8月13日
『渡す事の出来なかった鍵は、僕に託された』
山に登った時に見た景色が忘れられなかった僕は、午後の太陽が沈み始めた頃、改めて山の頂上に向かってみる。
不意に思い立って登ったせいか、昨日より山頂が遠くに感じる。しかし、後悔し始めた頃には山の中腹あたりまで来ていたので、ここまで来たら絶対に登った方が良いと思い、歯を食いしばりながら一人で山を登り続けた。
やがて頂上に辿り着いて景色を眺めると、丁度良く水平線の向こうに太陽が半分ほど沈んでいる所だった。
(やっぱり、凄く綺麗だ……)
茜色に染まる水平線と、金色に輝く大海原。昨日見た景色も感動的だったが、今見ている景色には敵わない。本当は写真を撮りたかったが、異世界法で禁止されているので、この目にしっかりと焼き付ける事にした。
夕日が完全に沈み、辺りが暗くなる。とは言っても、この島は夜でも明るいので、目さえ慣れていれば足元も良く見える。それでも遅くなったらアンリが心配すると思ったので、山を降りる事にした。
「こんばんは」
突然声が聞こえて後ろを振り返る。
視線の先には、一人の男。
暗くなったタイミングを見計らって現れた男を、偶然と思える人間が居るだろうか。明らかに危険な何かを感じた僕は、静かに息を飲み、後ろに一歩下がって男との距離を測った。
「そんなにかしこまらないでほしい。私は怪しい者では無い」
「いや、どこからどう見ても怪しく見えます」
七三分けの黒髪に黒縁の眼鏡。そして、きっちりと着こなされた紺色のスーツ。まるでサラリーマンのような風貌は、この山の中では不自然過ぎだ。
「僕はもう帰るので、そこをどいて欲しいんですが」
「そうしてあげたい所なのだが、私に引けない事情があってね」
目の前に居る男の瞳を見つめる。真っ直ぐで濁りの無い瞳。その奥に、若干の希望と不安が垣間見える。
そんな彼の瞳から、彼に悪意が無いと信じる事に決めて、話を聞く事にした。
「僕に用があるんですか?」
「その通りだ。すまない。こんな強引に引き留めて」
「構いません。事情があるんですよね」
男は少しだけ驚いた表情を見せたが、直ぐに僕の心中を察したようで、それ以上は何も言わずに本題に入った。
「君は昨日、女の子達と一緒に、この山に来ていただろう」
「はい。そうです」
「その女の子達の事なんだが……」
男は小さく喉を鳴らした後、視線を逸らして口を開く。
「……彼女達は、元気か?」
その意味不明な質問に、首を傾げる。
「……そうですね。元気です。特に赤髪の人は、元気過ぎて困っています」
「いや……そうか。なるほど」
男は跋が悪そうに答えた後、再び喉を鳴らす。
「それで、その……それ以外の子達はどうなんだ?」
「それ以外というと?」
「ポニーテールの子と、ツインテールの子だ」
僕は話すのを一度止めて、改めて考える。
山中で突然であった男。昨日の事を何故か知っていて、ルナでは無くブルースワロー家の二人に的を絞って話そうとしている。
そこから導かれた、一つ目の結論。
「誘拐でもするつもりですか?」
僕はあえてストレートに言ってみる。
「……なるほど。どうやら君は、中々頭が良いようだな」
そう言って、安堵の笑みを浮かべる男。
この微笑みは、余裕などから来るものでは無い。僕が彼に警戒している事への、安堵の微笑みだ。
「安心して良い。私は彼女達を誘拐する気など無い」
「でも、証拠がありません」
「なるほど。では、証拠を見せよう」
男は音も無く歩き出すと、近くにあった木の前で立ち止まり手を伸ばす。
次の瞬間、男の手は木をすり抜けて、反対側から現れた。
「この通り、私は物に触れない。幽霊なんだ」
流石に驚いたが、異世界なのでそれもありだろうと思い、直ぐに冷静さを取り戻す。それを見た男はふっと笑い、手を抜いて元の場所に戻った。
「やはり、君は頭の良い人間なのだな」
「そんな事はありません。最近はいつも馬鹿呼ばわりされています」
言葉でけん制しながら、高速で思考を巡らせる。
(幽霊。ブルースワロー家。二人の安否。異世界……)
僕の脳裏に浮かんだ、二つ目の結論。
「もしかして、アリス達のお父さんですか?」
それを言った瞬間、冷静だった男が目を丸めた。
(……そう言えば、今日からお盆か)
異世界にそれが当てはまるかどうかは分からないが、僕の世界では今日からご先祖様が現世に戻る日だ。 それを考えると、彼がここに現れたのも偶然と言えなくも無かった。
完全に虚を突かれて言葉を失う男。相手をけん制して、最悪の場合は逃げられるように先制攻撃をしたのだが、どうやらやり過ぎたようだ。
「本当にお父さんなんですね」
それを聞いて、やっと男が我に返る。
「……驚いたな。今まで色々な人間に会ってきたが、君は普通じゃない」
「まあ、この世界の人間では無いので」
我が子思い夜な夜な現れる幽霊の父。漫画やアニメでは良くある話だ。僕の世界の人間が異世界でこの場面に出くわしたら、多くの人がこの結論に至るだろう。
「そう。君の言う通り、私は彼女達の父親。名はオーシャン=ブルースワローだ」
名乗った後、丁寧に頭を下げるオーシャン。あの奇天烈な爺さんとは違い、とても紳士的な物腰だ。もしかしたら婿養子なのかもしれない。
