表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

 既に「それから」の話が出たが、基本的には漱石が漱石になったのはこの作品からだと思う。ここで掴んだ明治知識人の苦悩と悲劇を漱石は主題として最後まで押し通した。この辺りは「罪と罰」で主題を掴んだドストエフスキーと似ていて、二人共、四十過ぎてから自分の主題を掴んでいる。漱石は秀才タイプだったが、その底にはゆっくりと時間をかけて問題を掘り下げていく重厚な姿があったと言えるだろう。

 

 「それから」という作品は、今で言うニート・金持ちのドラ息子が恋愛を契機に社会の歯車の中に吸い込まれていく姿を描いたものだが、ここで現れているものはエゴイズムという言葉では片付けられないものがある。

 

 明治には詳しくないが、漱石の時代にはまだ文壇というものははっきりとはできておらず、おそらく明治の青年は近代文学の毒を吸い、おぼろげながら西洋近代というものを体得したのだが、それだけでは生きて行く事はできなかった。石川啄木や北村透谷の夭折は漱石にとって他人事ではなかったのであって、彼らの姿は「それから」の代助に重なって見える。漱石自身は幸運もあったろうし、何より忍耐があったので、悲劇の人生を辿らなくても済んだのだが、漱石の視界には実際に代助のような宿命を演じる者が目に入ったはずだ。高村光太郎などは、父の高村光雲に反発しながらも、親の金で暮らしていた。光太郎は代助と同じ境遇を生きていた。

 

 漠然とした印象だが、漱石の後の世代…イメージしているのは、小林秀雄や太宰治あたりだが、彼らは明治の青年のような苦悩や悲劇を味わわずに済んだ。西洋近代と後進国日本の矛盾に悩んだのは同じだろうが、小林秀雄や太宰治は「昭和の文士」といった雰囲気が強い。小林秀雄は批評家として食っていけたし、太宰治は親から金を貰っていたようだが、一応作家という身分に落ち着いていられた。鴎外ほどの作家ですら、官職を身に纏っていないといけないと心底感じていた時代とは随分の違いを感じる。だから、漱石が専業作家になると決めて新聞社に入ったのは大決断だったとやはり思う。ここでは、江藤淳の意見とは違って、漱石は「自分本位」を貫いたのだろう。それと共にやってくる悲劇を甘受しても、それが人生だと諦念したのであって、鴎外は死を前にしてようやく胸にぶら下げた勲章を地面に置いた。鴎外の「自己本位」は死後に遅れてやってきた。

 

 これで大体言いたい事は言ったわけだが、もう少し続けよう。漱石の作品が日本の国民文学と言えるのは、漱石の「自己本位」が当時の日本国と重ね合わされるからだ。つまり、日本は確かに西欧列強に比べれば劣った後進国かもしれぬが、自分を捨てる事はできない。そこで、例え劣っていても、自己に立脚しつつ、西欧を取り入れながらも自分の道を邁進せねばならない。ここに、日本は西欧を模倣する二級国に過ぎないかもしれないという怯えがむしろ、日本という国の自覚を促したという側面が見える。この領域の正当な後継者は、柳田国男や折口信夫であると思う。

 

 とはいえ、こういう見方は自分はあまり好きではない。結果としてそういう風に言える、というだけの話である。最初から「国民文学」なるものを目当てに小説を書くなどは狂気の沙汰と自分は考えるタイプだ。詩人は小さな世界の中に宇宙を見るのであって、それを他者がどう利用するかは、他者の手に委ねられる。

 

 漱石の文学はそういうものだったと思うが、今、漱石を読み返すと、真に近代文学とは言えない側面が作品の中に入り込んでいるのが気になる。これは指摘されている事だろうが、少し考えてみたい。

 

 これは割と簡単に見えるポイントがあって、「男女平等」ではないという所だ。女性が自立した意識的な存在には漱石作品ではなっておらず、半分くらいは物化している。これは漱石の女性観察が足りなかったとか、同性愛的要素があったとかではなく、やはり日本の後進性が、近代と後進性の間で苦しんだ文豪の作品に反映したものとして見れるかと思う。

 

 具体的には「こころ」のヒロインはお嬢さん、後の先生の奥さんだが、この女性は自立的に男性を選ぶ存在としては機能していない。なんとなく、先生とKの間で宙ぶらりんになった存在で、先生とKの仲を動かす為に出てきたようにも見える。「こころ」という作品は、私、先生、Kの男三人の人間関係で基本的な骨格が成り立っており、ヒロインの奥さんは蚊帳の外である。この前、女性の方が書いたエッセイで「自分はなんだかんだで女扱いで、(男)グループからは疎外される」というような事を書いていた人がいたが、その感覚に近いかと思う。

 

 これに関して、漱石は「明暗」で修正しようとしているように見える(お延というキャラクター)ので、この論点だけで漱石を批判はできないが、これは漱石の特徴に思う。そうして、その後、本当の意味で自立した女性を作家は描いたのかと言えば、よくわからない。ただ、女性の自立というのは、女性が権利を主張するとか、女性の政治家が増えるとか、そういう表面的な事ではなく、もっと根底的な部分において、その部分において日本の後進性というのは果たしてどうなったのか、本当に近代化したのか、そのあたりは問われていないというか、正直、未だによくわからないという気がする。

 

 この件は自分の中でも全く不透明なのだが、おぼろげな知識を出すと、近代性というものの核にあるのは「人間」という概念だと思う。ルネサンスから近代にかけて、「人間」という存在をはっきりと定立させたというのが近代というものの最大の功績だと感じる。そうだとした場合、「こころ」の奥さんは「人間」なのか。「人間」になるとは、それに見合う人生の苦難も引き受けるという事だが、奥さんは男達の関係から疎外されていると共に、生きる悲しみからも遠ざけられている。(最後に先生が妻には秘密にしてくれというのが象徴的だ) 奥さんは、遠方でぼんやりした幸福と不幸を味わいながらも、自立した存在になりそこねている。

 

 例えば、ドストエフスキーの「白痴」では実質的な主人公は、ヒロインであるナスターシャと言ってもいいかと思う。ただ、ナスターシャは、キャラクターが強烈すぎてもむしろ男性的なものにシフトしており、かえってムイシュキンの方が女性的にも見えたりするのだが、ナスターシャは強烈な意志を持つ、自分というものがある女性として描かれている。しかし、ナスターシャはそれ故に自分を見失い、苦悩するのであって、ナスターシャが静的な、選ばれるのを待っている女性なら、あのような苦悩はなかっただろう。他にも、フローベールの「ボヴァリー夫人」なんかも想起される。ボヴァリー夫人でも、主人公は意志を持って前進するが故に悲劇にあう。

 

 …しかし、こんな風に書いていると、近代性とか後進性、女性の自立といった言葉に引きずられて、色々あやふやになってきている気が自分でもする。重要なポイントは…そうした事柄ではなく(そういう事をさんざ言ったが)、意志と、意志を制限するものではないかという気もする。この観点から、漱石を現代に結びつけて考えてみよう。

 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