訓練を受けることと単独で通学させることはイコールではなかったようで、それとこれとは別問題と言う感じだったようだ。親と電車やバスに乗って何かを教えてもらうようなことは1度としてなかった。いろいろな経緯があったにせよ、人任せにしただけのことである。車で送り迎えをせずに電車で行くとか、それだけでも違うはずだ。でも、駅には駐車場はないとか、そんなことだけの理由で実行されることはなかったんだ。確かに家から駅までは遠くて危険な道が多く、最後の最後まで自分だけで歩いたことはなかったが。

 話しが前後してしまうが、ここで歩行訓練の経過を書いてしまおうと思う。約束したように、高校1年の夏休みに10回の歩行訓練は行われた。その前にも偶然に近い出来事があり、それもまた歩行訓練をスムーズにしてくれた。

 高校に入ってクラスの人数がかなり増えた。その中に、自分の家の近くのSがいた。彼とは利用する電車の駅は同じである。それが良かった。寄宿舎での生活は変わらなかったけれど、彼と一緒に月曜日や週末の通学をすることになった。正直不安もあったから、まだ単独でって言うことはしなかったが、歩行訓練を受ける前までに、歩く道順は何となく理解できていた。だから歩行訓練はスムーズだった。

 電車の乗り方なんて言うのは、学校では教えてもらったことはない。社会見学などで電車を使うことはあったが、単独で安全に利用する方法なんてほとんど誰も教えてはくれなかった。親は電車とかは使わずに何でも車って言う人だったから、基本的に電車の利用回数は少なかったはず。今につながる良い勉強をさせていただいたと感謝している。

 さて、中学のことに戻ろう。学校でも寄宿舎でも平穏な生活だった。でも反抗したいときってある。寄宿舎の生活は時間的に厳しい。通学している人、一般の中学生がこんな軍隊みたいな生活しているのか?なんて思って、寄宿舎を出たいんだと親に言ったことがある。そのときの対応は、何が悪いんだ?悪いことがあったら先生に言ってくるから言え、とのこと。この人たちは子供を寄宿舎から出す選択肢は提供しないんだ。子供が文句を言うなら、相手にどうにかしてもらえばいい、それだけのようだ。自分が何かについて不満があって親に言えば、結果的に周りの人に文句を言って迷惑をかけることにしかならないのだ。だったら我慢するしかなさそうだと悟った。確かに寄宿舎を出てはいけなかった。それは更に自分の行動を制限するだけだっただろう。親の都合で学校に行けないなんて可能性も出てくるわけだし。「この子は親が風邪で動けないと言っているのに学校に行きたがって困る」と、月曜日と週末しか送り迎えしてないのに言われるんだから、冷静に考えればマイナスしかないのだけれど、私が学校に行くと言うことは寮生活をする、それはイコールで結ばれていたようだ。そんなのって悲しいよね、私は親元から通うと言う選択肢があっていいと思う。それは当然のことだろうけどね。もし小学1年生のとき、寄宿舎に入れてくれと言わなかったらどうなってたんだろう。考えただけでぞっとする。でも、入れたら入れたでそれが当然と思い込み、ずいぶんと勝手なものだよね。最初は弟が生まれるから通えないって入っておきながら、それから先に寄宿舎から出すと言う選択は誰もしなかったんだもんね。そう言う話しは1回や2回はあってもいいようなもんだけど、学生じゃなくなる23歳の3月まで、それが当然だとして処理されたんだ。

 このころ、私が寄宿舎にいる間に両親と弟が頻繁に旅行するようになったんだ。最初は小学生のときだったかもしれない。行くかと聞かれた記憶が1回だけあるが、学校を休んで旅行なんかする気はなかった。両親とではあまり楽しそうではなかったし、休んで旅行したことが分かって虐められていた下級生を見ていたから。それから先には聞かれても行かないだろうけれど、確認されることはなくなった。学校を休んでまで旅行には行きたがらないからと何年先までよく言われたものだ。何か間違ってるかなあ。旅行の都合で父方の祖父母に預けられて学校まで送ってもらったとか、高校になってからはSの家に泊めてもらって学校に行ったとか、自分が学校に行くと言うことについて、いろいろな人にお世話にならなければいけなかったのは今でもよく思い出す。本当にありがとう。

 進路について考え始めるのは中学ぐらいだろうか?そのまま盲学校の普通科に進むことは当然だと思って疑わなかったし、それでいいと思っていた。中学2年生の後半、上級生が筑波大学の付属盲学校に4人も合格した。だからって私はどうとも思ってはいなかった。受験問題を見せてもらったりしていたが、自分のレベルではまず無理だろうと思っていたし、問題を見てもさっぱり理解できなかったもんね。しかし、周りからの風当たりは確実に変わったね。担任なんかが筑波に行けと言うようになったんだ。それまでは何一つ言わなかったくせに。上級生の大量合格があったからだろうと今でも思っているね。そう言うことがなかったら、あんなには言われることもなかったんだろう。私は最初から行く気はなかったから、行かないと最後まで言い切った。勉強のこともそうだけれど、歩行についての問題も感じていたし、行動できなくて困るのは自分だと思っていたからね。学校側からの風当たりだけならまだいい。親までが大学に行くようにとか言い始めた。当時の自分にはそんなところまで考えが及ばなかった。親には小学生のころに私が言った「先生になりたい」って言うのが頭にあったかもしれないが、本人はそんなことは考えてはいなかった。自分には無理だなって思っていたね。人に何か教えることは向いてないかもって気がしてたし、成績も良くない、勉強ははっきり言ってできてなかったし。親だけならまだいいさ。同級生の親から言われたこと、「あなたは筑波に行くんでしょ、うちの子供は行けないから、落ちると困るので他に行ってもらわないとね、頭のいい勉強のできる人は」。子供さんは学習障害があったから、親の言い分としてはそうなのかもしれないと今は思う。それは親としての本音だったのだろう。でもそんなことは当時の自分には分からないさ。行くことに応援してくれるとかって言うことではなさそうな言い方だったし、どうにも納得ができなかったよね。こう言うことがあると、誰が何を言っても筑波には行くものかと言う気持ちにどんどんなっちゃうのが私である。受験だけでもするようにと言われたが、行く気がないのだから必要はないと言って、最後まで応じなかった。

 この進路のごたごたがあるころに、自分のやりたいことを見つけ始めていた。まだまだ小さな火種でしかなかったが、授業で触れたパソコンに興味を持ったのだ。これを深く勉強してみたいと思い始めていた。それをするにはどう言う選択肢があるのか、担任ではない先生に聞いてみたこともあり、詳しそうな友達にも聞き、少しずつ調べていた。ただ、中学卒業してどうこうって言うことではなくて、とりあえず高校は卒業する必要があるだろうと言うことだけははっきりしているようだった。だからこのときの進路の決定には影響もなく、担任などにはほとんど話しをしなかった。少しだけ話しをしたときには、マッサージをすればお金が稼げるから、そうするのが人生にとっては最高の選択だ、と言うばかりだった。当時はまだマッサージを身近に感じることもなく、視覚障害者の職業と言う知識は持っていたが、自分がそれをするかどうかまでは決めてはいなかった。決めるほどの材料は持ち合わせてはいなかったし、目の前の進学について思うぐらいのことであって、働くことまでは考えもしていなかった。中学なんてそんなもんじゃないのかなあ。

 家での生活は相変わらずの状況だった。どちらかと言えば悪くなるばかり。中学1年生の1月、母方の祖父が亡くなった。急性の心筋梗塞、まだ56歳か57歳と言う若さだった。とても悲しかった。今でも祖父の言った言葉をいろいろと思い出すことがある。母親によく言ってくれていたっけ。親は先に死ぬんだぞ、学校へ通うことにしたって、家の近くは道が危ないから無理にしても、駅から電車に乗って自分で行けるようにはしてやらないかん。それは親がやらなければ誰がやるんだ。

 祖父にはもっと生きてもらいたかった。そして、自宅近くの駅からとは言え、自分で電車を利用して動けるようになった姿を見てもらいたかった。なんて言ってくれただろうか。喜んでくれたことだろうと思う。とても残念である。

 祖母とおじさん夫婦だけになった家には、何となく行きにくくなったような感じがした。あくまでも自分がそう思っていただけなのかもしれないが、行く回数は確実に減った。と言うことは、休みに家にいるだけのことが増えたって言うことだね。母親はそうでもなかったようだったが、父親は祖父母の家に行くことをあまり歓迎していない部分は、前々からあったみたいだったしね。直接は言わなかったと思うけれど、態度からそう感じることはあったな。お前の親は誰なんだって言われたことがあるから、そう言うことにも含まれていたんじゃないかと思う。学校と家だけの往復、生活はますます悪くなり、どうにもならなかったけれど辛いころだったな。

 家での長い休みの唯一の楽しみ、それは学校の友達との電話だった。休みに会うこともできないし、よく電話したよなあ。ただ、母親を中心として、誰に電話していたのかとか、用事は何だったのかとか聞かれるのが嫌で、電話していても聞かれているんじゃないかと思って、それだけは苦痛だった。幸いなことに、休みに自分だけが家にいるってことが多かったから、そう言うときに電話するようにはなったね。それじゃないと安心できなかったんだ。外で帰ってくる音がすると電話を切ったりなんかはよくしてた。そう言うことには気がついていたんだろうね、父親はよく文句を言ってた。でも母親の詮索が入るのが気に入らなかったから、いくら言われてもそうし続けた。かかってくる電話はどうしようもなかったが、自分からの電話は最後の最後までそうしてた。


2.高校

 そのまま普通科に入学。特別な問題はなかったんじゃないかと思う。入れないかもって不安がなかったわけではないけれど、ほとんどの人はそうやって進学してるんだから、まず大丈夫なんだろうと思ってた。相変わらず勉強はできなかったが、どうにかなったみたいだ。英語だけがねえ、飛び抜けて分からなかったなあ。まず中学から理解できてないんだから。予習をしてくるように言われて、夜に寄宿舎で英語の辞書を引くわけ。これは寄宿舎に辞書があったからできたことで、個人で購入してってことは100冊とかになる点字の本は無理だし、もし通学だったらどうしてたんだろうなあ。学校の図書館で勉強することになったんだろうかねえ。かなり分からなかったから、夜のほとんどの勉強時間を辞書引きに使ってたから、図書館なんかではまず時間足りなかっただろうなあ。もし辞書を個人で買えたにしても、あの家には置き場所がなかったから、現実的には不可能だっただろうね。勉強のことでの記憶って、英語がとっても大変だったってことぐらいなんだよね。他にもいろいろあったはずなんだけれど、あまりにそれが強烈で。英語がない日がとっても嬉しかったもんなあ。

 前にも少し書いたが、Sと出会ったのは高校に入ったときだった。自宅近くに住んでいた彼とはすぐに話しができた。そして、可能なときは、一緒に通学するようにもなったんだ。それが良かったね。家から近くの駅までは親に送り迎えしてもらってはいたけど、学校に親が来るようなことがなくなったんだから。それだけでも大きいよね。そして、休みの日にお互いの家を行き来したり、遊びに行ったりするようにもなった。休みにずっと家にいただけの自分にとって、すごく大きな変化だった。休みが楽しいと思えたのはこのころからだよね。

 でも良いことばかりでもなかった。家から出られるようになったことは嬉しかったが、遊びに行くとなればお金が必要だよね。母親からもらうわけだ。必要以上の詮索が入るようになったんだ。Sと外出することは悪いとは思っていなかったようだが、何をするのかとか、お金はどうやって使ったのかとか、自由になったんだか監視が厳しくなったんだか、居心地はあまり良くはなかったね。Sとは高校2年になるぐらいまではよく会っていたが、彼の事情で休学して疎遠になってしまった。地元の駅から先は行動できるようにはなっていたから、以前ほどではないにしても、外出の頻度はまた減ってしまった。もうSと会うことはないのかなあと思っていたところ、2004年の秋に再会できた。

