とある令嬢の溜め息
「貴様のような卑劣で浅ましい女は次期国王たる俺の婚約者に相応しくない! よって、貴様との婚約はこの場で破棄する!」
王立学園を離れて行く者達を送り出す送別のセレモニーの会場、列席者が立ち並ぶホールより三段上がった壇上から、王孫殿下が彼の目の前に立つ私に向かってそう宣告した。その瞬間、つい先刻まで少しざわめいていたホールがシンと静まり返った。
宣告する直前まで、王孫殿下とその取り巻き四人が代わる代わる、私に対する断罪であるらしい言葉を並べ立てていたから、そう言う流れに持って行くんじゃないかと危惧はしていたのだけど、私が口を挟む間もなく宣告は為されてしまった。困った事に、その証人は、この会場に居る全員。
私は手で頭を押さえて天を仰ぎたくなる衝動を、その上で力の限り徒労の溜め息を吐きたくなる衝動を何とか堪え、勝ち誇ったような、こちらを見下すような、そしてやるべき事をやりきったと言わんばかりの、所謂ドヤ顔の王孫殿下と、下卑たニヤケ面の取り巻き、彼等に囲まれて、やはり勝ち誇ったような表情の法衣男爵令嬢を無感動に眺めながら、「終わった」と内心の思いを吐露するように、小さく息を吐いた。それでも、確かめなくてはならない事がある。だから、私は軽く息を吸い込み、言葉を紡いだ。
「正気ですか? 王孫殿下?」
状況が状況でなければ不敬と断じられてもおかしくない、と言うより、普通なら間違いなく不敬と取られる言葉。ではあるけれど、私の立場としては、問わない訳には行かない言葉だったのだ。
身勝手な婚約破棄宣言だけなら、まぁ飲み込んでも良かったのだけど、このド阿呆、言うに事欠いて次期国王などと宣ったのだから。もちろん、勢いで言ってしまっただけの失言だと言うのは分かっている。けど、わかった上で、あえて言わなければならない事も多々あるのだ。この王孫殿下、父親である王太子殿下(48歳)の第二子ながら、正妃殿下の子なので、現状では王太子殿下に次ぐ王位継承権第二位ではあるので、何も問題がなければ、問題を起こさなければ、王太子殿下の次に王位が廻ってくる立場ではある。何も問題を起こさなければ……。因みに王太子殿下の長子は若い妾が生んだ子で、3才年上の18歳。この見てくれだけのド阿呆とは違って温厚篤実でとても優秀な方だ。なので、長子殿下にこそ王太孫にと言う声が、実は生母である正妃殿下御自身の声も含めて、少なくなかったりする。それだけに公の場での失言はまずいのだ。故に先ほどの私の発言に繋がる。興奮して少々正気を失っていた、と言うことにすれば、ぎりぎり次期国王発言は無かったことに出来るからだ。尤も、こんな半ば以上に公の場での婚約破棄宣言も、口にした人間の正気を疑うレベルで十分有り得ないのだけど。
そもそも、当然ながら、貴族の婚約と言うのは、家同士の利害関係で決まるもので、当人同士の意見など、基本的に考慮されない。婚姻が決まるその日まで、当人同士が一面識も無いなんて言うことも決して少なくはないのだ。ただ、家の利害優先の政略結婚と言うと聞こえは悪いかも知れないけれど、当人の性格等を客観的に知る親族間のやり取りで結婚相手が決まるのだし、変に夫婦間の関係が拗れて家の間もギスギスするなんて事になると、両家共に困るので、なんだかんだで上手く纏まる事の方が多いのだ。物語でたまにある、なんらかの処罰のような婚姻関係など、実際にはまず有り得ないのだ。
ちなみに辺境伯の三女である私が王孫殿下の婚約者に抜擢されたのは、端的に言えば王命である。辺境伯と言う、少し特殊な立ち位置にあるとは言え、所詮、私は伯爵家の娘に過ぎない。伯爵家程度の家格の娘が王位に付く可能性が十分に高い王族の正妃におさまる事など、余程の事が無ければ有り得ない。普通なら良くて妾である。王位に付くまでに早逝するようなことが無ければ、普通に王位が廻ってくる地位にある王族の正妃は普通、近隣諸国の王族か大公家、公爵家の姫か自国の公爵家の娘、公爵家に適当な娘が居ない場合には侯爵家の娘を公爵家の養女にして、と言う形をとる。侯爵家の娘として上がるなら良くて側妃だ。伯爵家の娘ごときが正妃の位地に付くなんて、それこそ王命でもなければ有り得ない。それに私も当然、実際に婚姻を結ぶ所まで進めば、とある公爵家の養女となってから、と話が纏まっていたのだ。
要するに、この婚約破棄宣言は国王と辺境伯家だけでなく、私が養女となることが内定していた公爵家の顔にも泥を塗った事になる。そして次期国王発言を有耶無耶にするために一時の乱心故と言う言い訳を使ってしまったため、婚約破棄宣言は取り消せなくなってしまったのだ。詰みである。
更に言えば、辺境伯令嬢ごときが王孫殿下の婚約者である時点で、まともな貴族ならその婚約が王命であり、公爵家との養子縁組から婚姻への流れが既に確約と言って良いレベルで内定している所まで、理解出来てしまう。それこそ、この婚約が解消されるのは、私か殿下が婚姻前に不慮の死を遂げた場合以外には有り得ず、最早この王孫殿下には次代に血を遺す事くらいしか期待されていない事も。同時に私に託されているのも公の場で王孫殿下の手綱を握る事と次代を生むことだけだと。悪く言えば王国の次々代を安定させる為の生け贄である。この立場を羨む者など、その辺りの事を全く理解していない王孫殿下の後ろに居る法衣男爵令嬢くらいのしかいない。
ここまででご理解頂けるだろうが、私が「終わった」と思ったのは、勿論私自身や我が辺境伯家ではなく、壇上の殿下とその取り巻き数名の事だ。彼等は衆人環視の下、自分達が貴族や王族として当然のものと理解しておかなくてはならない常識を理解出来ていないと、宣言してしまったのだから。
「殿下、婚約の解消については、後程、陛下も交えてゆっくりお話しましょう。では……」
先刻の私の「正気ですか?」と言う問い掛けの意図を理解出来ているのかいないのか、単に思いがけない問い掛けに戸惑っているだけなのか、言葉を発する事が出来ずにいる殿下達の気勢を制するように私は言葉を重ね、深々と頭を下げる。そして、振り返ると、会場全体に「お騒がせしました」と、殿下達に向けたものより幾分か浅く頭を下げると、エスコートしてくれている兄を促し、会場を後にした。こちらには殆ど非がないとは言え、婚約がながれる結果になってしまったのだから、陛下と公爵閣下には謝罪しておかなくてはならない。そして然る後、私は辺境伯領に戻ることになるだろう。
自分に何ら落ち度が無いとは言え、王族に婚約を解消されてしまった娘に貴族社会での居場所は無くなる。元王族の婚約者と言う瑕疵が他の貴族との婚約、婚姻の妨げになるからだ。極論になるが、政略の具にならない娘など、貴族社会には邪魔でしかないのだ。
領に帰った後、風の噂にあの王孫殿下が廃嫡されたと聞いた。まぁ、当然である。自らの権威の基盤がどこにあるのかすら理解出来ていない者が王になんて成ろうものなら、国の屋台骨が揺らぎかねないのだ。今は戦乱の世では無いとは言え、戦乱の世では無いからこそか、一国が崩れれば、その影響がどこまで広がるか分かったものではない。この王国だけではなく、周辺諸国のどこも、そんなリスクは望んでいないのだから。