島田義人(3)
「島田のことなら知ってるよ。あいつは、本当にいい奴だった」
江崎博敏は、複雑な表情で言った。黒ぶちの眼鏡をかけた顔は、インテリの雰囲気を漂わせている。事実、彼は大卒だ。刑務所まで行くような人間のほとんどが中卒であり、高卒は十人にひとり……いるかいないか。大卒に至っては、百人にひとり程度の割合だろう。
したがって、江崎のような大卒は、刑務所ではエリートと呼ばれる。
今回も、彼ら二人はカラオケボックスにいた。
江崎は、思い詰めた様子でソファーに座り、テーブルの上に視線を落としている。一見すると、とても真面目そうな青年だ。しかし三年前、大麻の栽培で逮捕され刑務所に服役したのだ。その筋では、そこそこ有名な存在だったらしい。
そして今も、この男は大麻を続けている。さらに、医療用大麻を推進する団体にもかかわっているし、大麻を擁護する記事をネットに上げている。
ある意味では、金だけが目当ての犯罪者よりも、始末に負えない存在であった。
「あなたは、島田義人ととても仲が良かったそうですね?」
今川の問いに、江崎は頷いた。
「そうだよ。あの刑務所は最悪だったけどな」
「ええ、他の人からも聞いています。花岡と堀江の二人が、工場を思いのままに牛耳っていたんですよね」
「あいつらは、どうしようもないクズだったよ。俺は、奴らが入って来てから、一年ちょいで出られたからよかったけどな。三年間あの状況で懲役やれって言われたら、気が狂うかもしれないな」
語った後、江崎は顔をしかめた。彼もまた、ひどい目に遭っていたらしい。
「島田が脱獄したと聞いて、どう思いました?」
「そりゃあ驚いたよ。まさか、島田があんなことするなんて……脱獄なんかしたって、何もならないからな。あんた、脱獄したらどうなるか知ってるか?」
突然そんなことを聞かれても、答えられるはずがない。今川は、首を横に振った。
「いいえ、知らないです。脱獄をしたら、どうなるんですか?」
「まず、捕まったら刑務所に戻される。さらに、逃走罪という刑が追加される。それはわかるよな?」
「はい」
今川は頷いた。受刑者が脱獄した場合、加重逃走罪となる。五年以下の懲役だ。
「でもな、それだけじゃないんだよ。一回でも脱獄しようとした奴は、特別な房に入れられるんだ。二十四時間、カメラの監視付きの特注部屋さ。俺は絶対に御免だね」
「いやあ、それはつらいですね」
「だろ? 脱獄なんか、するだけ無駄なんだよ。その後のプランも無いのに逃げ出すなんか、バカのやることだよ」
吐き捨てるような口調で、江崎は言い放った。彼の話は、聞いていて面白い。が、そろそろ本題に入らせてもらうとしよう。
「なるほど。では、島田義人はバカだったんですか?」
瞬間、江崎の表情が険しくなった。
「はあ? お前、何を言ってるんだよ?」
怒気を含んだ口調だ。その目にも、凶暴な光が宿っている。しかし、今川は怯まなかった。平静な様子で言葉を返す。
「あなた今、言いましたよね? プランも無いのに逃げ出すのはバカのすることだ、と。島田は、その程度のことも理解できないバカだったのですか?」
直後、江崎の顔が歪む。今川は一瞬、彼が殴りかかって来るのではないかと思った。事実、江崎は拳を握りしめ、体を震わながら今川を睨みつけている。だが、今川はその視線を正面から受け止めた。上手くいけば、彼から本音を引き出せるはずだ。その本音と引き換えに、一発くらい殴られても構わない。
ややあって、江崎はふうと息を吐いた。住友のようなバカなチンピラと違い、怒りをコントロールする術を心得ているらしい。歪んだ笑みを浮かべて口を開く。
「ああ、その通りだよ。島田は、本物の大バカさ。あいつは、全てを承知した上で脱獄しようとしてたんだと思う」
「どういうことです?」
