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 最近、夏目漱石を読み返している。漱石は前から好きな作家で、定期的に読み返している。

 

 漱石というのは言うまでもなく日本の文豪で、国民作家と呼べる唯一の作家かもしれない。森鴎外をそこにあげる人もいるかもしれないが、僕は漱石の方がふさわしいと思っている。ところで、夏目漱石とはどんな作家なのだろうか。

 

 昔から疑問だったのだが、漱石読解をする上で「エゴイズム」という言葉が乱発されるという点だ。誰が言い出したのかはわからないが、「エゴイズム」と言うと「自分勝手」のイメージが強くなり、「エゴイズム」で問題が起こるのであれば、大きな流れに屈して、長い物に巻かれればいいという日本的諦念がまた起こってくる。僕は漱石は「エゴイズム」の問題を描いたのではなく「主体」の問題を描いた、日本で唯一の作家と言ってもいい人だったと思っている。まあ、単に言葉の取りようの問題かもしれないが。

 

 漱石評論で有名な江藤淳は、保守主義者らしく、「公と私」の問題として漱石を考えている。僕はそもそもそのようなわかりやすい形で「公と私」があるのが疑問だが、江藤淳が優れた評論家なのは間違いないとは思う。

 

 江藤淳は「それから」という物語を、エゴに身を委ねた主人公は破滅するしかない、そういう状態を描いたものとして見ている。ここで疑問なのは、だとすれば、エゴに身を委ねず、公に尽くせば、そちらの方がいいのか、という事であり、それは江藤淳の思想であって、漱石の思想ではないように感じる。もっとも江藤淳をそれほど自分は読んではいないのだが。江藤淳は、誰かが言っていたように(吉本隆明と蓮實重彦の対談?)漱石より鴎外に近い人だと思う。死ぬ前の遺書の切れ味の良さなどは、鴎外と近いものを感じる。

 

 僕は「それから」という作品に関しては、江藤淳よりも江藤が引用した武者小路実篤の方が真を突いていると思う。武者小路は、「それから」の思想を二律背反的なものとして見ている。すなわち、自己の中の真実(自然)に従うものは社会と矛盾し破滅する。一方、社会と調和する者は自己の中の真実を裏切る事になる。その為に、自己と社会は常に二律背反になる。そのような思想が現れていると武者小路は見ている。

 

 江藤は「公と私」の対立を漱石に見て、漱石は、エゴの充足を善とした世代とは無縁だったと述べているが、果たしてそうだろうか。講演「私の個人主義」で、漱石は「自己本位」を強調している。漱石は、大学教師の職をなげうって、当時はまだ地位の低かった新聞社に作家として就職している。これは文学を余技に回して公の地位を重視した鴎外の立場とは逆である。漱石は、いわば自ら意思して挫折したが(ここでは「挫折」と言う)、鴎外は死の直前に自らの挫折を感じた。鴎外の遺書にそれは顕著である。

 

 「余は石見人森林太郎として死せんと欲す 宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るる瞬間

 

  あらゆるる外形的取扱ひを辞す 森林太郎として死せんと欲す」

  

 鴎外は、重たい衣装を身にまとい、胸に沢山の勲章をぶら下げて生きてきたわけだが、それは死にあたっては役に立たぬと悟った。鴎外が死の前に受動的に感じた挫折を、漱石はむしろ積極的に座礁させた。漱石は意志の人であり、人は意志と主体に沿って生きようとすると、外界と矛盾する。ここに悲劇が存在する。「公と私」の対立は、悲劇という形で止揚されている。作家は、ドラマという形で様々なイデオロギーを克服する。だが、その内部における、つまり主体の内部では世界と主体の断絶は感じられたままだ。江藤淳にはその断絶は最後まで感じられたであろうが、漱石はそれを人生の実相として、劇として表した。ここに、漱石の深い諦念がある。主体として人生を生きる者は必ず、挫折し、敗北する運命となるのである。

 

 例えば、イエス・キリストのような人の物語を一つの文学作品として見ると、彼が磔になるのは彼の思想の成就ないし、キリスト教というものにとって必須なのがわかる。イエス本人は聖書によれば、死ぬ前に、「神は自分を何故見捨てたのか」と怨嗟の言葉を放っているので、彼そのものの内側では思想は全く解決されていなかったのがわかる。ところが、彼の生そのものを一つの思想と見る時、彼の死が彼の思想の成就となっている。彼のイデオロギーは彼の内部で表現されたわけではなく、その悲劇的な生として表現された。もちろん、この後者の方の「表現」は、メタな立場に立つ第三者だけが発見できるものだ。我々はキリストの死に意味づけをする事によって、こちら側から「キリストの生涯」という物語を組み立てていく。

 

 同じ事が漱石の作品にも言える。「それから」という小説において、「公と私」の対立は止揚されている。ここに文学というものの不思議さがあると言っても良いだろう。「公と私」といったようなイデオロギーの対立は、主人公代助が遭遇する悲劇という形によって、止揚されている。ここに劇というものが存在する。これは、イデオロギーが、現実的な臨界点を越えて存在する時、その越えた部分は個人の生が担わなくてはならないという人間の悲しい宿命の部分である。

 

 世界を罵る事はできる。世界の間違いを指摘する事もできよう。それでも人は世界の内部で生きる事を止められない。だが、この個人の敗北を描いていくのが文学にとっての勝利と言っていいだろう。文学は、個人と世界の矛盾を、矛盾のままに捉える。それによってイデオロギーを越えていくのだが、イデオロギーにとってはむしろ、それは例えば「公と私」といったような対立に対する逃亡に見える。そこで、イデオロギーを問いかける者は、この疑問と応答をやめない。二択のどちらが正しいのかと問うのをやめない。

 

 ペン(キーボード)が滑ってイデオロギー批判になってしまったので、話を元に戻そう。

 


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