8月11日
『よく考えたら、僕の年頃が一番恥ずかしがる年頃だと思った』
露天風呂に入り、きらめく星空を見上げながら、僕は大きく息を吐く。
一日の終わりに入る風呂は、最高に気持ちが良い。自分の世界に居た時はシャワーだけの時もあったが、この民宿に来てからは毎日風呂に入っていた。
やがて体が温まり、そろそろ出ようかと考える。
そんな時、入り口の扉が開き、誰かが入ってくるのが湯気の隙間から見えた。
(リアスさんかな?)
露天風呂は時間によって男女が別々に入る。今は男湯の時間なので、民宿の住人の中から考えると、それ以外あり得ない。
そう。ありえないはずだった。
「何だ、彼方じゃねえか」
立ち上る湯気の先で、堂々と全裸で立ち尽くす女子。
赤褐色のナイスバディー。ルナ=バーンエッジ。
「……な!」
「何恥ずかしがってんだよ。もうガキじゃあるまいし」
いつもと変わらない表情で体を洗い始めるルナ。
予想外の出来事に、肩まで湯船に浸かり、頭に乗せていたタオルで股間を隠す。
数分後、体を洗い終えたルナは、体を隠さずに堂々と湯船に浸かった。
「おい、湯船にタオル入れてんじゃねえよ。マナー違反だろうが」
「で、でもですね……」
「デモもクラシーもあるか。男なら堂々としてろってんだ」
言葉の意味は分からなかったが、確かにタオルを湯船に入れるのは良くない。
僕は覚悟を決めると、タオルを外してお湯を絞り、頭の上に乗せた。
露天風呂の中に男女が二人。女は体を隠さずに堂々と湯に浸かり、男は小さくなって後ろを向いている。
……良く考えたら、これって逆じゃないか?
「おい」
「は、はい……?」
「後ろ向いてねえでこっち見ろよ。話が出来ねえじゃねえか」
「そんな事は無いと思うんですが……」
「ああ? お前の国では、背中で話すのが礼儀なのか?」
それを言われると何も言い返せない。
仕方なく、僕はルナの方を向いた。
「へへ……何だよ。中々良い体してんじゃねえか」
それはルナさんの方ですよ。と、高らかに言いたかったが、それではスケベ全開だったので(言わなくてもムッツリなのだが)、黙って頭を掻いて見せる。
「それで? どうだ、あたいの体は? ムラムラするか?」
赤褐色の艶めく肌に、しっとりと濡れた口元。体のラインは鍛えているだけあって引き締まっていて、特に腰のラインなどは、大きなバストとヒップをより強調するかのように地獄の……。
「はは……冗談だよ冗談」
ケラケラと笑うルナ。危うく内なる妄想が爆発するところだった。
僕が視線を散らしながら妄想していると、ルナが空を見上げて鼻歌を歌いだす。
軽快で跳ねるような歌声。予想外の上手さに聞き惚れてしまった。
「……なあ。彼方」
「はい!?」
「お前、今楽しいか?」
突然真面目な話を振られたので、少しだけ答えに詰まる。
「ええと、そうですね。今までの夏休みの中で、一番楽しいです」
「だよなー。あたいの裸も見れたしなー」
悪そうな笑顔で口元を抑えるルナ。
ここだけの話、僕は何度も彼女の裸を見られそうになっているが、実は一度も見た事が無い。
何故なら、見ようとすると何かに阻まれて、絶対に見る事が出来ないのだ。
これこそが、異世界クオリティー。いや、ラッキースケベクオリティー。
これからもこのような事は起こるのだろうが、見る事は出来ないのだろう。
「ルナさんはどうです? 楽しいですか?」
「あたい? あたいは……」
言いかけて、一度言葉に詰まる。
そして、少しの間を空けて、再び口を開く。
「……そうだな。あたいも楽しいよ」
静かに微笑み、頭の上で腕を組む。
ルナが黙ってしまったので、二人の間に沈黙が続く。相変らず向かい合っているので少し気まずかったが、ルナはそんな事お構いなしに、空を見上げて何かを考えているような表情をしていた。
やがて、ルナがこちらを向いて口を開く。
「彼方、あたいさ……」
少しだけ口を紡ぎ、頭の上で組んでいた手を下ろす。
「……実は領家の娘なんだ」
「領家?」
「ああ、いいとこの娘って事だよ」
それを聞いて、僕は普通に頷く。
「驚かねえのか?」
「はい。そういう可能性もあるって思っていたので」
「はあ? 何言ってんだよ。いいとこのお嬢様ってのは、もっとこう澄ましてるもんだろ。あたいとは正反対じゃねえか」
その言葉に対して、首を傾げて見せる。
「でも、ルナさんって姿勢良いし、粗暴に見えて、一つ一つの動作が凛としているから、そういう環境で育てられたんだろうなって……」
それを言った瞬間、ルナの顔が真っ赤になる。
「ば、バカ! そういう所は見なくていいんだよ!」
「え? ああ、すみません」
何を怒られたか分からなかったが、とりあえず頭を下げておく。すると、ルナはふっと笑い、少しだけ笑顔になって話を続けた。
