第五章
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第五章ノ一 現在
「東原君!」
さくらはオクターブの部屋の床に崩れた東原に駆け寄った。
「恥ずかしながら、仮面に仕込んだ魔力によって歩くことが出来ているんだ。仮面がなければこの通り、立つことも歩くこともままならない」
苦笑し、同時に悔しそうな表情をした。
「公爵にやられたんだよ。公爵に襲撃され、姉上の凛の君は捕らえられ、僕はそのときの襲撃で傷つけられ、以来このざまさ」
さくらは東原に肩を貸し、東原はそれを支えに手と足を震わせながら立ち上がった。法器教諭であるラクキスが車椅子を東原の後ろに用意し、彼はそれに座った。
「ありがとう、ラクキス、五条さくらさん」
さくらは窓の外に目をやった。夜の帳の先に壁が見えたものの、その光景に違和感を覚えた。
壁のカーブが逆だわ・・・
「・・・ここは壁の外なの?」
「ああ、壁の中は牧場という扱いだだから、当然悪魔の大半は壁の外に居を構え、僕もアシュタロトが指定したこの場所に住んでいる。凛の民が自由を奪われ、魂を削り取られているというにね」
ラクキスは一礼して部屋を退室した。
「君と二人で話したいのでね」
東原はラクキスの行動を説明するようにそう言った。
「・・・どうして凛の君の弟である東原君がアシュタロトの配下になっているの? 凛の民への裏切り行為だとは思っていないの?」
「仕方がなかったんだ」
「そんな言葉では済まされないわ」
さくらの苛立った声に東原は頷いた。
「無論、僕もそう思っている」
「だったら!」
東原はもう一度頷き、話を始めた。
「凛の君である姉は君主としては馬鹿で最低だった。アシュタロトの襲撃の以前から、姉は自分の民が日本からの独立に傾倒することを常に恐れていた。日本との関係も差別されるくらいなら許容範囲だと思っていたんだから、凛の民の総意とは根本的に違っていたのさ」
「それが・・・」
静かな夜だった。秋の虫の声が外から聞こえてくる。心地よいその声は、この世界が平和な世の中であるような錯覚を起こさせた。こんな静かな夜がずっと続けばいいのにと思った。
東原は再び口を開いた。
「だからアシュタロトが凛民の魂を削り取って彼らの独立心をコントロールすると提案してきたときは、凛の君にとっては渡りに船だったんだ。姉は迷わずアシュタロトに協力することを選んだんだ。本当に馬鹿な姉としか言いようがない」
そう言い終わると彼は小さな溜息を吐いた。
「姉はアシュタロトの操り人形に成り下がってしまった。凛の民の前に出てもアシュタロトが許した行動、発言しかできない。そして体が不自由な弟の僕は公爵への忠誠の証として、仮面を付けられ、魔力を与えられ、オクターブ子爵として公爵の配下に組み込まれたのさ。人間を支配するのに人間の知識があった方がよいからね。後は君が知っている通りさ。夢食いを使って、自分の民の魂を搾取し、アークセンテンティアと戦い、その最中にアークイカロスを殺してしまった」
「・・・」
「それが凛の君の一族だ。凛の民の一番の理解者であるはずの凛の君は民を裏切り、その統治をアシュタロトに丸投げし、その弟はそれを諌めることもせず、アシュタロトの手先となって、凛の民を苦しめていたんだ。凛の民はいくら祈っても凛の君は救ってはくれない。それがこの立原という狭い世界の真実だよ。」
「・・・それで東原君はその罪をどう償おうと考えているの?」
さくらの声は冷たかった。
「僕は公爵に反乱を起こすつもりだ。牧場システムを破壊し、凛の民を悪魔の支配から解放したいと思っている。だからお願いだ、アークイリシア。反乱を成功させるためには君の力が必要なんだ。僕に力を貸してくれないか? この通りだ」
東原は車椅子の上から、さくらに頭を下げた。彼女はじっとその姿を見つめた。
「アシュタロトから与えられた魔力はアシュタロトには勝てないように上限が掛けられている。だから彼女を倒すことは、僕には絶対に無理なことなんだ。虫がいいのは分かっている、だがお願いだ、僕に力を貸してくれ」
彼は頭を下げ続けた。
さくらは返事をしなかった。
沈黙が続いた。彼に殺されたアークイカロスを思い出した。そして彼に魂を削り取られていた凛の民の姿を思い出していた。
言い表しようのない怒りが心の底から込み上げてきた。
「あたしは寛容じゃない。東原君を許すことはできないわ!」
「だが、凛の民を救うためなんだ」
彼は頭を下げ続けた。
「裏切り者と協力して凛の民を解放するなんてありえない!」
「頼む、この通りだ。アシュタロトの力は相当だ。僕だけでは倒すことは不可能だし、アークセンテンティアの力を持つ君でも一人では当然無理だ。まともにやったら返り討ちに会うだけだ。お願いだ、アシュタロトを間近で見てきた僕の言うことを信じてくれ!」
切実さは伝わってきた。
でも頷けない。
「僕はじっと機会を伺っていたんだ。アシュタロトに忠誠を誓い、裏切りと呼ばれる行為を続けながら、凛の民を解放する機会を待っていたんだ。悪魔の中に協力者を作り、もう一人のアークセンテンティアの力を持つアークシリウスも仲間に入れた。時間を掛け、準備してきたんだ」
「アークシリウスも仲間・・・」
「頼む、協力してくれないか、アークイリシア。この戦いが終わったら、この面を割って力を断ち切り、このまま車椅子でいることを約束する。お願いだ」
さくらは返事をしなかった。
