夏帆と栞(2)
「あ、すみません……あなた、本当にルポライターなんですか?」
新宅彩美は、上目遣いに今川を見つめる。おどおどした態度であり、自分に自信がないタイプであるのがこちらにも伝わって来た。
待ち合わせ時間の五分前に、新宅は現れた。場所は、駅の近くのファミリーレストランだ。
彼女は地味な服装で、眼鏡をかけている。体型はやや太めで、背は低い。なぜか、カピバラを連想させる顔つきだ。年齢は、二十代後半から三十代前半か。以前に取材した光穂由紀よりは、遥かに好感が持てる女性だ。
その裏の顔さえ知らなければ、だが。
「はい、間違いなくルポライターですよ。そうは見えないですか?」
今川が聞き返すと、新宅はこくりと頷いた。彼の目を、まともに見ようとしていない。どうやら、男と一対一での会話に慣れていないようだ。
「ルポライターって、事件を取材したりするんですよね。てっきり、怖そうな人が来るかと思ってたんです。そしたら、こんな……」
そこで、新宅の言葉が途切れた。何を言えばいいか、適切な言葉が思い浮かばないらしい。そこで、助け船を出してあげた。
「こんな軽薄そうな男が来るとは思わなかった、でしょうか? すみませんね、軽そうで」
おどけた仕草で、頭を下げる。すると、新宅は慌てた様子で首を横に振る。
「ち、違いますよ! あ、あの、想像より全然カッコイイ人だったんで……」
そこで、またしても言葉に詰まる。気に入ってもらえたのはありがたい。気に入られないよりは、情報を集めやすいからだ。
だが、こんな調子では話が進まない。
「いやあ、それは光栄ですね。ところで、あの事件についてお聞きしたいのですが、大丈夫ですか?」
今川の言葉に、新宅は慌てて頷いた。
「は、はい!」
「ありがとうございます。では、確認しますね。あなたは、島田義人と夏帆さんと栞ちゃんを真幌市内で目撃した……これに、間違いはないですか?」
「はい、間違いないです。その時は、二人が人質だなんて知らなかったけど……後から、テレビで夏帆って人がインタビューされてるの見て、この人だってピンと来ました」
ピンと来た、か。確かに、夏帆の顔は綺麗だ。栞の方も、幼い子供という点を抜きにしても可愛い顔である。見た人の印象に残るのは間違いない。
それはよしとしよう。問題なのは、島田が人質の二人を町中で連れ歩いていたということだ。刑務所から脱走した上、強盗殺人という大罪を犯した挙げ句に逃げ回っている者にしては、あまりにも無用心すぎる。
あるいは、島田には別の考えがあったのか。
「なるほど。夏帆さんと栞ちゃんは、どんな感じでした?」
その時、新宅の眉間に皺が寄った。表情も鋭くなっている。
「はっきり言って変でした」
「変? どういうことです?」
「だって、栞ちゃんと島田は手を繋いで歩いてたんですよ。あれは、誰が見てもおかしいです」
新宅は、勢いこんで語った。聞いてくださいよ、という気持ちが全身から滲み出ている。今まで、言いたくて言いたくて仕方なかったのだろう。
もっとも、この情報は重要である。
「手を繋いでいた? 本当ですか?」
尋ねる今川に、新宅はウンウン頷く。
「ええ、間違いありません。あの栞ちゃんって娘、首からメモ帳をぶら下げて、ニコニコしながら島田と手を繋いで歩いていたんですよ。だから、変わった子だなあ……って、凄く印象に残っていたんです。間違いありません」
「メモ帳、ですか。確かに変わってますね」
確かに変わった話だ。人質にして連れ回している娘と、手を繋いで散歩とは。
栞の態度もおかしい。目の前で父を殴り殺したかもしれない男と、手を繋いで歩くだろうか。
「そうなんですよ。栞ちゃんは、メモ帳とペンをペンダントみたいに首から下げてました。そのメモ帳で、島田と会話していたんです」
「会話ですか?」