「まあ、そういう事でさ。お前の言う通り、小さい頃から礼儀正しく育てられた訳よ。だけど、あたいは体動かすのが好きでさ。近くに使い魔が捕れる森があったから、いつもそこに行って、使い魔ばかり取ってた」
領家の女子がお転婆なのは、異世界の常識だ。
まあ、その世界に住む人間にとっては、普通では無いのだろうが。
「そんでさ。ある日いつものように使い魔取って家に帰ったら、父さんに一人のおっさんを紹介されてさ。そんでもって『彼がお前の婚約者だ』って。全く、ぶったまげたよ、あん時は」
これも良くあるパターン。それが実際に起きている人間が目の前に居るのだが、まだ異世界知識の範疇だ。
「あたい、そん時に、自分に本当の自由が無いって事が分かってさ。気付いたら自分の部屋に戻って、金目のもん鞄にぶち込んで家を飛び出してた。そこからは、色々あって、今の仕事に就いたってわけさ」
話を終えて、再び空を見上げるルナ。
その表情は、少しだけ寂しそうだった。
「どうだい? バカな話だろ? 家に居りゃあ、一生金に困らずに生きていけたってのに、あたいはそこから飛び出したんだぜ?」
確かに、お金は大事だ。生きるには何よりもお金が要る。
だけど、少しも笑う気にはなれなかった。
「どうした、彼方? ぼうっとして」
「いや、その……」
少し考えた後に、素直に思った事をいう事に決める。
「ルナさんは、凄いなと思って」
「……はあ?」
首を傾げるルナ。それに対して、僕は視線を落とす。
「人間って、一度その環境に慣れてしまうと、そこが悪い場所でも、抜け出せなくなると思うんです。本当は覚悟を決めて、一歩踏み出せば良いだけなのに」
それは、現実世界の自分。
何も出来ないと決めつけて、何もしようとしない、孤独な自分。
「だけど、ルナさんはその一歩を踏み出した。たとえそれが、元居た所より不便だとしても、自分の決めた事に、真っ直ぐ突き進んだ」
言った言葉がそのまま僕に帰って来る。
ルナさんは強い。
そして……僕は弱い。
「僕は、そんなルナさんを尊敬します」
口先だけの僕。行動できない僕。
それでも、今言った言葉だけは、心からの本音だった。
何も言ってこないルナ。
時間だけが、静かに過ぎていく。
「……めてだ」
そんな中、ルナがぽつりと呟いた。
「そんな事言われたの……初めてだ」
それは、飾り気のない、彼女の心の声。
「あたいを知ってる奴らは、皆あたいの話を笑った。酒のつまみだ。馬鹿話だって。だから、あたいもそれに合わせて、馬鹿みたいに話してた」
僕はゆっくりと彼女の事を見る。
だけど、湯気で隠れて、彼女の表情は読み取れない。
「だけど、あたいにだって覚悟はあった。不自由なく生きてきた人間が、一人の力で生きるのは大変だった。だから、それを笑われて、罵られて、苦労していないと思われるのは、凄く辛かった」
その言葉を聞いて、僕は我慢が出来なくなる。
「そんな人達は、ぶん殴ってしまえば良かったんだ」
ルナの口元が少しだけ上がる。
「……ばぁか。世の中には付き合いってもんがあるんだよ。本当はお前だって分かってんだろ?」
その通り。
僕も分かっている。
だけど、それを上手く出来ないから、いつも一人なんだ。
「あーあ。せっかく二人で馬鹿みたいに笑おうとしたのによ。お前のせいでシラケちまったじゃねえか」
大きくため息を吐いて伸びをするルナ。再び胸が見えそうになり、視線を横に向けてそれを回避する。
その瞬間を意図していたかのように、絶妙なタイミングで彼女は言った。
「だけど、あんがとな」
それは、湯気に阻まれて消えてしまいそうな、とても小さな声。
だけど、僕には聞こえてしまった。
「ようし! じゃあ、この話はもう終わりだ! そろそろ上がって酒飲もうぜ!」
勢い良く立ちあがるルナ。全てに対してお構い無し。
僕が全裸を見ても動じないのだろうが、やはり見るのは紳士では無いし、どうせ湯気が発生して見れないので、ひたすら横を見続けた。
「ったく、せっかくサービスカット作ってやったってのに、甲斐性のねえ奴だなあ」
「そうは言ってもですね。色々な法律とかがあって、迂闊に裸を見ると……」
「ああ? それはお前の世界の話だろ? ここでは関係ねーよ」
ああ。やっぱりそうか。
彼女は、僕がこの世界の人間では無いという事に、最初から気付いていたんだ。
「ほら。先に上がってやるから、お前もとっととラウンジ来いよ」
くるりと振り向き、凛とした姿勢でルナが風呂場を出て行く。
落ち着きを取り戻した露天風呂。
僕は風呂から上がり、夜空にぽっかりと浮かぶ月を眺める。
その姿は、同じ名前を冠した彼女のように、暗い場所で強く静かに輝いていた。




