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第四章

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 第四章ノ一 現在


 アシュタロトの屋敷の会議室に大勢の悪魔が集まっていた。

 カーテンを閉めきった暗い部屋で、悪魔達は机にノートパソコンを広げ、資料の確認を行っていた。パソコンの液晶画面の光は、暗い部屋の中で動物の頭を持った悪魔達の姿を浮き出させ、その場の不気味さを醸し出すのに一役を買っていた。

「中計の報告を」

 一人の悪魔が立ち上がり、前に出た。黒い中世ヨーロッパ貴族風の服を着たその悪魔は、山羊の頭を持ち、プロジェクタから壁に映し出されている資料の説明を流暢に始めた。

「回収におきましては地区によって差が大きく、予算未達となっているところがあります。特に柄沢地区と山上地区は先月に続き十五%減となっておりますが、回収をその分上乗せさせましたので、結果的には全地区トータル予算である二百五十デザイアを達成しております」

 資料を次のページに進めた。

「ですが、回収を増やした影響で柄沢地区と山上地区での廃人率が四パーセントに昇ってしまいました。このままでは危険水位の五パーセントに到達し、廃人病の爆発的感染が始まってしまいます。この二地区に関しましては明日から廃人の除去作業に入らせて頂きます」

 そう言って一番前に座るアシュタロトに一礼をした。白いドレスを着た金髪の少女はその外見の華やかさと異なり、不快な表情をした。

「待て。何故その二区で生産が下がったのか説明しないのか?」

「この地区は先月も生産減をカバーするため回収の比率を上げたのですが、おそらくはその影響が今月に現れたものだと思います。回収増が続き、希望をなくし、欲望が抑えられてしまったのでしょう。このままゆけば来月も生産減となり、当然廃人率も上昇してしまいます」

「つまりは回収の比率を上げたことによる負のスパイラルに入っているというのだな」

「左様でございます」

 アシュタロトは少しの間思案する様子を見せた。

「廃人病の数は?」

「百ほどですが」

「・・・間引きは仕方ないだろう、やれ。それに伴う会計上の損失は来月に回しておけ」

「かしこまりました」

 少女の姿をした公爵に山羊の頭を持つ悪魔は一礼をした。

「今後は集会の規制を緩め、彼らに独立の希望を持たるようにしろ。必然的に欲望の生産を上がるはずだ」

 そう言ってアシュタロトは深い溜息を吐いた。

「今の人間は贅沢な生活をしている。温かい風呂にはいつでも入ることができ、ほしい食べ物が季節に関係なく手に入る。誰もが車を持ち、携帯やスマホ、パソコンで自由に情報を得ることができる。昔ではとても考えられないことだ。一国の国王ですらそんな生活はできていなかったぞ」

 アシュタロトの持論だ。

「問題はテレビやネット、ゲームなど簡単に得られるふんだんな娯楽で現状に満足し、上を目指すことなく、結果、人間の欲の質が落ちてしまっていることにある。悪魔に魂を売ってでも得たい欲望を持つ人間は今や貴重だ。それは我々の存亡の危機に立たされていることを意味している」

「左様でごさいます。アシュタロト公爵様」

 山羊の悪魔は相槌を打つように言った。

 イエスマンばかりだ。

 オクターブ子爵は会議室の末席でその様子を見てそう思った。

 そして思い出していた。過去アシュタロトのやり方に反対した悪魔達のことを。彼らは皆アシュタロトの絶対的な力により殺されてしまっていた。彼女は反対意見を持つ者を決して許さなかった。彼女はそういう悪魔だった。

「魂を手に入れにくくなってしまった上に、魔界は黄土色の大地と化し、ポリゴン化し、消滅しかかっている。我々は自分達の故郷を失ってしまったのだ」

 彼女はプロジェクタの電源を消し、席を立った。部屋は一瞬何も見えない暗闇に覆われたが、すぐに自動でカーテンが開き、ゴシック調の大部屋に眩しい光が差し込んできた。

 遠目に壁に囲まれた彼らが言う牧場が見えた。

 白い面を付けたオクターブは話し続ける金髪の少女を黙って見つめていた。

「我々は人間界に我々の居場所を作らねば生きては行けない。それだけは確かだ。我々は今の牧場のシステムを守り、前進させる以外、生き延びる道はないのだ」

 全ては魔界の異変から始まったのだ。

 この立原地方が壁に囲まれたのも、欲望の魂を供給する牧場と化したのも、全ては魔界の悪魔が生き残るためにアシュタロトが考えたことだった。

 オクターブは苛立ちを感じた。

 人間である自分が魔力を与えられ、子爵として列せられているのは、凛の民の統治と誘導を円滑にするためであることを思い出していた。

「公爵様」

 ドアをノックする音が聞こえ、黒いスーツを着た狼の頭を持つ悪魔が入ってきた。

「ルプス伯爵か」

「ウォルク男爵達を捕らえました」

 その言葉に会議室にいた二十人程の悪魔はざわついた。

「あの脱走者共か」

「県境の森に隠れているところを憲兵が逮捕しました。中庭に転送するように指示しておきまので、もうしばらくで現れると思います」

「ご苦労様、ルプス伯爵」

 アシュタロトは笑顔で言った。

「伯爵、君は例の放火犯を捕まえたときといい、実に有能だ」

「ありがとうございます。公爵様」

 黒いスーツの狼は一礼した。

 窓の外が青く光った。

「!」

「来たか」

 アシュタロトは部屋を出て、廊下を早足で歩き、中庭に臨むバルコニーに出た。

 機嫌がいいのは明らかだ。

「離せ! 下級悪魔共が!」

 怒鳴り声が聞こえた。

「往生際が悪いぞ! ウォルク男爵!」

 ルプスの声だ。

 十数人の悪魔の憲兵が中庭の石畳みの上に赤い狼の頭を持つ悪魔と五人の悪魔を力づくで押さえつけていた。

「黙れ! 腰巾着のルプスが!」

 その怒り様から、ウォルク男爵が今にも憲兵を跳ね除け、二階のアシュタロト達に襲い掛かってくるのではないかと思われた。公爵の後ろについていた悪魔達は思わず後ずさりをしたが、公爵は一歩も引かず、赤い狼を蔑むように見下ろしていた。

「ウォルク男爵」

 アシュタロトは捕らえられ、尚も暴れる赤い狼の男の名を呼んだ。

「お前達の不満は分からないでもないがな」

 ウォルクは一瞬その言葉を聞いて止まった。その言い方は下を見下し、馬鹿にした言い方だった。ウォルクは中庭に石畳に顔を押さえつけられながらも、敵意剥き出しでアシュタロトを睨み付けた。

「だが我々悪魔は頭を使うようにならなけばならない。今は中世の時代とは違うんだ。魂を売ってでも叶えたい欲望を持つ人間が今の世のどこにいるというのだ? 時代は変わっている。爆発的に増えた誤魔化しの娯楽によって、我々悪魔が追い込まれているのはお前達でも分かっているよな? 組織立って計画的に人間の欲望を生産し、回収をしなければ我々悪魔は生きて行けないのだぞ?」

「だがその代わり我々には自由はなくなっている。役目を与えられ、見返りに質の悪い魂を配給され、細々生きる生活に何の意味があるんだ? 公爵の方針に反対できず、批判も出来ない。役目に縛られ、自由を剥奪され、そんなんで何が楽しいっていうんだ!」

 ウォルクは石畳に顔を押さえつけられたまま、自分の意思を叫び、怒鳴った。

「我々には自由に生きる権利がある! それをお前達は踏みにじり、我々を奴隷のように扱った。牧場の凛の民と実質何が違うというのだ! もうお前達には従えない、もうこんな生活はたくさんだ!」

「そこの五人の悪魔も同じ考えなのか?」

 悪魔達は頷いた。

 アシュタロトは舌打ちをした。彼女の軽蔑した声が聞こえた。

「お前達の首の上にあるのはいったいなんなのだ? お前達は馬鹿なのか? 何故理解できない? 何故本当に必要なことが見えない? 何故本質を見極められない? 第一、牧場から離れればお前達はすぐにでも死んでしまうぞ!」

「だが自由の身だ! お前の奴隷として制限され、何の自由のないまま死ぬより、自由を選んだ方が遥かにましだ! 遥かに生きている!」

「また私に仕える気はないというのだな」

 アシュタロトから激しい怒りの感情が流れ出た。その勢いに圧され、彼女の後ろにいた悪魔達はたじろいだ。

 赤い狼の悪魔は叫んだ。

「絶対にない!」

「だったら望み通り死ね!」

 白いドレスを着たアシュタロトは右手を前に差し出した。

「それが三百年来の配下に言う言葉か!」

 赤い狼の頭を持つ悪魔は浮き上がった。そして強烈にもがき苦しみ始めた。

「がはっ」

 大量の青い血を吐き出した。

「アシュタロト、お前、俺の心臓を・・・」

「お前のような馬鹿が私の配下だったことに私は不快に思っている。今すぐ握り潰してやる」

 そして手のひらを握った。

「がっ、ががっ」

 彼は白目をむき、青い血を口から吐き出し続けた。細かい痙攣が続き、何かが破裂する音が聞こえた。その瞬間、口から泡が溢れ、彼の全ての動きが止まった。そして石畳にどさっと落ちた。