 高校1年の夏休み、歩行訓練をしていた途中。当時の自分にとっては大冒険をした。何かの用事で学校に行った。どうしてなのかはよく覚えていないが、訓練はまだ途中だったため、乗換駅で親と帰りの待ち合わせをした。学校を出る前に自宅に電話しろとのこと。チャンスだと思った。誰にも言わなかったが、地元の駅まで自分で帰ってやろうと決めた。それが自分にとって自信になるだろうと思った。親は家にいるはずだ。だから、乗換駅まで行くのも地元の駅まで行くのも同じことだ。むしろ近くていいじゃないか。大好きな車だけでいいんだよ、嫌いな電車に乗らなくてもいい。帰り道はそれほど困ることもなく、地元の駅まで到着してしまった。不安がなかったわけではない、でも思ったよりも順調だった。親は驚いていた。こんなことはさせたくないからと怒った。私には怒られる理由なんか分かりはしない。約束とは違う場所に行ったことは問題だったかもしれない。でもそうしたいと言って許すのか?許されないならどうにかして実行するしかないでしょ。あまりに危なくてできると思わなければやらないんだしさ。このことがあって、自分で通学ができることがしっかりと証明された。もう何も言えはしない。学校から地元の駅まで、自分だけで帰ってきたと言う事実があるんだから。この事実はもう誰に否定されることもなかった。ただし、駅から自宅までは危険な道も多くて、それは怖くて最後まで歩くことはしなかった。

 高校1年のときにパソコン部が復活した。それまでもあったそうだが、何年間も活動していなかったらしい。パソコンにはかなり興味があったから、早速入部となった。吹奏楽も引き続きと言うことで入るには入ったが、自分の中で両立が難しくて、2年生からはパソコン部のみとした。部活動として全員が集まるのは1週間に1度だったが、他の日にも本を読んだりしてパソコンの勉強を自分なりに続けた。数学の授業の中でもパソコンがあり、とても興味を持って学習したが、時間数が少なかったのが当時は残念に思っていた。3年間に渡り、自分なりには勉強を続けたつもりである。

 高校1年のときは、学校の授業でも1時間、歩行訓練を受けていた(2年からはパソコン)。でも、特別に何かを教えてくれることって言うのはなかったよなあ。時間も限られるし、そんな遠くには行かない。1年間、ただただ学校の周辺を歩くだけ。職業学科の人と一緒だった。それだけならまだ許そう。教える先生はと言えば、これで本当に問題がないのかなあと今になって思っているのだが、弱視で耳の少し不自由な人1名。誰も何も言わないからそれで良かったんだろうけれど、何かの場合に安全確保は確実にできるのかとか、微妙なところじゃないかなあと。間違いのないように書いておくが、その先生が悪いって言うことを言いたいのではない。弱視で耳の不自由な人が、全盲2人の歩行訓練を問題なくできるものなのかな?と率直に疑問に思ったのである。当時の担任は、歩くことはしていても、特別に何かを指導するってことはないんじゃないか?と聞かれたことはあるし、気にはなっていたようだったが…

 Sと出会ったことで、一般の高校生との関わりが多少できた。今となっては疎遠になってしまったが、遊びに行ったりするようなことはあった。そんな中で、ポケベルが大流行していたのがぼくらの高校時代である。音声で読み上げてくれるポケベル、画面のないポケベルが発売されたのはこのころだ。当時、父親は携帯電話、母親はポケベルを持っていた。送り迎えは地元の駅までだけになっていたので、何かのときにってことでポケベルを持たされた。だが、メインに使っていたのは親との連絡用ではなく、友達との遊びだった。懐かしいなあ。今になって考えたら無駄?って思うようなことしてたよな。朝になれば0840(おはよう)とか、夜になれば0833(おやすみ)とか、友達のポケベルに入れるんだよ。724106(7(なにしてるかな)とかも入れてたっけ。数字を解読するのがまた楽しかった。それで会話になっていたんだからすごい。今となってはまず無理だ。メールなんかあるし、正直、そんなことする元気ないなあ。それに「おやすみ」なんて言われても、勝手に寝ればいいじゃんって思うのは、ちょっとクールなんだろうか?当時は今のメールのようなコミュニケーションの道具だったんだよね。知らないポケベルの番号にかけて、友達になりませんか、なんて送ってみる遊び。みんなしてたよね。私もしたし、そう言う人からメッセージ届いたこともあったし。実際に会って遊んだなんて言う人もいたみたいだけど、私は自分の障害のことも気になっていたし、そんなことまでする気はなかったけどね。ポケベルで会話した人とか、最終的に電話したような人はいたけど、ポケベルを持たなくなったときに全部が終わったね。高校卒業したときに、携帯電話に変えた。ただ持っていただけのことで、ポケベルと違ってお金もかかるし、母親の詮索も入ると思ったので、携帯電話を持ってから家を出るまでの6年半、親以外にはほとんど電話はかけなかった。月に数十円、使っても数百円だったはずだ。

 中学生までは自分で外に出ることもなかったわけで、親戚などからもらったお年玉などはしっかりあった。安い初心者用のシンセサイザーを買って、音楽を作る、までは最終的にできなかったけれど、いろいろな曲をアレンジしたりなどするようになった。その音楽の環境は最終的にはパソコンに移り、MIDI作成、着メロ作成などに変化したが、今でも少しだけ行っていることである。コンピュータを使うことで、自分だけでもアンサンブルができる、そんな魅力を知ってから、自分だけではどうにもならない吹奏楽から足が遠ざかってしまったような気もする。

 進路について本気で考えるのが高校のころだろう。就職するのか、また勉強するのか。まず就職って言うのは頭にはなかったな。働けるって言うことがよく分からなかったし、何か技術とかがなかったら、見えない自分が働くことはできないだろうと思っていた。何か勉強をしなきゃ。だとするとマッサージか?詳しくは知らなかったけれど、そう言うことも考えなければならないときだった。マッサージしか働く手段はないのかなあとも思っていた。このままマッサージの勉強をするのは悪くないとは思うけれど、それしか道がないのは寂しいなと。大学進学?Iはそれに向けて準備していたのは知っていた。そう言う選択、自分にもありなのかなあと思ったこともあった。親は大学大学と、ただそれだけ言っていた。勉強もできない自分が大学に行けるのか?それにあまり行動のできない自分に必要なことができるのか?言葉でしか聞いたことのない大学と言うところのイメージができなかったね。それに大学と言うところに行って自分が何を勉強するのかもよく分からなかった。

 やりたいこと、やってみたいことはあった。それに向けて調べてもいた。パソコンの勉強がしたい。最終的には仕事にはならないかもしれない、だとしたら、マッサージの勉強したら仕事はどうにかなるだろう。マッサージの勉強をするのは今じゃなくてもできるだろう。好きな勉強をして、それで就職ができないとか、そんな場合にマッサージの勉強しても遅くないのでは?マッサージの勉強してから他の勉強をするのもありかもしれないが、国家試験を受けて免許まで取るのに、それを使わずに他の勉強をするのも疑問だなあ、そう思っていた。自分が調べた範囲では、パソコンを専門に勉強する方法はいくつかあった。大阪の盲学校で勉強する(職業学科)、筑波にある障害者の短期大学で勉強する、障害者のリハビリテーション施設で勉強できるところも2箇所ほどあるようだ。さて、どうするべきか。迷っているとき、友達から、大阪の盲学校にいると言う人を紹介してもらった。しばらく点字での文通が続いた。詳しいことは分からなかったけれど、どちらかと言えば大阪に傾き始めていた。筑波とかの資料は見せてはもらったが、それ以上の情報がなく、あまりイメージができなかった。それに行動についてのことがやっぱり心配だった。大阪には寄宿舎がある、だったら今までと近い生活ができるのでは?筑波も寮はあるらしいけれど、寄宿舎ほどの管理はされないし、どうやって食事するかとか、イメージしただけでも心配が多かった。それに大阪は近い。できれば自分で通いたかったから、あまり難しくて困るような選択はしたくなかった。単独で外出できるようになって間もなかったから、まだまだ外出には不安があった。親の送り迎えだけはどうしても嫌だ。だから、自分で行ける場所でないとだめだ。早い時期から考えるだけは考えていた。

 進路指導には、パソコンの勉強がしたいと言う話しは早くからしていた。自分の行動範囲から考えて大阪がいいのではなかろうかと言うことも含めて。ただ、そこに送り出した生徒がまだいなかった。学校としては、筑波に行かせたかったようだ。勉強のこともひっかかっていたし、筑波に行くとは最後まで1度も言わなかった。

 親を納得させるのも大変だったなあ。小さいころに先生になると言ってたのにどうしてそうしないんだと言う父親。大学大学と言う母親。大学なんだから筑波に行けばいいだろうと。行き先がどうなったにしても、どうせ彼らは送り迎えするつもりだろうから、自分の行動範囲から考えて、大阪なら行けそうだとか、そんな理由ではだめだ。見学をお願いし、どうにか大阪でと言うことになったが、どうも不満があったようである。

 本当にこの選択が良かったのかどうかは分からない。最終的に筑波には見学にも行かなかった。学校は内容で選ぶべきなんだろう、本当は。でも私はとにかく親から離れたかった。親と一緒に何かするとかって言うことが、どうしても受け入れられない状況にまできていたんだ。過呼吸で救急車で病院に運ばれるとか、かなり精神が不安定なことにまでなってたし。例えば筑波に行くことになったとして、親まで一緒になんてことになったら、離れることなんてできなくなる。そんなことだけはどうしても避けたかった。だとすれば、寄宿舎があるってことは、納得させるには良い条件だったんだ。

 と言うことで進路を大阪に決めた。定員とかは大丈夫だと言うことで、安心していた部分はあった。もしものためにマッサージの学科も受験だけはするべきだったかもしれないが、大阪1本にした。最悪、マッサージの勉強をしなければならないなんてことになったら、わざわざ卒業してからパソコンの勉強なんかしに行く必要はないとも言われかねない。そこまで考えていた。それにずっと同じ盲学校にいることも疑問には思っていたし、他の学校で勉強するのも良い経験なんだろうと言う気持ちもあったし。


第3章 大阪での生活


 無事に入学試験にも合格し、1998年4月からの2年間、大阪での生活をすることとなった。

 試験が3月18日、発表が3月20日。卒業式は3月の最初には終わっていた。当然だが、進路の決まっていた人も多かったので不安だった。4月まで日がない。最後の最後まで進路が決まらない。試験はもう少し早くできないものかと思ったね。

 試験日は父親の車で行った。朝から電車で移動することを考えたら、それは良かった。集中して試験を受けられる環境だった。ただ一つ、忘れられないことがある。今でも不思議に感じていることが。点字で試験をすると、どうしても解答用紙が増えてしまう。数枚になることはよくある。回答を提出するとき、監督をしていた教員のSに言われた。提出するときはホチキスで閉じてからにしてくださいと。持ってないと言ったところ、盲学校で試験を受けるのに、ホチキスを持っているのは常識じゃないか、そんなことも知らないのか、名古屋ではそんなこともしなかったのかと言う。確かに、定期試験などではそうだったなあ。でもそれって常識か?少なくとも常識ではないぞ。常識だとしたら、なぜ筆記用具と一緒にホチキスと書かない?試験って言うのは、必要なものしか持ち込んではいけないはずだぞ。どうして?って頭の中はいっぱいだった。教員Sは、こいつがホチキスを持ってない(忘れた)そうだから貸してやってくれと、私の隣にいた人に言ったのだが、ここはどうなってるんだろうと言うのが最初の印象だった。そして、大阪の盲学校の人間が、当然のように持っていたことがまた不思議でならなかった。公式な試験でホチキスを持っていないことを指摘されたのはこの1回しかないのだが、大阪では常識だったのか?何か不吉な予感と言うか、ここに来たのは間違いだったのでは?とか少し考えてしまった。試験当日のことはこれぐらいしか記憶にない。この教員Sとはそれからもいろいろあり、最後の最後まで関係は悪いままだった。

