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松村広志(3)

「あんたも、不思議な人だな。今さら何を知りたいんだい?」


 松村輝マツムラ ヒカルは、穏やかな口調で聞いてきた。もっとも、その瞳は冷ややかである。

 彼は、松村広志の弟だ。今のところ、エリートの兄とは真逆の人生を歩んでいる。高校を一年で中退し、二十歳までニートだった。その後は家を飛び出し、派遣会社のアルバイトで生計を立てている。




 二人は、駅前の喫茶店にて待ち合わせた。

 輝は、時間通りに現れる。身長は百七十あるかないか、ガリガリに痩せこけている。大柄な体格の兄とは、全く似ていない。細面のなかなかいい顔立ちだが、その瞳には暗い色が浮かんでいる。年齢は確か二十七歳のはずだが、ずっと老けて見えた。

 

「あの事件について、あなたの率直な気持ちをお聞きしたいのですが……どう感じました?」


 今川は、ストレートな質問をぶつけてみた。ワイドショーに登場する愚かなレポーターごとき、身も蓋も気遣いも無い質問である。だが、目の前にいる青年はクスリと笑った。


「あの事件ってさ、もちろん島田とかいう脱獄犯が起こしたヤツだよね?」


「そうです」


「本音をいえば、ざまあみろって思ったよ」


 その言葉を聞き、今川は思わず眉間に皺を寄せた。仮にも、自分の兄が脱獄犯に撲殺されたのである。それを、ざまあみろとは。

 もちろん、兄弟だからといって仲がいいとは限らない。実際に殺し合うくらい仲の悪い家族など、探せばいくらでもいるだろう。ただし、兄を本気で憎んでいたとしても、常識ある者なら人前でその感情を表には出さない。まして、広志は殺人事件の被害者なのである。

 この輝という男は、住友や光穂と同類なのだろうか。だとしたら、また面倒なことになりそうだ。

 一方の輝は、平然と今川の視線を受け止めている。お前にどう思われようが関係ない、とでもいいたげな様子だった。

 ややあって、今川は恐る恐る聞いてみた。


「ざまあみろ、ですか。それは、どういう意味です?」


 その問いに、輝はまたしてもクスリと笑った。爽やかさなど微塵も感じられない、乾いた笑顔だった。


「言葉の通りさ。俺の偽らざる本音だよ」


「でも、あなたのお兄さんですよ──」


「あいつがどんな人間だったか、あんたは全く知らないみたいだな。俺は小さい頃から、あいつに毎日のように殴られてたんだよ」


 今川の言葉を遮り、輝はやや強い口調で言った。先ほどから、広志のことをあいつと呼んでいる。兄に対し、どのような気持ちを抱いているかがよくわかる。

 その気持ちは、広志が死んだ後も変わっていないらしい。兄を語る弟の表情は、氷のように冷たいものだった。


「えっ、そうだったんですか」


 一応は意外そうな顔をしてみせたが、これも予想はついていた。広志は、付き合っていた女性ですら殴っていたのだ。弟が相手なら、殴ることに何のためらいもないだろう。


「ああ。あいつは、本当にクズ野郎だった。学校から帰って来ると、毎日のように殴られてた。親父もお袋も知っていたが、見て見ぬふりさ。ただ、顔を殴られると痣として残る。だから、あいつは腕や腹を殴るようになった」


 今度は、クズ野郎ときた。だが、クズ野郎と言われても仕方ないとは思う。幼い頃に受けた暴力は、体はもちろんのこと、心も容赦なく破壊していくのだ。

 まして、その暴力を振るう相手は自分の兄である。どこにも逃げ場がない。

 暴力から逃れるには、家を出るしかないのだ。


「それは、何といえばいいか……」


 本当に、何といえばいいのかわからなかった。広志の弱い者に暴力を振るう癖は、幼い頃から培われていったものだったのだ。

 両親の見て見ぬふりが、さらに拍車をかけた。


「何も言わなくていいよ。あんたにわかってもらえるとは思ってないから」


 冷めきった口調であった。悪ぶってクールな言動をする若者とは、明らかに違う。彼の冷たさは本物なのた。心の芯から冷えきっており、人生に何の期待もしていない。これは、幼い頃からの絶え間無い暴力により作り上げられたものなのた。