「僕の力を君に預けよう。君がおかしいと思ったら、君が僕の力を止めればいい」
「!」
さくらはその思いがけない言葉に驚きを隠せなかった。
東原は膝に置いていたオクターブの白い仮面を両手で顔に当てた。
「契約書を」
宙に青く光る文字の羅列が現れた。文字の終わりにペンが現れ、オクターブはそのペンを使って、文字の羅列にサインをした。
「魔力の鍵を」
そう呟くと車椅子に座ったオクターブは黄色い光に覆われ、もがき苦しみ始めた。
「がっ」
呼吸が上手くできず、喉を掻きむしり、車椅子の上でのたうち回った。それがしばらく続いた後、黄色い光は東原の胸の前に集まり、ビー玉程の大きさになった。
「はっ、はっ」
その瞬間、東原は呼吸を取り戻した。
彼は震える手で白い仮面を外した。仮面の下の顔は衰弱しきった顔に変わり果て、額に汗が滲み出ていた。
彼は彼女のところに車椅子を進め、黄色い光を放つビー玉サイズの球を彼女に渡した。
「・・・それを叩き潰せば僕の魔力は全て失われてしまう。それが担保だ」
宙に現れた契約書がさくらの目の前に移動した。
「本物だ」
ハルの声がした。
「で、どうするんだ? さくら」
「アシュタロトの力が強大なのは十分知っている。今のままでは絶対に彼女を倒すことはできないのも分かっている・・・」
小声で答えた。
「不本意だけど乗るしかないわ」
そう言ってさくらはペンを取り、宙に浮いた契約書にサインをした。
東原は頷いた。
「ありがとう・・・」
そして言った。
「後で作戦を説明させてくれないか・・・あまり時間もないのでね」
疲労した様子で彼は目を閉じ、車椅子の上で休むようにそう言った。
アークイリシア姿のさくらは、アシュタロトの屋敷を少し離れた空から眺めていた。
コの字型の西洋風建物を囲うように低木の庭園が複雑な幾何学模様をなして広がっている。そこに高さ二メートル以上ある警備の夢食いが均等に配置され、愚直に自分の担当エリアを見回っているのが見えた。
昼間だと言うのに厚く空を覆った雲のせいで、辺り一帯は薄暗いものになっていた。さっきから小さな雨粒がさくらの頬に当たってくる。その頻度は時間と共に増していた。
「さくら、本当によかったのか?」
ハルの声だ。
「何が?」
「オクターブに協力してアシュタロトを倒すってことさ」
「オクターブに対してわだかまりがないって言ったら嘘になる。あのときも言ったけど、あのアシュタロトを倒すのに私一人じゃどうにもならないのはよく分かっているわ。アシュタロトを倒すためには東原君に協力するしかない・・・」
「そうか」
「あたしだって、本当は嫌よ。いくら凛の君の弟だからといって、今までアシュタロトの配下となって凛の民を苦しめ、その上アークイカロスを殺したのは許されるものではないわ。だけど仕方がない・・・」
そう言ってさくらは腰のポシェットから金色の懐中時計を取り出し、時間を見た。
溜息を吐いた。
「そろそろね・・・」
イリシアはそう呟いた。
自分は陽動担当だ。夢食いを引き付けている間にオクターブとイリシアが屋敷にいる主だった悪魔を倒す。そして最後に合流して、アシュタロトを倒す作戦だ。
彼女はアシュタロトの屋敷に向かって急降下を始めた。ピンク色の服が風に叩かれバタバタと音を立て暴れていたが、さくらは気にする様子も見せず、一直線に降下を続けた。そして庭園にぶつかる直前で急旋回し、降下の勢いを殺し、地上に静かに舞い降りた。
巨大なアシュタロトの屋敷が目の前にあった。
「!」
三階の格子窓から金髪の少女が見下すようにさくらを見つめていた。さくらはその少女を目にした瞬間、激しい憤りを覚えた。
「アシュタロトおおお!」
叫んだ。
妹のいぶきを殺した悪魔!
「あのときのようにはいかない!」
強い憎しみと殺気が次から次へと湧き出てくる。それは理性では止められるものではなかった。
「イリシア、ロイヤルフラワーエフェクト!」
彼女がそう言った瞬間、巨大なピンクの光の花が現れ、アシュタロトに向かって飛んでいった。
アシュタロトはその様子に動じる様子もなく、ただ暗闇の中、自分に凄まじい勢いで接近する巨大なピンクの光の花を屋敷の中から眺めていた。
このまま行けば直撃は免れない。
アシュタロトが軽蔑するように笑った。
光の花は屋敷に当たる前に自ら爆発を起こし、壁を砕くことなく、瞬間的に消滅した。
「な!」
爆発の煙が拡散し、再びアシュタロトの屋敷がその姿を見せたときには、既にアシュタロトの姿を見ることはできなかった。
シールドか!
「くそっ」
さくらはそう呟いた。周りに夢食いが集まってくる気配を感じた。
大粒の雨が頬に当たった。続けざまに大粒の雨が庭園の石畳に落ちはじめ、たちまち初夏の大雨となった。
「かかってこい! みんな倒してやる!」
ピンクの服を着た魔法少女は薄暗い大雨の中、大声で自分を取り囲む夢食いに怒鳴った。
十体を超える夢食いがさくらに一斉に襲い掛かった。公爵邸のきれいに手入れされた庭がさくらと夢食いとの戦闘であっという間に踏み荒らされてゆく。黒い泥が弾け飛ぶ中で、ピンクの閃光が瞬間的に光っては消える。
「イリシア、ハンドレッドブレード!」
ピンクに光る剣がイリシアの周りに現れた。
「いけ!」
その言葉と同時に十数体の夢食いに剣が突き刺さり、その数秒後にそれは爆発を起こした。
さくらは顔に当たる雨を手で拭った。暗い雨の中、地面に青く光る魔方陣が十箇所現れ、夢食いが召喚され、魔方陣の上に現れた。
きりがない!