「憲兵、片付けておけ。他の五人も始末しておくんだ」

 金色の髪を持つ少女は踵を返し、二階のバルコニーから屋敷の中に入った。

「はっ」

 その指示に従って悪魔が次々に銃殺され、その数だけ中庭に青い血が広がっていった。その光景は悪魔の目から見ても残虐なものに映った。

 アシュタロトに続いて配下の悪魔も屋敷に入った。

 バルコニーに何人かの悪魔が残った。

 そしてその中の一人が呟いた。

「次は俺達かもな」

 誰もそれを否定しなかった。

 オクターブ子爵もその言葉を聞いていた一人だった。



 授業中・・・。 

 さくらは小高い丘に建つ高校の窓から、ぼんやり延々と続く赤いレンガの壁を眺めていた。

 青い空にゆっくりと雲が流れてゆく。

「君にこのアシュタロトが作った世界の真実を教えてあげよう。明日の夜九時に君の通っている高校の校舎屋上で待ってくれたまえ」

 白い仮面の男・・・オクターブ子爵の言った言葉だ。

 この世界の真実・・・。

 魔界の大公爵と名乗る悪魔がこの街を支配し、私達の魂を定期的に削ぎ、夢食いと称する怪物がそれを回収する。それ以外の真実っていったい・・・。

 授業を集中して聞ける訳もなかった。今は法器という初老の男性教諭による古文の授業だった。

 古文の訳の分からない文章の説明が延々となされてゆく。枕草子だ。内容は毒舌を吐いているただの個人の随筆にも関わらず、古文の授業ではなにかと芸術性が高められ、それを強制的に合意させるための説明が行われる。

 これでは価値観の押し付けだ・・・。

 そもそもこれは日本側の文化だ。凛の民の文化じゃない。だけど凛の民には文化と呼べるに相応しいものは何もない。それもそうだ。日本の支配下に置かれ千年以上の時間が経ち、その間に凛の民は文化、宗教、文字を奪われ、プライドを踏みにじられたのだ。ある訳がない。凛の民に唯一残されたアイデンティティは凛の君の存在だけだ・・・。

 彼女の席は一番後ろの席だった。そして彼女の二つ隣の席に凛の君の弟である東原の席があった。さくらは目立たぬよう彼の席に目をやった。

 誰も座っていない。

 彼が学校に来るのはまれだった。主のいない席というのはどこか寂しさを感じされる。元々話す機会もなく、東原とは仲がいい訳ではなかったが、凛の君の弟である東原という人間がどういう人間なのか気にはなっていた。

「そもそもこの枕草子を書いた清少納言という人物は・・・」

 法器教諭の単調な声が聞こえた。

 アシュタロトの支配下に置かれても授業の内容は変わっていない。授業だけじゃない。凛の民の自由は日本が支配しているときと同様、何一つ認められなかった。

 しかも今は魂を削られ、家畜のように扱われている・・・。

 さくらは拳を強く握った。

「あ・・・」

 彼女の机からシャープペンが転げ落ちた。 

 さくらは席に座りながらシャープペンを拾い上げた。そしてふとオクターブ子爵と戦っているときの記憶が映画予告のダイジェスト版のように頭の中を過ぎった。

 桁外れの魔力と知略と行動力はおそらくアシュタロトの配下の中で群を抜いている。このままでは力の差がありすぎて、あたしはとても太刀打ちできない。

 いったい何者なの・・・。

 あいつは自分のことを悪魔ではないと言っていた。それにあいつはあたし達と戦いたくないと言っていたにも関わらず、アークイカロスを殺した。訳が分からない。信用は絶対にできない。ハルが言うように罠なのかもしれない。

 だけど・・・。

 窓から街を囲む赤いレンガの壁を眺めた。

「この世界の真実・・・か」

「!」

 突然、前の席からメールの着信音が鳴った。

「えっ?」

 さくらは驚いて視線を音の鳴った方向に向けた。

 その携帯だけではなかった。数台の携帯から後を追うようにメール着信音が鳴ったかと思うと、クラス中の携帯からメール着信音が一斉に鳴り始めた。

「なに?」

「どういうこと?」

 生徒達は戸惑い、混乱し、お互いの様子を伺った。もう授業どころではない。

 着信音が鳴り終わった。

 一人の生徒が決心し携帯を取り出した。それを見て、つられるように他の生徒も自分の携帯やスマホを取り出し、届いたメールを確認し始めた。

 さくらのスマホにもメールが入っていた。

「壁内行政局・・・アシュタロトか!」

 怒りの感情が反射的に心の中に沸きあがった。

「壁外への逃亡したウォルク男爵、その配下五人の悪魔への処罰に関しての公示・・・」

 悪魔が悪魔を処罰・・・。

 さくらはその内容の意味することがすぐには理解出来なかった。

「ウォルク男爵とかいう悪魔、壁の外に逃げたけどすぐに捕まって、アシュタロトに処刑されたらしいぞ・・・・」

 男子生徒の声が聞こえた。

「悪魔同士でも容赦ないということか」

 別の男子生徒の声だ。

「だいたい、そのウォルク男爵とかいう悪魔はなんで壁の外に逃げたんだ? 悪魔が支配する土地から悪魔が逃げるなんておかしくないか?」

「独裁的なアシュタロトの支配から逃げたかったんじゃないのか?」

「だが、アシュタロトは裏切り者を許さなかった。そして捕まえて処刑した・・・」

 恐怖と不安が混ざった感情が教室内に広がった。

 同じ悪魔同士であっても自分を裏切り離脱する者を許さない・・・人間である自分達だったら尚更のはずだ。

 アシュタロトの絶対性を垣間見た気がした。教室に重い空気が覆い被さった。

「俺達はずっとこのままなのか? このまま魂を削られ、生きてゆくのか?」

 そして逃げ出した人間のことを思い出した。

 彼らは例外なく、あの不定期に空に現れる巨大な白い半透明の画面の中で公開処刑されていた。何度も見た風景だ。

「違う!」

 全てを振り切るような強い声が聞こえてきた。

 クラスの男子の声だ。

「諦めたら終わりだ。諦めたら何も進まない。今は凛の君も耐えられ、機を伺っているはずだ。それなのに我々が先に諦めてどうする!」

「そうだ! 我々には凛の君がいる! それにアークイリシアだっているんだ! こんな理不尽なことはそう長くは続かない! もう少しの辛抱だ!」

「そうだ!」

「その通りだ!」

 混乱していたクラスの空気は反転した。

 さくらは驚きの表情になっていた。

「どうして・・・?」

 青い空に雲がゆっくりと流れてゆく。

 凛の君が表に出てくることは今や殆どない。アシュタロトに捕らえられ、全ての自由と意志を奪われているという噂だった。そして頼みのアークイリシアは敗退が続き、凛の民には全くの希望がない状態にあった。

 彼らはそれを知っていた。

 だがいつかきっと!

 祈りに似た感情からくるものだったのかもしれない。

 彼らは諦めることはしなかった。

 それがアシュタロトに目を付けられた理由でもあった。

 

 

 二十一時まであと二十分・・・。

 五条さくらは学校の裏門の前に立ち、周りの様子を伺った。

 ここから市街地への下り坂には数メートルおきに街灯の光が点在し、夜の暗闇を照らしていた。誰かがいる様子はない。人の気配を感じることはなかった。登下校の賑わいを考えるとその風景は寂しいものに感じられる。ギャップが大きいほど、その寂しさを感じるものなのかもしれない。

 さくらは裏門に向き直り、覚悟を決めるように自分に頷いてから、自分の背丈程ある鉄格子をスライドさせ、門を開けようとした。

 重い・・・。

 力を精一杯掛けた。

「ん・・・」

 それでも門の鉄格子は全く動く様子はなかった。

「駄目・・・全然動かない」

 鍵が掛かっているのが見えた。

「だったら変身して・・・」

 さくらはコンパクトを取り出し、鉄格子を前に変身のキーを叫ぼうとした。

「!」

 突然人の気配がした。

「誰!」

「お待ちしてましたよ。五条さくらさん」

 鉄格子の後ろからその声の主が姿を現した。

「法器先生!」

 初老の古文の教師がそこには立っていた。

「どうしてここに・・・」

「オクターブ子爵様のお言いつけで参りました。アークイリシア」

「!」

 さくらはとっさに身を構え、鉄格子を挟んで目の前の教師を睨み付けた。

「さくら、変身だ!」

 ハルの声が聞こえた。さくらはその声に従った。

「アークセンテンティア、イリシア、エクスポート!」 

 さくらの周りはピンクの世界となった。彼女は光を発しながら、ピンクのアークイリシアのコスチュームを纏った。

 決め台詞と決めポーズは省略した。

 正体がばれていてやれるほど神経は図太くない。

 さくらは叫んだ。

「どういうことなんですか! 法器先生!」

「まあそんなに興奮しないて。こちらに戦う意思はありませんよ」

 無表情にそう言って法器教諭は鍵を開け、鉄格子を開けた。

「さあ、入って下さい。五条さくらさん、いや、アークイリシアと呼んだ方がいいでしょうか?」

 老教師はそう呟くように言うと振り返り、校舎の方に向かって歩き出した。

 さくらは警戒しながらも、結局は法器教諭を追った。

「法器先生はアシュタロトの配下だったのですね」

 彼女は批判するような声で言った。

「凛の民を裏切るようなことをして恥ずかしくないんですか?」

「・・・」

 さくらの問いに初老の教師は答えることなく、黙ってさくらの前を歩いてゆく。そして通用口から月明かりと非常灯の明かりしかない校舎の中へ入って行った。

 彼女は少し遅れて校舎に入った。校舎は暗く、当然さくらと法器以外は誰もいない。昼間の騒がしさと打って変わり、その空間は静かで、足音がやけに響く不気味な空間となっていた。

「!」

 姿は確認出来ないが、数体の悪魔の気配を感じた。オクターブに指示されているのだろうか、攻撃を仕掛けてくる様子は全くない。

 さくらは息を呑んだ。

 ここは敵の巣窟だ・・・。

 緊張を感じた。

 ふと前を行く法器が足を止めた。そして後ろについて来るアークイリシアを確認すると、目の前の階段を上り始めた。信用してついては行けなかった。さくらは最上位の警戒をしながら階段を上った。法器教諭とさくらの足音が、階段の壁に何回も反射し響いていた。二階を通り過ぎ、三階を通り過ぎた。そして彼らは屋上への扉の前に立った。

 この扉を開けるとオクターブに指定された屋上となる。法器教諭が鉄扉のノブに手を掛け、扉を押した。

 そこには夜空の下にある屋上がある・・・はずだった。

「え?」

 目に入った風景は想像していたものとは全く異なっていた。

 そこは部屋だった。教室程の大きさで、天井から小さめのシャンデリアが吊るされ、趣味の良いゴシック調の家具が並んでいた。部屋の真ん中には応接用の青いソファが置いてあり、部屋の壁には無数と言っていいほどの壁掛けの時計が掛けてあった。

