8月15日
『夏恋花火』
アンリの用意した深い青色の浴衣に着替えて、アンリ荘の屋根に上る。屋根の上には、今日の為に作られた足場が設置してあり、民宿に泊まっている人達が既に集まっていた。
「よお! 遅かったじゃねえか!」
赤い浴衣を着たルナが声を掛けて来る。既に酔っているようで、胸元が大きくはだけている。今日は他の人間も居たので、僕はそれを意識しないように、何事も無かったかのように手すりにもたれかかった。
「その浴衣、中々似合ってるじゃない」
飲み物を持って現れたのは、オレンジの浴衣を着たジェシカ。
「それで、ナレーションの台本は持ってきたの?」
「はい。よろしくお願いします」
懐からノートを取り出してジェシカに渡す。ジェシカはそれをパラパラと眺めた後、ウインクして足場の端にある音響機材の元に向かう。今日はそこで花火のナレーションをしてもらう事になっていた。
腕時計で時間を確認しながら用意してあったお茶を貰って飲む。もう少しで花火の始まる時間だ。約束では、ブルースワロー姉妹もここで花火を見る事になって居た。
「彼方さん……」
後ろから声が聞こえて振り向く。
そこに居たのは、クリアブルーの着物を着たアンリ。
「あの……この浴衣、いかがでしょうか」
襟元を上げて恥ずかしそうに視線を外す。その仕草の一つ一つが可憐で見惚れてしまう。
「ええと……凄く似合ってます」
「そ、そうですか。嬉しいです」
アンリが口元を抑えて小さく微笑む。その間に耐えきれなかった僕は、飲み物を一気に飲み干した。
無言の時間が少し続くと、突然空から強い風が吹き声が聞こえてくる。
「おにいちゃーん!」
嫌な予感がしたので、お茶をテーブルの上に置いて空を見上げる。
すると、ピンク色の浴衣を着た二人の少女が、僕の頭上から舞い降りて来た。
少女達は僕の上に着地すると、そのまま背中に座って口を開く。
「今日は呼んでくれてありがとう」
「わーい。花火だ花火だー!」
不敵に笑って見降ろすリナ。楽しそうにはしゃぐリコ。
「ええと……これは、どういう事かな?」
「お兄さんはいつもそればかりね。もう少し気の利いた言葉は言えないのかしら」
「二人とも、浴衣似合っているね。可愛いね」
「そう。今日はこの椅子で花火を見る事にするわ」
「すみませんでした!」
素直に謝ると、リナ達が僕から降りてくれる。
「全く、本当に鈍いのだから。空から落ちて来た女子を優しく抱えるのは、男子として当然の事でしょう?」
「普通は空から女子は落ちてこないんだよ。もっと現実を見て欲しいな」
「あら、現実に起こったじゃない」
「……そうだね」
何も言えなくなると、リナ達は楽しそうに笑い、足場の端に居るアンリに挨拶に向かった。
僕は改めて腕時計を見る。花火の開始まであと10分。
ブルースワロー姉妹は、まだ現れない。
「もしかしたら、このまま来いかもね」
そう言ったのは、椅子に座って絵ハガキを書いているリアス。今日は紺色の浴衣を着ていた。
「来ます。絶対に」
「分かってるよ。冗談さ」
ふっと笑うリアス。どうやらいつものように、言葉を使って僕の心理を探っていたようだ。
「緊張しているみたいだけど、大丈夫かい?」
「そうですね。ちょっと息苦しいです」
「タルコールあるよ。飲むかい?」
「それだけは絶対に飲みません」
「そうか。残念だ」
それだけ言って、再び絵ハガキを書き始める。その口元が少し笑っていたので、僕をリラックスさせてくれる為に声を掛けてくれた事が分かった。
花火の時間まで残り5分。流石に心配になり、溢れる人で賑わっている砂浜の方を見る。そんな中で二人を見つけられる訳などなかったが、それでも目を凝らして、二人が現れるのを必死に探した。
(まさか、本当に来ないのか?)