「はい。栞ちゃんは、メモ帳に何か書いて島田に見せていました。島田も、そのメモ帳に何か書き込んでいました。恐らく、筆談していたんだと思います」
なるほど、と思った。島田は手話が出来ない。だからこそ、栞とは筆談で意思の疎通を図るしかなかったのだろう。夏帆のアイデアだろうか、それとも島田が思いついたのだろうか。いずれにせよ、実に細やかな気遣いだ。
その筆談に、律儀に付き合ってあげている島田の姿を想像した瞬間、今川は思わず笑ってしまった。はっきり言って、強盗殺人という大罪を犯した脱獄犯らしからぬ行動である。
「栞ちゃんは、耳が聞こえないですからね。島田も、手話は出来ない。となると、会話は筆談しかないですね」
「そうみたいですね、私も後で知りました。栞ちゃんが懸命に筆談してるのが凄く可愛くて、思わずじっと見ちゃいました」
「なるほど。つまり、あなたの目から見て島田と栞ちゃんは仲が良かった。少なくとも、犯人と人質という関係には見えなかった……というわけですね?」
「はい、そんな風には見えなかったです。あたし、てっきり親子かと思ってました。父親が、娘を連れて散歩してるのかと」
「そうでしたか。いや、それは意外ですね」
島田は、子供には優しい男だ。そのことは、これまでの取材を経てわかっている。
だが、栞の方も彼に懐いているとは想定外だった。あの子は、人見知りする性格だ。初めて会った時、怯えきった表情で震えながら今川を見ていた姿を覚えている。
そんな栞と、短期間で仲良くなれるとは……警戒心の強い野良猫を手なずけるのと同じくらい、難しいことに思える。
「だから、あの二人の関係を知った時は驚きました。まさか、全国に指名手配されてる犯人と人質だなんて、ぜんぜん見えなかったです」
新宅の言う通りだ。今までの話を聞く限り、犯人と人質らしからぬ姿である。だが、犯人と人質は厄介な関係になる可能性もある。その疑問をぶつけてみることにした。
「ストックホルム症候群、という言葉をご存知ですか?」
「えっ? ああ、知ってますよ。誘拐された人質が、犯人に好意を抱く現象ですよね」
即答する新宅に、今川は微笑んだ。
「その通りです。詳しいですね。栞ちゃんは、そのストックホルム症候群だったのではないでしょうか?」
「うーん、上手く言えないけど……ちょっと違うと思います」
「どう違うのでしょうか?」
「何て言うか……栞ちゃんは、島田を完全に信頼しているように見えました。こう言ってはなんですが、とても微笑ましい光景でした」
「微笑ましい、ですか。確かに、それは妙ですね」
「しかも、その後に夏帆さんが現れたんですが、本当に楽しそうでした。栞ちゃんの頭を撫でながら、島田と笑顔で話してたんです」
そう語る新宅の顔には、先ほどまでとは少し異なる表情が浮かんでいた。恐らく、こちらが彼女の真の顔なのだろう。
「その後、三人はどうしました?」
「町中を、のんびりと歩いていきました。誰が見ても、あれは家族にしか見えなかっと思いますよ」
「なるほど。そのことを、警察には言ったのですか?」
「言いましたよ! でも、相手にされなかったんです!」
怒りもあらわに、新宅は言った。自分の話を聞いてもらえなかったことを、未だに根に持っているらしい。
なんとも奇妙な話ではある。犯人と人質が、仲良く手を繋ぎ歩いていた……警察にとって、調べる価値はあるはずだ。少なくとも、情報の真偽を確かめるくらいのことはするはずだ。しかし、警察は新宅の証言を完全に無視した。
まあ、いい。それは、後で考えるとしよう。今から、非常に面倒なことをしなくてはならないのだ。
「なるほど、よくわかりました。ところで、もうひとつ聞きたいことがあります」
「なんですか?」
「夏帆さんですが、ネットで誹謗中傷されていたんですよ」
その途端、新宅の表情が変わった。視線を泳がせながら、どうにか答える。
「あ……ああ、そうみたいですね」