「何処なの、ここは?」

 アークイリシアは前に立っている法器を問い詰める口調で言った。だが法器はその問いに答える様子もなく、静かに部屋の中に入って行った。

「ちょっと、待ちなさい!」

 さくらも部屋に入り、そして法器の肩を掴んだ。

「まあまあ、落ち着いて、五条さくらさん」

 部屋の奥から若い男の声が聞こえた。

「ラクキス、ありがとう、ご苦労様」

 部屋の奥に机があり、黒い学ランに白い仮面を被ったオクターブ子爵が席に座っていた。執務の途中に見える。さくらはとっさに身構えた。

「ここは何処なの? それにラクキスってどういうこと? それが悪魔である法器先生の本当の名前なの?」

「悪魔である法器先生・・・?」

 そう言うとオクターブは笑い出した。

「何がおかしいの!」

「そりゃそうさ、ラクキスはここでの通用名だ。本当の名は法器で僕と同じ正真正銘の人間だよ。まあ普通の人にはない魔力的な力は確かにあるんだけどね」

 そう言い終わると、オクターブは咳払いをして呼吸を整えた。そして言った。

「ようこそ、オクターブの部屋へ」

「え・・・」

「凛の民側の人間をこの部屋に迎えるのなかなか難しいからね。騙したようで申し訳なかったけど、学校経由で来てもらったんだ」

「・・・」

 さくらは改めて周りを見渡した。確かに悪魔の気配はしない。本当に彼らは人間でここには法器とオクターブしかいないようだった。

「さて・・・約束通り来てくれたことにまずは礼を言わなければならないね。感謝するよ。ありがとう。前にも言ったように僕はアークセンテンティアとは戦いたくはないと思っているんだ。これを機にアークイリシアには僕らの味方になってほしいと思っている」

 さくらは唖然とした。相手が何を言っているのか全く理解できなかった。とっさに突っかかる口調で言葉を返した。

「何言ってるの? あたしにあなたの味方になれって言っているの? だとしたらありえないわ。あなたは凛の民を苦しめるアシュタロトの手先だし、アークイカロスの命を奪った張本人なのよ? 味方になりますなんて言えるはずがない!」

「・・・」

 オクターブは溜息を吐いた。そして席を立ち、さくらに向かって言った。

「アークイカロスのことは申し訳ないと思っている。戦闘になって僕も自分の身を守るので精一杯だったんだ。彼女の攻撃の凄まじさは・・・」

「そんなの言い訳にならない!」

 白い仮面の男の言葉を遮り、さくらは怒鳴った。

「イカロスはまだ中学生だったのよ。夢だってあっただろうし、恋だってしたかったと思うわ。知りたいことも学びたいこともいっぱいあったと思う。それをあなたは彼女を殺し、全て叶わないものにしてしまった! あたしはあなたを許せないわ!」

 さくらの勢いに圧倒され、一瞬の空白の時間がその場に流れた。

 オクターブは静かに言った。

「僕だって人を殺してしまったんだ。何とも思っていないはずがないじゃないか。しかも相手はあのアークイカロスとは言え、中学生の女の子だ。良心の呵責を感じない方がおかしい」

「その中学生をあなたは殺したのよ。アシュタロトの手下のあなたがね」

 その言葉にオクターブは首を横に振った。

「僕がアークイカロスを殺したのは事実だし、言い逃れはしない。だけど僕らはアシュタロトの手先なんかじゃない。アシュタロトに表面上、忠誠を誓っているだけで、実際は凛の民の味方だ」

「何を言っているの? そんなの、到底信じられないわ」

 さくらの声は冷たいものだった。

「じゃあ、味方のはずのオクターブ子爵様が何故凛の民の魂を搾取し、集めているの? お陰で凛の民には廃人病に掛かってしまう人だって出ている。そもそも魂を削り取っていること自体が、味方のやっていることとは到底思えない!」

「それも言い訳はできない。公爵の配下である以上仕方がないんだ。僕もアシュタロトに魂を握られている人間にすぎない。そして公爵は冷酷だ。逆らう者は味方であっても容赦しない。それは今日のウォルク男爵の件でも分かるだろう?」

 オクターブの様子は少し辛そうなもの見えた。

「・・・僕だって辛い。いずれ僕は自分が犯した罪を償わせて貰おうと思っている」

「償う?」

 さくらは怪訝な顔をした。

 オクターブはゆっくりと歩き出した。

「?」

 そして彼は部屋の中央に置いてあるソファに来た所で足を止め、自分の体重を支えるようにソファの背に左手を置いた。そして右手で自分の顔を覆っている白く不器用に作られた面をゆっくりと取り外した。

「!」

 さくらは驚きで息が出来なかった。

 壁に無数に飾られた時計の秒針の音が急に大きくなったような気がした。時を告げる音が鳴り響いた。

「東原君・・・」

 あたしと同じクラスの・・・そして凛の君の弟である東原君が目の前にいる。

「だからどんなときも僕は凛の民の味方なんだよ」

 そして片手で体重を支えきれなくなり、その場に彼は倒れ込んだ。




 第四章ノ二 半年前

 

 さくらはハルが口から吐き出した拳銃をじっと見つめていた。

 ずっしりと重く、これが人を殺す道具だと思うと言いようのない緊張を感じた。

 手は震え、それを止めることはできなかった。

 暗い憲兵本部の二階の奥には悪魔が二人立っているのが見える。一人は鳥の頭を持ち、一人は羊の頭を持つ悪魔だった。二人は外のアークイカロスと彼らの仲間との戦いが気になって仕方がない様子だった。窓の外で起きている夜の戦闘を食い入るように見つめていた。

「ねえ、ハル、あの二人をやっつけるのってどうやってやるの? 見た目だけでいうと結構強そうなんだけど」

 階段に隠れ、白熊の子供の姿をした妖精にさくらは屈んで小声で話しかけた。

「それに銃を貰ったって、あたしは銃を使ったことなんてないから、とてもあの悪魔達に当てる自信はないわ」

 床に立ち、壁越しから悪魔の様子を伺っていたハルは困った顔をした。

「うーん、やっぱりそうだよね。困ったなあ。僕も拳銃を扱ったことないんだよ。とりあえず銃撃してみて、当たらなかったら考えてみる? それでいいかな?」

 おいおい。

 さくらは焦った。

「いい訳ないでしょ? ハルは馬鹿? 馬鹿なの? そんなことしたらすぐあたし達は殺されてしまうわ」

「馬鹿馬鹿っていうな! だったら何かいい案を出してよ!」

「そんなのあったらとっくに言っているわ」

 さくらは開き直った。

「ハルは妖精なんでしょ? 変身とかできないの? 怪獣とかにさ」

「できるよけど、でも奴らに銃を撃たれたら、死んじゃうんだけど」

「じゃあ、手はないな」

 頭上から聞き慣れない男の声がした。

 さくらとハルは嫌な予感がした。いや確信と言ってもいい。恐る恐る声のする頭上に顔を向けた。

「お前達、外で暴れているアークセンテンティアの仲間か?」

 羊の頭を持った憲兵姿の悪魔がいた。横に細長い黒目を持ち、何処に視点が合っているのか分からない容貌はさくらに十分以上の恐怖を感じさせた。

「えっ、その、その・・・」

 さくらはお尻を床にペタンと置き、言葉にならない言葉を連発し、弁解をしようとした。手にしていた銃を慌てて背中に隠した。

「放火犯を助けるつもりなのか?」

 悪魔はさくらに銃を向けた。

「あ、あ、」

 命の危機を感じた。

 とっさにさくらは背中に隠していた拳銃を羊の悪魔に向け発砲した。廊下に銃声が響き渡る。思わず目を閉じて引き金を引いてしまっていた。反動で指がしびれ、自由に動かすことすらできない。さくらは恐る恐るゆっくりと目を開けた。

 憲兵姿の羊の悪魔は立ったままだ。

「あっ」

 傷一つない。

「馬鹿か、お前。いくら至近距離だからといって、目を閉じたら当たる訳ないじゃないか」

 嘲笑の入った声が聞こえた後、乱暴にさくらの手首は掴まれ、持っていた銃を奪われた。そして階段から廊下に引きずり出され、強烈な蹴りを入れられた。

「あがっ」

 胃の中身を吐き出しそうになり、散々のたうち回った後、さくらは額に冷たく硬いものが当たっている感覚を覚えた。

 息を呑んだ。銃口が当てられていたのだ。

 もう一人の悪魔が駆け寄ってくる足音が聞こえる。もう駄目だ。自分の考えが浅く、何の作戦を考えずに敵の中に飛び込んだことを後悔した。もう妹を助けられないのだと思った。

 それどころか自分が死んでしまう!