「早くここを突破しないと」
夢食いとの近接戦が続く。さくらは彼らを跳ね飛ばし、屋敷の壁や地面に叩きつけた。
倒れた夢食いは、自分に向かって飛んで来るピンクに光った剣を目にした。その瞬間、それは夢食いに深々と刺さり、爆発し、夢食いを消滅させた。それが繰り返された。
「やった・・・?」
息が荒くなっていた。さくらは肩で息をしながら、アシュタロトの屋敷を見た。新手の夢食いが暗い雨の中、青く光る魔方陣と共に現れ、さくらに向かってくる。
「本当にきりがない!」
彼女は苛立ちで舌打ちをした。
「イリシア、エレメントバースト!」
ピンクの光が球状となって左手に集まり、さくらはそれを夢食いに向かって撃ち放った。ピンクの光は夢食いを襲い、炎上させてゆく。
「ロイヤルフラワーエフェクトアラウンド!」
瞬間的に大きな光の花がさくらの前にいくつも現れ、夢食いに一斉に飛んでいった。光の花は夢食いを呑みこみ、次々に爆発を起こした。
動くものはなくなった。
さくらは飛び、瓦礫となった夢食いを超え、屋敷の正面玄関の前に着地した。それに反応して正面玄関を守る二体の夢食いがさくらに迫ってきたが、さくらは素早くピンクの光を放ち、二体を炎上させ、爆発させた。
さくらは玄関に繋がる階段を掛け上り、屋敷の鉄扉を勢いよく蹴飛ばすと扉は蝶番ごと外れ、屋敷の中に飛んでいった。彼女は屋敷の中に入り、天井を見上げた。そこは三階まで吹き抜けた大理石でできたエントランスホールになっていた。
何の気配もなく、薄暗く、明かりが少ないと空間だと思った。
エントランスホールを支える六本の柱にはバロック調の細かな彫刻が成され、ホール左右から廊下が伸び、中央正面には階段が設置され、二階と三階に繋がっていた。
「前から来るぞ、さくら!」
ハルの声が聞こえた。さくらはその声に反応して反射的に後ろに下がった。その瞬間、さくらがさっきまで立っていた場所に青い槍が数本突き刺さった。
外の雨音が激しくなってゆく。
さくらは槍を放った者の正体を見極めようとエントランスの中を伺った。
「ルプス伯爵だ!」
「ルプス伯爵・・・」
「アシュタロトの側近だ。夢食いとは比較にならないほど強い」
「・・・」
緊張と恐怖の混ざった感情が彼女の中を駆け巡った。彼女は息を呑んだ。
「来る!」
さくらはハルの声に弾かれるように左に飛んだ。青い槍が音もなく大理石の床に突き刺さった。
「イリシア、ブレイブバースト!」
エントランスホールに幾つものピンクの火柱が現れた。薄暗い空間が一気に明るくなり、ホール奥に一人の悪魔が立っているのが目に入った。狼の頭を持った背の高さが二メートルはある、がっしりとした体格の悪魔だった。黒いネクタイに黒のスーツを着て、厳格な雰囲気を醸し出していた。
「ルプスか!」
「いかにも。私はルプス伯爵だ。だが残念だ。会ったばかりで申し訳ないが、君とはもうお別れしないといけない」
そう言い終わった瞬間、十数本の青い槍が続けてさくらに向かって飛んでくるのが目に入った。
「イリシア、ショックウェーブ!」
その叫び声と同時にピンクの光が放たれ、トルネードとなって全てのそれを爆発させた。狼の頭を持つルプスはさくらを馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「ほう、死んだイカロスの力を吸収して強くなったという話は本当だったようだな。だが、折角強くなったところ悪いのだが、公爵の屋敷に襲い、夢食いを三十体も破壊したこと、それに今まで魂の徴収を邪魔し続けたことに対して罰を受けてもらおう」
「罰?」
「死をもって罪を償ってもらうことだよ」
「そんなこと到底受け入れられない!」
さくらは叫んだ。
「イリシア、ハンドレッドブレード!」
ピンクに光る剣が無数にイリシアの周りに現れ、一気にルプスに向かって飛んでいった。それはルプスがいた場所で次々に爆発し、エントランスホールいっぱいに白い煙が立ち込めた。
敵の気配は消えていない。
当たっていない・・・?
「!」
槍が迫ってくる気配を感じた。とっさにさくらは後方に飛んだ。大理石の床に十数本の槍が立て続けに刺さった。
信じられない。どうやったら槍が大理石に刺さるっていうの?
冷や汗が頬を伝って落ちてゆく。さくらは不安と緊張を感じていた。
このままではアシュタロトのところまで辿り着くことができない・・・それどころかその前に自分が殺されてしまうかもしれない。
新たに十数本の青い槍がさくらに飛んできていた。さくらは叫んだ。
「イリシア、ハンドレッドブレード!」
ピンクに光る剣が次々に飛び立ち、飛んでくる槍に接触し、爆発を起こし、全て打ち落とした。
やった。
次の瞬間、白い煙の中から一本の槍が目の前に迫っているのが目に入った。飛んできた槍の集団の陰に隠れていたものだ。
間に合わない!
彼女はそれを避けようとしたが、槍はさくらの左腕の上腕に刺さり、槍の勢いにもってゆかれ、さくらの体は硬い大理石の上に叩きつけられた。
「があああ・・・」
激痛が走った。痛さで気がどうにかなりそうだった。
「痛いのは嫌だろ? そろそろ、降参したらどうなんだ? 楽に殺してやるよ」
狼の頭を持つ魔界の伯爵は皮肉るように言った。
「・・・さい」
白い煙が消えてゆく。ようやくルプスの姿が見えてきた。
「何?」
「うるさい!」
さくらは右手で左腕に刺さった槍を抜き、即座に立ち上がった。左腕から大量の血が吹き出し、流れ出てゆく。彼女は頭についているピンクのリボンを取り外し、左腕に巻きつけ縛った。
「こんなのどうってことない!」
「ほう、だが次は腕一本じゃ済まされないぞ」
ルプスの手に青い槍が現れ、片手でそれを宙で回転させると、さくらに槍先を向け、一気に距離を縮めてきた。さくらはそれをかわし、ルプスの狼の形をした頭を狙って、回し蹴りを喰らわそうとした。
「な!」
彼女の足はルプスの手で掴まれ、動きを止められた。即座にルプスは手にしていた青い槍でさくらを刺そうとしたが、さくらはその足を軸に体を捻りそれを避け、回転を加え、掴まれていない足でルプスの頭を再び狙った。
ルプスは咄嗟に彼女の足を掴まえていた手を離し、その腕でそれをガードした。その瞬間、彼女の蹴りによる凄まじい衝撃が伝わり、ルプスはよろめき後退した。
「ちっ」
さくらはとんぼ返りをしてルプスから離れ、距離を確保し、対峙した。
「アークイリシア」
さくらの隣に人の気配がした。
「こんなところで何を足踏みしている」
灰色のドレスを着た高校生くらいの少女が立っていた。人を寄せつけない冷たい声だった。
「アークシリウス!」
さくらが発したと同時に黒いスーツを着た狼もその少女を見て叫んだ。
「彩子!」
驚愕し、唖然としていた。
「何故敵のアークイリシアと肩を並べて立っている? 敵に寝返ろうとしているのか!」
彩子と呼ばれたイリシア姿の少女は鼻でルプスの言葉を笑った。
