アイの歌
「ご臨終です」
医者が彼女を見つめて、そう告げたのはいつだったろう。数秒前だった気がするし、数日経過しているような気もする。
「惜しい人を、亡くしました。私も彼女の歌が好きだったのですが……」
僕はどういう返事を返したのだろうか。それすらも、記憶になかった。
無機質なこの病室はあまりにも静かで、時間の感覚を曖昧にさせてしまう。
彼女を繋いでいたありとあらゆる装置も片付けられ、病室には僕と彼女しか残されていなかった。時間は、やはりそれなりには過ぎているのかもしれない。
握りしめていたはずの彼女の手も、いつの間にか冷たくなっている。僕の熱を奪っているのにも関わらず、温みが戻る気配の欠片もなかった。
どんなことをしても、彼女の瞳が二度と開くことはない。
生と死の壁。
「……まるで、君と僕みたいだ」
それは、こんなにも近くて遠い。
自嘲しながら、君の手を僕の頬に強く押し当てた。
彼女は、いつだって全力だった。
こと、歌うことに関しては。
妥協することなんて、これっぽっちもなかった。
全力で考えて、思って。願って。
血反吐を吐いて、本当に倒れて……無機質な病室で永久の眠りにつくまで。彼女は歌のことばかり考えていたに決まっている。
僕には、何故だろう。手に取るようにわかってしまう。
「ねぇ、恋歌」
僕は、彼女の名前を呼ぶ。彼女の頼りない手を両手で強く握り直した。
心の中で彼女に問いかける。
―それは、誰のため?何のために?
余命幾何もないと医者に言われても、歌いたいと言った君。
「歌うことができるのなら、何を犠牲にしても、かまわない」
恋歌の体を心配しているのに、彼女は僕の言うことなんてちっとも聞いてくれなかった。
一度、彼女に聞かれたことがある。
「私とあなたとの関係は、幼馴染み……そうだよね?真木」
何故、今さらそんなことを聞くのかと驚いた。確かに僕と恋歌は、家が隣同士の幼馴染み。それこそ、物心着いた頃からいつも一緒にいる。それが自然で、いないことのほうが不自然だと思えるほどだ。
だから僕の返事は当然、決まっていた。
「もちろん、幼馴染だけど。違うの?」
彼女の問いに僕も疑問形で返すと、彼女は淡く微笑んだ。
「……いいえ。幼馴染みよ。これからもずっと。変わることなく」
彼女は確かに、笑っていた。しかし、見慣れている笑顔とは違う。正確には、口も眼もちゃんと笑っているが、眉だけが若干下がっている。
笑顔のはずなのに、笑顔じゃない。
「恋歌?」
「ありがとう……真木。これで私は最後まで、歌い続けることができる」
僕は、恋歌を止めたかった。けれど、そう言われてしまったら、僕は。
「……どういたしまして」
僕も笑って、彼女の思いに応えるしかないじゃないか。
君の一番の理解者として、君の隣にいるために。
君の命が尽きる、その瞬間まで。
彼女は、僕の言葉に今度こそ笑った。
「真木。私の我儘を聞いてくれる?」
「お願い」ではなく、「我儘」と表現してくるあたり、彼女らしいと思った。
僕はひとつ頷いて、その先を促す。
―三つ、あるんだけど。
悪戯っぽく笑う彼女に、僕は困ったように笑う。それでも、僕はちゃんと頷いた。
君は知らない。あのときの僕はね、本当は泣きたくて仕方がなかったんだよ。
「恋歌」
無意識に、君の名を呼ぶ。
僕は、君の笑顔じゃない笑顔の意味を知らないまま、今も君の手を握りしめている。
二度と、温かくなることは叶わない手の冷たさを、頬に感じている。
不思議と、涙は出てこなかった。
眼を閉じている彼女の顔は、どうみても眠っているようにしかみえない。
そして、何より。
「真木。私の我儘を聞いてくれる?」
彼女の、この言葉が僕の中で生きていた。
我儘と言う名の、君との約束。
僕は目を閉じ、そのときの彼女の全てを思い出した。
―三つ、あるんだけど。
―多いなぁ。
―可愛いもんでしょ。まずは、一つ目ね。
「私のために、泣かないこと」
―一つ目から、ヘビーすぎじゃない?
―まだまだ。次、二つ目。
「最後の最後まで。私の傍にいて」
―僕なんかで良いの?