思いもしなかった展開に、僕の鼓動が早くなる。
その時だった。
「遅くなりました!」
下から大きな声が聞こえて、直ぐにそちらを見る。すると、両手に屋台の食べ物を一杯に持ったブルースワロー姉妹がそこに居た。
「遅いぞお前等! ハラハラしたじゃねえか!」
「ごめんなさい! 屋台が面白すぎて、離れられませんでした!」
ルナとアリスの会話を聞いてみんなが笑う。
しかし、今から民宿に入ってここまで来ると、花火の時間まではギリギリだ。
「早く上がって来いよ!」
「分かりました!」
のんびりとした会話に僕は焦ってしまう。
しかし、僕の焦りは、次に彼女達が取った行動で一気に吹き飛んでしまった。
「はっ!」
地面を強く蹴り、空高く舞う姉妹。高く上がった彼女達は空中でくるくると回り、そのまま屋根の上にある足場の手すりに着地した。
「ふう」
小さく息を吐き、にこりと笑うアリス。
(……ああ、うん。異世界だった)
僕はいつものセリフで自分を納得させて、冷静さを取り戻した。
姉妹は持ってきた食べ物を机の上に置くと、それぞれに挨拶をしながら足場を歩く。全ての人間に挨拶が終わると、最後に僕の元にやって来た。
「彼方君。誘ってくれてありがとう」
白と赤の浴衣を見て微笑むアリス。当然のように可愛かったのだが、それよりも大事な事があったので、僕は褒め言葉を忘れてしまっていた。
「何ぼうっと突っ立ってるのよ」
ロールが足に蹴りを入れて来る。それでやっと状況を理解し、慌てて口を開いた。
「……ふ、二人とも。浴衣似合ってるね」
「遅いわよ。お世辞なの見え見え」
不機嫌そうに鼻を鳴らすロール。緑と黄色の浴衣。いつもメイド服を着ていて洋の雰囲気を出している彼女だが、今日は完全に和の雰囲気を見せていた。
「ロールは何を着ても似合うね」
「何それ。それじゃあ、何を着ていても同じみたいじゃない」
「そんな事は無いよ。ロールだからこそ、そう思うんだ」
顔を赤く染めて後ろを向くロール。相変らずのツンデレっぷり。最近はそれを楽しんでいる自分が居るのだが、別に嘘を言っているわけでは無かったので、罪悪感は無かった。
全員がそれぞれの場所に位置取り、花火を見る準備が出来る。僕は予定通り、ジェシカの横でブルースワロー姉妹と花火を見る事になった。
ジェシカはマイクのスイッチを入れると、近くにあった酒を一気に飲み、元気な声でナレーションを始める。
「さーて! お待たせ致しました! ただ今より、花火大会を開催いたしまーす!」
その声に少し遅れて、ドッと言う短い音と共に、山の中腹から火の玉が空に上がる。
そして、星の輝く夜空に、大輪の花が咲き誇った。
「……綺麗」
うっとりとした表情を見せるアリス。それを横目で見ながら、無事に上がり始めた花火にほっと胸をなでおろす。
やがて、第一部の花火が全て打ち終わり、周りから拍手が巻き起こった。
「凄い! 凄い!」
僕を見ながら興奮気味に口を開くアリス。
「こんな綺麗な花火を作れるなんて、シーと彼方君は本当に凄いね!」
「僕は少しアドバイスをしただけだよ。本当に凄いのはシーだ」
「そんな事無いよ! 二人とも凄いよ!」
恥ずかしくなり頭を掻く。横目で周りを見回すと、みんなも楽しそうにしていたので、シーを手伝って良かったと心から思った。
ジェシカのナレーションを挟み、第二部の花火が打ち上がり始める。
第二部の花火は、ゆっくりと見る事の出来る花火。その絶妙な間の使い方に、全員が言葉を失って花火を見ていた。
「本当に……凄いね」
花火を見つめながら、アリスが言葉を零す。
その表情は笑っていたが、どこか悲しかった。
「シー、ずっと頑張ってたんだね」
「うん。僕が会いに行った時は、いつも花火の話ばかりしていた」
「そうなんだ」
アリスが視線を落とす。
「……花火ばかりで、辛く無かったのかな」
笑いを失い、悲しさだけが顔に残る。
「もっと他にやれる事はあったのに、私と約束したせいで、花火ばかり作って……」
「それは違うよ」
僕はハッキリと否定して、アリスの顔を真っ直ぐに見る。
「シーは花火を作っていた時、ずっと楽しそうに笑っていた。シーは花火と出会って、心から打ち込める事を見つけたんだ」
「でも、それだけじゃ寂しいよ」
「そうかな?」
僕は花火を見上げる。それに続いて、アリスも花火を見上げた。
「自分が本当にやりたい事って、そう簡単に見つけられないものだと思う。だけど、シーはそれを見つける事が出来た。それは、幸せな事だったんじゃないかな」
暗い夜空に花さく大輪の花火。
それは、間違いなくシーが目指していた、人を笑顔にする花火。
それが現実に起こっている今、シーが寂しがっている訳が無い。
「正直、僕はシーの事が羨ましい。たとえ約束に縛られようと、自分が心から熱中出来る事を、見つける事が出来たのだから」
花火を見つめながら胸を抑えるアリス。それを見て、僕は静かに微笑む。