「寝返る? ふん、私はお前達悪魔に心から従っていたことなど一度もない。そんな言い方をされるのは心外だ。私の父親は、お前達悪魔があの壁を設置したときに壁に食われたのよ。母もそのショックでなくなったわ 私の家族を無茶苦茶にしたお前達悪魔には憎しみの感情しか持ち合わせていない!」
「いったい何を言っているんだ・・・」
ルプス伯爵は彩子の言葉に戸惑っていた。混乱もしていた。彼女の言葉が理解出来なかった。
「アークイリシア、ここは私が引き受ける。お前は予定通り公爵の場所に向かいなさい」
小声で彩子はさくらに言った。
「う、うん」
「公爵は左二階奥の大広間にいる」
「敵に何を話している!」
彩子はルプスの怒鳴り声に反応し、彩子はさくらの前に立ち、ルプス伯爵を睨み付けた。
「後ろの階段を使いなさい」
「アークシリウス・・・」
彩子は戸惑っているさくらに言った。
「私は子爵様と運命を共にしている。子爵様の進む道に私はどこまでも従う。子爵様がアークイリシアの助けを請うたのだから、私はお前を敵とはみなさない」
「・・・」
「早く行け!」
彩子は怒鳴った。
「う、うん・・・ありがとう、アークシリウス」
さくらは戸惑いつつも二階に飛び、アシュタロトのいる場所へ向かおうとした。
「させるか!」
ルプスは叫び、さくらに青い槍を打ち込もうをした瞬間、シリウスは右手に灰色に光る剣を出し、ルプスに正面から切り掛かった。
「!」
ルプスは辛うじてそれを避けたが、避けた先にも彩子は剣を延ばし、執拗にルプスを追った。ルプスは後ろに体を引き、彩子との距離を取った。
凄まじい殺気を感じた。
「どういうことだ、彩子? 回答次第では裏切り者としてお前を殺さなければならないぞ」
ルプスは強い口調で問い詰めるように言った。彩子は不快感を隠そうともせずに言葉を返した。
「裏切り者? さっきも言ったように私は元々お前達悪魔を仲間だなんて思ったことは一度たりともないわ」
「な・・・何を言っているんだ、彩子! 拾われて育ててもらった公爵のご恩を忘れた訳ではないだろう?」
「違う! 恩なんかじゃない! お前達悪魔は手に入れたアークシリウスの変身アイテムを使うことができなかった。だから私をアークシリウスにするため、半年前に拾った。恩でもなんでもない、お前達の都合だけで私は拾われたんだ!」
エントランスホールに彩子の怒鳴り声が響き渡る。狼の面妖の悪魔は驚いた表情を見せた。
「馬鹿な! 両親から捨てられていたお前を公爵様が不憫に思って拾い、育てたんだ。第一、半年前の話なんかじゃない」
「騙そうとしているな! 違う! そんなのあたしの記憶にはない!」
彩子の記憶がおかしいと思った。
「彩子、記憶違いを起こしていないか? お前が拾われたのは三歳くらいの頃の話だぞ。お前は両親から暴力を受け、瀕死の状態で捨てられていたんだよ」
「嘘だ! そんな記憶、あたしにはない!」
彩子は叫んだ。
「シリウス、レーザーアロー!」
彼女の後ろに無数の灰色に光る矢が現れ、一斉にルプスへと飛んだ。あまりの数で目が開けられないほどの眩い明るさになっていた。
ルプスは即座に青い半透明なシールドを自分の目の前に張った。飛んでくる灰色に光る矢は次々にシールドに音を立てて刺さってゆく。
「お前達悪魔を見るとむしずが走る。いらつく、ヘドが出る。両親の仇とアークシリウスにさせられた復讐をさせてもらうわ」
「彩子!」
叱るような声だった。
その声を聞いて彩子は激しい頭痛を覚えた。何かが見えた気がした。それはルプスの姿のように思えた。
「ちっ」
彼女は舌打ちをし、首を横に振り、その痛みを払うかのように叫んだ。
「シリウス、レーザーアロー!」
灰色に光る矢がルプスのシールドに次々に刺さり、もうこれ以上は刺さらない状態まで刺さった。
「いつまで隠れているつもりなの? もうあなたのシールドは限界に見えるけど、そのままそこに隠れて死ぬのを待つつもり? 魔界の貴族を名乗っているのなら正々堂々と私と戦ったらどうなの?」
「ふん、勘違い甚だしいな。お前ごときが俺に勝てると思っているのか?」
「それはどうかな! シリウス、ホワイトミストバースト!」
彩子はそう叫ぶとルプスのシールドの周りが白い霧に覆われた。そして次の瞬間、連続した爆発を起き、きな臭い白い煙がエントランスホール中に立ち込めた。
煙の先に動くものは何もなかった。彼女はルプスをこの手で倒したのだと思った。喜びの感情に覆われていた。
「やったわ・・・父さん、母さん」
不思議と涙は出てこなかった。
達成感を感じることはなかった。
違和感があった。
「!」
空気が変わった。いや、重くなったと言うべきだろうか、動こうにも手足が自由に動かすことができない。
「何これ・・・」
彩子は焦り、もがいたが、手足は自由にならない。
「なあ、彩子」
白い煙の先に狼の頭を持つ悪魔が現れた。
「俺達はかわいそうなお前をみんな自分の娘のように可愛がっていたはずだ。お前が小さかった頃を思い出すよ。俺の後ろをいつもくっついていたじゃないか。だっこもいっぱいしたよな」
その光景が一瞬浮かんだ。シリウスは唇を噛んだ。何かおかしいと思った。騙そうとしている! 彼女は正気を保とうとした。
「悪魔が何を言う! 騙されない! お前達は人を騙し、陥れるのが生業だからな!」
彩子ははそう怒鳴った。
狼の悪魔は彩子の異常さを感じた。まるで彩子ではない、違う人間のようだと思った。
「おかしいぞ、彩子! 昔はあんなに人間を嫌っていたのに。そもそもアークシリウスになりたいと言ったのはお前だぞ!」
「違う!」
「お前は自分を捨てた親を憎んでいた。だから人間にも嫌悪していた。自分が悪魔だったらよかったのにといつも言っていたじゃないか」
「違う! 嘘を言うな!」
「嘘ではない!」
シリウスはその怒鳴り声に畏縮した。これに似たような経験をしたことがあると思った。
「ラーたん・・・」
彩子は無意識にその言葉を口にした。幼い頃、いたずらをして叱られたことを思い出した。泣きながら謝ったあのときを思い出していた。
「えっ、あたし今なんて・・・」
目の前の狼の悪魔は頷いた。
「そうだ、ルプス・ド・ラファイエル。その呼び方は私の名だ。お前は面倒くさがって、いつもラーたんと呼んでいた。私は気に入らなかったがな。楽しかった日々を思い出せ、お前は家族なんだ。戻ってこい。公爵様には私が口を利いてやるし、お前なら許してくれるはずだ」
「でも、あたしには子爵様が」
狼の悪魔ははっとした。
「そうだ、子爵が来てからお前はおかしくなった。あいつがお前に何かしたのだな!」
「そんな! ラーたん、違うの!」
彩子は混乱していた。
訳が分からなくなっていた。自分記憶に自信がなくなっていた。自分が誰なのか分からなりそうだった。
違う! 記憶が改ざんされていた! 悪魔を憎む自分になっていた! 両親は壁ができたことで死んだと思っていた!