 今川は、思わず頭を下げた。


「すみませんでした。ところで……その広志さんの暴力癖ですが、何かきっかけのようなものはあったんでしょうか?」


 その言葉を聞き、輝の表情が微かに歪んだ。今川は、慌てて言い添える。


「あ、すみません。言いたくないなら、言わなくて結構ですよ。では、別の質問を──」


「いや、そういうわけじゃないんだよ。ガキの頃は、親父が俺を殴ってたんだ。しかも、親父は俺だけじゃなく、あいつのことも殴ってたんだ」


 これまた、予想は出来ていた。幼い時に殴られて育った者は、己が親になった時に同じことをする。俺は親からもっと強く殴られた、それに比べりゃまだ甘い……そんな言葉を、免罪符のように用いながら子供を殴る。この連鎖を終わらせるのは、非常に難しい。


「けど、逆転する時が来た。ある日、あいつはブチ切れた。親父と殴り合った挙げ句に、ブチのめしちまったんだよ。あいつは、親父より体もデカくなってたし、スポーツで鍛えてたからな。親父を、一方的にブッ飛ばしたよ」


「なるほど」


「すると、親父もお袋もあいつには逆らわなくなった。あいつが何をしようが、見て見ぬふりだ」


「そうでしたか」


「でもな、そっからが俺の地獄の始まりだよ。あいつは、親父には手を出さなかった。万が一怪我をさせたら、家の収入に差し支える……そのことを、ちゃんとわかってたんだよ。代わりに、俺に集中的に暴力を振るうようになった」


 聞いていて、今川は不快になってきた。広志は、単なる感情で暴力を振るっていたのではなさそうだ。もし感情のみで動いていたなら、彼の暴力の矛先は父親に向いていただろう。

 ところが、広志の暴力はもっぱら弟に向けられていた。これは、広志の計算によるものだ。自身のストレス解消のために、家で一番弱く抵抗できない存在に暴力を振るう。


「あいつは、中学高校大学と完璧超人を演じてたんだよ。勉強もスポーツも出来て、人格的にも完璧……あいつは、そんな存在だった。親父もお袋も、そんなあいつを誇りにしてた」


 暗い目で、輝は話を続ける。

 心の闇、という言葉がある。輝は、頭は悪くない。顔つきや話す言葉などから判断するに、知能は高い方であろう。にもかかわらず、最底辺の高校に入り、そこを一年で中退した。

 それも、心の闇ゆえだろうか。あるいは、他の理由があったのか。


「けどな、完璧な人間なんていやしない。少なくとも、あいつは完璧じゃなかった。だから、歪みが出る。その歪みを修正するため、あいつは俺を殴ってた」


 淡々とした口調で、輝は語った。その分析は正しい。


「あなたは、やり返したりしなかったんですか?」


 聞いた直後、今川は思わず顔をしかめた。何とバカなことを聞いてしまったのだろう。

 輝もまた、同じことを思ったらしい。歪んだ笑みを浮かべつつ、口を開いた。


「出来るわけないだろ。あいつは、俺より体もでかいし力も強い。それに、俺はガキの頃からずっと殴られ続けてたんだ。やり返すなんて、出来るわけないよ」


「でしょうね」


 そう、幼い頃からの暴力により、輝は身も心も服従するように洗脳されていた。これは、当事者でなければ絶対に理解できない心境だ。


「たぶん、あの奥さんも相当殴られてたと思うよ。あいつは、たまに家に寄ってたけど、来るたびに奥さんのことをボロクソに言ってたから」


「えっ? わざわざ実家に来て、夏帆さんの悪口を言ってたんですか?」


 これは、完全に予想外だった。まさか、そんなことまで言っていようとは。


「そうだよ。あいつは、うちに来るたび奥さんのことを散々にけなしてた。娘が障害者として生まれたのは、あっちの家の遺伝のせいだなんてことを、よく言ってたよ」


「いや、ちょっと待ってくださいよ。広志さんは、栞ちゃんのことをそんな風に言ってたんですか? 自分の娘ですよ?」


 思わず聞き返していた。これは、いくらなんでも酷すぎる。 

 だが、聞かれた輝は口元を歪めただけだった。


「あいつは、自分の娘を可愛いと思ってなかった。親父もお袋も、障害者の孫を可愛がる心なんか持ってなかったんだよ。耳が不自由で喋れない、それだけの理由で嫌ってたのさ。あんな子なら、生まなきゃよかったのに……なんてことまで、親子三人で言い合ってたんだよ」


「そうでしたか」


 これまた、想定外の言葉だった。栞は、客観的に見ても可愛らしい顔立ちの少女だ。将来は、母に似た美しい女性になるはずだ。障害を持っていようがいまいが、祖父と祖母から見れば可愛い孫だろう……と、漠然と思い込んでいた。