 3月20日は母親と電車で大阪に行った。母親は車では遠出ができない人だったから電車となったが、私にとっては好都合だった。行き方が分かれば、人に聞きながらでも往復できる。4月の最初はまだしも、送り迎えなんてしてもらう気はなかったから。何を言われても地元の駅までは自分で帰る覚悟はできていた。連休のときは家に帰っていたが、送り迎えをしてもらったことはほとんどない。入学式の前の日に寄宿舎に入ったが、そのときに母親はいたが、その日のうちに帰った。入学式は自分だけだったし、卒業式のときだって、荷物を宅急便に頼んで自分だけで帰ってきた。在学中、親は数回しか大阪に行くことはなかったはずだ。迎えに行くと言ってはいたけれど、母親は車では無理だと言うことは分かっていたし、私が乗換駅などを教えなければ学校に到着できないことを知っていた。

 入学から2日目に教員Sとの衝突があった。まだ学校の中もよく分からないから、知っている人と歩いていたんだ。そしたら、案内してくれていた人に教員Sが言った。一般企業では誰も面倒なんか見てくれないんだから、そいつの面倒なんか見てやる必要はない、ほっておけばええんや。確かに、自分で歩けるようになるためには、自分の足で確認するのがいい。でもさ、それは何が何処にあるとか、そう言う説明があってからのことじゃないのか?何か納得できなかったね。ずっと公務員している人だったようだが、何かあるといつも一般企業だって言う人だった。言いはするけれど実際何を知っていたんだろうか?コンピュータの勉強しているわけで、職業学科だから、最終的には就職することが望ましい。それは分かるよ。だからって場所が分からなくて人と歩いていることと一般企業とどう言う関係がある?企業に入ったら行きたいところには自分で探して行かないと誰も教えたり連れて行ってくれたりはしてくれないのか?企業って困っている人を助けてくれないそんな冷たいところなのか?もしそんなところだとしたら行かないのがいいよね。そんなこと考えたね。で、案内してくれていた人は教員Sの言うことを聞いたんだ。私は行きたいところに迷いながらどうにか行けたけれど、すごく時間かかったからよく覚えてる。どうして時間がかかったのか聞かれたけど、迷ったとだけ言って、教員Sのことは言わなかったけど、大阪って冷たいところなのかなとそのときの正直な気持ち。2年間のことを少しばかり不安に感じたのだった。学校生活の中のことで言えば、何かと教員Sに振り回されていた2年間だったからなあ。あの人の言うことは聞き流せばいいと、しばらくしてから教えてくれた人がいたが、入学した次の日にそんなこと分かるわけもないよね。まだ慣れていないし、何もかもが初めてなんだから。

 少しずつ環境が整って、落ち着いて授業らしいものがスタートしたのは5月の連休が終わってからだった。このころには、何となく校内での行動はできていた。インターネットはまだまだ普及していないころである。名古屋にいたころは、MS-DOSを使っていて、大阪で初めて、Windowsやインターネットを使った。視覚障害者が画面を音声化してWindowsを使う環境もまだまだだった。メールやインターネットは工夫すればできた。エクセルやワードはまだまだ使えるレベルにはなかった。企業ではエクセルやワードを使って仕事が行われていると言う。でも、視覚障害者がしっかり使える環境は整ってはいない。こんなことで見えない人が企業に就職できるものなのか?すでにそんな疑問を感じ始めていた私だった。

 大阪での2年間、授業らしい授業がどれだけあっただろうか?時間割は確かにあった。でも教室に顔を出さない教師もいた。顔を出さない教師がメールで指示を出すこともあった。しかし、課題が与えられないことも多かった。どうして時間が決まっているのに授業をしないのか聞いたことが何度となくあった。ここのやり方は大学と同じようなものだから、自分で課題を見つけてやるのが授業だと、そんなことを言っていた中心的な教師もいた。なるほど、そう言う考え方もあるんだと思いつつも、何となく納得できずにいた。学校を辞めようかと考えて、授業もちゃんとしてくれないような学校にはいたくない、大阪にいる意味はあまりなさそうだから、もう家に帰ると言ったことがあった。その日のうちに両親がやってきて、教育委員会に言うんだとかいろいろ学校と話していた。でも、上手にあしらわれて、何もなかったかのように終わってしまった。学校での風当たりが強くなっただけのことで、こんなことはしなきゃ良かったと思った1999年の6月だった。

 教科書なんかもあったが、1冊として点字では提供されなかった。自分でどうにかするようにと言われただけだった。パソコンやインターネットは好きに使えるように用意された。それはとても素晴らしいことに間違いない。ただ、盲学校にいながら、自分が読める教科書はない。弱視の生徒には読める、同じ部屋にいる自分は読めない。用意しようと言う気も教師にはないようだ。何かおかしいとずっと思っていた。図書館でも行って読んでもらえるサービスを利用すればいい、そんなことも知らないのかと言われたりもしたが、私は支給された読めない教科書に2年間、1回も指紋をつけることはなかった。読める教科書の提供をしなかった盲学校は、今でもおかしいと思っている。全盲の教師もいた。でも誰も何もしてはくれなかった。自分でどうにかしろと言いたかったのかもしれないが、やっぱり私には納得ができない。あのクラスで全盲の生徒は自分だけだった。最初は5人でスタートして、全盲の人が一人いたが、6月になるまでにはクラスは3人だけになっていた。だからってそんなことでいいのか?これが例えば100人、200人だったら、自分でどうにかしなさいよって言うことで通用するのだろうか。

 好きでパソコンの勉強をしているから、時間を無駄に使うようなことはなかった。やること、やりたいことはいくらでもあった。ずっと点字だけの世界だった私にとって、パソコン上とは言え、漢字で文章を書くことは難しかった。例えば、「大」と言う漢字があったとする。「おおきいのだい」と詳細に漢字の説明をしてくれるので、それで理解はできる。こんな簡単なことはまだいいが、漢字のない点字の世界にいた自分にとって、普通の文章が書けるようになるまでにはたくさんのことを覚える必要があった。どう言う場合にどう言う漢字が使われているのか、それを学習することから始めた。インターネットが情報源だった。いろいろな文章を読んだ。こう言う場合はこうやって漢字を使うんだ、そんなことを勉強しつつ、だんだん文章が書けるようになった。最初の1年は文章を書くのがとても不安だったが、2年目に入るまでにはあまり不安を感じなくなっていた。今でもそうだが、おや?と思って不安になることがあるので、パソコンで使える国語辞書は必須の道具となっている。

 大阪に行って、知っている人は誰もいない環境になると信じていたのだが、実はそうではなかった。細かい理由は実際のところはよく知らないし、今は関係のない人たちなので省略するが、高校のときに同じクラスだった人が一緒だった。そして、同じ学校の別の職業学科にも2人、同じクラスだった人がいた。元は同じ学校だったからって、周りからはいろいろ聞かれたり、一緒にされたりすることがあったが、自分にはそれが苦痛だった。好きな勉強をしたいのはまず一つ大きな意味があったが、誰も知った人のいないところで頑張ろうって言う気持ちも当然あった。冷たいと言われるかもしれないけど、できるだけ一緒に何かをしたりとか、話したりとかもしたくはなかった。そう言う前々からの関係に縛られたくなかった。だから、できるだけ避けていた。2年間、必要なこと以外の話しをすることはなかったし、帰る方向が同じだったのに、一緒に帰るようなこともしたことない。そう言うことをもし許していたら、楽をしただろうし、甘えなんかも出てしまってたはずだと思う。それでは意味がないとはずっと思っていた。

 パソコンのことは自分のために勉強した。できることなら就職をと考えていたのは事実だけれど、自分に何ができるかを考えた。先ほども書いたように、企業でよく使われるソフトなんかは、画面を音声化する環境では使いにくかったり、また手が出せないものが多くあった。今でもあるのだから、何年も前はもっと状況は悪かった。その中で、企業に何がアピールできるのか?パソコンが使えますって言ってもいいのだろうか?あくまでも自分のための使用法は工夫もしてきたし、便利にはなった。でも仕事としてできることに何があるんだ?コンピュータプログラミングができるわけでもない、何かが自分で作れるわけでもなかった。当時の状況では、画面を音声化する環境の問題から、ワープロ検定だって商業高校のがやっと受検できた程度だったんだから。学校側としても、一般企業がどうこうとか、就職就職とは言うものの、言葉だけが先走りしていただけ。就職活動は自分で好きにやってくださいと言うだけだし、何かの手助けを求められる雰囲気はまずなかったし、助けてくれるような環境でもなかったね。名古屋の障害者雇用の合同面接とかも行くには行った。でも就職できるとは思っていなかったし、例え何かあったにしても、先々の不安があったよね。5年先、10年先に自分がどうなっているのかってことを考えていた。そんな先のことを考える必要なんかないとよく言われたけどね。マッサージの免許を取るにしても3年かかる。何かパソコンを使って自分にもできる仕事があったとして、それが死ぬまで続けられるわけはない。仕事がなくなったらどうするんだ?もしマッサージの免許があったら、人に認められるものがあるわけだから、仕事できる可能性は高い。パソコンが使えますよっていくら言ったところで、世の中に通用するような資格は授業しない学校で取れるわけもなく、不安で不安でどうしようもなかったんだ。だから、卒業してからマッサージの免許を取ろう、そうしたら食べることはできるだろうと決めたのは、2年目に入るときだった。自分の中では決めたものの、職業学科に在籍していると言うのもあったし、何もしないみたいに見られるのも嫌だったから、言っても大丈夫な人以外には卒業近くなるまでは言わなかったけれど。

 公務員の点字受験をしてみようとしたこともあったんだ。完全に親元を離れてと言う自信はまだなかったから、選択としては名古屋しかなかったが。愛知県は点字受験すら認めてはいなかったし、自分で歩けるだとか書類が独力で処理できるとか、全盲者を排除するような状況だった。名古屋市は受験する前に一定期間、住民でないといけないとか、障害者手帳の住所が名古屋市になければいけないとか、物理的な条件により受けられなかった。まあ、受けてもまず無理だったろうなあと、今は思っているが。

 点字を扱うような仕事、視覚障害者にサービスをするような仕事って言うのはないものかと探していたこともあった。ありそうなものだけどねえと聞いてくれた人なんかもいたけれども、それが実現することはなかった。今でこそパソコンを使う障害者が増えてきているし、そう言うのをうまく利用すれば、何かのビジネスが生まれていたかもしれないよね。なんて、今になって言えること、当時はそんなことは考えもしなかった。

 パソコンで漢字の勉強ばっかりしてたわけではない。まだまだ使えるソフトは少なかったから、インターネットを使って、無料のソフトなどを試し、自分が便利に使えるものなんかはよく探した。自分が便利になる情報を持っていたら、人にも提供できるだろうし、それで喜んでもらえるかもしれないと思っていた。どうしたら、パソコン環境はもっと便利になるだろうかと、いつも考えていた。コンピュータミュージックもどうにかならないかと思って、使えそうなソフトを試す毎日が続いた。今ほど良い環境ではなかったから、画面が見えていれば使えるだろうけれど、自分には無理だと思われるソフトは多かった。数的には使えるものよりも使えないものが多かった。そんな中で便利なものを見つけ出すのは楽しかったし、意味のあることだと思ってずっと続けていた。最終的にコンピュータミュージックについてはMMLと言う、音符を並べて音楽を演奏できる仕組みに落ち着くこととなったが、これは今でも愛用している。メールソフトも使いやすそうなものを順番に探し、現在もそのときに見つけたものを愛用している。自分で見つけたんだって私は言うけど、それについて、どうも気に入らない態度を示したのが教員Sだった。自分で見つけたって言うけれど、作ったのは自分ではない、インターネットだってお前が使えるようにしたわけじゃない、用意されたものをただ使っただけのことじゃないかと言うんだ。そうやって考える人もいるんだなって今なら思えるけど、当時は本気でいろいろ考えてたね。何をしていても自分が否定されているような気がしてた。

