もうひとつの顔、もうひとつの真相(1)
今川と話してから、数日が経った。
夏帆と栞は、いつも通りの生活を送っている。
今日の彼女は、駅前の病院にいた。定期の診断を受けた後、医師の話を聞く。これもまた、彼女にとって普段通りの行事だ。栞は、家で留守番をしている。以前は、ひとりにさせることが不安だったが……栞はしっかりした子だ。今では、留守番を任せられる。
ところが、その日は普段と違うことが起きた。病院を出て駐車場に行こうとした時、いきなり呼び止められる。
「松村夏帆さん、ちょっとお話があるのですが……お時間、よろしいですか?」
夏帆は立ち止まり、声の聞こえてきた方角を向いた。
そこには、灰色の地味なスーツを着た男が立っている。年齢は四十代後半から五十代だろうか。身長はさほど高くないが、肩幅は広くがっちりしていた。髪はてっぺんの方からだいぶ薄くなってきており、落ち武者を連想させる。
もっとも、髪型よりも耳たぶの方が特徴があった。潰れてでこぼこになっており、まるでギョーザのような形である。柔道を長年やっていた者に特有の形だ。目つきは異様に鋭く、鼻は曲がっている。何度も殴られ、変形したかのように見えた。
この男、人畜無害な一般人とは真逆の位置にいる。そんな男が、自分に何の用だ?
「何か用ですか?」
夏帆は、警戒心もあらわに尋ねた。その手は、スマホへと伸びる。
すると、男はポケットから何かを取りだし、彼女に見せる。
それは、顔写真付きの警察手帳だった。夏帆の表情が和らぐ。
「あなた、刑事さんですか」
「そうです、刑事の加賀谷巧です。あなたに、お聞きしたいことがありましてね。ここじゃなんですから、ちょっとあそこで話しませんか?」
言いながら、加賀谷はすぐそばにある喫茶店を指さす。
夏帆としては、断りたかった。だが、目の前に立っている刑事からは、普通でない何かを感じる。異様な執念、とでもいうべきものを。事実、この男は彼女が病院から出て来るのを待ち伏せていたのだろうから。ここで断ったら、今度は自宅にまで押しかけかねない。
夏帆は仕方なく、頷いて見せた。
二人は、喫茶店に向かい合って座った。店内は薄暗く、客は二人の他にはいない。店内に流れる音楽のボリュームも小さく、話の邪魔にはならない。
「すみませんが、刑事さんが何の用です? あの事件なら、もう終わったんじゃないんですか? 今、うちに子供がひとりで待ってるんですよ。お話は、なるべく早めにお願いします」
夏帆は、出来るだけ冷静な表情で言った。あの事件は、島田義人が犯人という結論で終わり……と、今川勇三は言っていた。彼女も、そう思っている。
だが、油断は出来ない。警察の中にも、上司や組織の命令に従わない跳ねっ返りがいるかもしれないのだから。
しかし、夏帆の考えは間違っていた。
「あんた、この男を知ってるな?」
言いながら、加賀谷は一枚の写真を見せる。ちらりと見た夏帆は、思わず首を傾げた。
「ええ、知ってます。今川さんですよね。この人が、どうかしましたか?」
「この男と、どんな話をしたんだ?」
ぶっきらぼうな口調で聞いてくる加賀谷。夏帆は、眉間に皺を寄せた。
「何を話そうが、警察に関係ないでしょう。この人は、フリーのルポライター──」
「違う!」
夏帆の言葉を遮り、加賀谷は怒鳴った。失礼な態度にムッとする夏帆だったが、続いて語られた話に、彼女の表情は一変した。
「ルポライターなんて、真っ赤な嘘なんだよ。あんたに本当のことを教えてやる。この男の本名は、高村獅道だ」
「た、高村獅道!?」
驚愕の表情になる夏帆。その名前には、聞き覚えがある……。
一方、加賀谷は深く頷いた。
「あんたも、名前は知っているみたいだな。そうだよ、こいつは高村獅道だ。島田義人なんか、比較にならないくらいの極悪人なんだよ。これまで、数えきれないくらいの人間を殺してるんだ」
「えっ……そんな、まさか……」
彼女は呆然となっていた。つい先日、会って話した男が、そんな極悪人だったとは。
「間違いない。他の人にも聞いたんだがな、あいつは今川勇三なんて名乗って、あちこち回って話を聞いていたらしい。ったく、ふざけた偽名使いやがって」