「さくら!」

 ハルの声が飛んだ。羊の悪魔がバランスを崩した。ハルがタックルをしたのだ。さくらはとっさに床の上を回転して後ろに下がり、叫んだ。

「ハル! この廊下の空間と同じ体積の長方形に変身して! 出来るだけ硬い奴で! 急いで!」

 そう叫ぶと彼女は階段を転げ落ちた。

「え? あっ、そうか!」

 ハルは廊下の断面積と同じ面積の板に変身したかと思うと、瞬間的に白いコンクリートのような素材で廊下の空間を埋めた。

「がっ、がっ」

 校舎の壁とハルの間に挟まれ、羊の頭を持つ悪魔と鳥の頭を持つ悪魔は、ほんのしばらくの時間だけ抵抗を試みていたものの、べちっという音を立て、青い血を吹き出し、その形態を失った。

「助かった・・・の?」

 さくらは階段の踊り間でへたっと座り、そう呟いた。



 憲兵本部の前でアークシリウスは肩で息をしながら、月明かりしかない夜の暗闇の中、目の前に立つイカロスの出方を伺っていた。彼女の丈の短い青いスカートがひらひらと夜の風に揺れている。腰まである青く長い髪と青い目を持つ少女はアークシリウスに対してあからさまな敵意を向けていた。

 いや、敵意なんてもんじゃないわ、殺意しかない。

 シリウス姿の彩子はそう思った。

「何故悪魔の味方をしている?」

 イカロスの冷たい声がした。その冷酷な声を聞いて、彩子は背筋が寒くなる思いがした。

「そんなこと、あなたに話す必要はないわ」

 シリウスの答えにイカロスの舌打ちが聞こえた。

「ブルースカイソード!」

 イカロスの声がしたかと思うと、青く光る短剣が現れ、彼女はそれを掴み、瞬間的にシリウスに接近し、切り掛かってきた。

「!」

 彩子は反射的に後ろに下がり、辛うじてそれを避けたが、その動きを読んだようにアークイカロスの蹴りが飛んできた。彩子はそれを避けようとしたものの、逃げ切れず、強烈な蹴りを腹部に喰らい、憲兵本部の建屋に飛ばされた。

「がっ」

 彩子は勢いよくレンガ積みの壁に当たり、凄まじい音が鳴り響いた。建屋の壁は大きく凹み、一部が崩れた。

「シリウス!」

 アークイカロスがシリウスに飛んだ。シリウスはそれを避け、イカロスに蹴りを入れた。接近戦となった。拳と蹴りを応酬が繰り返され、お互いの体力と魔力を削り取っていた。

 彩子は後ろに下がり、技の名を詠唱した。

「シリウス、レーザーアロー」

 そう言った瞬間、シリウスの背後に灰色の矢が無数に現れ、一斉にイカロスに向かって飛んでいった。

 イカロスはそれを全て避け、叫んだ。

「イカロス、ショックウェーブ!」

 ドンという音が鳴り、青いトルネードが現れ、勢いを増しながらシリウスに向かってゆく。彩子は飛び、それは彩子を追った。曲がり、方向を変え、複雑に飛んでも、それはついてくる。

「追尾機能があるなんて反則だわ!」

 彩子はそう呟くと、猛スピードで星が瞬く空に向かって飛んだ。青いトルネードが彼女を追う。彩子は振り返り、叫んだ。

「シリウス、レーザーアロー!」

 無数の灰色に光る矢が一斉に飛び、青いトルネードに衝突し、爆発し、相殺した。

 イリシアは地上のイカロスに急降下した。

 ドンという音と共に土埃が高く上がった。

「!」

 キックを外した! 

 煙でイカロスの場所が分からない!

 そう思った瞬間、彩子は後頭部を強く殴られ、腹部に強烈な膝蹴りを加えられ、反撃もすることもできず、彼女はその場に膝をついて倒れた。

「ふん」

 煙が去った。

 月明かりの下、イカロスは自身の青いブーツで倒れているシリウスのみぞおちを勢いよく踏みつけた。

「がはっ」

 彩子は苦痛の声を上げ、それから逃れようと起き上がろうとしたが、イカロスは彩子に馬乗りになり、何度も何度も彩子であるシリウスの顔を殴りつけ、それをさせなかった。

「がっ、がっ」

 終にはシリウスは動かなくなってしまっていた。イカロスは青く光る短剣を腰から取り出し、振りかざした。

「死ね、悪魔の味方が!」

 そう冷たく言い放ち、短剣をシリウスの心臓に振り下ろした。

「!」

 憲兵本部の建屋からミシッという音が聞こえた。イカロスは音のした方向にその冷酷な目を向けた。青く光る短剣は心臓の手前で止められていた。

「ハル?」

 建屋二階が白い物体に占められているのが見えた。その白い物体にハルの目がついていることで、それがハルの変身であるのだと分かる。ハルの目とイカロスの目が合った。

「イカロス、いけない! アークセンテンティアがアークセンテンティアを殺さないでくれ!」

「何故?」

「アークセンテンティアは僕ら妖精の命の上に成り立っているんだ。アークイカロスを仲間殺しにしないでほしい!」

「私の妖精はもう何も返事をしないわ」

「だけど、アークイカロスの中も、シリウスの中にも妖精がいるんだ! お願いだイカロス、シリウスの妖精を殺さないでくれ!」

 イカロスは立ち上がって下でぐったりと気を失っているシリウスを見下ろした。イカロスの憎しみをあらわにし、苛立っている様子は変わらなかった。

「ちっ」

 中学生の容姿の彼女は舌打ちをした。そして彩子の右の太ももに向けて短剣を投げた。

「があああ」

 彩子の悲鳴が聞こえた。青い短剣は彼女の白い太ももに深々と突き刺さり、赤い血が溢れ出ていた。

 その様子を憲兵本部から見ていたハルは思わす目を閉じた。

 あまりにも残酷だと思ったのだ。

 イカロスの悪魔への憎しみは相当のものだった。彼女がアークイカロスになるとき、彼女が負の感情に覆われ支配されることをハルは懸念していた。

 それが現実のものになってしまっている。

 両親を早くに交通事故で亡くし、親代わりの兄は夢食いの光線で廃人病となり、直る見込みもなく、ただ死ぬだけの身になっていた。彼女の凍り付いた感情と冷酷さはそれに因るものだった。時間が経ってもそれが溶けることはなかった。

「ハル!」

 イカロスは叫び、憲兵本部の二階に飛んだ。ハルはっとして変身を解き、白熊の子供の姿に戻った。

「イカロス!」

 妖精は窓を開け、イカロスを迎え入れた。

「敵は殲滅したわ。捕まっている凛の民は?」

「地下の留置場の入り口が分からなくてまだ助けられていないんだ」

 イカロスは軽蔑した表情を顔に出した。

「何をやっていたの?」

 その声はハルを責める口調だった、

「時間は十分あったでしょ? こっちは命を張って戦っていたというのに、まだ入り口が見つかっていないって、いったいどういうことなの?」

「いや、入り口は・・・」

「これじゃあ、作戦は台無しだわ。悪魔の連中の増援が来たらどうするつもりなの? 捕らえられた凛の民を連れて逃げ切ることなんて不可能になるわ」

「待って! ハルを責めないであげて!」

 聞き慣れない声にイカロスは警戒した。

「誰?」

 刺々しい声だと思った。

「さくら・・・五条さくらよ。入り口はこの二階にあるわ」

「何しにここにいるの?」

 さくらは中学生くらいに見えるアークイカロスの苛立った様子にたじたじとなった。

「さくらは妹を助けに来たんだ。味方だよ。警戒する必要はないよ。さっきも警備の悪魔をやっつけるヒントをくれたんだ」

「ふん」

 青いドレスを着た少女は廊下歩き出した。そして廊下にある扉という扉を乱暴に開け始めた。バン、バンという扉を開ける音が廊下に鳴り響く。それを見ていたさくらとハルも扉を開け、中を確認し始めた。

「地下への階段があったわよ!」

 すぐにイカロスの声がした。

 さくらとハルは声のした方向を見たものの、既にイカロスの姿はなかった。

 その扉の前に立つと確かに地下への階段があった。明かりがなく、先は真っ暗で何も見えない。さくらはスマホを取り出し、LEDを点け、先を照らした。光はすぐ先で吸収され、何も見えない状況は変わらなかったが、足元を照らす程度のことはできた。

「僕らも行こう!」

 ハルはそう叫ぶと階段の上を飛び、地下に向かっていった。

「えっ、うん」

 さくらもハルに続き、階段を急いで降りていった。

 

 

 そこはレンガに挟まれた幅の狭い暗い階段だった。始めは勢いよく降りたものの、その真っ暗な闇の途中でさくらの足は止まった。

 直線的に地下に延びている階段がやけに長く感じたのだ。急に恐ろしくなり、嫌な予感が彼女を覆った。

「ハル?」

 彼女は暗闇にその名を呼び掛けたものの、何も反応がない。さくらはスマホのLEDの光で階下の方向を照らしたが、その光は暗闇に吸い込まれ、先の様子は何も分からない。

 どうしよう・・・。

 本当にこの先に妹達が拘束されている留置場があるんだろうか?

 突然、鳥の羽ばたく音がした。

 さくらはびくっと反応して階段の先を凝視した。その音は近づいていた。息を呑み、身構え、その音の正体を見極めようとした。

「・・・らあ」

「!」

 さくらはその声に反応した。

「ハルなの?」

 さくらは階段を急いで駆け下りた。その瞬間、白い柔らかい物体が顔に当たった。

「ぶっ」

 顔にハルのお腹が当たっていた。

「ちょっと!」

 さくらはハルを両手でがしっと掴み、顔にしがみ付いていた白熊の子供の容姿をした妖精を引き剥がした。

「大変だ、さくら!」

 白熊の妖精は慌てふためいていた。

「アシュタロトの気配がする! イカロスが逃げろって!」

「えっ?」

 さくらがそう思った瞬間、目の前の空間が歪んだ気がした。

「うそ・・・」

「駄目だ! 間に合わない!」

 目が眩んだのかと思った。

 違う。世界が変質している!