 学校では良いことも悪いこともいろいろあったなあと今では懐かしく思い出せるようになった。校内の他の学科での評判はあまり良くはなかった。あそこに入っている人は遊びたいだけだとか、何をやっているのか分からないとかよく言われた。確かに授業もろくに行われないのだから、何もしなくても1日は終わる。そうしていたい人にとっては良い空間だったろう。自分にはやること、やりたいことがあったから、時間を無駄に過ごすようなことはしなかったが、することが見つけられなければ、2年間は無駄に終わってしまったのかもしれない。私はけっして無駄なことはしてないと今でも思っている。


 連休は家に帰っていた。長い休みは食事がないとかって言うのもあったし、やっぱり家がよく眠れたんだ。金曜日の夜に帰ったところで、日曜日の午後にはもう大阪に行くとか、そんな生活だったけれど、それでもまだ、家には帰りたいなと思ってはいた。不安材料がまだまだあったんだよね。

 このころなのか、いや、もう少し前からだったのかもしれない。家族で食卓を囲んだ記憶がないのだ。元から朝は両親は喫茶店に行くから、全員で朝ご飯なんて言う経験はしたことがない。元旦に雑煮を食べたぐらいのことはあったが。昼もほとんど一緒にって言うことはなかったよなあ。でも昔は週末の夜ぐらいは全員で食べていたよなあ。どうしてそれがなくなったのか分からない。家族は4人だったから、食卓には人数分の椅子があった。いつのころからか、椅子の一つはずっと物置のように使われていた。だんだん増え、私が知っている最終的には、椅子が動かせないような状態だったり、バランスが崩れて倒れたりもしていた。私がいるときは父親が座っていた椅子だった。私がいないときにどうなっていたのかは知らない。ただ、彼らの生活において、3人でいることは多いわけで、椅子は3人分でもいいんだよね。私が知っている荷物の積まれた椅子は父親の椅子だったけれど、実は私の存在がないことで、そのような状況が作り出されたって言う可能性もあるのでは?なんて今になって思いついたのだが、考えただけでぞっとする。

 大阪から帰った夜は、8時にはなっていたから、自分だけがご飯を食べていた。その先もほとんど一人で用意されたものを食べる状況が続いたんだ。それでも家に帰ろうと思ったんだから、大阪での生活は宵経験ではあったけれど、不安も多かったってことなんだろうね。

 大阪での生活が2年目になる春休み、父親が仕事を辞めてきた。誰にも言わずに仕事を変わったようだ。でも実際は不安定な仕事だったようで、父方の祖父母と母親の説得で辞めたようだ。失業である。母親はよくパチンコに行くようになった。それまでにも行ってはいたと親戚から後になって聞いたが、行く頻度が増えたのはこのころからだ。急性アルコール中毒で救急車で運ばれたこともあった。もし離婚するとしたら誰につくかとか聞かれたこともあったなあ。死ぬまで働かないのが条件で結婚したと言う母親についたところで、経済力がないからだめだ。父親は仕事を見つけて働くだろう、だったらそこに行くべきか?そう考えていた。家の中はめちゃめちゃである。家の中で仕事をしている人間が誰もいない、自分はこれからどうなるのか?こんなこともマッサージの免許を取得する気持ちにさせた理由の一つかもしれない。可能性のすくないパソコンでの就職なんて夢みたいなことは言ってられないのかもなと。

 半年後に父親は働き始め、最終的に離婚と言うことはなかったが、もう何がどうなってるのか分からなくなった。母親は障害のある私のことを引き合いに出して、離婚はできないと大声で泣き喚いた。障害が利用されたわけだね。もしそう言うものがなかったら離婚していたのかなあ。それならそれでもいいと思うけどね。自分が引き合いに出されたのは気に入らなかったが、働いてない私に生活力はないし、誰かについていかないとならないことは否定できなかった。聞いてくれそうな人にどうするべきなのか相談したこともあったよ。成人なんだから、どちらの親につくとかも考える必要はないし、自分で暮らせばいいことだと誰もが言った。言おうとすることは分かるよ。でも、経済力のない自分が一人になったときのことをどうしても考えられなかったんだ。

 学校にはそのまま通うことができたが、あまり家に帰らなくなっていた。学校でも自分のしたいことはするものの、何となく不安な気持ちでいたし、いろいろな意味で複雑な時期だったね。だから大阪にいる休みの日は楽しく過ごすように努力した。1年目は外出することは少なかったが、それでも大阪の有名な観光地には地方の人たちと行っていた。学校には中国からの留学生がいて、彼らも寄宿舎にいたから、一緒に外出するようなことも多かった。

 1999年3月、FMラジオから気になる英語の歌が流れてきた。ずっと耳に残っていた。何度も聞いた。その歌は中国人歌手、フェイ・ウォンの「Eyes On Me」だと言うことが分かるまでに、それほどの月日はかからなかった。大阪には外国人向けのFM COCOLOと言うラジオがあって、それをよく聞くようになった。自由に使えたインターネットを活用し、チャイニーズポップスに関する情報を入手するようになり、好きな歌も増え、ラジオ番組にリクエストのメールを送るようにもなった。同じ趣味を持つ人たちが集まる掲示板なども見つけたし、気になる人に自分からメールしてみたりもした。99年10月には、初めてオフ会に参加した。障害者である自分が参加することへの不安があった、大丈夫だろうかと。周囲の人たちに迷惑をかけることがあるのではないかと。しかし、そんな心配は必要なかった。大阪のチャイニーズポップスシーンにおいては有名な小西さんは言ってくれた。同じ音楽を楽しむのに、障害があるかどうかなんて関係ないと。今でもその言葉は忘れられない。小西さんありがとう。初めて参加してから大阪を離れるまでの半年間、いろいろなところに顔を出した。留学生の自宅(北京)にも遊びに行った。大阪を離れてからは大阪のイベントに行くことはできなくなったが、名古屋でオフ会を私が実行することになったのは、大阪での経験があったからだ。チャイニーズポップスやインターネット、いろいろなものが絡み合い、私の視野を確実に広げてくれた。これだけでも大阪に行った意味はあったと思う。


 最後にあるエピソードを一つ。小学1年生から高校まで12年間一緒だったIのこと。私が名古屋に帰ってから3年後、まさか彼が大阪の盲学校で中学生を教えることになるだなんて、考えてもいなかった。これってすごい偶然じゃないかなあと私は思っているのだが…


第4章 最後の学生生活、そして就職


 もうこれで学生は最後である。2000年4月からの3年間、名古屋に戻りマッサージ、鍼灸の勉強をした。視覚障害者の職業選択として入ったぐらいの気持ちしかなかったんだ。職業学科なのだから当然だけど、働くために入ったし、卒業して国家試験を受ければ何かの仕事ができる。それぐらいの意識だった。好きだったとか興味があったとかって言うことはなかった。どちらかと言えば、あまり興味は持っていなかったなあ。ただ、もう次はないんだと言うことだけは覚悟していた。就職もできないのに大阪に行ったのは無駄だったのではと私に言った人もいた。今度こそは仕事をしたいと思っていた。

 長い長い学生生活の中で、この3年間ほど勉強したことはなかったんじゃないかなあ。自分よりも年上の人がたくさんいたので、こんなことを言うと怒られそうだが、覚えることも多いし理解できないことも多いし、どうにも大変だったもんなあ。授業らしい授業をしなかった大阪での生活からのギャップも大きかった。学生を続けていたのに、時間になったら授業が始まるって言うことが、とっても新鮮な感覚だった。勉強は確かに大変だったから、それほどの余裕もなかったが、国家試験を受けるまでの3年間は、あっと言う間に終わった。あくまでも勉強については。

 2年間のブランクがあって、また同じ学校に戻ったのだが、できれば新鮮な気持ちでスタートしたかった。でも周囲がそれを許さなかった。学校はまだいい、ほとんど知らない先生ばかりだったから。寄宿舎が問題だった。数人の職員は変わっていたものの、私のことをよく知っている人の多いこと。たかが2年なんだから、そんなことはありえるとは思うが、その人たちは過去のことを持ち出したがる。寄宿舎の規則など、私は何でも知っていると思っている。そう言う思い込みが生活の歪みを作った。いない間に改装されていて、規則もいろいろと変わっていた。いろいろなルールが自分の知らない間に変わっていたのに、それを誰も教えてくれない。前は夜に廊下に出て点呼をしていたので、そうだと思って待っていた。何してるの?って言われてしまった。部屋の中で待っていればいいと言うように変わっていたのだ。私は文句を言った。何もかも知ってると思っているみたいだけど、変わっていることもあるじゃないか、どうして説明とかをしてくれないんだと。ああ、知らなかったのって簡単にあしらわれる。知らないから教えてくれと言っても、知っているはずだとか、前も同じだったと言って教えてくれない職員すらいた。あまり気分の良いものではない。私は帰ってきたのだ。初めてじゃないんだからどうしようもないかと自分を納得させたけど、ずっと変わらない職員、そして私のことを知り過ぎている職員が多く、居心地はあまり良くなかった。ずっと同じような職員がいて、新しい人も入るには入るが、短期間でいなくなる。最終的には古い人間が大きな顔をしている何も変わることがない環境。盲学校に限ったことではないとは思うが、新しい風の入らない悪い環境ではないか。寄宿舎を出ようとかまでは考えなかったけれど、授業が終わってからはあまりいたくなくて、よく散歩だ喫茶店だと、毎日のように外出していた。外出が多いと文句も言われたが、こんなところに押し込められていたら疲れるだろうと言っておいた。こんなに良いところにいて何が不満なんだと言う、あまり動かず働かない職員がいたなあ。同じことをしていても、小さいころから盲学校にいた人と、途中から盲学校に入った人とで対応が違うの。この人は普通校から来たからいいんだって差別するやつ。小さいころから盲学校にいる人をばか者だと言わんばかりに扱う人。そう言う人に限って、私は目隠しして歩いたこともあるし、見えない人の気持ちが分かるって言うの。ばかばかしくて話しにならないよね。こう言うのがいると、何か気分転換できることがないとやってらんないよ。それで外に散歩に行ったり、ちょっと遠いんだけど、お気に入りの喫茶店行ったりしてたんだ。

 家での生活って言うのは、大阪での自由があっただけに、制限が多くなったことが辛かったなあ。さすがに、ずっと家にいるってことはなかったけれど、家から駅までの足を確保しなければならないから、どうしても時間の制約が出てくる。送り迎えを頼まないとならないのが苦痛で、何のために外出するのかとかをいちいち詮索する母親が気に入らなくて、いきなり外出するようなことはなかった。前から言っておいてもらわないと困ると文句を言われるので、できるだけ最低限の外出にするように努力していた。家にいる時間は多かった。クラスでとか学校帰りに飲みに行くようなこともあったが、飲んで帰ると文句を言われる。帰る時間を決めようにも、自分の都合だけではどうにも分からない。だからクラスの人にお願いして、飲んだ日は泊めてもらうようなこともよくあった。そうじゃないと楽しく飲み会ができなかったんだ。泊めてくれた皆さんにありがとうと言いたい。

 帰る時間が分からないと困ると言う親であったが、外出先から携帯電話で時間を伝えることもあった。そんなとき、必ずと言っていいぐらい、電話の向こうからパチンコ屋と思われる音がするんだ。平日はどう言う生活をしていたか知らないが、このころの週末はもう、ほとんどパチンコばっかりじゃなかったのかなあ。私が外出するときは、朝はまだ家からだったにしても、「私のために」パチンコ屋から迎えにきて家に送り、そのまままたパチンコ屋へ戻るようなことしてたようだ。嫌がられるから半日だけの外出とかはあまりしなかったから、朝から夕方まで出ることが多かった、極力そうしていた。自分が家にいるときでも、父親と母親が朝から晩までいなかったり、母親だけが1日いなかったり、買ってきた食事が与えられるだけの生活になってたからなあ。土曜日に学校があって帰った日の夕食は、決まって出前のカツどんだった。そのころはまだ弟も家で食事はしていたと思う。ただ、テレビを見ながらだ、ゲームをしながらだってやってるから、一緒に食べるわけではなかったよ。日曜日の朝昼兼用は近くの喫茶店?で買ってくるおにぎり、夜はコンビニの弁当か寿司だった。土曜日と日曜日は朝昼兼用の食事はほぼ同じものだったし、ずっと同じようなものばっかり食べてたわけだから、学校で給食があり、寄宿舎でご飯が食べられることは幸せだと思っていた。日持ちする食べ物はよく買って帰ったものだ。家からでは自分で行けるところに店なんかはないから。でも、体重のコントロールがあまりできていなかったのは事実だ。食べ物が悪いのが大きな原因としてあると思うが、170センチの身長で、ピーク時には76キロとかあったことも。今は63・4キロってところだから、かなり生活状況が悪かったことが分かる。