吐き捨てるように、加賀谷は言った。だが夏帆の耳には、彼の話は半分も入っていない。未だに衝撃から覚めていないのだ。
「そ、そんな……」
絶句する夏帆に、加賀谷は鋭い表情で語り出した。
「捜査中の人間の情報は、本来なら一般人には明かせないんだがな……今のあんたは、もう一般人じゃない。だから、高村のことをきっちり教えてやる。これは、あんたも知るべきことなんだ」
・・・
高村獅道は、都内に生を受ける。
父親は平凡なサラリーマンであり、母親は主婦である。中流家庭で、ごく普通の暮らしをしていた獅道だったが……ある日を境に、彼の人生は全く変わってしまう。
ある日、高村は家族みんなでタイに旅行に行った。一週間ほど滞在する予定であったが、思わぬ事態が家族を襲う。
街中でタクシーに乗り、観光を楽しんでいた時……悲劇が起きた。交差点を渡っていた時、一台の乗用車がとんでもないスピードで走って来たのだ。乗用車は、一家の乗るタクシーに猛スピードで追突して大破した。
獅道の両親は、即死した。だが奇跡的に、獅道は生きていたのだ。顔面に醜い傷を負ったものの、命に別状はなく、後遺症の残るような怪我もしていない。ほぼ全壊したタクシーの中から、通行人により助け出される。
本来ならば、ここで獅道は警察に保護されていたのだろう。そして、しかるべき機関の手により日本に帰ることが出来ていたはずだった。
しかし、彼を助け出した通行人は……裏社会の人間だった。
獅道は、ジャングルへと連れて行かれる。
後に知ったのだが、そこは黄金の三角地帯と呼ばれる場所だった。タイ、ミャンマー、ラオスの三国がメコン川で接する山岳地帯であり、ミャンマー東部シャン州に属する世界でも屈指の麻薬密造地帯である。
そんな場所にある粗末な掘っ立て小屋に、獅道は入れられた──
両親を目の前で失った直後、外国人に誘拐されジャングルへと連れて来られたのだ。幼い獅道は、ただ震えるばかりだった。
そんな中、いきなり小屋の扉が開く。入って来たのは、食べ物の乗った皿を持つ少年だ。年齢は、獅道より四歳から五歳くらい上だろうか。日に焼けた精悍な顔つきをしている。
唖然となっている獅道に、少年は言った。
「おい、お前。これ食え」
少年の口から出たのは、意外なことに日本語だった。
その少年は、キョウジと名乗った。日本人ビジネスマンの父と、タイ人売春婦の母との間に生まれたのだという。もっとも、当時の獅道には、細かい事情は理解できなかったが。
キョウジは、ここが何なのかを簡単に説明した上で、こう言った。
「ここにいるのは、悪党ばかりだ。人ひとりくらい、簡単に殺すような連中だよ。だから、おとなしく言うことを聞いていろ。奴らは、お前を人質にして取り引きをするつもりだ」
「ぼ、僕が人質?」
思わず聞き返す獅道。
「ああ、身代金をもらうための人質だ。日本人は金持ちだ……奴らは、そう思っているからな。死にたくなかったら、奴らには逆らうなよ。そうすれば、いつか日本に帰れるから」
そう言うと、キョウジは皿を差し出して来た。そこには、タイ米で作ったチャーハンのような料理が乗っている。
「まず、これを食え。食わないと、体がもたないぞ」
微笑みながら、キョウジは言った。その顔を見て、獅道はようやくホッとした。
だが、彼の地獄はまだ始まったばかりだった。
翌日から、獅道はひどい下痢に悩まされる。環境の急変、慣れない食物、さらに生水。
日本で生まれ育った少年に、耐えられるはずがない。獅道は、あっという間にやせ細っていった。普通の少年なら、死んでいてもおかしくなかっただろう。
だが、獅道は生き延びた。生れつき丈夫な体の持ち主だったのか、あるいは運が良かったのか。彼は、粗末な食べ物や生水にも慣れていった。
また、キョウジたちのフォローもあった。唯一、日本語を話せるキョウジが、身の回りの世話をしてくれたのだ。彼の存在が、獅道の不安を和らげていた。
さらに、獅道と同じ年頃のレンという少年も、小屋を訪れるようになる。レンは力が強く、動きも速い。だが、とても心優しい少年であった。食物が体に合わず、吐き続けていた獅道を助けてくれたのはレンである。糞尿の処理も小屋の掃除も、文句ひとつ言わずやってくれた。
そんな二人に助けられ、獅道は少しずつではあったが、今の環境に溶け込んでいった。