全部嘘だったんだ!
なんで!
彩子は驚愕した。手には短剣を持っていた。手に暖かい液体が流れてくる。目の前はルプスが立っていた。
「あああ!」
彩子は短剣でルプスの心臓を貫いていた。彩子はとっさに両手を短剣から離した。
「がはっ」
ルプスはそれ以上何も言わずどっと床に倒れた。エントランスホールの白い大理石にルプスの青い血が広がってゆく。
「ラーたん、ラーたん!」
彩子はルプスの体から短剣を引き抜いた。血が溢れ、苦しそうに唸るだけだった。もはや意識もはっきりしていない。
「ラーたん! 死なないで!」
彩子は叫んだがルプスから答えが返ってくることはなかった。涙が溢れてきた。今まで忘れていたルプスとの思い出が蘇ってくる。大きな背中を追って走っていたときのことも、だっこされていたことも、頭を撫でて抱きしめてくれたことも。
何故私がラーたんを刺して!
彼女はその場に泣き崩れた。
人の気配がした。
彩子はゆっくりと顔を上げた。白い不器用に作られた面を被ったオクターブが立っていた。
「子爵様! ルプス伯爵を! ルプス伯爵を助けて下さい!」
オクターブはその切羽詰まった声に応じる様子を見せなかった。そして腰に下げていた剣を抜いた。
「何を・・・」
ルプスの身体の上で大きく振りかぶると素早く剣を振り下ろし、ルプスの正確に心臓を突き刺した。
「がっ!」
ルプスは苦しみもがき、やがて動きの全てを止めてしまった。
「このおおお!」
彩子は怒りで我を忘れ、髪が振り乱れるのも構わず、オクターブに掴み掛かった。
「何故ルプス伯爵を!」
「何故? それは我々の敵だからだろう?」
「敵・・・?」
「これでアシュタロトの腹心のルプスは死んだ。ありがとう、彩子」
「・・・」
彩子の混乱は続いていた。
「ルプスを油断させ、見事にルプス伯爵の心臓を貫くことができた」
「ルプス伯爵を油断させ・・・?」
「我々は凛の民のためにアシュタロトを倒さなければならない。だがその前に腹心のルプスを殺す計画だった。お前は自分の過去を思い出し、奴はそれを喜ぶ。そして仕掛けておいた洗脳プログラムのフラグが立ち、お前はルプスを刺し殺す」
オクターブは笑顔で言った。
彩子の顔は真っ青になっていた。
「オクターブ子爵・・・私の記憶を改ざんしたのはあなたなのですね」
悪魔の青い血で染まった灰色のドレスを着た彩子の声は抑揚がなく、何かを覚悟した表情だった。
「私を洗脳し手なづけていたのはルプス伯爵を殺させるためだった!」
「だと言ったら」
「目を掛けて頂いたのも」
「どうだろうね」
「信じていたのに! 私が生涯を掛けてお仕えするのはオクターブ子爵だけだと思っていたのに! 私を騙していただなんで!」
オクターブは笑顔のままで彩子を見つめていた。
「ルプス伯爵の仇を打たせてもらうわ!」
彩子は灰色の剣を右手に出現させ、言い放った。
「がっ」
胸に鋭い痛みを感じた。
刺された!
呼吸が苦しくなってくる。
立つこともままならず、どっと大理石の床に倒れた。頭が固い大理石にぶつかり、鈍い痛みを感じた。身動き一つすることができなくなってしまっていた。抜かれた剣の跡から赤い血が流れてゆく。それが床にゆっくりと広がっていった。
「すまない、彩子」
彼女は失われてゆく意識の中でその声を聞いた。
子爵・・・。
その声は悲しんでいる声だと思いたかった。
さくらはアシュタロトのいる大広間に向かって二階の長い廊下を走っていた。
さくらの代わりにルプスと戦っているアークシリウスが気がかりだったが、それが今どうなっているのか確かめる術はない。
彼女はシリウスの無事を祈りながら走っていった。
やっぱりアークシリウスがあたしを助けたということは東原君のアシュタロトへの叛意は本気なのだ・・・今は信じるしかない。
廊下の先から青い服を着た悪魔の衛兵の集団がさくらに向かって走ってくるのが見える。拳銃を取り出し、さくらに狙いを付けた。
「そんなんじゃ、あたしを止められない!」
ピンクの剣がさくらを追い越し飛んでゆき、衛兵姿の悪魔を次々に刺し、彼らから全ての動きを奪っていった。
今は信じるしかない。
そう思いながらさくらは走っていた。
大広間のドアが蹴り飛ばされた。
「来たか・・・」
白いドレスを着た金髪の少女は静かな声で言った。
ピンク色のドレスを着たアークイリシアがビクトリア調に飾られた大広間にゆっくりと入ってゆく。十数の悪魔の衛兵が即座に動き、さくらを囲み、剣を抜いた。
「なんなの、この部屋・・・」
コの字状に置かれた机にパソコンが幾つも置かれ、その前に持ち主だろう悪魔達が席からさくらを警戒するように見つめていた。その数はざっと三十から四十はいる。
「この地を治める幹部会をやっていたのだよ」
大広間の奥に座っているアシュタロトは戸惑うさくらにそう呟いた。
「この場所で凛の民の魂の回収量に関する予算と実績が管理され、計画を立案している。治安維持の指示もここから発令し、凛の民の不満分子を憲兵が刈ってゆくのだよ」
「だったらここを潰したら、壁の中のシステムは終わりと言うことね」
「そうはならないわ」
アシュタロトの声が聞こえると同時に、広間に控えていた衛兵がさくらに対して剣を構え直した。彼女はゆっくりと自席から立ち上がった。
「ルプス伯爵と会わなかったか? アークイリシア。お前を迎えに行ったはずなのだが」
「ルプスはお前の仲間だったアークシリウスが相手をしているわ」
悪魔達に動揺が走った。
「彩子がルプス伯爵と戦っている? まさか」
「彩子が裏切った?」
動揺は広がりを見せようとしたが、アシュタロトの苛立った表情に気が付くと、それはすぐに収まった。
「・・・」
だが・・・アシュタロトが笑った気がした。
気のせい・・・?