 ここまでのことがあると、身体的にも精神的にもおかしくなってくる。2003年の1月、身体にも変化が出てきた。ある朝、起きてみると今までは多少の光を感じていた右眼が光を感じなくなっていた。今になって考えれば、小さいころよりは光の見え方は変化してきており、外の広がりのある光は分かるが電気が分からなくなったりとか、小さいころはクリスマスツリーの細かい電球のようなものも見えていた記憶がある。例えば20年前と10年前を比べれば悪くはなっていたと思うし、光を失うかも知れないとは心の何処かでは感じていた。それでもショックなことに変わりはない。自分の中でも受け入れられなかったから、人にだってちゃんとは言えない。感覚が変わって歩きにくくなったりするようなことはあったが、どうにか生活はできていた。と言うか、しなければならなかった。自分の眼で光を感じられなくなったことを人に言えるようになるまでには1年半かかった。親にだって誰にだって言わずにいた。親に言ってもどうなるとも思わなかったし、理解者になってくれるとも思わなかったから。

 大阪から帰ってきたとき、インターネットが使えるようにはしてあったから、勉強やプライベートに利用できたのは助かった。大阪で趣味を共有した人たちとはメールを中心にだけど連絡が取れていた。私も微力ながら、自分でチャイニーズポップスをアレンジしたコンピュータミュージック(MIDI)や着メロを公開するホームページを作っていた。家にいて時間のあるときは、MIDIを作るようなこともよくしていた。1曲ができるのには、10時間や15時間はかかったし、集中力が必要だった。でも何かが完成したときの嬉しさが忘れられなくて、楽しみの一つだった。そして、ホームページを見て、掲示板に書き込みをしてくれていた名古屋周辺の皆さんとオフ会もした。私が言い出したことだったが、皆さんに協力していただいたおかげで、2001年の1月から、今までに7・8回のオフ会を開催してきた。コンピュータミュージックの著作権の問題から、2002年の最初にホームページは閉鎖された。私にその意思があったわけではなく、著作権違反と言うことでの閉鎖だったが、それからもペースは落ちたものの、オフ会の火は今でも消えてはいない。とても嬉しいことである。

 物理的に用意されていた自分の部屋に、自分のものではないものが増えてきたのは、このころなのか、それとも、もう少し前の大阪にいたころからなのか。高校のときに買った安物ではあったがシンセサイザーの上にはテレビゲームだ本だと弟のもの?が積まれるようになり、重みでスピーカーはへこみ、悲惨な状況になっていた。そりゃあ家にいる時間も減ってるんだから使わなくはなったよ、でも悲しかったなあ。布団も押入れには入っていたけれど乱れていたり、何となく気持ちが悪いと感じていた。そんな布団では本当は寝たくなかった。自分には分からないものが散乱していたり、今までにはなかった、生活しにくい状況がそこにはあった。自分の部屋だけではなくて、洗濯物が山積みにされて、お風呂に入るのに、それを踏み越えないと入れなくなっていたり、増え過ぎた洗濯物はゴミ袋に入れられて、高く高く積み上げられていたりもした。

 3年生になると、国家試験のことはもちろんだが、就職のことも心配になる。実習で一般の患者さんの治療をするようになり、実感としてこれで働くんだと少しは思い始めていた。大阪みたいに、求人斡旋などを何もしてくれないわけではなかったから、贅沢を言わなければまず就職はできるだろう。もちろん、1年に1回の国家試験に合格しなければ何もならないのだが。希望としては、治療員と言うことで出していた。それが現実的な選択だと思ったから。2002年の10月に行われた1回目の模擬試験、この成績で就職活動ができるかどうかが決まる。ここでだめなら、1月の模擬試験が終わるまで動けない。それでもだめなら、国家試験の合否が分かるまでは動けない。とりあえず模擬試験だ。これさえクリアすればどうにかなる。そう思っていた。

 心配だった模擬試験もどうにか終わった。そして、今の会社の面接を受けたのだ。まさか企業内に新規に設置される従業員用のマッサージ室をやることになるだなんて、思ってもいなかった。面接の朝ほど緊張したことはない。学校からの推薦と言うことで、ほぼ採用に向けた面接ではあったが、企業関係者とお話しするのは3年ぶりぐらいだ。以前と違っているのは、自分の仕事内容がはっきりしているから、そう言う意味での自信があったことと、面接で問題がなければ仕事が決定しそうだと言うことだ。以前に挫折はしたものの、企業就職である。マッサージはもちろんだが、パソコンを使えば文字でのコミュニケーションは問題ないこと、業務上で必要なデータ管理(利用者の個人情報)や利用者の集計などもできるだろうこと、アピールできる材料はいくらでもあった。通勤に関しても、駅の上と言う条件の良いところだったので問題ない。従業員食堂がセルフサービスであるとか、通勤経路や社内で使うトイレ、エレベーターなどで自分の使いやすいところを使用しても良いなどの配慮をしていただければ、これもどうにか解決できそうだ。

 この面接が11月17日、結果が出たのが12月10日だった。決まった、就職先は決定した。これで国家試験に合格すればどうにかなる。あの日は本当に嬉しかったね。それから先には、マッサージ室の備品のことやパソコンのことを相談しつつ、安全に通勤できるように、学校側が歩行訓練をしてくれた。こんなことは今だからしてくれただろうけど、昔だったら何もしてはくれないんだろうな。

 2003年2月22・23日、国家試験が行われた。不安だった。心配だった。これで自分の人生が決まるかもしれない試験。プレッシャーに負けそうだった。できるだけのことはしたつもりだ。合格発表は3月26日、この1ヶ月の長かったこと、長かったこと。4月1日からマッサージ室営業するって言うのに、合格発表はその1週間前。もしだめだったらどうなるんだろうか?なんてずっと考えていた。発表の前にはマッサージ室のセッティングはもう終わっていたし、準備のために会社にも出入りしていた。正式な契約はしてないものの、従業員バッジも持っていた。通勤交通費も出ていた。無事に合格したからいいものの、生きた心地がしなかったよね。

 こうして無事に会社員となったのだった。


第5章 家出、そして自立

☆この章と次章は、2004年10月から2005年5月にかけて書き続けたものに、必要に応じて加筆・修正をして掲載する。当時の気持ちや生活状況をよく表していると思われるため、最初から全部を書き直すことはしないことにする。今から当時のことを書こうと思っても、こんなにリアルには書けないはずだから。そのため、今の生活とは違っている部分も多いことを最初に記しておく。


1.就職してから1年間

 国家試験にも無事に合格。2003年4月から、仕事をするようになりました。

 就職に当たり、2003年3月12日に給与降り込みのための口座を新規に作り(書類は母親が代筆)、必要な時にお金は下ろしてくる、家にはお金を入れずに貯金すれば良いと言う約束が親とされたことをここに書いておきます。そして親戚をはじめとするいろいろな人に、あの子は全部お金を貯金していると言われていたことも記しておきます。これが重要なポイントとなるとは思ってもいませんでした。

 就職してからの1年間は、とにかく仕事のことで頭はいっぱい、平日は家に帰れば疲れて寝るような、そんな毎日でした。仕事以外の外出もほとんどなくなりました。自分が完全に失明した不安、そして必要以上の詮索もあり、外出することへの意欲と言うか、そんなものを完全に失っていました。寮生活ではなくなったため、毎日家に帰るわけですが、くちゃくちゃの生活環境の中での怒り、どうにもできない現実の中で耐えていたのも事実です。山のように積まれた洗濯物は、母親のものから処理され、下着を含めて自分のものはすぐになくなり、唯一の外出である通勤時に買い足したりしてやっていました。それにも限界はあり、毎日の入浴時にお風呂で洗ったりもしました。最初は父親が母親に注意するようなこともあったとは思いますが、ちゃんとやってあると言うだけの母親に、誰も注意する人間はいなくなりました。クリーニングを出すように頼めばそれが実行されるまでに半月か1ヶ月、自分の手に戻るまでには1ヶ月か1ヵ月半、どうなっているかと要求をすれば、ちゃんとやってあると言うばかり。冷蔵庫の中では食べ物が腐敗し、冷蔵庫以外でも何処に何があるかも自分で知ることもできず、とにかく生活しにくい家でした。これもどうにもならない現実でした。夜に自分しか家にいなくて、食べるものもなく、食べるとしても、どうせ買ってきたようなもの、自分で選ぶと言うわけでもなく、どうでもいいと思って、黙って寝たことがありました。パチンコから帰ってきて言われたこと、どうして携帯に電話するとかしないんだ。私が食べると言うことは、それぐらいのことでしかないんですね。同じ家に住んでいても、食べることすら保障されていないんです。自分で買い物したりできない環境にいると言う、ある意味で自分のことが自分で責任の持てない環境に問題があるかも知れないけれど。そう言うことは1度や2度ではありませんでした。電話しろと言うから電話してみても出ることもなく、出ないことが分かってからはもう電話なんてすることもなくなりました。

 朝の9時40分に家を出て駅へ、午後7時39分の電車で駅に戻ってくる、毎日はそれだけ。駅までは送迎がなければ動けないので、どうしようもなく過ごした毎日。同じような生活をしている限り、余計な詮索は入らない。いつも同じパターンの生活なのに、必ず連絡することを要求されました(最初の1ヶ月ほどは電話、ほとんど同じ生活パターンになってからはメール)。ある日、家に携帯を忘れ、何かの方法で連絡しなければ文句を言うだろうと思い、おじさん(母の弟)の家に電話をしました。母親に会ってから言われたこと、あの人たちが迎えに行くわけじゃない、迎えに行くのは私なんだから、いちいちいらないようなところに連絡なんかしなくてもいい。またある日には、いつものように連絡をして、いつもの時間に帰ってきても誰もこない。しばらくして母親に電話、その日は父親が来ていたため、そんなことを私に言われても知らないと言う。父親はと言えば、何処かに車を止め、携帯電話のパチンコのゲームで遊んでいたのでした。それについて謝罪もなし、何も言わず、車を運転しながらまだゲームを続けていました。

 母親は平日でも決まった時間に起きるようなことができない人でした。ほとんどの場合、朝は父親は仕事でいないため、母親に送ってもらわなければなりません。時間になったら母親を起こすことになるわけですが、起こし方が悪いとか、もっと早く起こしてくれないと困るだとか、どうにも気分の悪いものでした。

 こんな生活ではいけない、どうにかするためには何ができるだろう、せめて自分で外出するためにはどうしたら良いだろう?いろいろ考えました。でも外出が可能になっても、根本的なところでは何も解決しない。自分は職も持っているのだし、それなりの収入もある、必ずしも親と生活するだけが方法ではないのでは?自分で今よりも行動できる場所に行けば、生活の質を落とすことなく暮らせるのではないか?どうにかしてこの家を出られないだろうかと考え始めていました。寮生活は不便だったり面倒なことも多くありましたが、その生活よりも実家での生活の質が悪いこと、その質ですらどんどん低下する現実。その中で耐える毎日が続きました。自分で働いたお金があるのだから、すぐには無理にしても、資金を貯めればここを出ることも可能ではないか?など考えてはいましたが、その方法をまだ自分では見つけられずにいました。