 いつの間にか階段は足元から消えていた。さくらは自分が宙に浮かんでいるのだと思った。

「ちょっ、うそ!」

 さくらはハルにしがみ付いた。

「うわっ、さくら、重い! 重い!」

 ハルは背中の羽を必死に動かし、何も見えない黒い空間を必死で飛んだ。

「もう駄目だ・・・」

「ちょっと、しっかりして!」

 暗闇にハルの悲痛な声とさくらの叱咤激励の声と猛スピードで羽を動かしている音が聞こえる。しばらくそういった時間が続いていたが、やがてさくらは足の裏が地面に着地した感覚を覚えた。

「助かった! 足が付く!」

「それは僕の台詞だよ」

 ハルがへなへなと落下するのをさくらは受け止め、抱き上げた。

 暗く何も見えなかった世界が、ゆっくりと明るくなっていった。少し遠目に大きな岩の丘が見え、サバンナ気候だろうか、その手前に黄土色のアラブ形式の城と街が見えた。

 おかしいわ・・・。

 よく見ると、ところどころポリゴン化している。まるで出来損ないの世界だと思った。

「どこなの、ここは?」

「どこかで見たことがあるけど・・・」

 ハルは彼女の腕の中で考え込んだ。そしてはっとして言った。 

「そうだ、悪魔の世界だ・・・随分陽の当たる世界になっているな。うっそうとした森は消え、ポリゴン化しているけど、あの城は見覚えがある。あれはアシュタロトの城だ!」

「アシュタロトの城・・・えっなんで? 憲兵本部の地下の留置場に向かったはずなのに、なんでアシュタロトの城になんかあるの? それにアークイカロスは? 先に階段に入った彼女は何処にいるの?」

 その瞬間、ドーンという大きな音が鳴った。街の中で土煙が高く立ち、人影がその中から空に向かって抜け出てきた。

「イカロス!」

 イカロスが何かに追われている格好だ。無数の白いリボンがイカロスに向かって直線的に伸びてゆく。イカロスはスピードを上げ、軌道を変則的に変えたものの、白いリボンはその軌道を正確に追ってくる。

「ハル! なんで逃げなかったの! 逃げろって言ったでしょ!」

 イカロスの怒鳴り声が飛んだ。

「だって、逃げ切れなかったんだ!」

 イカロスが複雑な軌道を飛行しても、白いリボンはそのすぐ後ろを追尾してきている。

「ちっ」

 きりがない!

 イカロスは舌打ちをし、振り返った。

「イカロス、ファームソード!」

 その叫び声が終わると同時に青く光る剣が彼女の手に現れた。そして自分からの白いリボンに向かっていった。

「おおお!」

 鬼のような形相で迫り来る白いリボンを青く光る剣で手当たり次第叩き切ってゆく。白い破片がひらひらとまるで白い花の花びらのように空から降っていた。

「イカロス、ファイヤストーム!」

 イカロスは大きく体を反らせると彼女の上げた両手に青い炎が発生した。

「はあああ!」

 彼女は反りの反動を使い、両手を白いリボンに向かって振り下ろした。

 青い炎が放たれた。

 それは凄まじい勢いで白いリボンを襲い、燃やし尽くしていった。

「やった・・・?」

 ハルの呟く声は不安で溢れ、自信なさげだ。

 そうだ・・・そもそも敵の正体は・・・?

 さくらは辺りを見渡した。

「!」

 少し離れた場所にゆっくりと宙に浮いている影が目に入った。それは白いドレスを着た金髪の美しい少女だった。

「アシュタロト・・・」

 ハルの小さく呟く声が聞こえた。

 さくらは息を呑んだ。体温が一気に奪われる感覚を覚えた。冷たい汗が流れ、体は硬直し、緊張が走った。

 あれがアシュタロト・・・残忍で非道で人を人と思わず、血も涙もない悪魔・・・。

「妹は・・・妹は・・・」

 声にならない声を出した。

 妹はどこにいるの・・・?

「さくら、隠れるんだ」

 そう言ってハルは岩陰にさくらを引き込んだ。

「妹は、妹はアシュタロトに・・・」

「分かってる、でも落ち着くんだ、さくら!」

「でも助けないと・・・」

「さくら!」

 さくらはハルの声にはっとした。

「ここでアシュタロトに見つかって命を落としたら全く意味がない。妹さんだって助けることはできなくなるんだぞ」

 そうだ・・・その通りだ。

 ハルの諫める言葉にさくらは頷いた。

 そして自分の胸に手を当て、小さく静かに深呼吸をした。それを何回も繰り返した。

 岩陰から宙に浮かぶ少女を見た。

 白いドレスと長い金髪が風に揺れ、その美しい顔立ちと優雅さから、彼女が悪魔で、しかもその大元締めであることは到底信じられなかった。むしろ天使のような神々しさすら感じる。

「アシュタロトおおお!」

 イカロスの叫び声だ。その声には憎しみがはっきりとこもっていた。

「捕らえた凛の民を何処にやった!」

 アシュタロトはイカロスに目をやった。そして自分を異常な目つきで睨み付けている青いドレスのアークセンテンティアに思わず苦笑した。

「何がおかしい!」

「おかしいも何も、あなたがとても正義の味方には思えなくて。正義の味方はそんなに憎しみに囚われるものではないでしょう?」

 彼女はそう言ってイカロスに微笑んだ。

「放火犯の凛の民二十人は既に死んでいるわ」

「えっ?」

 その瞬間、岩陰のさくらの表情は強張った。手が小刻みに震えだし、全身の体温が奪われてゆく。酷い寒気を覚えた。立つこともままならない。いつ気を失ってもおかしくなかった。

 妹のいぶきは既に死んでいる・・・。

「お前が殺したのか?」

 イカロスが低く枯れた声で言った。

「そうよ。今さっき私が処刑したわ」

「!」

 さくらは強い衝撃を受けた。

 いぶきがアシュタロトに殺された・・・。

 大粒の涙がこぼれた。悲しくて悲しくて、声を殺そうとしても嗚咽がどうしても漏れる。さくらは泣いていた。そしてそれを止めることができなかった。

「私も辛いのだぞ。貴重な家畜を二十も潰したのだからな。だがそれらの命と魂は無駄にはしないわ」

「何を言って・・・」

「アークイカロス、お前をここに招くことが出来て私はうれしいよ。そしてアークセンテンティアの妖精もな」

 不意にハルは自分の名を呼ばれ、びくっと反応した。

「あっ、そうそう、そこの岩陰に隠れている五条さくらさんもね」

「!」

 さくらは涙顔のまま顔を上げた。

 なんであたしの名前を・・・。

 だが問いただす勇気もないどころか、岩陰からアシュタロトの覗き見ることすら、できなかった。恐怖が彼女の心の中を支配し、彼女の行動を制限していた。岩陰で彼女は悲しみに暮れ、アシュタロトに怯えていた。

「何を企んでいる!」

 イカロス声だ。

 彼女の声は怒りと苛立ちを抑えることもせず、大声で怒鳴った。

「君達をここで殺そうと思っているのさ。いや一部違うか」

 そうアシュタロトが言った瞬間、地中から白いリボンが無数に飛び出し、イカロス、ハル、さくらを狙って凄まじい速度で向かってきた。

「いや!」

 さくらは反射的に岩陰から飛び出し、その白い物体から逃げようとしたものの、速度の差は歴然としていた。白いリボンが板状になり、刃物のようになって真っ直ぐにさくらに迫った。

「危ない!」

 さくらは体当たりを喰らい、その勢いで彼女は岩場を転がっていった。

 ハルだった。

 数本の白いリボンが、さくらがいた岩場に突き刺さっている。その横にハルが転がっているのが見えた。別の白いリボンがハルを狙って上空から落ちてくる。それを見てさくらは急いで立ち上がり、ハルを拾い上げ、小脇に抱えながら必死に走った。

「イカロス、ファイヤストーム!」

 アークイカロスの声が聞こえた。

 白いリボンは青い炎によって一気に焼き尽くされようとしていた。

 さくらは必死に走った。ハルを抱えながらはさすがに辛い。十キロ以上はあるだろうか、白熊の子供の姿をした妖精を抱えながらでは、息が絶え絶えとなってしまう。

「あ!」

 さくらの足はもつれ、彼女とアークセンテンティアの妖精は硬い岩場に勢いよく転がっていった。

「おー痛そう。でも折角転んでくれたから、まずは白熊の妖精から始末しようかな」

 アシュタロトは右手を前に出した。その瞬間、青い炎に包まれていた白いリボンはその炎を振り払い、さくらとハルが倒れている場所に一斉に向かった。

「ハル! 防御だ!」

 イカロスの言葉にハルははっとして、短い両手を自分の前にいっぱい広げた。青い半透明のシールドが瞬時に展開され、白いリボンはそのシールドに次々に刺さってゆく。その衝撃が小さいハルの体に伝わる度にハルは苦しそうな表情を浮かべた。

 イカロスがアシュタロトに向かって構え、叫んだ。

「イカロス、ショックウェーブ!」

 ドンという音と共に青く光るトルネードがアシュタロトに撃たれた。トルネードは成長しながら凄まじい勢いでアシュタロトに向かってゆく。そしてそれは破壊音を響かせ、彼女に直撃した。

「・・・?」

 白い煙がもうもうと立った。煙はゆっくりと風に流され、やがてそして金髪の白いドレスを着た少女がにっこり笑っているのが見えた。

「今の攻撃、何の冗談かしら?」

「くそっ、化け物が!」

 イカロスはそう吐き捨てるように言った。

 

 

 

 第四章ノ三 半年後

 

 黄土色のポリゴンの世界が衝撃で大きく揺れた。

 無数の杭が連続して地面に打ち込まれたような衝撃だった。

「えっ、何? 何が起きたの?」

 ルーフルと名乗る悪魔と対峙し、戦いをまさに始める瞬間だった。

 アークイリシア姿のさくらは辺りを伺ったが、この黄土色のポリゴン化した世界に変わった様子はなかった。

 小学生の容姿をしたルーフルはにやっと笑った。

「予定通りだ。いや、予想以上の数の供物だ。上出来と言うべきかもしれないな。後はお前を殺すだけだ!」

 無数の黒い線がルーフルの背後から一斉に射出され、放物線を描きイリシアに向かっていった。

「予定通り? どういうことなの!」

 さくらは飛び、追ってくる黒の線を避け、ルーフルに怒鳴った。黄土色のポリゴンの大地に次々に黒い線が突き刺さり、細かいポリゴンとなって飛び散ってゆく。

「それは教えられないさ」

 人をからかうような言い方だ。さくらはいらっとした。

「イリシア、エレメントバースト!」

 左手にピンクの光が広がり、ドンという音と共に黒い線に撃ち放たれ、凄まじい勢いで黒い線を飲み込んでゆく。

「まだまだ!」

 新たな黒い線がイリシアに飛んでくる。イリシアは空に向かって垂直に飛び、すぐ後ろをルーフルの黒い線が追った。

「しつこい!」

「男はそういうもんだろ?」

 イリシアが黒の線に追われる様子を地上で見て、愉快そうにルーフルは言った。

「ん?」

 イリシアが百八十度方向を変え、一気に地上にいるルーフルに向かって落ち始めた。同じように黒い線もさくらを追い、百八十度その軌跡を曲げた。

「お返しするわ!」

 急降下するイリシアとルーフルが接触すると思った瞬間、黄土色のポリゴン化した地面に黒い線が幾つも突き刺さった。凄まじい音と共に細かいポリゴンが散り、後に来た黒い線によって更に砕け、粉となり、周辺の視界を一切奪っていった。

「イリシア、ショックウェーブ!」

 青く光るトルネードによって漂っていた黄土色の粉が一斉に吹き飛ばされた。

「いない!」

 右後方から敵の気配を感じた。とっさに身を屈め、敵に回し蹴りを喰らわせた。

 手ごたえがない!