―今さら何を言っているの。真木って、自分のこと過小評価し過ぎなのよね。自信持ちなさい。
―ありがとうと言うべきなのかな。
―最後、三つ目。
「私が死んだ後、あなたに聴いてほしい歌があるから、聴いてほしいの」
僕が、泣かない理由。泣けない理由を思い出した瞬間、これでもかというくらい、目をきつく閉じた。そうでもしないと、今にでも目から涙が溢れてきてしまいそうだった。
「一つ目。君のために、泣かないこと」
すでに声が震えていることはちゃんと自覚している。それでも、声に出すことで君の言う「可愛い我儘」を実行していることを感じていたかった。
「二つ目。最後の最後まで、君の傍にいること」
彼女の手を、再び握り直す。「ちゃんと、ここにいる」という意思表示として。
「三つ目。君が……」
彼女の顔を見つめる。やっぱり、どうみても眠っているようにしか見えなくて、どうしてもその後の言葉が続かない。
だから、言葉を続ける代わりに僕はすぐ脇にある机の引き出しを開けた。
中に入っていたのは、手紙と、小型のレコーダー。
生前、彼女から託されていたものだった。
「ここに、入れておくから。ちゃんと聴いてね。この手紙は、聴きながら読んでくれると嬉しいな」
「今、聴きたい」と言っても、彼女は頑なにそれを拒んだ。
「我儘を聞いてくれるんでしょう?」
そう言われてしまえば、僕は黙って頷くしかない。彼女との、約束だから。
彼女の手をそっと離し、引き出しの中身を取り出す。手紙はむき出しのまま、しまってあった。レコーダーが想像以上に冷たくて、びっくりした。彼女の手の温度に似ている。
僕はレコーダーを握りしめたまま動けずにいた。
曲を聴くということは、恋歌が死んだことを認めることだ。それは嫌だ。こんなにも悲しい。こんなにも、怖い。
それでも、彼女なりの我儘が、僕の背中を後押ししてしまう。
恐る恐る電源を入れると、淡く光が灯った。画面を操作していく。題名が映し出され、僕は思わず目を見開いた。
「アイの歌」
レコーダーに入っていたのは、この題名が付いた一曲だけ。
「アイの、うた」
思わず、声に出していた。
その言葉には、聞き覚えがある。
あれは確か、彼女の歌が世間に評価され始めた頃だった。
―この世界は、「アイ」で溢れていると思うの。
―「愛」?
―今、「愛してる」の「愛」だって言わなかった?
―違うの?
―うーん……当たってなくもないかな。
―なんだよ、それ。
―語彙力の問題よ。
―それって、何気に俺を貶してない?
―拗ねないでよ。逆よ、逆。最初に思いついた言葉が「愛」なら、私は嬉しい。
―どうして?
―だって、それはきっと―。
―きっと?
―きっと、幸せってことだと思うから。
―……さすが、シンガーは言うことが違うなぁ。
―からかわないでよ、もう。
彼女の声が、言葉が思い出と共に鮮明に聞こえた。
同時に、曲を聴く覚悟を持つことができた。
「三つ目……君が死んだ後、君が僕に遺した歌を聴くこと。……そうだよね、恋歌」
彼女の顔を見つめる。安らかな顔は、僕を肯定してくれている気がする。そう思うのはやっぱり、自分の思い上がりだろうか。
手紙を開くのと同時に、レコーダーの再生ボタンを押す。
忘れもしない彼女の声が、聴こえた。
音楽は何一つ入っていない。君だけの音。
透き通った声。柔らかくも芯が通ったしなやかな歌声が、僕の耳を擽った。
届いていますか
私の声が
届いていますか
私の思いが
私は 私は
やっと 私の歌を歌えます
歌いたかった気持ち
形にするのが 怖かった
「好き」
ただの二文字が
こんなにも愛しくて
こんなにも哀しくて
でも 何よりも嬉しかった
誰かのことを こんなにも思えたこと
だからこそ大切な 大切な言葉を
今 あなたに捧げます
これは 私のための歌
あるがままの思いの全て
届きますように
私の声が
届きますように
私の思いが
例え 私が
あなたの傍から消えてしまっても
あなたに出会えたからこそ
芽生えた尊い花がある
「好き」
あなたを思うたび
時には愛になって
時には哀になって
おかげでその花は大輪になった
私だけの あなたを思う見事な花だよ
だからこそ 大切な 大切な言葉を
今 あなたに捧げます
これは 私のための歌
あるがままの 思いの全て
手紙には、彼女が歌っていた詩が形となって記されていた。手紙は二枚に渡って書かれていて、彼女の思いを辿るように自然と二枚目を読み進めようとする。この瞬間まで、僕は歌がすでに終わっていたことに気づかなかった。
「私は、あなたのことが好きです」
ただ、一言。
二枚目には、ただそれだけが書かれていた。
「……っ、ずるいよ、ほんと」
僕だって言いたいこと、いっぱいあるのに。
伝えたいことが、たくさんあるのに。
僕はもう、君に伝える術を持たない。
強く。強く。彼女の手を握りしめてみる。
「痛いよ。バカ」
彼女が僕を叱ってくれたなら。
その願いすら空しく、彼女は安らかに眠っている。二度と動くことはない。
「……僕の我儘を、聞いてくれる?一つだけで良いんだけど」
彼女の顔を見ながら、小さく語り掛けた。
もちろん、応えてくれるはずもない。
それでも、僕は言葉を続けた。
「今だけ、泣かせてほしいんだ。君のために泣くんじゃない。僕のために、今は泣かせてほしい」
「良いよね?」と、言葉にならない問いかけを飲み込んで、僕は泣いた。ありったけの感情を病室いっぱいに響かせて。
君のためじゃない。全ては僕のために。
だから、君との約束は破っていない。
そう言い聞かせながら、僕は泣いていた。
―仕方がないなぁ。特別に許してあげる。
彼女なら、きっとそう言ってくれるはずだから。
―……さすが、シンガーは言うことが違うなぁ。
―からかわないでよ、もう。
―なぁ。恋歌。
―なぁに?
―恋歌は、幸せ?
―もちろん。私は幸せだよ。最高に、幸せ。
思い出の中の、彼女は笑う。
―だって、あなたがいるもの。真木は?
思い出と現実の狭間で、僕は笑った。
「僕も幸せだよ。君がいたから」
だからこそ。伝えたかった言葉を、今。君に贈ろう。
「僕も、君のことが好きです」