2.家の中で理解されていない自分、除外されている自分

 私は動物はあまり好きではありません。人の家にいるのはまあ良いとしても、自分の家にはいらないと思います。自分からは触ろうとも思わないし、なかなか好きにはなれません。それは家のものは知っているはずでした。しかし2004年4月、私の知らないうちに家に犬がやってきました。弟が欲しいと言うから、何十万もするのを買い与えたそうです。弟はアルバイトをしているので、いくらかは出したようなことを言っていましたが。集合住宅ですから、室内で飼うことになりますが、そこで私には苦痛が一つ増えました。私が好きではないことを知っていたにしても、何か話しぐらいあっても良いと思いますが、何も言わずでした。私は間違いなく嫌だと言うからでしょうか、でも何か間違っていると思います。弟が欲しがったから、○○(私のこと)嫌いだと言うけれど飼ったんだと、いろいろな人に母親は言っていました。父親は欲しければ飼えば良いと、どうでもいいような態度だったそうです(母親が誰かに電話で言っていた)。私は悪者ですか?どうでもいいんですか?寄らず触らず、そんな生活を続けるわけですが、朝は4時から喧しく吠え、ゆっくり寝られなくなり、生活パターンはおかしくなり始めました。このころにはまだ高校生の弟を含めて3人でパチンコにも行くようになり、ゆっくり1人になれるはずの休みが喧しい犬といる自分。苦痛以外の何でもなくなりました。買ってきたものが与えられるだけの食事も犬のいるようなところでは食べる気にもなれず、食欲も落ち始め、平日は夜の食事もどうにかやりくりして、会社で食べるか何かを買い込んで自分の部屋で食べるようにもなりました。週末だけはどうしようもないので、最低限の食事だけを家でしました。仕事中の休憩時間にすることと言えば、間違いなくお昼寝。家ではゆっくりすることもできず、会社にいる時間、家から出られるこの時間だけが救いでした。これがなかったらと思うと恐ろしいです。


3.失明したことを親に言った日

 それは日曜日、珍しく父親が家にいました。夕食を食べました。とは言っても買ってきたようなものでしたが。父親となどほとんど会話もありませんが、自立することを考えろと言いました。それについてのちゃんとした解答はしませんでした。自分の親だから、これでも少しは分かっているつもりです。口先では、言えば何でもやってやるみたいなことは言います。今までの扱い、自分がすることについて、どのような判断をし、どのような答えを出し、そしてどのように対応するのか。ただ、自分は去年の1月には失明したこと、これだけは話しをしました。それにより歩きにくくなったこと、駅のホームから転落したことがあるなど。その2日後、父親から話しを聞いた母親は、失明したぐらいで歩けなくなるのはおかしい、何のために私が苦労して歩行訓練をできるようにしてやったんだ、駅のホームから落ちるのは気違いのすることだなど言われ、これではいけないと思ったのです。ここを出て、自分の生活空間を見つけないと、毎日がどんどん無駄になると強く感じました。精神的にも自分がおかしくなると感じながら、その方法を模索し始めました。自分にあったことを文章にして、友人や知人にメールで送ったこともありました(かなり迷惑をかけたと今でも思っています)。電話をすればお金がかかり、あまり多くなれば調べられるでしょう。自由に使えばいいと口では言われていましたが、多く使えば調べられるだろうことぐらい考えればすぐに分かります。外出も自由にはならず、メールが誰にも詮索されない、自分にとっては一番良い方法だったのです。

 もし死んでしまったら…なんてことも考えていました。自分は何のために仕事をしているのか?食べるために仕事をしているのか、それとも仕事をするために食べているだけなのか?仕事には責任を感じていたので、辞めてしまおうとかと言うことを考えはしませんでしたが、それが自分を引き止めていたのかもと思います。確実な方法はよく分からなかったけれど、「自殺」などと言うことを考えたことはあります。もし死んでしまったらと言う思いと、今の仕事はどうなるかと言う思い、それがぐるぐる回っていました。仕事もなく、ずっと家にいるだけの生活だったら、本当に死んでしまっていたかも、なんて今でも感じます。


4.失敗に終わった1度目の家出計画

 前にも書きましたが、自分の必要なお金は、親に依頼すれば下ろしてきてくれるはずになっていました。家と会社の往復だけですから、それほどのお金も必要とはしません。何かが欲しいと思っても、それこそ厳しい詮索が入りますから、買い物も自由にはなりません。何かの持ち物が増えれば、あれはどうしたんだ、これはどうしたんだ、どうしてそれが必要なんだ、何から何まで自分の思うようにはなりませんでした。節約してお金を作り、どうにか手に入れた欲しいものは、見つからないようにしなければならないのです。このような状況から考えて、ほとんどお金など使ってませんから、1年3ヶ月もすれば、家出するぐらいのお金はあるはずです。メールなどでいろいろな人に相談をしていた中で、家探しに協力していただけると言う人と一緒に、不動産屋に行ったのが6月29日。親には分からないように、いつもの仕事に行く時間に、いつもと同じ服装、いつもと同じ準備をして家を出ました。どうにか暮らせるだろう物件を探しました。インターネットを使って事前に物件のチェックはしていましたが、実際は調べた不動産屋には行きましたが、チェックしていた物件ではない場所になりました。私が物件を探すのに、どうしても外せない条件がありました。こんな困っているときに条件だなんて?って思われそうですが、どうしても注意しておかないとならないことがありました。それは場所です。いきなり自分だけになっても、とりあえず何かがすぐにでもできる必要がありました。通勤しなければならないし、毎日何かは食べないとならないし、買い物なども必要になるのです。家の近くの店などの場所が何も分からなければ、それこそ何もできなくなる可能性だって0ではないのです。それほど行動ができるわけではない自分、今すぐに住むとしたら、少しでも知っている地域であること、この条件だけはどうしても外すことのできないものでした。そこで、以前に学生だったころに少しは知っている地域の中で選択することとなりました。外出して自分で家まで確実に帰れることも必要で、いくら家の条件が良かったとしても、そこまで歩くのに困難があるようではまた困ります。お金を払うばかりの状況になり、キャッシュカードを持ってATMへ。ここで思ってもいなかった状況になったのです。まさか口座の残金が4千円と少しだなんて!どう考えてもそれだけのお金は使っていない。それに、この25日には給料が入ったはず。どうにもおかしい。通帳記入をして見てもらうと、毎月の給料が入ると、その日にお金が下ろされていることが分かりました。最初のころはそれほどたくさんの金額ではなく、口座に40万円ほどあった時期もありましたが、この2月からは残額が何百円単位になるほどまで下ろされ、あるときには、4千円と少ししか入っていないのに、その4千円までが下ろされていました。通帳とキャッシュカードは私が持っているはずでした。家だからと思って、それほど置き場所を変えることもなく、ほとんど同じ場所にありました。それが悪かったのでしょう、私が仕事中の時間に、すべてのことが行われていたのです。自分が依頼したよりも多い金額が、そして自分が依頼するとかしないに関係なく、好きにお金が下ろされていたのです。自分がお金を欲しいときには、キャッシュカードを渡していましたが、その必要もなかったのです。すでにその口座にはお金はないのですから。私がいちいち渡すこともなく、好きなように操作されているのですから。それが分かって怖くなり、キャッシュカードの盗難届を出したのは、ボーナスが入った7月8日のことでした(電話にて依頼)。そして今までは印刷物として提供されていた会社からの給与明細、自分で確実に読めるように、EXCELでの提供を依頼したのは7月のボーナスからでした。すぐに対応をしていただけたことは、とても良かったと思っています。

 お金が口座にないことを知ったとき、すぐに母親に電話を入れて、どうなっているのかを聞き出すつもりでした。しかし、悪いと思ってもいない様子で、お金がどうなっているかを教えるつもりもないようです。ちゃんとやってある、ちゃんとやってある、そうやって言うばかり。自分が仕事している意味を考えました。それなりに意味のある仕事をしているから続けられただろうけれど、自分が受けたショックはとても大きなものでした。そのショックを抱えたまま家に帰り、親とも話をしましたが、すぐに泣き喚き、叫ぶ母親とは話にもならず、私が死ぬまで保護するんだからそれでいいじゃないか、あんたにここを出られたら私が毎日見に行かないとならない、そんなことは無理だ、今の会社にいられなくなったら鍼医者にでもなればいい、と言うばかり。親戚のおじさん(母親の弟)に来てもらうも、あんたは障害の子供がいないから私の気持ちは分からないと話も聞きません。父親は、今こいつに家なんか借りてやっても、金をほかるだけだと言うばかり(すでにあるはずの金は取られ、自分にとってはもう棄ててしまったようなものですが…)。家を出ることについての条件もつけてきました。親の認めるところの自立のレールがあって、それにクリアできたら家を出してやると。自炊もできないような人間を外に出すのは親の恥だとも言いました、実際私が与えられている食事は何?って感じですが。いろいろなものを買って食べたり、何処かに行くのにタクシーなど使うことは、自分が何も努力していないことで、幼稚園や小学生でもできるから、そんなものは自立でも何でもない、彼らの中ではだめなんだそうです。いろいろ言うけれど、私は彼らにものを頼んでも上手に教えてもらえるとも思わないし、私にはできないとか言ってどうせ人任せにするだけのことだとは分かっていました。これはまずだめだと実感しました。仮契約までした家はキャンセルし、とりあえず親の言いなりになったような、そんなことにするしかありませんでした。親は納得させられたと思っていたようですが、自分の中では、方法が甘かった、もっと計画をして必ずここを出ようと言うきっかけを作ることになっただけのことでした。お金は毎月下ろされるのだから、できるだけ早く行動する必要がありました。このままにしておけば、来月だって必ず取られるはずです。遅くなれば遅くなるほど、たくさんのお金が取られるのです。この家にいながら預金を護ることは自分には難しいと感じました。いくら通帳やキャッシュカードを毎日持ち歩いたにしても、いろいろな意味でリスクは大きくなるし、紛失したことにでもして、キャッシュカードを新しくしたりすれば、自分の知らないところでどうにでもできるでしょう。それに家の中での風当たりは今よりも悪くなる、事実、家出に失敗してからは今まで以上に冷たい態度で接するようになりました。お金を護れたにしても、自分の今の生活環境はどう考えてもおかしいものである、そんな生活を無期限に続ける意味は何もない、早速6月30日から行動開始、会社に服などの必要最低限のものを運ぶ毎日がスタートしました。その先の計画はまだ何もしていないし、先には何も見えていない状況ではありましたが、とにかく家を出て最後になっても良いと思えるようになっていたし、自分ができる最低限のことからスタートさせたのです。

 1回目の家探しに協力していただいた人とは、それから何度かは連絡を取りました。盲導犬の手続きをして、今の家から自由に出られるようになれば問題は解決するんじゃないかと言うアドバイスもいただきましたが、私の中では現実的なこととしては考えられませんでした。お金を取り返す裁判をしなさい、お金を取り返してから家を出なさい、そのようなことでもアドバイスをいただきましたが、私にはそれは無理だと思いました。家からの足もちゃんと確保できない現実の中で、同じ屋根の下での争い事ができるだろうか?もし裁判などすることになったとしたら、自分の居場所を確保し、自分の足を確実にしておく必要はあるだろうと感じていたのです。信用できない親のいるところに生活をし、その中での裁判だなんて、まず無理だと思いました。恥ずかしい話し、あの家にいると言うことは、外に出るには誰かの手助けが必要になり、自分ではどうにもならないのです。それを親に依頼するのか、また他の人に依頼できるような環境があるかどうかと言うことはありますが。お金が自由になっていない状況の中では、駅までの足を全てタクシーで確保することも現実的な選択ではありませんし、タクシーにそれだけのお金をかけられるんだとしたら、家を借りるのが先にはプラスになるはずです。