 まさか、親子三人でそんな話をしていようとは。今川は、やりきれない気分になってきた。


「俺は、そんな話を聞いているうち心底から嫌になってきたんだよ。こんな連中と、家族でいたくないと思った。だから、俺は家を出たんだよ。もう、あいつらとの縁は切ったつもりだ。親父とお袋がどうなろうが、俺には関係ない。あのクズ野郎は脱獄犯に殴り殺されたそうだけど、その脱獄犯を褒めてやりたいくらいさ」


 吐き捨てるような口調で、輝は言った。その顔には、怒りも憎しみもない。彼にとって己の家族は、そういった負の感情すら向ける価値がない者たちなのだろう。輝にとって、害虫や毒虫と同レベルの忌むべき存在なのかもしれない。

 実の兄を殺した犯人を、褒めてやりたいとまで言いきった弟。その言葉の奥に秘められた別の思いがあるのかどうか、今川は彼の目を見つめた。

 しかし、その奥には何も見えなかった。恐らく、これは彼の偽らざる本音なのだろう。


「あなたは、これからどうするつもりなんですか?」


 最後の質問は、個人的な興味だった。この青年が今、何のために生きているのか知りたかった。


「さあ、とうするかな。ただ、食って、寝て、生きるだけだよ。いずれは、野垂れ死ぬだろうね。もう、どうでもいいよ」


 言った直後、輝はまたしてもクスリと笑った。この男は、本当によく笑う。恐らく、笑うことで感覚を敢えて麻痺させているのであろう。そうでなければ、とっくの昔に壊れていたはずだ、

 今川は、目の前の青年に深い憐れみを感じた。彼には、生きるための希望がない。世間一般の人が思う幸せには何の興味もなく、風に流され漂うように生きるだけ……その根底にあるのは、幼い頃から積もり積もってきた絶望なのだ。

 輝の心には、ひとかけらの希望もない。


「あのう、夏帆さんと栞ちゃんですが……先日、二人を見かけました。すごく幸せそうでしたよ」


 何故そんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、気がつくと口から出ていた。


「そうか。だったら……あの脱獄犯は、やっぱりいいことをしたんだろうな」


 そう言って、輝は口元を歪めて笑った。だが、直後に真顔になる。


「俺もひとつ、あんたに聞きたい。俺は、自分の兄が殺されたと聞いても、涙のひとつも出なかった。それどころか、心の底から嬉しいと思ったんだよ」


「あなたの生い立ちを考えれば、それは仕方ないと思います」


 そう言葉を返したが、輝はにこりともしない。


「率直なところを聞かせてくれ。俺は、あいつと同レベルのクズ野郎なのかね?」


 真剣な顔つきで、輝は聞いてきた。彼の中には、葛藤があるのだろう。あれだけ嫌っていた家族。ところが、いつのまにか嫌っていた存在と同レベルの人間になっていたのではないか、という……。

 ならば、こちらも真剣に答えねばなるまい。


「職業柄、僕は今までに大勢の犯罪者を見てきました。どんな人間であれ、大なり小なりクズの部分を持っています。でもね、一番たちが悪いのは、己の内のクズの部分を恥じる気持ちのない人間だった気がしますよ。ちょうど、あなたのお兄さんのような、ね」


「なるほど、そうかもしれないね」


 輝は笑った。その笑顔は、先ほどまでのものと違っている。死んだ魚のような目に、微かな光が宿っていた。

 輝は、父親と兄からの暴力に耐え続けた。普通でない暴力を受けながら、それでも家を出ようとしなかった。そんな彼に、家族と縁を切る決意をさせたもの……それは、父と母と兄の差別意識だった。

 己の娘を、あしざまに語る兄。障害を持つ孫を罵り、義理の娘のせいにした父と母。その姿を見た時、輝は自分の家族を心の底から嫌悪したのだ。こんな家族とは、一緒に暮らしたくない……と。結果、家を出た。

 今の輝は、何もかも失ってしまった。そんな彼にとって、最後に残されたもの……それは、小さなプライドだった。


(俺は、あいつらとは違う)





 取材が終わり去り行く輝の後ろ姿を、今川は複雑な表情で見送った。痩せこけた体、不健康そうな肌、覇気の感じられない瞳。あの男の人間性は、両親と兄により繰り返し傷つけられ、既に死んでいる。将来には夢も希望もなく、あとは物理的な死を待つだけなのだ。それを変えるのは、奇跡でも起きない限り無理だろう。

 今川は、輝を他人とは思えなかった。あの男は、どこか自分に似ている。もっとも、彼にしてやれることなど何もなかった。

 輝の残りの人生が、平穏無事なものであるように祈るだけだった。

 



 





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