キョウジは、事あるごとに言っていた。
「おとなしくしていたら、お前は必ずニッポンに帰れる。いつかは、俺もニッポンに行くからな。だから、ニッポンで会おうぜ」
その言葉を発する時、キョウジの顔には強い憧れの表情が浮かんでいた。まだ見ぬ国、日本に対する気持ちが感じられた。
実はキョウジは、日本人ビジネスマンとタイ人売春婦との間に生まれた子なのである。だが父親は、生まれたばかりのキョウジと母を見捨てて、日本に帰ってしまった。キョウジは路地裏で成長し、たったひとりで生き抜いて来た。
その話を聞いた獅道は、彼に深く同情した。いつか、キョウジやレンたちを日本に招待する……その思いだけが、獅道を支えていた。
そんな、ある日のことだった。
小屋の中にいた獅道の耳に、奇妙な音が聞こえてきた。パタパタパタパタ、という乾いた音だ。続いて、悲鳴のような声も……何だろうと首を捻った直後、キョウジが小屋の中に飛び込んで来た。
「今すぐ逃げるぞ!」
叫ぶと同時に、キョウジは獅道の手を引っ張る。二人は、そのまま森の中に飛び込んで行った──
全ては、後からわかったことである。
キョウジたちの働いている工場を、突然銃を持った男たちが襲撃した。彼らは銃を乱射し、大人たちを次々と殺していった。だがキョウジは、いち早く異変に気づく。数人の子供たちを連れ、キョウジは密林の中に逃げ出した。
その襲撃者は、キョウジらとは対立している別組織に所属している者たちであった。
もっとも、当時の獅道はそんな事情を知るはずもない。彼は生き残った子供たちと共に、ジャングルへ逃げ込んだ。木や草の生い茂る中、人里を目指し進んで行く。キョウジやレンたちと共に、獅道は必死で歩いた。
やがて、飢えと渇きが獅道たちを襲う。周りはジャングルだとはいえ、幼い子供たちだけでは食料を調達することなど困難である。
ついに、一番幼い仲間が飢えと渇きにより命を落とした。少年たちは、呆然となりながら仲間の死体を見ていた。涙を流す余裕など、彼らにはない。
少年たちの中には、別の思いが湧き上がっていた。
異様な空気が、少年たちを支配していた。飢えている彼らの前には、仲間の死体がある。ついさっきまで、友だった者。同じ地獄を体験し、助け合い、共に生き延びてきた。
その仲間が、肉の塊と化して横たわっている──
そう、少年たちの前には肉があった。食べてはならないはずのもの。だが、皆は飢えている。
「お前ら、こいつを食うぞ」
言ったのはキョウジだった。彼はナイフを抜き、静かな表情で皆の顔を見る。
「このままだと、みんな飢え死にするだろう。でも、俺はこんな所で死にたくない。仲間の死体を食ってでも、俺は生きる……生きなきゃならないんだ」
キョウジの言葉に、逆らえる者などいない。子供たちは皆、何かに憑かれたような表情で彼を見ていた。
「お前ら、忘れるなよ。俺は、こいつの肉を食べる。だからこそ、生き延びなきゃならないんだよ……こいつの分までな。俺は絶対に、生きてニッポンに辿り着くんだ。そのためなら、仲間の肉でも食べる。覚悟がない奴は、食わなくていい」
静かな口調で言った後、キョウジはナイフを突き刺した。仲間の死体をバラバラに解体し、肉を切り取り焼いていく。
普通ならば、吐き気をもよおすであろう行為。だが、子供たちは喰らったのである。かつて友だった者の肉を喰らい、血をすすった。
無論、獅道も食べた。
生き延びるために。
やがて、キョウジたちは密林を抜けることに成功した。
最初は七人だった少年たち。だが、町に着いた頃には三人に減っていた。弱い者たちは途中で命を落とし、生き残った者たちの食料になったのである。
獅道もまた、生き延びた。皆の中で、一番ひ弱だったはずの彼。だが獅道は、人肉を食らいながら必死で歩き続けたのだ。
その後、キョウジたちは日本大使館へと駆け込んだ。獅道は、日本国籍を持っている。ならば、助けてくれるはずだ……その可能性に賭けたのだ。
結果、獅道たち三人は日本へと行くこととなった。獅道、キョウジ、そしてレン。
獅道は養護施設『人間学園』に預けられ、キョウジとレンはとある宗教団体に引き取られた。
ラエム教という、いかがわしい新興宗教団体に。