4.2度目の家出計画

 7月になり、仕事も手につかず、どうしたらいいのか分からない毎日の中で、希望の光が見え始めたのは、2度目の家出計画の協力者を見つけたことでした。何から何まで、本当にお世話になりました。そして今でもお世話になっています。メールや電話で計画をしました。自分は思うように動けないので、いろいろなことを調べていただいたり、自分が何もできないことを実感しながら、そして恥ずかしくもありました。物件探し、今の口座の処理、障害基礎年金を自分の手に入れるための方法、支援費の利用など、しなければならないことはたくさんありました。でもまずは物件探し。1度目に失敗した物件のことも頭にはありましたが、キャンセルしたと言うこと、住所が親に知られてしまっていること、不動産屋にも親が電話で怒鳴り散らして迷惑をかけたことから考えて、全部をやり直しすることにしました。視覚障害者に家を貸したことのある不動産屋があると聞けばそこを調べたりもしました。このころの睡眠時間は、昼間に仕事の休憩で40分から1時間、夜は2・3時間も取れれば良いほうでした。朝まで起きているようなこともよくありました。このままだったら仕事にも影響が出て、体調を壊して死んでしまうのではないかと本気で考えたこともありました。見える部分での変化はそれほどなかったと思いますが、背中や下腿部の皮膚がぼろぼろになったり、爪がはがれたり、体の不調は感じていました。


5.家出実行

 無謀かも知れませんが、失敗した前例もあり、会社に行くことにして、それっきり家には帰らないようにして出ることにしました。もし何かの理由で家に戻らなければならなくなった場合のことも考え、何も言わずに出ること、そして住む場所が決まってから帰らないと言うことを伝えるのが最善の方法でした。もし何かのトラブルがあったら、何もなかったかのように家に帰る選択も残してはおきました。それほど運べるものでもないですが、最低限の服などは少しずつ会社に運んでありました。パソコンなども必要なので、周辺機器も含めて、少しずつ運びました。実際、それほどのものを持って出られたわけではなく、買い足したものもたくさんあるのですが。いろいろなものを持ち出していましたが、それについて詮索されることがなかったのは助かりました。

 家出する前日の夜と言うのは、とても不思議な感覚でした。最後には何を持ち出すべきなのか、やり残したことはないだろうか、心配はそんなところにありました。家を出ることへの不安が少しは出てくるものなのかと思ってはいましたが、これで出られる、もうここには帰らなくていいんだと言う開放的な気持ちが強かったのでしょう。朝までほとんど寝ずに起きていました。現状で持ち出せる貴重品などは朝までに何度も何度もチェックしました。自分で蓄えていた食べ物は朝までに全部食べました。

 7月20日、この日はいつもと同じように仕事をしました。会社にお願いして、急ぎで在職証明を作っていただきました。予定していた不動産屋に提出するつもりで。夜は会社の人と飲みに行くから今日は家には帰らないことにして、支援していただいている人のお宅でお世話になり、最終計画をしました。

 予定では7月21日の朝に出るつもりでした。それを急遽20日にしたのには、理由がありました。医療証の手続きの関係で、私の保険証が役場で必要だとのこと、7月中には手続きをしなければならないので渡すようにと母親が言います。これを渡してしまったら、いろいろな意味で困ります。粘って渡さないようにはしていましたが、キャッシュカードを勝手に持ち出されている現実があるだけに、探される可能性、持ち歩いていたにしても追求されてむりやりにでも取られる可能性がありました。障害者手帳も会社で必要だからと言って、どうにか取り返せたところでした。何でも母親の管理下に入れたいらしく、いろいろなものを勝手に、もしくは私が預かっていればいいんだと強引に取られてきた現実がありました。それでも親だからと思って我慢もしてきました。

 7月21日、無謀な1日がスタートしました。まずは地元の役場で住民票を取ることから始まりました。そして給与振込をしていた信用金庫へ。盗難届を出していた口座の暗証番号の変更を含め、私以外の人間がお金を下ろせないように処理をしました。通帳、キャッシュカード、そして銀行印を全部自分が持っていたことが救いだったと思います。それから、視覚障害者に家を貸したことのあると言う不動産屋へ。ここに1箇所、気になる物件がありましたが、最終的には条件が合わず、他で探すこととしました。とりあえず時間がない、某有名不動産会社に入りました。最初はかなり高い物件しか紹介されず、すぐに入るのは無理な場所でした。今すぐにでも入りたい、そんな物件はないものかと話を続けるうち、職業などを聞かれ、2箇所ほど紹介してもらいました。早速見に行き、現在の場所を決めることとなりました。しかし、そこには問題が一つ、不動産屋さんの協力により解決されましたが、自分が視覚障害者であることによる壁がありました。マンションの入り口のオートロック、暗証番号を押して空けるようになっているのですが、それがタッチパネルになっており、触って確認して番号を入れるようなことができないタイプだったのです。現在は使われていないと言うオートロックを空けるカギを探していただき、どうにか契約までをその日のうちに終わらせ、22日の夜にカギをもらえることになりました。幸いなことに、物件を借りるにあたって障害者であることなどを問題にされなかったのは良かったと感じています。この日の最後は地元の役場に行き、転出届を提出しました。この瞬間から、親のいる家にはもう帰ることがなくなったのです。そして、まえの日とは別の知人の家に泊めていただきました。この日から先の宿泊場所はホテルも覚悟していただけに助かりました。家の都合がつくまで、2・3日なら泊めてくれるとまで言っていただいていました。この人には、ここから先の生活のいろいろなことについて、多くの支援をいただいています。とても感謝しております。最初に、最低限必要な買い物に協力していただき、支援費の手続きが終了するまでは郵便物の処理や買い物などが必要なため、1週間に1回、我が家に顔を出していただきました。住む場所が決まったので、もう家には帰らないと親に言ったのもこの日でした。帰らないことを伝えてから2・3日は親からの電話が携帯に入りましたが、それに出ることはありませんでした。1時間ほど連続でコールされたり、1日に3回ほど充電するようなこともありましたが、私は電話には出ないと覚悟を決めていました。そして母親からのメールもたくさん入ってきていましたが、いつも絵文字などが使ってあるようなものばかりで、心配しているとは書いてあるものの、その気持ちは伝わってこず、10月現在、1・2ヶ月に1度ぐらいのメールは入るものの、絵文字ばかりで気持ちが伝わってこないメールですから、それに返事をするつもりはありません。自由にしてやるから居場所を教えろだの、矛盾した内容のメール、家には帰らないよと言っているのに保険証を出せだの。これまでの携帯電話は親名義のものでしたから、新しく自分で契約(7月31日)し、今までの電話は我が家のテーブルの上にあります(10月現在)。最近では充電するのも面倒になり、電源すら入れていません。絵文字がいっぱい入ったメールが届くと、電話を外にでも投げてやりたいような気分になります。どうせ使わない電話、本体がなくても向こうで解約はできるそうなので、11月現在、クローゼットの奥の箱の中に入りました。本当はこちらで解約してしまいたいんだけれど、私の名義ではないので、書類上の問題から、そのままにしておこうと思っています。不燃ゴミに入れるとか、落し物だと言って駅などの適当な場所に置いてくるなどのことも考えました。12月、予備に電池が欲しいと言う知り合いがいたので電池を渡しました。これで電源は入らなくなったので、本体は落し物としての処理をし、自分の手から完全に離れました。自分名義ではないので自分に足がつくことはないはず、ゴミに入れなかったのは、直接ではないにしても名義人に戻せる方法を提供する、せめてもの優しさからです。

 7月22日、出勤前に区役所へ。転入届を提出。これからのいろいろな手続きのため、住民票も取りました。初めての区役所、それこそ場所も分からず、人に聞きながらどうにか到着しました。この先、区役所には何度となく行くこととなるのですが。会社に到着すると、保険証の住所変更の手続き、会社の住所変更届の手続きなどを行い、保険証の変更はその日のうちに終了し、身分証明ができる状況となりました。仕事帰りにはカギを取りに不動産屋さんに行きましたが、この日は自分だけで行ったため、近くの駅までは行けるけれど、その先の場所が分からない。駅からはかなり近いのでタクシーにも乗れないだろうから、手前の駅で降りてタクシーを使うことも考えました。不動産屋さんに電話をして状況を説明し、駅までお迎えにきていただきました。これはとても助かりました。そしてカギをもらって駅まで送ってもらい、自分で新居へ。ここにも問題が一つ。前の日に1度だけしか行っていない。場所は分かっていて、難しい道ではないんだけれど、本当に自分だけで行けるのか?自分の家になる場所なのに、自分で行けないなんて…そんな心配をしながら、どうにか到着。確実な場所が分からなかったので、歩いていた人に教えてもらいました。カギが開いたときにはちょっと感動しました。まだ何もない部屋でしたが、ここがこれから自分の居場所になるんだと思うととても嬉しくなりました。嬉しいことに、私が仕事中に買い物をしていただき、その日のうちに最低限の生活用品を運び入れることができました。ガスが通っていないのでお湯は使えない、冷蔵庫はまだない、外部とつながっているのは親名義の携帯電話だけ、家から持ち出したラジオが一つ、でもとりあえず生活ができるようにはなりました。自分が帰る場所を確保した瞬間でした。携帯に送られてきたメールと親戚に聞いた話しによれば、私が新居のカギを開けたころ、母親は私が帰る駅で、いつもの時間に1時間ほど待っていたらしいです。

 23日の朝はまた区役所へ。福祉関連の手続きに行きました。ここで障害者手帳の住所が変更になり、いろいろな福祉サービスが受けられる状況になりました。

 24日は午前中にガスが使えるようになり、初めてのシャワー。とっても幸せな気持ちになりました。午後にはテレビ、冷蔵庫、洗濯機、カーテンなどを買いました。テレビは最初は買わないでもと思いましたが、ケーブルテレビの契約をしてあって、家賃の中に入っているので買うことにしました。いろいろな書類を代筆してもらわないとならないので、文房具を用意したのもこの日でした。

 25日は使っていないテーブル、電気ポット、モーフなどをいただき、かなり家らしくなりました。家から持ってきたスーツは1着だけだったので、スーツを買いにも行きました。そして、おじさん(母親の弟)がやってきました。出るまでは協力できなかったが、出てからは協力すると言ってくれました。最初に失敗したときも、本当は出られたら良かったのにと思っていたそうです。おじさんにはいろいろな協力をしてもらいましたが、我が家でインターネットが使えるように、7月中のキャンペーンで安くなるうちに処理が終了するように手続きしてくれました。8月15日から常時接続でインターネットに接続できるようになりました。

 26日の朝は新しい銀行口座を作りました。もう自分以外の人間がお金を出すことはできないのだから、今までの口座だけでも良いと言えば良いけれど、家の近くですぐにでも行ける銀行に口座を持っていると何かと便利だし、自分には年金などもあるので、口座を分けるためにも、複数持っていても良いだろうと言うことで、作ることにしました。家の近くで作るのか、会社の近くで作るのか、それについては迷いましたが、家の近くの場所なら自分で行けると確信があったこと、それほどないとは思うけれど、大きな現金を必要とする状況があるかも知れないので、持って歩かなければならないなら家の近くが安心だろうと言うこともありました。銀行員による代筆でことは終了しましたが、口座番号を自分で知っておく必要がある、細かいことだけれど、自分で分かるように点字でメモするから読んでもらいたいなどとお願いする、そんなこともしてみました。出勤し、安全のために8月からの給与振込みの口座を変更する手続きを行いました。