 そう思った瞬間、さくらは右腹に強烈な痛みを感じた。ルーフルの蹴りが入ったのだ。さくらは体ごと数メートル先に飛ばされ、凄まじい勢いで黄土色の建屋にぶつかり、細かなポリゴンを散らし、その建屋を半壊させた。

「かはっ」

 さくらの口から赤い血が飛んだ。

「ほらほら赤じゃなくて、探さないといけないのは青だろ? 早くやっつけに来てくれよ」

 さくらは血を口から拭い、怒りを覚えた瞬間、討って出た。そしてルーフルに接近戦を挑んだ。

「ファーストブレード!」

 ピンクに光る剣がアークイリシアの手に現れ、彼女はその剣でルーフルに切り掛かった。ルーフルは黒に燃える短剣を出し、さくらの攻撃に応戦した。さくらの剣がルーフルの頭上に振り上げられた。ルーフルは振り下ろされるそれを短剣で跳ね、その直後に拳を彼女の腹部に入れた。

「がっ」

 さくらは吐血し、痛みに堪えられず黄土色の大地に膝をついた。そのタイミングを狙って、ルーフルの黒の短剣が彼女に迫った。

「さくら、危ない!」

 ハルの声が聞こえた。さくらは我に返り、地面に手をつき、体を回し、敵の足に蹴りを入れた。

「おっと」

 ルーフルは倒れ掛かったものの、すぐに体勢を建て直し、短剣を握り替えた。さくらは立ち上がり、ルーフルとの距離を取った。

 敵の短剣が直線的にさくらの心臓に伸びてきた。彼女はピンクに光る剣でそれを叩き落とした。

「なかなかやるね。アークイリシア」

 ルーフルは落ち着いた声でそう言って、叩き落された黒に燃える短剣を拾った。

「君を殺すことに精一杯頑張らせて貰うよ」

「あたしは殺される訳にはいかない!」

 ルーフルはその答えに目を丸くした。

「そりゃあ困るな。君は凛の民の希望なんだ。君はアシュタロトを倒し、あの知性も理性もない馬鹿な凛の民に自由を与えてしまった。凛の民の大勢は独立へと傾き、今では市庁舎を乗っ取り、道路を閉鎖し、日本人を追い出し、現実に独立行動を起こしてしまっている」

 彼は笑みを浮かべた。

「これから凛の民は日本の自衛隊と戦うことになるだろう。普通に考えたら凛の民が自衛隊とまともにやりあえる訳がない。大陸から秘密裏に武器が搬入されているとしても、訓練された兵とにわか仕込みに兵とでは埋められない大きな差が存在している。その差を埋める希望が君なのさ」

 小学生の男子姿のルーフルは黒に燃える短剣の鋭さを確認するように剣先を見つめた。

「だから君は死んでもらわなければならない。独立を成し遂げようと考えている凛の民の連中から、希望を根こそぎ奪うためにね」

 東原の言葉が思い出された。

 あたしの助けがほしいと言っていたのはこのことだったんだ・・・。

「奪ってどうするつもりなの?」

「自衛隊による掃討で独立への芽を叩き潰され、戦犯は処罰され、凛の民は日本政府の元で管理させてもらうことになる。当然表現、言論、移動、居住、職業の自由はなくなるだろうね。だがそれはしかたがないことだよ。凛の民は民族として反逆罪という大罪を犯したのだからさ」

 まるで凛の民は属国の人間扱いだ。

「凛の民が処分されない方法はないの!」

「ある訳ないじゃないか。凛の民は日本人を追い出し、土地を奪い、日本からの独立宣言までしたんだぞ? そんな凛の民を自由にしておく訳がないじゃないか! 日本側は安定した立原の統治を望んでいる。そのためにはさっき言ったことが必要最低限のことだ」

「・・・」

 東原君が言っていたことが現実なんだ。

 講和を結べば誰もが幸せになると思っていた。日本は凛の民の苦しみを理解し、改善してくれると思っていた。だけど違う。凛の民の尊厳と自由は奪われ、踏みにじられ、迫害され、支配される現実が待っているんだ。

 それを避けるには戦争で日本に勝つしかない・・・。

「あたしは死なないわ。それに凛の民と日本が戦争をすることには絶対に賛成できない!」

「は? いきなり何を言っている?」

「人が殺しあうのは絶対に嫌! 私は凛の民と日本との戦争を止める! そして凛の民を幸せにするわ!」

「何を馬鹿な・・・それに殺し合いが嫌って・・・お前、自分はきれいな体のつもりか? 多くの悪魔、夢食いを殺し、アシュタロトをあんなにも残酷に殺したのはお前じゃないのか? あれが全ての混沌の起点じゃないのか!」

 アシュタロトが青い血を流し、今にも倒れそうな姿でさくらを睨み付けている姿を思い出した。

「そうよ・・・あたしにはこの混沌な状態を引き起こしてしまった責任があるわ。だからこそ、ここで死ぬ訳にはいかない。お前を倒して、この世界から出てゆくわ!」

「おやおや、僕だって倒される訳にはいかないのだけどね」

 ルーフルは困った顔をした後、苦笑しながらそう言った。そして真顔になり、黒い短剣を握り、さくらに一気に迫った。さくらは短剣の軌道を読もうとルーフルの動きを注視し、ピンク色の剣を構え直した。

「えっ?」

 視界から消えた!

 そう思った瞬間、金髪の少年はさくらの背後に現れ、無防備なさくらの頭に回し蹴りを喰らわした。彼女はそのまま黄土色の地面に叩きつけられ、転がっていった。

「!」

 視界に短剣を振りかざしたルーフルの姿が入った。彼女は横に転がり、それを避けたものの、黒の炎を纏ったそれは再びさくらに向かって振り落とされた。

 さくらはなんとか逃げた。

「なかなかしぶといな」

 ルーフルがそう言葉にした瞬間、一斉に十数の黒いクサビがさくらの服を黄土色の地面に固定するように打たれた。

「うそっ」

 さくらは一切の身動きが取れなくなっていた。必死にもがいたものの、地面からクサビを抜くことはできない。焦った。もう殺されるだけの状況になっている。

 ルーフルはさくらの様子に満足げに愉快そうに笑った。

「これは儀式でもあるんだよ」

 そういって頷き、さくらの右手のひらに黒に燃える短剣を勢いよく刺した。

「あああ!」

 さくらの悲鳴が黄土色のポリゴン化した世界に広がった。手が鋭く痛い。真っ赤な血がてのひらから止まることなく流れ出てゆき、黒く燃える炎はその血を吸い上げ、炎の勢いを増していた。さくらは自分の気が触れるのではないかと思った。

「左手も寂しいだろう」

 ルーフルの手には別の黒に燃える短剣が握られていた。そして彼はさくらの左手をしっかりと押さえ、短剣を振りかざした。

「!」

 なんだ?

 ルーフルは反射的にその場を離れた。その瞬間、轟音と共に細い黒い影がさっきまでルーフルがいた黄土色の大地に落ちた。その落下物は黒い鉄製の巨大な杭だった。

「なんなんだ!」

 さくらを押さえつけていたクサビが一斉に消えた。

 今しかない!

 さくらは苦痛で顔を歪めながらも、右手に刺さっている黒く燃える短剣を一気に左手で抜き、立ち上がり、自分に残っている力をかき集め飛んだ。

 だがあまり高く飛べていない。

「がっ」

 着地に失敗し、彼女は黄土色の地面に転がった。血が右手の手の甲から吹き出てくる。強烈な鋭い痛みを感じていた。気を引き止めているのがやっとだ。いつでも気を失いそうだった。

 再び轟音が連続して鳴った。

 ルーフルを狙って杭が落下したのだ。

「誰だ!」

 ルーフルはそれを避け、大声で怒鳴った。

「おしいわあ」

 宙に浮き、紺色のドレスを着た少女が愉快そうに笑っているのが見えた。

「アリスか」

 ルーフルは憎々しげに呟いた。

「こんな滅びかけた魔界で会うなんて奇遇ね、ルーフル。相変わらず日本の手先なんかやっているの?」

「何をしにここに来た」

「その子を助けにね」

「お前の飼い主の命令かあ?」

 からかう調子の声にアリスはキッとしてルーフルを睨み付けた。

「ああ、そうだった。オクターブは力を失ったんだったな。今ではクズで卑しい凛の民の君主となって喜んでいると聞いているが?」

「何を!」

 アリスはルーフルに飛び、二メートルはある針を振り上げ、凄まじい殺気と共に襲い掛かった。ルーフルは振り下ろされる針を避け、素早く懐に入り、アリスの脇腹に強烈な拳を入れた。

「がっ」

 アリスは凄まじい勢いで横に吹き飛ばされたものの、倒れることなく、着地し、叫んだ。

「裁定のウェッジ!」

 黒い鉄の杭がルーフルに降り注いだ。

「毎度ワンパターン攻撃を!」

 ルーフルは黒い線を飛ばし、それを払った。黒い線はそのままアリスに飛んだものの、彼女は針を振り回し、それの全てを叩き落とした。

「だが、甘い!」

 ルーフルの声が聞こえた瞬間、彼は彼女の背後に現れ、蹴りを連続で彼女に入れた後、両手を組んだ拳を彼女の後頭部に振り落とした。

「ぐっ」

 アリスは黄土色の大地に勢いよく打ちつけられ、大地は細かいポリゴンとなり、飛び散った。

 さくらは我に返った。

 気を失っていたようだった。

 なんとか身を起こし、スカートの裾を引きちぎり、荒い呼吸をしながらそれを右手の傷に巻いた。真っ赤な血がすぐに滲み出てくる。口では言い表せない凄まじい痛みを感じていた。

「!」

 ルーフルが黒い長剣をアリスに突き刺そうとする姿が目に入った。

 危ない!