「本当に、ひどい話です。あの女は島田の肉奴隷だった、とか何とか書かれてました」
言いながら、今川は新宅を見つめる。すると、彼女は目を逸らした。
「ひどいですね。そんな悪口を書き込んで、何が楽しいんでしょうか」
その瞬間、今川の目がすっと細くなった。
「あれは、あなたが書き込んだんですよね」
言った途端、彼女の体がびくりとなる。
「は、はい? 何を言ってるんですか?」
「ごまかさないでください。僕にはわかっているんですよ。あなたは、ネットの掲示板に毎日のように悪口を書き込んでいましたよね……夏帆さんの悪口を」
そう、見た目は真面目そうだが……この女は、夏帆の悪口を書き込んでいたのだ。それも一日に数回、毎日書き込んでいたのである。その内容も、かなり酷いものだ。
(夏帆は淫乱女だった)
(旦那を殺した相手とヤリまくってたクズ)
(犯人の島田とホテルから出てきたのを見た)
あちこちの無関係な掲示板に、こんなことを書き込んでいたのだ。恐らくは、自身の証言が警察から無視されたことに腹を立てて書き込んだのだろう。
当の新宅は、体をぶるぶる震わせている。ネットでは極悪だが、リアルでは何も出来ないタイプらしい。光穂や住友なら、今頃ブチ切れて席を立っていたかもしれない。だが、彼女には無理だった。知らぬ存ぜぬで押し切るやり方もあったはずだが、そちらも出来なかった。こういう状況に慣れていないため、どうすればいいのかわからないのだ。
ややあって、新宅は絞り出すように声を発した。
「ど、どうする気?」
すると、今川はニッコリ微笑んだ。
「心配しないでください。警察に言う気はありません。それどころか、その話を詳しく聞かせて欲しいんですよ」
「えっ?」
唖然となる新宅。今の表情や、これまでのやり取りを見る限り、彼女は根っからの悪人ではないらしい。自分の証言が、警察に相手にされなかった……歪んだ正義感から来る怒りが、ネットでの誹謗中傷へと駆り立てたのだ。
だからといって、許される行為ではないが。
「実はね、僕が調べたいのは、あの事件のことだけじゃないんですよ」
「じゃ、じゃあ、何を……」
困惑の表情を浮かべる新宅に、今川はニッコリ微笑んだ。
「あなたです」
「は、はい?」
「ネット掲示板に、悪口を書き込む……この時の心境なんかを、詳しく取材させていただきたいんですよ。どうでしょうか?」
「そ、それは──」
「もちろん、ただとは言いません。取材費をお支払いします。それに、発表する時はあなたの名前は伏せます。あなたの個人情報が洩れる心配はありません」
今川は、新宅をじっと見つめた。だが、彼女は俯いている。今川の目を見ようともしない。
「駄目、ですか?」
少し悲しげな声音で、今川は尋ねた。もっとも、彼にはわかっている。この女は、もうじき落ちるはずだ。
今川の予想は適中した。新宅は、ためらいながらも首を縦に振る。
「ありがとうございます。でしたら、もっと静かな場所に行きませんか?」
「えっ?」
「実はですね、レストランを予約しているんですよ。隠れた名店でしてね、客は僕らの他にはいません。味はもちろんですが、内緒の会話をするにも持ってこいですよ。どうでしょうか?」
言いながら、今川は立ち上がった。音もなくスッと動き、新宅の隣に腰掛ける。
その途端、彼女はびくりと反応した。
「ちょ、ちょっと、何をする──」
「あなたが望むなら、僕は何もしません。このまま、すぐに帰ります。二度と、あなたの前には姿を現しません。でも、それでいいんですか? その選択に、後悔はありませんか? ここで、僕との縁を断ち切ってしまっていいんですか? せっかく出会えたんですよ」
落ち着いた口調で、今川は尋ねた。急かすわけでも、威圧しているわけでもない。その顔には、優しげな笑みが浮かんでいる。
新宅は下を向いた。だが、すぐに顔を上げる。
「い、行きます」