さくらは違和感を覚えたものの、憎しみが勝っていた。気がつくと彼女はアシュタロトを睨み付け、敵意をあらわにしていた。
「妹のいぶきの仇を打たせてもらうわ!」
「ふん、またやられたいのか?」
「あのときは違う! 今はアークイカロスから受け継いだ力がある! お前にはもう負けない!」
「随分と威勢がいいな。者共、やってしまえ」
その声と同時に十数人の衛兵姿の悪魔が一斉にさくらに襲い掛かった。さくらは敵の剣をかわし、敵を投げ飛ばし、敵に蹴りを入れ、拳を入れた。机は倒れ、パソコンは飛ばされ、悪魔は次々に倒されていった。
「!」
黄色い線が飛び、数名の悪魔が串刺しにされた。
オクターブの線だ。
「イリシア、これを!」
東原の声だ。振り向くと白い仮面を被ったオクターブが拳大の灰色に光る球を投げてきた。
重い!
「東原君、これは・・・」
「アークシリウスの力だ」
「えっ?」
「シリウスとルプスは相打ちとなって死んでしまった。僕が着いたときは既にルプスはシリウスに討たれ、彼女自身もルプスとの戦いで傷つき、息絶え絶えとなっていた。死ぬ前にシリウスは自分の力をイリシアに渡したいと言って、それを僕に渡してきたんだ」
「シリウスが死んだ・・・」
あたしの代わりのルプスと戦い、命を落とした・・・。
「時間がない。力を展開するぞ、アークイリシア! 力を継承することがシリウスの意思に報いることになる!」
そうだ・・・東原君の言うとおりだ。
悲しんでいる場合じゃない。
さくらは手のひらの上の灰色に光る球を見つめた。球の表面に魔方陣の模様が赤くところ狭しと描かれている。
東原の呪文を詠唱する声が聞こえた。
次の瞬間、それは細かい灰色の光の粒となり、さくらの体を覆い始めた。体がほんのりと暖かくなってゆく。シリウスの力が入ってきているのだと思った。
さくらは灰色の光越しに襲い掛かってくる悪魔を目にした。
駄目・・・反応できない。
オクターブがさくらを守るように速攻でその悪魔を切り倒した。その直後に新手の悪魔が現れたものの、オクターブは蹴りを入れ、その体に深々と剣を刺した。青い血飛沫がオクターブに降りかかる。
「オクターブ」
アシュタロトが死んだ悪魔の死体を横目に静かに歩み出てきた。彼女の澄んだ声は大広間によく通る。
「やはりお前がこの襲撃の首謀者か」
その声は剣の刃のように冷たく鋭かった。
「やはり?」
東原はその言葉を意外に思った。
「私に挑むなど無謀なことを考えつくのはお前くらいしかいないさ」
「お褒め頂きうれしく存じます。アシュタロト公爵」
オクターブは会釈をして答えた。
彼女はオクターブに苛立ちを見せていた。
「お前、ルプスが彩子にやられたと言っていたな」
「ルプス伯爵は公爵の右腕ですから。先手で彩子に倒して頂きました。もっとも相打ちとなってしまいましたが」
「嘘だな」
嘘・・・。
さくらはその言葉に反応し、灰色の光の中でオクターブの仮面を付けた東原を見た。
「彩子を洗脳し、ルプスと戦わせたんだ。ルプスは彩子を可愛がっていた。それを利用し、ルプスの油断を誘い、彩子に殺させた。彩子はお前が殺したな。お前から彩子とルプスの死の臭いがするぞ」
オクターブはしばらく絶句していたが、やがて我を取り戻して答えた。
「さすが公爵様。ものの数分で真実を見抜くとは」
笑顔でそう言った。
「彩子には半年前から嘘の記憶を植えつけてきました。父親は壁が現れたときに壁の中に取り込まれ死んだとし、母親はそれがショックで死んでしまったとね。それにより彼女には悪魔に対する相当の恨みを持たせることができました」
「なにを・・・」
さくらは自分の耳が信じられなかった。
「正攻法ではルプスは倒せません。彩子とルプスと戦っている最中に彼女の記憶を回復させ、喜びで油断しているときにルプスを刺すように洗脳しておきました。残念ながら記憶を戻した彩子は私の敵となってしまったので殺さざるを得ませんでしたが」」
嘘・・・。
あのオクターブを心酔していたシリウスが嘘の記憶で動いていて、しかもそのオクターブに殺されたなんて・・・。
「イリシアに三つのアークセンテンティアの力を集めるつもりだったのだろう? だったら初めから彩子を殺すつもりだったんじゃないのか?」
さくらの周りで光っていた灰色の光の粒が消え始めた。シリウスの技の全てが頭に入った。イリシアの中にシリウスの力が取り込まれたのだ。
「そんな・・・」
さくらは呟いた。
東原君が人を殺した・・・アークシリウスを殺して、その力を私に移行させた。知らなかったとは言え、シリウスの死にあたしも加担していた!
強烈な罪悪感が襲ってきた。
「そんなの・・・許されない・・・」
オクターブの仮面を被った東原の表情は分からなかったが、抑揚のない淡々とした声がその仮面の下から聞こえた。
「アシュタロトに対抗できるのは三つのアークセンテンティアが合わさった力だけだ。だがアークセンテンティアの力はアークセンテンティアの命を意味している。イカロスの力はイカロスが死んで手に入れることができた。シリウスの力を手に入れるためには、彩子を殺すしかなかったんだ!」
「でも!」
「すまない。君にはアシュタロトを倒した後に全てを話すつもりだったんだ」
「話したって、人を殺したことは許されないわ!」
「分かっている。だがこれは凛の民を解放するための戦争なんだ! 凛の民を開放するんだったら僕は何でもやる。それが人として許されないことであっても!」
東原のはっきりとした言葉に絶望に似た感情に襲われ、さくらは手で顔を覆った。
シリウスは殺され、あたしの中にその力が入っている!
倒れそうになった。
「仲間割れか? オクターブ子爵」
アシュタロトはからかうような声で言った。さくらはその声にはっとしてアシュタロトを睨み付けた。
「アークイリシア、理解できないのは仕方がないことかもしれない。だけど今はアシュタロトを倒すことだけを考えてくれ。あいつは君の妹の仇なんだろ?」
「そうだ・・・」
さくらは急速に落ち着きを取り戻した。
そうだ・・・妹のいぶきの仇を討つためだったら・・・。
もうそれ以上は異論を言うことはなかった。
あたしは妹の仇を討つ!