「イリシア、エレメントバースト!」

 さくらは大声で叫び、球状のピンクの光をルーフルに向けて撃った。

「ちっ」

 ルーフルはとっさに黒く燃える剣で防御し、エレメントバーストの方向を変えて飛ばした。

 剣は弾かれ、離れた黄土色の大地に突き刺さった。

「弱いのが僕を邪魔するというのか?」

 小学生の風貌の彼は苛立ち、馬鹿にした口調でそう言った。

 倒れていたアリスは素早く立ち上がり、ルーフルから距離を取った。

「アリス!」

 さくらは叫んだ。

「お前はルーフルと契約したのよね?」

「・・・」

「どういう契約をしたの?」

「色鬼で負けた方が死ぬっていう・・・」

「へー」

 アリスはにやっと笑った。

「・・・五条さくら、お前は何もしなくてもいいわ」

「?」

「ルーフル、お前に勝目はないわ」

 人を逆なでする声で言った。そしてそれは勝ち誇った声だった。

 

 

 夜の暗闇の中、日本側からの砲弾が着弾し、赤い炎が広がった。

 立原地方に繋がる道路と言う道路に作ったレンガの山のバリケードに対し、深夜一時を過ぎた頃、日本側の攻撃が一斉に始まった。

 自衛隊の戦車と歩兵から雨あられのように銃撃と砲撃がなされた。何の躊躇いもなく容赦もなかった。

 凛の民は本当に自分達が日本と戦争を始めたのだと思った。

 だが、この独立を掛けた戦争こそ彼らがずっと待ち望んでいたことだった。

「撃て!」

 ドンと音が鳴り、凛の民側からロケット砲が撃たれた。一台の戦車の右キャタピラに当たり、爆発した。

「閃光弾、撃て!」

 日本側から白い煙を吐きながらそれは高く上がり、眩いばかりの光で辺りを照らしてゆく。両側から暴力の応酬のように何発ものロケット砲が撃たれた。

「相手は素人の凛の民だぞ! 何をやっている! 一気に叩き潰せ!」

 敵の抵抗はいつまで経っても止まない。

 自衛隊側の指揮官は手間取っているこの今の状態に苛立ちを感じ始めていた。凛の民に大陸の国から大量の武器が供給されているという情報に初めは半信半疑だったが、どうやらそれは本当のことだったようだ。

「ちっ」

 彼は舌打ちをし、昨日の国際ニュースを思い出していた。

「我々は凛の民の独立を認め、喜んで仲間として迎え入れます」

 大陸の独立承認は早かった。そこには凛の民の独立運動を機に日本の国力を低下させる狙いと、凛の民への自国の影響力確保への欲望が見え隠れする。それに続いて大陸の影響下にあるアフリカの幾つかの小国が承認の声明を出した。

 いまいましい国だ!

 指揮官は過去に行われた大陸からの日本に対する自分勝手な干渉と挑発を思い出していた。だが今回は一線を越えている。人の国で独立を煽ぎ、ましてやその支援までしていることが国際的に許されるはずがない。

「くそっ」

 爆発による閃光が夜の闇に浮かび上がる。

「凛の民ごときが!」

 凛の民側は武器に関してにわか仕込みの人間ばかりのはずだったが、大きな混乱もなく大陸からの武器を使い、日本側からの激しい攻撃に応戦している。そして死傷者が多く出ているはずにも関わらず、凛の民の気勢は落ちることはなく、むしろ気勢は上がっているように見えた。

 そのことは日本の自衛隊の隊員達に気味の悪さを感じさせていた。 

「手を緩めるな! 徹底的に撃ちまくれ!」

 日本側の指揮官は部下に怒鳴り続けていた。

 

 

 立原中心部にある文化会館からも立原を囲む山々に戦闘による爆発の光が幾つも見える。そしてそれは絶え間なく続いていた。

「・・・」

 凛の君である東原はその様子をカーテンの隙間を通して車椅子の上から見ていた。各バリケードでの戦いが激しいものであるということは容易に想像することが出来た。

 東原は強く唇を噛んだ。

 そこはパソコンが並んだ文化会館の大会議室だった。彼はこの場所に凛の民の作戦本部を置き、情報を集め、解析し、各位拠点に指示を出していた。大勢の凛の民が深夜だというのにこの会議室でせわしなく動いている。

「凛の君!」

 戦闘服姿の初老の男が緊迫した様子で近づいてきた。東原は振り返り、車椅子を回した。

 ラクキスだった。

「日本の自衛隊の輸送船が向かっているとの情報が入りました。上陸予想地点は立原、須上、加々美、宇佐の四海岸です」

「そうか」

「凛の君の予想通りです。バリケードはいずれの箇所も設営済みです」

 東原は頷いた。

「敵を確認し次第、迎撃を行ってくれ」

「はっ」

 ラクキスは即座にインカムに命令を発した。

「立原、須上、加々美、宇佐の四海岸の防衛隊に告ぐ。現在日本側の自衛隊の上陸用船艇が接近中。確認出来次第、迎撃に入るように。繰り返す・・・」

 ラクキスは指令を伝え終わった後、すぐにプロジェクタで壁に映し出された現在攻撃されている地点と、これから攻撃されるだろう地点を確認した。きれい円を描くような形で、この立原の地が敵に囲まれていることに気付かされた。

 彼は息を呑んだ。そして不安に襲われた。

 仮にバリケードが破られ、そのまま攻め込まれたらひとたまりもない・・・そうなったら全てが終わりだ。

 焦りを感じていた。おそらくその感情が顔に出ていたのだろう。東原がラクキスの横に車椅子をつけた。

「心配するな、ラクキス」

 人を安心させる、落ち着いた声だった。

「ですが、もしバリケードが破られたら・・・」

 昼間の日本側の特殊部隊との激しい戦闘を思い出し、その苦戦振りから、素人集団である凛の民の防衛部隊がどこまでやれるのか正直不安を感じていたのだ。

「だからこそ交渉を早く完了しなければならない」

「それはそうですが、時間が・・・」

「分かっている」

 若い男の声が聞こえた。

「凛の君!」

 パソコンを前にインカムで各バリケードと交信をしていた凛の民の声だ。

「須上で敵、日本の自衛隊上陸用船艇を確認したとの事です。交戦を開始したとの報告が入りました」

 会議室にいた凛の民は壁に照射されたプロジェクタ画面に目をやった。敵の推定位置が立原地方の地図に映し出されている。敵は海側からも山側からも敵は迫り、立原地方を囲んでいた。

 もうすぐ外周全部で戦闘が始まるのだ。

 緊張と不安の混じった空気が大会議室の空気を支配し始めていた。

 

 

「俺が勝てない? どういうことだ、アリス?」

「ふん、言葉通りの話よ」

 アリスは掠れた声で言った。

 彼女は黄土色のポリゴン化した世界でルーフル対峙していた。

「あたしがここにいることで、もうお前の勝ちはなくなったということよ」

「ほう、お前のようなオクターブの飼い犬ごときが俺より強いと? 俺を倒せると言っているのか? 今さっき俺にやられたばかりじゃないか。いったい何を言っているんだ?」

 ルーフルは目の前の紺色のドレスを着た少女を見下し、馬鹿にしたような口調で言った。そして歳の頃は小学生に見える金髪の少年は愉快そうに笑った。

「大技を一つしか使えない、序列外のお前が序列十位の俺に勝てるはずがないだろ? 人間に飼いならされて、そんなことも分からなくなっているのか?」

「ふん、序列なんてただの貴族階級の順位に過ぎない。実力とはかけ離れた物差しにしがみついているなんて哀れね、ルーフル伯爵」

「それは下民の言い草だな」

 ルーフルは軽蔑するように言った。

 時折ひびが入ったときのような音がした。ポリゴン化するときの音だ。どんな曲線をもった物や構造物であっても一旦ひびが入ると、そこから一気にポリゴン化が進み侵食されてしまう。

「それにここで色鬼って、どういうセンスなの? 魔界が崩壊してゆく様を遊びながら見届けるつもりだったの?」

「遊びじゃないよ。そこのお嬢さんと命を掛けた色鬼をやっていたんだ。間違ってもらっては困るなあ」

「ふん、なんなの、その言い草。でも馬鹿なルーフルらしいわ」

「あ?」

 大きく音が鳴った。

 この世界に起きていることだった。

 そのキュービック状になった要素はとなりのキュービックと合わさり、一つの大きなキュービックとなる。それを繰り返し、元の形が何であったのかすら分からなり、魔界は崩壊を始めていたのだった。

「確かにお前は強いわ。攻撃力は悪魔の中ではダントツだし、アシュタロトと張れるくらいだと思う。だけど頭が悪いわ。それもとびきりね」

「何を!」

 ルーフルは一瞬にして激怒し、無数の黒線を一斉にアリスに向けて飛ばした。黒い線は大きくカーブして我先にアリスへ迫ってゆく。

 なんだ・・・おかしい。

 その様子を見ていたルーフルは違和感を覚えた。

 アリスに動く様子がない。避ける意思を感じなかったのだ。

「イリシア、エレメントバースト!」

 巨大なピンクの光の弾が黒い線の側面から急速に接近してきた。

「アークイリシアか!」

 黒線の軌道はその光に押され、大き崩れ、黒線がアリスに到達することはなかった。

「裁定のウェッジ!」

 アリスの声が聞こえたと思った瞬間、ルーフルの頭上に黒い杭が表れ、一斉に落ちた。ルーフルは後ろに飛び、その攻撃を避けたものの、避けた先でもすぐにルーフルの頭上に杭が出現し、落下した。