やがて、第二部の花火が終わり、辺りは再び静けさを取り戻す。
「さあ、お待たせしました! 次が最後の花火となります!」
ジェシカのアナウンスで、砂浜が盛り上がり始める。
「最後はこの場を締めくくる盛大な花火! テーマは『笑顔』です! 皆様もこの花火を見て、夏の思い出を笑顔で締め括って下さい!」
それを聞いた瞬間、アリスが目を見開いてこちらを向く。
静寂に包まれる会場。
星がきらめく夜空。
その綺麗な夜空を見上げながら、想いの全てを込めて、僕は言った。
「シーからの伝言だよ」
打ち上げ音。
「遅くなって、ごめん」
舞い上がる火の玉。
「そして、ありがとう」
闇を切り裂く、一輪の大花。
二発。三発。次々と火の玉が舞い、空に花を咲かせる。やがてそれは目で追えなくなり、幾つもの火の粉が乱れ飛びながら島全体に広がり、空を色取り取りの花で覆いつくした。
湧き上がる歓声。それに答えるかのように、次々と花火が舞い上がる。
「こんな凄い花火を、たった一人の為に作ったなんて、誰が想像するだろう」
願いが込められた花火。
力強く、それでいてどこか儚いその光を、アリスは胸を抑えながら見続ける。
そして、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「……消えないで」
その言葉に答えるかのように、何度も島を照らす花火。
それを見て、アリスが微笑む。
「凄い……本当に凄い」
唇を噛み締めて、その花火に手を伸ばす。
まるで、幼い頃に交わした約束を、その手に感じようとするかのように。
しかし、その花は掴む事が出来ず、花弁を散らしながら夜の闇に吸い込まれていった。
花火が終わり、砂浜から歓声と拍手が巻き起こる。
アリスは空を見上げたまま、静かに微笑んでいた。
「……ありがとう」
ぽつりと呟いて、僕を見る。
「笑って居たかったけど、何か胸が一杯で、あんまり笑えなかったよ」
小さく舌を出すアリス。それを見て僕も微笑む。
「あーあ。終わっちゃった。なんだか少し寂しいな」
名残惜しそうに空を見上げながら、そっと拳を握り締める。その姿は、まるで今見た花火を胸に焼き付けているかのようだ。
そんな彼女を見ながら、今度は僕が口を開く。
「まだ、終わってないよ」
首を傾げるアリス。
僕は手を伸ばして、山の入り口である階段を指差す。
その先に見える、小さな小さな人の影。
「約束が果たされるのは、これからだ」
それを見た瞬間、アリスは身を乗り出す。
しかし、それ以上は動かずに、寂しそうに俯いた。
「行かないの?」
「……私には、約束があるから」
僕はゆっくりと立ち上がり、星の輝く夜空を見上げる。
「もう一つ、伝言を頼まれているんだ」
そして、静かに瞳を閉じる。
「お前達の優しさは、私を笑顔にしてくれる」
「お前達の成長を近くで見られなかった事を、本当に残念に思う。だけど、優しさを失わずに育ったお前達を感じられて、私は幸せに思う」
「お前達は、自分の信じる事を、歩きなさい」
静かに目を開き、アリスを見る。
「シーがあの花火を完成させられたのは、この伝言を頼まれた人のおかげなんだ。だから……」
もう、アリスは聞いていなかった。
手すりに手をかけて飛び出すアリス。くるりと回って地面に着地すると、下駄を脱いで全速力で走り出す。
豆粒のように小さくなった彼女は、神社の前に居る豆粒のような彼に出会い、そのままの勢いで彼に抱き着いた。
約束を果たした僕は、彼女達に背を向けて、手すりに寄りかかる。
視線の先に立っていたのは、小さく微笑んでいるローレライ。
「本当に、馬鹿なんだから」
そう言って、僕の横に並ぶ。
「お姉ちゃん達、くっついちゃうかもよ?」
「どうかな。そうかもしれないけど、そうじゃない気もする」
曖昧に答えると、ロールはフフッと笑った。
「それにしても、お姉ちゃん、良く彼方の話を信じたわね」
「どうして?」
「だって、証拠が無いじゃない」
それを聞いて、今度は僕が笑う。
ロールなら、絶対にそう言うと思っていた。
「オーシャン=ブルースワロー」
僕は、この時の為に考えていた言葉を話し始める。
「黒髪の七三分け。黒縁眼鏡。紺のスーツ」
「どうせ、姉さんの部屋で調べたんでしょ?」
「紳士的な風貌で、話し方は少しきつめ」
「そんなの、姉さんの部屋で日記でも見れば、すぐに分かるわ」
「大事な事を話す時に、喉を鳴らす癖がある」
それを聞いた瞬間、ロールが目を見開く。
「彼に聞いたんだ。どうして娘達に会わないのかって。そしたら……」
少し言葉に詰まった後、湧き上がる気持ちを抑えて言葉を吐き出す。
「……会ったら、帰れなくなるって」
その言葉は、僕の心を強く締め付けた。
俯いたまま動かないロール。
「だから、忘れないで」
僕は空を見上げる。
「彼が君達『二人』に向けて言った言葉を」
お前達。
彼は、確かにそう言った。
僕は、彼が言ったその言葉を、一生忘れないだろう。