 この週には、社会保険事務所と言うところにも行きました。私は障害基礎年金を受けていますが、これは使わずに貯金する約束を親とし、年金を受けるようになったのは学生のころであったため、恥ずかしい話し、その所在がどうなっているかも知らず、とにかくこれから先の年金は自分に入るようにする必要があります。本当は年金証書があれば話しは早いのですが、私が自分で稼いだお金も自由にはならなかったのだから、年金証書を返せと言ったところで、返さないことはほぼ確実です。証書を再交付してもらってでも手続きする必要がありました。社会保険事務所と言うところに行けば良いことは分かりました。その場所も聞いてはいましたが、ここには自分で行くのはちょっと辛そうです。分からない場所だから、自分で探すのも難しいし、出勤前しか時間がないので、あまりゆっくりもしていられません。こう言う場合には、タクシーを使います。次回に年金の手続きをする場合は管轄が違うので別の場所になるから、ここに来ることはもうないし、無駄な労力を使って歩き、道を覚えたりする必要もそれほどないのです。そんなことをするぐらいなら、家の近くの飲食店の1軒でも覚えることに労力を使いたいものです。社会保険事務所での手続きは、こちらがどれだけ粘り強く交渉するかにかかってきます。親とよく話し合うようにとか、そのようなことを言われます。話せない親だから私はここに自分でやってきて、自分が受け取るべきものが受け取れるようにしにきたのだ、私は親とはもう暮らせないから、家出をしたなど話し、15分とか30分はかかったでしょうか、年金証書を再交付することで決定されました。仕事には行かなければならないので、この日だけで処理が終わらなかったら、毎朝でも行くつもりでいました。次の日に新しい証書が郵送で届き、口座変更のお知らせが社会保険庁から届いたのが10月の最初。10月15日には自分が指定した口座に入るようになりました。


6.ちょっと余裕が出てきた8月

 住民票を移し、福祉サービスも受けられる状況になり、年金のことも終わり、今後の給与も確実に自分に入るようになり、携帯電話も持ち、最低限の生活ができるようにはなりましたが、まだまだやらないとならないことはたくさんありました。

 携帯電話(DoCoMoの場合)は料金の明細は点字になります。他にも電気、ガス、水道の検診票も点字になります。その手続きを順番に行いました。携帯電話は加入したときに手続きは完了、最初の請求から点字になりました。他は電話番号を調べてその手続きを行いました。まず手続きとしてはガスが終了。しかし10月現在、まだ点字にはしてもらえてません。11月になって電話してみたところ、8月に対応した担当者が処理を進めておらず、何も処理されていなかったことが分かりました。困ったものです。それじゃあガスはいりませんって言えないのが弱いところですね。12月分から点字になりました。電気は8月の終わりに完了しましたが、9月は間に合わず、遅れて郵送で手配されてきました。10月分は電力会社の車上盗難により、盗まれると言う、ちょっと驚きの経験もしました。担当者がその日のうちに我が家にやってきました。水道は結果的には我が家では無理でした。と言うのは、マンションで一括契約になっているため、水道局が料金を把握できず、その結果として点字にはならないのだそうです。まあこれはどうにもならないでしょう。しかし、これは家賃と同時に引き落とされるはずなので、それほど問題ではなさそうです。

 通帳が自分で見られないのはかなり困ります。その解決方法として、携帯電話やパソコンから、ネットバンキングと言うサービスが利用できます。こちらに移ってから作った口座については、何もしていないのに手続きが終了し、すぐにでも使えるように書類などが送られてきました。最終的に登録を完了するのに、書類の中にあるいくつかの番号を要求されます。誰かに読んでもらってメモすれば良いものもありますが、一つだけ、かなり面倒なものがあります。縦横10個、合計100の乱数表から、「何行目の何列目から何桁」などとランダムに聞かれるのです。1度登録を完了すれば必要ないと言えばないのですが、別の口座に振り込みをしたいとか、何かの登録内容を変更したいなど、特別な場合には必要となってきます。登録しようとしたときに、込み合っているから時間を置いてアクセスするようにと出ました。そして元の画面に戻ると、乱数表の指定場所が前のものとは違っていました。つまり、乱数表の全部を知らなければどうにも処理ができないのです。乱数表を全部読んでもらってメモし、対応する結果となりました。最初の給与振込みがされる少し前、8月20日に完了。最初はパソコンだけでしたが、携帯電話でも使えれば便利だと思い、9月になってから登録しました。どちらもネット上の処理が終了すると同時に使えるようになりました。しかし、乱数表が読めなければ自分で使えないと言うことで、銀行には電話もしてみました。何か大きな使用変更をしようとすると、今後も乱数表が必要になるので、銀行として見えない人への対応が何かないものかと思って。ネットバンキングは個人での手続きしかできないので、銀行に言われても対応できない、みたいなことで言われました。しかし、銀行が提供しているサービスなのだから、それなりの責任があるだろうし、個人情報の処理で困るようなことを言うが、窓口で代筆して口座は作れるではないか、それなら本人だと分かったら必要な処理をしてくれても良いではないか、そちらから提供された書類は自分では読めないのだから、理由があってお願いしているのに、いろいろな矛盾を感じています。最終的にはご家族にでも依頼されたらどうですかと言う銀行員、私は家族に自分が持つべきお金を取られて家を出ました、それでもあなたは家族に頼めと言えますか?とちょっと強く言ってしまった私。そこまで言っても銀行は何も対応してくれることはありませんでした。それと比べると、某信用金庫では、自分で行かなければならないと言うことはありましたが、書類も全部を代筆していただき、手続きを終了することができました。8月27日に信用金庫に行き、住所変更と同時にネットバンキングの手続きも代筆により処理が終了しました。ネットバンキングは9月9日にパソコンからも携帯からも利用可能となりました。

 お金のことでもう一つ。新しく作った銀行口座は家から歩いて3分もあれば行けるところの支店のものです。しかし、そこには視覚障害者対応のATMがありません。バスで三つ、歩いたら20分とか30分とか先に、その銀行の視覚障害者対応のATMがあります。そこまで行けばいい話しだと言えばそうですが、お金が必要になったらバスに乗って…って言うのはちょっと不便。歩いて3分で銀行に行けると思ったらなかなかそこまで行く気にはなれません。銀行に行って窓口ではお金は下ろせるわけですが、長いこと待たされるし、キャッシュカードを使うように言われることもよくある話し。銀行員はATMの操作はしてくれますが、暗証番号を私が言う必要が出てきます。これがどうも納得できなくて、銀行の斜め向かいにある郵便局のATMをよく利用するようになりました。手数料がかかってしまうものの、ここだったら全部を自分でできます。暗証番号を知られない方法として、納得できない部分はあるものの、自分ですぐにできる解決方法だと思っています。かなり大きな支店なので、銀行がATMを設置してくれるのが一番良い方法なんですけどね。要望するにしても時間がかかるだろうし、お金は必要なので待ってはいられませんから、自分でできる解決策は見つけなければなりません。2005年3月、待望のATMが設置され、手数料を払うことなくお金が下ろせるようになりました。

 支援費を使って、ホームヘルプサービスが受けられるようにするため、まず区役所に行きました。自分が困ることは、家に届く郵便物が処理できないこと、クリーニングに出さないとならないもの(スーツなど)は汚れが自分では分からないこと、いろいろなものを買い物するのがなかなか自分だけでは難しいこと、自分では掃除しているものの、どうしてもやり残しが出てしまうことなどあります。今後の生活の中で、困るようなことはいろいろ出てくるかも知れません。ホームヘルプの中でのサービスを受ける項目については問題ないとのことでしたが、こちらで準備しないとならない書類がいろいろ出てきました。私の課税証明などを取らないとならないため、これまで住んでいた役場での手続きが必要になりました。自分だけで行くのはなかなか難しい場所、タクシーなどで行くようなこともできなくはないが、狭い町ですから、誰か知っている人に見つかるようなことがあっても困る。役場には母親の同級生?なのかよく知っているような人もいるはず。おじさんが郵送で手続きしてくれました。8月23日に書類を持って区役所に行き、支援費の手続きが無事終了、25日に支給決定が出て、全部が点字になった書類が届くのに1週間ほどかかり、それから業者と契約をして、9月10日に我家での訪問調査、9月11日から利用開始となりました。

 このころには、まだ代筆してもらわないとならない書類などもたくさんありました。光熱費は口座から引き落としにしておくのが便利だから、電気やガスなどの手続きが必要でした。書類を送っても処理に時間がかかるため、全部が引き落としになったのは、9月になってからのことでした。ガスは8月分から、電気と携帯電話は9月分から、インターネットは契約終了時から引き落としになりました。それまでは郵便局などで払わないとなりませんでしたが、郵便局は窓口がたくさんあって分からなかったり、番号札を取らなければならなかったりするので、コンビニをよく利用しました。レジに行けば対応してもらえるので、こちらに行くほうが自分にとっては簡単で確実な方法でした。コンビニにはよく行きましたから、店員さんには買い物のヘルプもよくお願いしました。前よりも回数は減りましたが、今もしています。

 8月になると泊まりにくる友達なども出てきて、それなりに充実した週末を過ごせるようにもなってきました。ただ、本当に自分はこう言う生活をしていて問題がないのだろうか、そんな不安がまだありました。


7.9月

 生活していると言う実感が持てるようなものがたくさん届くようになりました。電気、ガス、携帯電話、インターネットなどの明細です。電気やガスなどは8月にも請求はありましたが、10日や11日分だったため、1ヶ月分の請求は9月が最初と言うことになります。それほどの金額にはならないだろうとは思っていましたが、明細を見るまではやっぱり不安。これぐらい使うんだと実感し、やっと安心することができました。(しかし、冬になると少しずつ光熱費は上がり、どこまで上がるんだろうと思ったり、1年生活しないと安心できないかな。)このころに知ったのですが、電気やガス、携帯電話の料金は、インターネットから参照できます。だから実際問題として、点字にならなくても見ることはできるわけです。でも私は今後も点字にしてもらうつもりでいます。贅沢だと言う人がいるかも知れません、実際にそうやって私に言った人がいました。でも本当に贅沢でしょうか?もし私が紙に書かれた文字を自分で読めたとしたら、口を空けているだけで待っていれば料金明細は届くわけです。それが読めないからと言って、自分からわざわざ明細を見るようなアクション、毎月インターネットにアクセスして見に行くこと、をしなければならないでしょうか。誰にも迷惑をかけない良い方法だとは思いますが、点字にしてくれるサービスがある以上、私はそれを利用し続けます。広報も点字でもらっています。インターネットで見られることは知っていますが。向こうから送られてきて自分が手にしたら見ようと思うかも知れないけれど、自分の意思で見に行かなければ見られない、それは何か違うと思うし、自分から見に行く類の情報ではなく、与えられて見る類の情報だろうと私は思っています。

 9月11日からは、1週間に1回は必ず誰かが来てくれる、とても安心できる生活環境が整いました。これまでも1週間に1回は人に来てもらってはいましたが、その人の都合などもありますし、1週間に3時間の支援が必ず受けられると言うのは、とても安心です。ゆっくりと買い物に行けるようにもなって、食生活のこともいろいろ考えられるようにもなりました。自分で料理したりすることはあまりないですが、今まで知らなかったものを含め、いろいろな買い物ができますから、コンビニに行く回数が減り、外植も減りました。9月は生活の基礎が整った月と言えるだろうと思います。


 家を出て自立することは、自分だけの力でできたことではありません。本当にたくさんの人に協力をしていただきました。今回の計画の相談から全面的に協力してくださった方、家の中に眠っている電化製品を提供してくださった方々、最低限の電化製品を買ってその日のうちに運んで使えるようにしてくださった方、何かを買うのにできるだけ安くすむように話しをしてくださった方、本当に多くの方にお世話になりました。ちゃんとしたお礼もできず、申し訳なく思っています。本当にありがとうございました。感謝しております。この場を借りてお礼を申し上げます。

 私ができることは少ないですが、新居での充実した生活をすること、それがまず第1であると信じています。それが協力していただいた皆さんへの私ができるせめてものお礼です。

 生活状況も最初と比べたら、大きく変化してきています。けっして悪くはなっていません。少しずつですがよくなってきています。1年が過ぎ、2年が過ぎ、やっぱり家を出たことは正しかったと言う気持ちは大きくなるばかりです。けっして後悔はしていません。

 これからまだまだ多くのことがあるのだと思います。困ることも出てくることでしょう。でも前の生活では無理なことでも、今ならどうにかできます。今後も平和な生活を続けたいと思っています。

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