「くそっ」

 ルーフルはそれを避けながら、更に黒い線を飛ばした。

「死ね!」

 無数の黒い線が、アリスとさくらに向かって飛んでゆく。さくらはとっさに半透明のピンクのシールドを張って防御しようとしたが、その激しい勢いに後退し始めてしまっていた。

「くっ」

 そして最後は耐え切れず、シールドごと飛ばされ、さくらは黄土色のポリゴン化された物体にぶつかった。

「かはっ」

 さくらはその衝撃でその場に崩れ落ちるように倒れてしまった。

「じゃあ次だな」

 大きな軌道を描いてアリスに無数の黒い線が凄まじい速度で迫ってくる。

 ルーフルは満足げにその様子を見ていたが、すぐに険しい表情になった。そして腕を振り、黒線の軌道の調整を行った。

 黒い線の集団は一瞬にして二つに別れ、アリスを避けるように風を立てながら彼女の両側を通り抜た。そして彼女の少し後ろにある黄土色の壁に次々に刺さっていった。激しい衝撃で地面が大きく揺れ、黒線の刺さった黄土色の壁はその衝撃で細かなポリゴンの破片となって、飛んでいった。

「何を考えている?」

 ルーフルは怒りを押し殺した声で呟いた。

「何って?」

 挑発するような口調だった。

「何故、僕の攻撃を避けようとしない?」

「ちょっと考えたら分かるんじゃないの?」

「何?」

 ルーフルは疑うようにアリスを見た。

「色鬼で青を触ればアークイリシアの勝ち。触られたらお前の負け。そして負けた方は死ななければならない。そうよね」

「それがどうした?」

 その口調には怒りが滲み出ている。

 ポリゴン化するとき特有のヒビが入る音が大きく鳴った。

「だけどこの世界で青なんてない。お前の血以外はね。だからお前を倒さないと青には触れることはできない」

「・・・」

「だけど邪魔が入ってきた。このアリスという絶世の美少女によってね。そしてお前は邪魔なあたしを殺そうとした」

「だからどうしたって言うんだ!」

 ルーフルはもううんざりだと言わんばかりに怒鳴った。

 が、その瞬間はっとした。

「ふふ、やっと気がついたの?」

 アリスの声が聞こえた。

 倒れていたさくらは体中に痛みと苦しさに顔を歪めた。彼女が顔を上げるとルーフルと対峙するアリスの背中が目に入った。

 何が・・・。

「くそっ!」

 苛立ったルーフルの舌打ちする音が聞こえた。

「お前も悪魔なら血の色は青だ・・・」

 アリスはにやっと笑った。

「だからあたしが傷ついたらこの世界に青が出現する。それもアークイリシアの近くでね。そうしたらいったい誰の勝ちなのかしら?」

「・・・」

「お前はあたしに手出しできない。だけどあたしはできる。そんなんじゃ、お前はあたしに勝てる訳がないわよね」

「ならそこで倒れているアークイリシアをお前より先に、もしくはお前と同時に殺せばいいだけの話だ!」

 金髪の少年は怒鳴った。

 ルーフルの背中から黒い線が放射状に現れ、カーブを描きながらさくらに飛んでゆく。

「そうはさせない!」

 それを見てアリスは即座にさくらを庇うように立った。

「鉄壁のドームディフェンス!」

 そうアリスが言い放った瞬間、彼女達の周りに無数の幾層もの鉄の盾が一気に現れ、彼女達を覆った。

「馬鹿か、お前! お前のおもちゃの盾なんか何の役にも立たないんだよ!」

 黒線が鉄の盾を貫いている音が聞こえる。その音は各層で何回も反射し、盾のドームの中に鳴り響いていた。幸い最後の層まで辿りいた黒線はなかったが、貫通するのは時間の問題のような気がした。音は止むことなく、凄まじい数が聞こえ、次第にさくらはその音に恐怖を感じ始めていた。

「アリス・・・なんであたしを・・・」

 さくらはよろけながらも立ち上がり、薄暗いドームの中で盾の様子を伺っていたアリスに聞いた。

「お前が凛の民の希望だからよ。凛の民の多くは日本の自衛隊から凛の民を守ってくれるのはアークイリシアだと信じているわ」

「・・・また希望・・・か」

「もう凛の民は日本との交戦を始めてしまっている。アシュタロトを倒したアークイリシアにはそれを収拾させる義務があると思うのだけど。どうかしら?」

「・・・」

「まあ取りあえずはこの今の危機をどう脱するかなのだけど」

「どうすれば・・・」

 アリスの態度には余裕があった。

「まあ、あたしはルーフルみたいに魔力が強いわけではないけど、あいつみたいに馬鹿ではないわ」

「?」

「時限式の技を仕掛けておいたのよ」

 突然、鉄の盾を叩く音が止んだ。

「さあ出るわよ!」

 アリスは右手を挙げると鉄の盾で形成された層が一気に吹き飛んだ。

「え?」

 さくらの驚いている様子に関係なしに、アリスはさくらの腕を掴み、盾の陰に隠れながら飛んだ。

 うまくいった!

「アリス!」

 金髪の少年は敵の名を叫んだ。

 その声は憎しみに満ちた声だった。

 苦しそうに右の脇腹を押さえ、そこからは悪魔の青い血が流れ、黄土色の地面に滴り落ちていた。ルーフルの周りには人の丈ほどある杭が黄土色の地面に無数に突き刺さっているのが見えた。

 あれがアリスの仕掛けておいた技・・・。

「盾のドームにいたあたし達を黒線で攻めるのに気を取られ、時限式の裁定のウェッジが仕掛けられているなんて気がつきもしなかったのよ」

 さくらとアリスはルーフルの目の前に着地した。

「やっとこの世界に青が現れたわね。上手く罠に掛かってよかったわ。後はさくらがあの青にタッチすれば色鬼は終わる。あいつは地面に落ちている青い血を守るためにあの場を離れないで戦わなければならないから、まず勝ち目はないわ」

 ルーフルはアリスを睨み付けた。

「・・・」

「お前の負けね、ルーフル?」

 金髪の少年はそれには答えず、険しい表情で睨み続けている。

「くそっ」

 黄土色の世界にひびの入る音が鳴り響いた。何処かでまたポリゴン化が進んだのだ。

「ゲームは終わりだ」

 ルーフルの声が聞こえた。

「な! 何言ってるの?」

 アリスは突然の予想外の発言に驚きを隠さなかった。

「意味が分からない。あたしがお前を倒すチャンスをみすみす逃すとでも思っているの?」

「!」

 さくらは目に映る空間が歪んだような気がした。何か変だと思った。ルーフルは余裕を装い、言った。

「契約にはゲームを中断する方法は特に記載していない。提案してペナルティが課せられるとか、相手の合意が必要か否かも書いていない。つまりはここでゲームを中断しても契約違反にはならない」

「そんなの詭弁だわ!」

「だが事実だ。契約に違反しない以上、ゲームを中断しても契約による罰則は受けない」

「!」

 おかしい・・・。

 さくらは自分がめまいを起こしているのではないかと思った。自動車酔いと似た気分の悪さを覚えた。

「!」

 アリスも異変に気がついたようだった。

「ルーフル、お前、何をしようとしている!」

「・・・」

 ルーフルは答えようとはしなかった。傷の痛みによる険しさの中に笑みが浮かんでいた。

 なんだ・・・。

 ドンと大きな揺れが黄土色の世界を襲った。そして地割れが走った。揺れは時間と共に大きくなり、止む様子を見せない。地面は不安定となり、とても立ってはいられない状態になった。それは世界が終わるのではないかと思う程だった。

「アシュタロトの城が!」

 さくらの叫び声にアリスは視線をそれに移した。

「な!」

 アリスは驚愕した。アシュタロトの城が地上と決別し、浮かび上がろうとしていたのだ。城の上空には城の面積と同じ大きさの巨大な魔方陣がゆっくりと青い光を放ちながら回っている。

「いったい何が起きて・・・」

 城は周りの建屋を崩しながら少しずつ浮かび上がり、それにつれ、揺れは小さくなっていった。まるで魔方陣に吸いよせられているようだと思った。アリスはその回転する魔方陣の模様を読み解いてが、やがてはっと気がついた。

「ルーフル!」

 アリスは振り返り、敵を睨み付けた。

「大規模転移魔法の魔方陣か! 何をする気だ!」

「・・・」

 ルーフルは気味悪く笑っているだけだった。

 そして浮上する城を眺め、口を開いた。

「立原の街にアシュタロトの城を落としてやるんだよ。日本に盾突いている凛の民は自分達の街に城が落ち、潰される様子を見たら、呆然とし、一気に戦意を失うだろうね」

「な! そんなことさせない!」

 そうなれば、この戦いは凛の民の負けしかありえない。

 さくらは反射的にルーフルに飛び、金髪の少年に殴り掛かったが当たらなかった。

 標的を見失った。

「がっ」

 背中に重い衝撃を受け、彼女は地面に倒れ転がった。

 ルーフル!

 声にならなかった。

「何をさせないだって?」

 ルーフルはそう言うとさくらを見下し、馬鹿にしたように笑った。

「くそっ」

 脇腹が痛んだ。傷口が広がったのかも知れない。

 青い血が滲み出ている右の脇腹を押さえ、ルーフルは言った。

「僕は人間界に戻らせてもらう。次に会うときはこうはいかないよ。君達には必ず死んでもらうからな」

 そう言い終わった瞬間、ルーフルの足元に青白く光る魔方陣が展開された。

「させるか!」

 アリスはルーフルに一気に距離を詰め、背丈程ある針で一気にルーフルを刺した。

「!」

 残像か!

 アリスはルーフルが刺さっているはずの針の先を見た。もうそこには金髪の少年を見ることはできなかった。彼女は宙に浮いているはずのアシュタロトの城を見上げた。そこには透明になって消えゆく城があった。


 

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