「島田は、本気であの刑務所を何とかしようとしてた。あいつは、花岡や堀江とも上手くやってたんだ。見て見ぬふりをしていれば、あと三年もすれば二人とも出所するはずだったんだよ。そうすれば、まともな刑務所になっていたはずだ。だが、島田はそうしなかった」
「なぜ島田は、見て見ぬふりをしなかったんでしょうか?」
「たぶん、宇津木のことに責任を感じていたんだと思う」
その名前は初耳である。何者だろうか。
「ええっと、何者ですか?」
「工場に、宇津木って奴がいたんだよ。下の名前は知らないが、罪名はシャブだったのは覚えてる。はっきり言って、生意気な奴だったんだよ。五工場に来て、早々に花岡に目をつけられた。後は、お決まりのパターンさ」
「いじめ、ですか」
「そうさ。しかも宇津木の場合、同じ房の奴らが最悪だった。五工場でも、一番ひどい部屋だったんだよ。部屋長の川田ってのが、本当に頭おかしいって噂でな。宇津木は、毎日とんでもない目に遭わされてたらしい。本当かどうか知らねえが、ナニをしゃぶらされたって話だ」
「そうですか……」
少年院や刑務所を出たり入ったりしている者の中には、ゲイというわけでもないのに、性的なことを強要する男もいるらしい。俺に逆らったら、こうなるぞ……ということを周囲に知らしめ、恐怖感を煽るためだ。確かに、脅しの効果は抜群だろう。
「普通なら、すぐに花岡に詫び入れるんだよ。そうすれば、いじめはすぐに終わってたかもしれない。ところがだ、宇津木はどうしようもないバカだった。刑務官の熊井に、情願書を書かせてくれと訴えたんだよ。あんた、情願書は知ってるよな?」
「はい、知っています」
情願書とは……受刑者が監獄の措置に不服ある時、法務大臣または巡閲官吏に情願するために書く文書のことだ。
監獄法の第七条により定められた受刑者の権利だが、どこの刑務所でも書いて欲しくないものである。ましてや奈越刑務所の場合、刑務官が全力で阻止するであろう。
「そんなもん、熊井が書かせるわけがない。当然、却下されたよ。しかも、いじめはさらにひどくなった。その時になって、ようやく宇津木は詫びを入れたんだが……花岡はやめさせなかった。情願書を書く、という一言で完全にキレたんだろうな。いじめを続けさせたんだよ」
熊井とは、島田や江崎が服役していた五工場の担当刑務官だ。ある意味では、花岡よりもたちの悪い男だろう。
「恐ろしい話ですね」
「最終的に宇津木は、精神を病んじまった。挙げ句、運動の時間に首を吊ろうとしたのさ。みんなが目を離した一瞬の隙に、用具入れに入りこみ、シャツをロープ代わりにして首に巻いてぶら下がった。すぐに見つかったからよかったけど、あれはひどかったぜ」
「そうでしたか。で、その宇津木さんはどうなったんです?」
「医療刑務所に送られたって聞いたけど、意識は戻らなかったらしい。昏睡状態で、今も入院してるとか……花岡が、自慢げに言ってたぜ。たぶん、シャバにいる手下に調べさせたんだろうな」
ふと、市原も似たような話をしていたのを思い出した。
「そういえば、そんな話をしていた人がいたのを思い出しましたよ。でも、その宇津木さんの件は報道されなかったですよね」
「当然だよ。表向きには、ただの事故として処理されたからな。事件を隠蔽するのが、当たり前の世界だったよ」
予想通りの答えだった。刑務所の中で、ひとりの受刑者が事故に遭ったくらいのことでは、たいしたニュースにはならない。同じ日に有名な芸能人が逮捕されたりしたなら、報道すらされないだろう。
「なるほど。では、その宇津木さんと島田とは、何か関係があったのですか?」
「実はな、宇津木が首を吊る少し前に、島田に相談したらしいんだよ。あいつは、それなりに顔の利く存在だったからな。間に入ってもらえば、何とかなるかもしれないと思ったんだろう。ところが、島田はそんな揉め事にかかわりたくなかった。だから、冷たく突き放したと……本人が、そう言ってたんだよ」
