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「それから」という作品を読み返して感じたのは、代助が三千代を好きになったのは、彼が自分の運命を主体的に決める為に選んだのではないかという事だ。実際、作品内で代助は、社会的に安寧であれるようなお見合い相手と三千代を天秤にかけているのだが、お見合い相手でも、そこそこ普通の結婚生活は送れるだろうという感じがする。作中の描写を見た時、三千代とお見合い相手との個性の強烈な差別化が図られているとは思えない。二人の女性の差異はあまりなく、主人公の立場からの相違が相手の個性として反映されているように見える。ここで代助は、自らを運命の淵に追いやる為に三千代という女性を「利用」する。そんな風にも見える。
ここには漱石が、意志と主体性の作家である素性が見えている。日本という土壌は、主体性や意志とはかなり縁遠い社会ではないかと最近ますます感じているのだが、そういう中で漱石はそういう作家であろうとしたように自分は感じる。
近代において生んだ最大のものは「人間」という概念ではないかと先に自分は言った。これは現代では、かなり卑俗なものに堕してしまった。「人間」という、平等、自由を基調とする近代で最も重要な概念は、それが一度達成されてしまうと、結局の所、個人の尊重と言いつつ、もっと金が欲しいと言ったような卑俗なものに低下した。革命は起こった。社会は、人々のものとなり、自由な資本主義の社会がやってきたが、その中で、「人間」というものの主張は、せいぜいもっとかまってほしいとか、もっと金が欲しいとか、そういうものにいつの間にか変質化した。
村上春樹、吉本ばなな、川上弘美という系列の作家を考えてみる。この系列で最大の作家であり、夏目漱石を意識しているらしい村上春樹という存在に考えてみると、村上春樹の作品にある倫理性は、消費社会の肯定というラインで留まっている。村上作品は海外で読まれているそうだが、大方、エンタメとして読まれているのだろう。エンタメとは、消費社会において、「観客」化した大多数の人間の価値観に沿って、彼らの時間を埋めるなにものかであるという事だ。この世のあらゆる全てのコンテンツがそういうものだ、と現代人はしたり顔で言うだろうが、そういう見方からダンテを読み、ドストエフスキーを読み、ソフォクレスを読むのだろう。そのような観客が一般化した世界に我々はいて、彼らは自分達を絶対化、てこでも動かない大地のように考えているので、あらゆるものは自分の享楽物にしか見えない。だが、そういう人をも押し流して歴史は進んでいく。
近代において強調された自我、主体、人間といった観念は、旧制度を打ち破る上で大きな役割を果たしたが、現在ではそれらはただもっと金が欲しいというような事にしかならない。人権の要求、あるいは「明るい未来」「良い社会」のイメージが、結局、金と物の豊穣な流通でしかないというのを自分はさんざん目撃してきた。自由とは、要するに消費する自由であり、金さえあればもっと「使える」のに、というそれ以上の自由というのは想像すらされない。我々は精神を鋳型にはめられている。
川上弘美の「センセイの鞄」という作品を読んで、作者があまりにも何も考えていないのに驚いたが、実際には「純文学」が何も考えなくても「可能」になったという事なのだろう。「センセイの鞄」は引きこもりの文学である。消費社会の中でただなんとなく楽しければいいというそれだけの作品で、「それだけ」がもはや絶対化され、その価値観がここまで決定的に固まってしまえば、それについて考える必要はない。考える必要、抵抗する必要は消えたので、後は「文章が流麗~」といったような趣味性に走れば、「文学的」という事になる。中身はライトノベルと同じだが、その衣装だけが変わっている。ドラマは存在せず、ドラマが消えた後から作品は始まる。葛藤は消失して書くべき事はなくなり、ただ自分達が安寧としている大地を肯定するためだけに作品は紡がれる。それを読者は自分達の肯定と受け取る。