今川勇三(2)
「まさか、こんなことになるとはな」
路肩に停めた車の中で、スマホの画面を見つめながら、今川は自嘲の笑みを浮かべる。
初めは、すぐに片付くだろうと思っていた。松村弘志と島田義人、そして夏帆たちの周辺を調べれば、すぐに真相に辿りつくだろうと。
だが、事態は予想以上に複雑であった。
松村弘志は、想像を遥かに超えるクズであった。
弱者に暴力を振るい、自身の娘に対してさえ差別的な感情を抱いていた。実の弟である松村輝は、兄が死んだと聞き「ざまあみろと思った」と言っている。それは、偽らざる本音なのだろう。
今川は、輝の顔を思い出した。生気の感じられない、死んだ魚のような目が印象的だった。あの男の心には、ぽっかりと巨大な穴が空いている。幼い頃から、家族からの絶え間のない暴力によって空けられた穴だ。そこは、もはや壊死している。他人からの愛情には、欠片ほどの期待も持っていない。明日という日に対しても、何の希望もないのだ。
輝は、世間的に見れば褒められるような人間ではない。いわゆる「負け組」であり、実の兄が殺されたことに対し「ざまあみろと思った」「犯人を褒めてやりたい」とまで言ってのけた男である。はっきり言ってしまえば、サイコパスに分類されるのかもしれない。
その心に空いてしまった穴は、いつか全身を蝕んでいくのだろう。彼はそれに耐え切れなくなり、自ら命を断つのかもしれない。あるいは、衝動的な通り魔と化す可能性もある。本人も自嘲気味に語っていたが、野垂れ死には避けられないだろう。
それでも今川は、輝を嫌いにはなれなかった。あの男はもう、普通の人間の幸せは掴めないかもしれない。幸せと感じるはずの部分が、もう死んでいるのだから。ならば、せめて残りの人生を平穏無事に過ごして欲しい。
次に今川は、島田義人のことを考えた。
かつて囚人だった市原圭吾は、はっきりと言っていたのだ。
(あいつは、上手くやってたよ。花岡たちにも逆らわなかったし、問題も起こさなかった。むしろ、気に入られていた方だったな)
(感じのいい男だった。他の連中と違って、イキがったり偉そうな態度も取らなかったしな。島田を悪く言う奴は、五工場ではいなかったんじゃないかな)
市原から聞く限りでは、奈越刑務所の五工場はとんでもない場所であったらしい。アメリカのB級映画では、一部の囚人が看守を仲間に付け、刑務所を我が物顔で牛耳っている……という描写がある。だが、現実にそのような状態だったようだ。
そんな場所であるにもかかわらず、島田は周囲の人間と上手くやっていたようだ。評判も悪くなかった。生来の性格の良さもあるだろうが、少年院などで学んだ処世術なども上手く使い、彼は刑務所では敵を作らず過ごしていたようだ。
ところが、島田は脱獄した──
今の日本では、脱獄など百害あって一利あるかないか。脱獄した後、海外に行って別人として生きる……というルートがあるなら話は別だが、刑務所でおとなしく刑期を務めた方が遥かに得である。終身刑ならばいざ知らず、島田はあと七年で出所できたのだ。仮釈放を考慮すれば、あと五年から六年程度で出られたかもしれない。
それを考えると、島田の脱獄は本当に無意味なものだ。
しかも、その後の行動は無茶苦茶である。B級映画の悪役のようだ。警官隊やマスコミの前で猟銃を乱射する……これは、射殺してくれと言っているのと同じだ。
しかも、島田は猟銃を乱射してはいるが、現場にいた人間は傷ひとつ負っていない。映像で見る限り、銃口は宙に向けられている。では、何のために乱射したのだろう。
さらに、夏帆と栞のことも考えてみた。
新宅彩美から聞いた話によれば、娘の栞は島田に懐いていたらしいのだ。
(首からメモ帳をぶら下げて、ニコニコしながら島田と手を繋いで歩いていたんですよ。だから、変わった子だなあ……って、凄く印象に残っていたんです)
(栞ちゃんは、島田を完全に信頼しているように見えました。こう言ってはなんですが、とても微笑ましい光景でした)