オーシャンは頭を上げると、堰を切ったように話し始めた。
「それで、娘達は元気なのか?」
「ええ。元気です」
「何か変わった事は無いか?」
「8月の頭に彼女達にあったばかりなので、分かりません」
「彼女達は今何をしている?」
「アリスは帝都の学校に通っていて、ロールは店の手伝いをしています」
「島の皆とは仲良くやれているのか?」
「それは……」
答えようとした所で、アリスと父親の約束を思い出す。
「どうした? 何かあるのか?」
答えを急がせるオーシャン。それに対して僕は考える。
今まで話した雰囲気から考えると、シーとアリスの事を言ったら、オーシャンは怒るかもしれない。そして、幽霊は怒らせてしまうと、生きている人間に害を及ぼす事が多い。
「娘さんは……」
どうする。
言うか。言わないか。
「……娘さんは、貴方との約束で悩んでいます」
結局、僕はリスクのある方を選んだ。
「約束? 一体何の事だ?」
「アリスとシー=ファイヤーワークスの事です」
それを言った瞬間、オーシャンの目が一気に鋭くなる。
「あいつは私の大切な娘に怪我をさせた。会わせないのは当然だろう」
「ですが、今のアリスはシーに会いたがっています」
「駄目だ。あの男はまだ同じ事をしている。会っても同じ事が起こるだけだ」
「シーが今でも花火を作り続けているのは、アリスに笑ってもらう為です」
「何?」
オーシャンが一瞬言葉を失う。それを機に、僕は一気に畳み掛ける。
「貴方達がこの世を去った時、アリスは家族の為に、泣くのを我慢していたそうです。それを見たシーが、アリスに笑顔になってもらう為に、最高の花火を作る事を約束したんです」
「……それは、あの男が勝手に約束した事だ。アリスには関係無い」
「分かっています。それでも、シーは花火を作り続けている。そして、アリスはそんな彼を心配しています」
本当は言いたい事が沢山ある。だけど、ここで熱くなってはいけない。相手が納得しなければ、理解して貰った事にはならない。
「……アリスはシーに会っていません。貴方との約束があるから」
「当然だ。私達は家族だからな」
「そうです。家族だからこそ、約束を破れない……!」
しかし、我慢が出来なくなり、張り裂けるほど口を開いた。
「だけど! 約束を解き放とうとしても……! その家族はもう居ないんです!」
強く目を閉じて、地面に向かって思い切り叫ぶ。
「大切な人との約束だから! 居なくなった人との約束だから! 自分を殺して必死に守り続けている! でも! 今シーの事を大切に思っているアリスの気持ちは! そんなに駄目なものなんですか!」
正直、僕はこの約束に関係の無い人間だ。
だけど、二人の想いを見て見ぬふりをするなんて……僕には出来ない!
「たとえ過去に傷付いても! それを乗り越えて! お互いの心配をしている二人の気持ちが! 貴方には分からないんですか!」
必死に叫んだ後、ただ悔しくなり、空を静かに見上げる。
「……アリスをそんな優しい人間に育てたのは……貴方だろう……!」
視線の先に輝く満面の星空。それがグニャリと湾曲し、再び目を閉じる。
そこにあるのは、冷めていく感情と、二人への強い想いだけ。
他は、もう、何も無い。
静かに流れる夜の風。その風木々を通り抜け、僕達を優しく包む。
「……君に、伝言を頼みたい」
耳に聞こえるのは、僕の正面に居るであろう男の声。
男は一度喉を鳴らして、話し続ける。
「お前達の優しさは、私を笑顔にしてくれる」
その声は、先程までとは違い、穏やかな声。
「お前達の成長を近くで見られなかった事を、本当に残念に思う。だけど、優しさを失わずに育ったお前達を感じられて、私は幸せに思う」
手を強く握り、歯を食いしばる。
なぜ、僕がそれを言うのだろう。それを言わなくてはならないのだろう。
どうして、彼が直接、それを言えなかったのだろう。
「お前達は、自分の信じる事を、歩きなさい」
今はただ、それだけを、悔しく思う。
吹き付ける風。漂う焦燥感。それを身に受けて小さく震える。
「……会う事は、出来ないんですか?」
瞳を閉じたまま、男に問う。
「出来ない。会ってしまったら……帰れなくなる」
大切な人との別れ。それは、何よりも辛い事。
だからこそ、彼は僕の前に現れたんだ。
「……分かりました」
それだけ言って、静かに瞳を開ける。
男は、僕を見て微笑んでいた。
「君と出会えて、本当に感謝している」
「僕こそ、貴方に会えて、本当に良かった」
「そうか。それなら、最後に君に良い事を教えよう」
男は喉を鳴らすと、僕の後ろにあるベンチを指さす。
「昔、この辺りに珍しい石を集めている男が居てね。小さい頃に、集めた石を二人で瓶に詰めて、そのベンチの下に埋めたんだ」
それを聞いて、僕はやっと理解する。
この人も、本当は二人の事を後悔していたのだ。
「あとは、君なら分かるだろう」
後ろを向く男。その姿がゆっくりと光に変わり、空へと解けていく。
「どうか。未来ある子供達に、心からの笑顔を取り戻してくれ」
咄嗟に駆け寄り、消えて行く光に手を伸ばす。
しかし、その手は光をすり抜けて、元の場所へと帰って行った。