「何だ、もう仲たがいは終わりか?」
「ご心配をお掛けいたしました」
オクターブは余裕を装って答えた。
「一応聞いておこう。子爵、反乱の理由は何だ? 何が望みだ」
アシュタロト独特の上から目線の威圧する声だ。
その声は聞く者を従わせる声でもあった。
「我が民、凛の民を公爵様から独立させて頂こうと思いまして」
「ならぬと言ったら?」
「公爵様を倒すだけです。私は元々人間で、凛の君の弟ですから。この望みを捨てることはできません。既に悪魔の半数以上は味方です。公爵様を倒すと同時に蜂起する手はずになっています」
アシュタロトの顔が曇った。
「ふっ」
そして笑い出した。
「私が倒れたら悪魔達は蜂起する。悪魔らしい卑怯な合意だ・・・だが、そんなことは既に知っていたよ。統制され、管理されたあの壁の中では悪魔ですら自由がない。それに不満を持っている悪魔を焚きつけ、仲間に引き入れたのだろう? 壁からの拘束を解き、自由を与えるとかなんとか言ってな」
東原は一瞬にして身が凍るような恐怖を覚えた。情報が漏れていたのだと思った。
だが、既に右腕のルプスは倒した。筋書が変わることはない!
「ふん、お前ごときが私を倒せると本気で思っているのか? お前はもう少し賢いと思っていたがな」
「私は公爵には勝てるとは思っていませんが、アークイリシアが公爵に負けることはないと確信しています。そして公爵が倒され、死ぬことも」
それを聞いてアシュタロトは再び笑い出した。
「ほう、お前が見た未来もそうだったのか?」
「!」
オクターブの態度から余裕が消えた。彼の体から殺気がみなぎり、衝撃波のようにそれは広がった。
「お前、姉君を殺したな!」
「そうだ、あの大火のときにな!」
アシュタロトは笑いながらそう答えた。
第五章ノ二 半年前
半壊したレンガ造りの憲兵本部が月明かりに静かに照らされていた。
初夏の涼しい風が流れてゆく。木々が優しく揺れていた
さっきまでのイカロスと悪魔の憲兵との激しい戦いが嘘のようだ。
一帯に動くものは何もない。何の音もない、暗い空間に変わってしまっていた。憲兵本部に詰めていた悪魔はそのほとんどがイカロスに殺されたか、もしくは身動きが取れない程の傷を負わされ、生死を彷徨わされていたからだった。
突然、暗闇に青く光る魔方陣が幾つも出現した。その中から武装した悪魔が次々と現れ、最後に同じように武装したラクキスが現れた。
初老の男の姿のラクキスは悪魔が累々と倒れている様子を見て驚いた。
「これは酷いな・・・」
他の悪魔達もまたその惨状を唖然として見つめていた。ラクキスは言った。
「すぐに手当を始めるんだ!」
ラクキスの号令に武装した悪魔達ははっと我に返り一斉に散らばった。
「こいつは手術が必要だ! 病院に搬送してくれ!」
「こいつも頼む!」
悪魔達の声が暗闇で飛び交う。
武装した悪魔達は重傷の悪魔の手当を優先して行っていたものの、手当の途中で亡くなる悪魔が後を絶たなかった。
「くそっ」
いくらなんでも残酷すぎる!
大勢の悪魔が倒れ、彼らの青い血は石畳のいたるところで血溜まりを作り、月明かりを反射していた。この世のものとは思えない酷い光景だと思った。
イカロスにとって悪魔は殺戮の対象でしかないようだった。過去の戦いで、敗走した悪魔であっても、彼女は執拗に追い、必ず最後は殺していた。それを考えるとこの惨状であっても、彼女にとって当然のことで、正義を行使したことになるのだろう。
青く光る魔方陣が現れた。
「オクターブ子爵!」
ラクキスはその魔方陣から出てきた男を走り寄った。
「状況は?」
「死亡六十三、重傷二十、軽傷なしです」
白い仮面を被ったオクターブはラクキスの言葉に驚きを隠さなかった。
「凄まじい程の惨敗だな・・・」
「憲兵達ではまともにイカロスとは戦えません。唯一対抗できるのは彩子のアークシリウスだけでしたが、それでも力の差があります。公爵の計画通りイカロスを誘導することができたのは奇跡としか言いようがありません」
「彩子は無事なのか?」
「大丈夫です。ですが、もう少し遅かったら失血死していたかもしれません」
オクターブは歩き出した。その後ろをラクキスが続いた。
「全身の打撲が酷い上に、ナイフで右の太ももを刺されていますので、全治には三週間程度は必要でしょう。病院に搬送している最中です」
「そうか」
オクターブは崩れ掛かった憲兵本部の前に立った。
「ゲートは?」
「二階になります」
オクターブは周りの様子を伺いながら、建屋に入り、暗闇の中、正面にあった階段をゆっくりと上り始めた。
ふと見上げると階段の踊り場に月明かりに照らされた黒髪の少女の姿が見えた。彼女は深々とオクターブに礼をした。二メートルはある大きな黒い針のような武器を手にし、紺を基調としたドレスを着ていた。
「お待ちしておりました、オクターブ子爵」
「アリスか」
「はっ」
「公爵は?」
「予定通り魔界にアークイカロスと妖精を取り込み、現在戦闘中です。一般人も一人います」
「一般人?」
「よくは分かりませんが、放火犯に家族がいるようです」
「そうか・・・状況はどう思える?」
オクターブが踊り場まで上り、そう言ってアリスの前を通り過ぎた。
「残念ながらアークイカロスが公爵に押されている状態かと」
「・・・あのイカロスをぶつけても駄目か」
オクターブは深い溜息を吐いた。
「質問ですが」
アリスはふと思い出したように言葉を口にした。
「何故公爵は魔界にアークイカロスと妖精を取り込んだのでしょうか? 交戦する場所はこの場所でもよいように思うのですが」
「ポリゴン化した世界になっても魔界は魔界だ。アシュタロトの力が十二分に発揮出来る場所だというのが一つと、イカロスと妖精を殺して城の魔方陣に組み込み、魔方陣を強化することも考えているようだ」
「魔方陣を強化・・・?」
「牧場の壁の結界はあの城の魔方陣とアシュタロトの術式で実行されていると聞いている。魔方陣への供物は凛の民を処刑して供給しているが、アークセンテンティアの力を供物とすれば、更に魔法陣の強化ができると思っているのだろう」
二階に到達すると彼は長い廊下の奥を目指して歩き始めたが、すぐに足を止めた。そこには二体の潰れた悪魔が無残に横たわり、床と壁には破裂し散らばった肉片と血のりがべっとりと付いていた。気味の悪い光景としか言いようがなかった。
「ゲートを守っていた番人か・・・」
「正義の味方が随分と酷いことをやってくれてますわね。これじゃあ、ただの殺戮者ですわ」