あの新宅の言葉に、嘘はなさそうだ。夏帆をネットで誹謗中傷したのは許せないが、得られた情報そのものは貴重である。
となると、またしても疑問が生じる。自身の父を殺した男と、手を繋いで歩く……どう考えても有り得ない。
今川は、栞と初めて顔を合わせた時のことを思い出した。栞は、恐怖に震えながらこちらを見ていた。まるで、怪物でも見るかのような目だった。単なる人見知り、というわけではない。
もしかしたら、栞は常人離れした勘の持ち主なのかもしれない。俺は人を見る目がある、などと住友顕也は言っていた。だが、栞は住友よりは人を見る目がありそうだ。
とにかく栞は、島田を完全に信頼していた。それは、ストックホルム症候群の為せる業なのか。
あるいは、島田を信頼してしまうような何かがあったのか? 自分の父を殺した男に、全幅の信頼を寄せてしまうような事態が。
今川の頭には、ひとつの可能性が浮かんでいた。それは、非常にバカげた話である。以前に今川は、この事件を「こんな展開、ご都合主義のネット小説でも有り得ない」と、夏帆に向かって言ってのけた。
だが、事実は小説より奇なりという言葉もある。
・・・
市原圭吾は、コンビニの袋を片手からぶら下げて歩いていた。
時刻は、夜の七時である。彼の住んでいる場所は真幌市の住宅地であり、人通りは多くはない。
ぶすっとした表情で家路を急いでいた市原だったが、ピタッと足を止めた。
十メートルほど先に、ひとりの中年男が立っている。灰色の地味なスーツを着ており、年齢は四十代後半から五十代くらいだろう。身長はさほど高くないが、肩幅は広くがっちりしており、腕力は強そうだ。髪は、てっぺんの方からだいぶ薄くなってきていた。
もっとも、髪型よりも耳たぶの方が特徴があった。潰れてでこぼこになっており、カリフラワーのような形になっている。柔道を長年やっていた者に特有の形だ。目つきは鋭く鼻は曲がっており、こちらをじっと見つめている。
市原は、相手が何者なのか瞬時に悟った。一瞬、その場から逃げ出したい衝動に駆られる。
だが、それをやってはいけない。平静を装いながら、目を逸らして歩き続ける。
中年男の横を、さりげなく通り過ぎようとした時だった。
「すみません、市原圭吾さんですよね?」
その声に、市原は立ち止まった。顔を上げると、中年男はこちらを真っすぐ見ている。予想通りであった。
「はい、そうですが何か」
市原は、顔をしかめながら答える。この中年男、恐らく刑事だ。となると、任意の事情聴取だろうか。刑事という連中は、何か事件が起こった場合、まずは管轄内の前科者を調べてみる。それが、彼らのセオリーなのだ。
もっとも、今の市原は、犯罪とは無縁の生活を送っている。無職だが、覚醒剤はやっていない。叩かれても、埃の出ない体だ。仮に尿を調べられても、何の問題もない。ガサ入れをされても大丈夫だ。
とはいえ、刑事に身の回りをうろうろされても困る。あまり気分のいいものではないし、今後の生活に何かしらの影響を及ぼすかもしれないのだ。
彼の反応を見た中年男は、ポケットから何かを取り出す。これまた、予想通り警察手帳だった。
「私、加賀谷巧といいます。あなたに、是非ともお聞きしたいことがありまして……ちょっとだけ、お時間よろしいでしょうか?」
いかつい顔に笑顔を浮かべ、加賀谷は聞いてきた。
「申し訳ないんですが、断ります。逮捕状があるなら見せてください。ないなら、帰ってください」
いかにも不快そうな様子で、市原は言い放った。刑事に話すことなど何もない。自分は、もう覚醒剤とは縁を切ったのだ。なのに、まだしつこく追いかけ回されるとは。
すると、加賀谷はかぶりを振った。
「なんか誤解されているようですね。私は、あなたについて聞きたいわけではありません。あなたが覚醒剤をやろうがやるまいが、私には関係ないのですよ。私が聞きたいのは、あなたの知人についてです」
「知人?」
「ええ、そうです。すぐに終わりますから、お願いしますよ。私のことをさっさと追っ払いたいのでしたら、知ってることを話した方が早いですから」