それは、ごく当たり前の対処だろう。誰だって、自分の身が可愛い。厄介事には、かかわりたくないと思うのが普通だ。
「それは、やりきれないですね。まあ、仕方ないことですが」
「そうなんだよな。普通なら、仕方ないって考える。でも、島田は違ってた。あいつは、責任を感じてたんだよ」
江崎は、神妙な顔つきになっていた。
「だから、島田は脱獄したと……あなたは、そう思うんですか?」
「俺は、そう思うよ。島田は、ぼそっと言ってたんだよ……死人でも出ない限り、この現状は変わらないってな。ひどく思いつめた表情だった。本当に、人ひとりくらい殺しかねない様子だった。だから、俺は言ったんだよ。脱獄でも起きれば変わるんじゃねえの、って。冗談のつもりだったんだが、あいつ真剣な顔で頷いてたよ」
江崎の言葉は、今川の予想を裏付けるものだった。
両親と兄を目の前で失い、家族でただひとり生き残った島田義人。幼い時の彼は、目の前で誰かが叱られていると、ひどく落ち着かなかったらしい。さらに成長するにつれ、他人を庇うようになった。自分の安全よりも、他人の安全を優先する男になってしまった。
それらは全て、幼い頃の事故が原因なのだろう。両親と兄が目の前で死に、自分ひとり生き延びたことに罪悪感を覚えていた。自分の代わりに、家族が死んだ……そう思い込んでいたのだろう。島田は、自分を痛め付けることで心の平安を得ていたのかもしれない。マゾヒストのような性的なものではなく、他人の痛みを己が受けることで、自分を安心させていたのだ。
そんな島田も、刑務所の中では上手くやっていたらしい。恐らくは、自身のトラウマを無理矢理に封じ込め、無事に出所することだけを考えていたのだ。
事実、途中までは上手くいっていた。ところが、宇津木の自殺未遂により、島田の封じ込めていたトラウマが目覚めてしまった。島田は、己を責めたのだろう。俺が間に入ってやれば、宇津木は助かったかもしれない。俺のせいだ……と。
明らかに間違った思いである。だが、その間違った思いが、島田を脱獄へと駆り立てた──
「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ。あんたは、この事件を調べ直している。しかも、わざわざ俺みたいなのに取材しに来た。てことは、あんたも、あの事件はおかしいと思ってるんだろ?」
去り際、江崎は聞いてきた。今川は、真面目な顔で頷く。
「はい。僕は、あの事件はおかしいと思っています」
「そうだよな……島田は、刑務所の内情を告発するために脱獄したんだぜ。なのに、なんで人殺しなんてしたんだろうな。しかも、人質を取った挙げ句に銃を乱射するなんて、絶対におかしいよ。何か、事情があったとしか思えない」
「その事情とは、なんだと思います?」
逆に聞き返した今川に、江崎は苦笑した。
「そんなこと、俺にわかるわけないだろう。だから、あんたに頼みたいんだよ。真相がわかったら、俺に教えてくれ」
「わかりました」
一応は返事をしたものの、それは無理な約束だった。
今川の予想が正しければ、この事件の真相は公表できないものだから。
江崎が帰った後、今川はひとりで考えていた。
先ほど聞いた話により、今川ははっきりと確信した。島田は、刑務所を変えるために脱獄したのだ。この結論は、最初から想定内であった。
だとしたら、島田は何のために松村広志を殺したのだろうか。
告発が目的であるなら、人質を取り逃走する必要はなかったはず。
もしかしたら、脱獄の直後……何か、のっぴきならない事情に遭遇してしまった。その事情のため、島田は逃亡生活を続けなければならなくなった。
その事情とは何か?
「義人、お前は本当にバカだよ」