黒い大きなリボンを頭にした彼女はそう答えた。
「今から我々の隊が彼ら憲兵の代わりをしなければならない。ルプス伯爵の指示だ。公爵が魔界に入ってアークイカロスと戦っている中で、ウォルク男爵のような反乱分子が現れ、ゲートを襲撃されると面倒なことになると思ってのことだろう」
「むしろ面倒なことになった方がいいのではありませんか」
黒く長い鉄の武器をブンと振った。
「私達は公爵にはもう従えません。凛の民を使った欲の生産に労働者として駆り出され、その粗悪な魂の欠片を支給される代わりに、あたし達は自由を奪われ、まるで公爵の奴隷のように使われています。反対意見を言えば即処分され、ウォルク男爵のように逃げることも許されない・・・」
アリスの不満は続いた。
「ふん、今の状態はただ生きているだけに等しいわ。公爵が作り出したシステムの中で一部品として機能させられ、何の目的もなく、何のモチベーションもなく日々を過ごすなんてもうたくさん!」
それは悪魔全体に広がっている不満だった。
壁が出来て間もないにも関わらず、アシュタロトの作った牧場のシステムは既にきしみ始めていたのだ。
オクターブは足を止めた。
ハルに押し潰された二人の悪魔が守っていた扉がそこにはあった。
「この扉を壊せば魔界との繋がりはなくなる訳ね。つまりはアシュタロトを崩壊してゆく魔界に封じ込めることが出来る」
「ふっ、アリスは曲がらないな」
白い仮面の男は苦笑しながら黒いリボンをした少女にそう言った。
「だが今は止めておくんだ。アシュタロトの動きを封じてもルプスがいるし、それに魔界へのゲートはここだけじゃない可能性もある。まだそのときじゃない」
「承知致しました」
そう言って彼女はオクターブに一礼した。
「ですが・・・」
アリスは異様な気配を感じた。殺気と言うべきものだった。彼女は手にしていた黒い巨大な針を扉に向かって構えた。
「来る!」
そう彼女が叫んだ瞬間、魔界へのドアが突然開き、青色のドレスを着た少女が転がるように出てきた。
「アークイカロス!」
「!」
イカロスとっさに距離を取り、敵に怒鳴った。
「オクターブの一派か!」
イカロスの左肩と腹部は血で真っ赤に染まっている。呼吸も荒い。腹部を抑えながら彼女は月明かりしか入らない暗闇の中、オクターブ達を睨み付けていた。
公爵の手を逃れたのだと直感した。
ゆっくりと階段を昇る音が聞こえてくる。何か引きずるような音も鳴っていた。
なんだ・・・?
東原は警戒しながら開けられたドアの先の真っ黒な空間を見た。階段から聞こえる音は次第に大きくなってくる。そして月明かりに照らされ、白いドレスを着た金髪の少女の姿が現れた。
アシュタロトだった。
その少女は右手で高校生くらいの女子の襟を鷲掴みにし、乱暴に引きずっていた。そして勢いよく廊下に投げ捨てた。その女子高生は血だらけで動くこともなく、生きているのかどうかも分からない。
五条さくら・・・なんでこんなところに。
オクターブは東原として通う高校の同じクラスの女子がそこに倒れていることに驚いていた。そして思わず言葉を発した。
「公爵!」
「オクターブか」
「状況は・・・」
息を呑んだ。
「アークセンテンティアの妖精は予定通り城の刑場で死んでもらった。今頃魔方陣に飲み込まれているだろうよ。この子は予定外だったけど、利用価値がありそうだからまだ殺してはいないわ」
アシュタロトはイカロスを一瞥した。
「ふん、だがお前は死んでもらうことで価値が出る」
「ふざけるな!」
イカロスは青く光る剣を右手に出し、アシュタロトに切り掛かった。だが怪我のせいか動きは鈍く、憲兵本部を襲っていたときの強さはもうどこにも見ることはできない。
アシュタロトは余裕の笑みを浮かべ、イカロスの大振りとなり精細さの欠けた剣を避け、難なくイカロスの懐に入り、彼女の腹部に強烈な拳を入れた。
「がっ」
凄まじい痛みが全身を駆け巡り、廊下を飛ばされ、廊下を何回もバウンドして転がっていった。血が流れ過ぎていた。痛みで顔が歪み、意識が朦朧とし始めていた。
「今までよくも大勢の我が同胞を殺してくれたな。簡単には殺しはしないぞ。もちろんお前が自分の犯した罪を悔いても許しはしない」
アシュタロトは白く光る剣を出し、彼女に近づいていった。そして床に倒れたままのイカロスの傍に彼女は止まり、その場所で剣を高く振りかざし、それをイカロスの左足のふくらはぎに落とした。
「あああ!」
中学生くらいのその女子は目を見開き、悲鳴の声を上げた。アシュタロトは完全にその声を無視し、左足から勢いよく剣を抜き、次に右足にそれを落とした。
痛みに耐え切れなくなっていた。彼女は気を失ってしまった。赤い血が暗い廊下に広がってゆく。
「気絶したからと言って許す訳にはいかない」
アシュタロトは床に転がったままのイカロスの腹部に蹴りを入れた。
「ごほっ、ごほっ、ごっ」
イカロスは咳き込む度に大量の吐血をした。
「起きろ」
アシュタロトは強い蹴りをイカロスの腹部に入れ、続けてもう一度入れた。イカロスは宙に浮き、廊下を転がった。
なぶり殺す気だ。
「公爵!」
堪りかねたオクターブが叫んだ。
「オクターブ子爵、私に意見するつもりなのか?」
威圧する声にたじろいだ。
「いえ、そのようなことは決して・・・予定ではアークイカロスの力を剥ぎ取ることになっていたはずです。そろそろ頃合かと。死んでしまっては貴重なアークセンテンティアの力自体が消滅してしまいます」
「そうね、そうだったわね」
アシュタロトは言った。
「我を忘れていたわ。オクターブ、ありがとう。今からイカロスの力をこの子から分離することにしましょう」
そう言うと虫の息のイカロスの身体の中に勢いよく公爵の手を入れた。
「がっ!」
イカロスの体は反射的に真っ直ぐに伸び、そのまま硬直した。
アシュタロトがゆっくり体の中から手を引き上げるとその手には青く光る球があった。その瞬間、イカロスの変身が解け、黒髪の中学の制服姿の女子が現れた。服はきれいな状態だったが、すぐに赤い血で染まった。
「これよ、これ」
機嫌の良い声が聞こえた。
アシュタロトは立ち上がり、白く光る剣を少女の胸に落とした。
「うっ」
少女はそう呻くと二度と息をすることはなかった。その少女は絶命してしまっていたのだ。
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