6章
夢を、見た。不思議な夢だった。
真っ暗な世界を私はただひたすら歩いていた。視界に映るものは何もない。
私はただひたすら歩く。真っ直ぐ、真っ直ぐ。
不意に誰かの姿が浮かび上がった。後ろ姿でも誰だか分かった。シュエリだ。
声をかけようとした時、シュエリがこちらを振り向いた。
その途端、私の足が地面に縫い付けられたかのように止まった。いくら力を入れてもびくともしない。
焦る私を、シュエリはただ見ていた。感情のこもらない目で。
シュエリの口が動く。
『さよなら』
その言葉を残して、再び私に背を向け、歩き出す。
呼び止めようとしたけれど、声が出ない。ただ遠ざかるシュエリを見ることしか出来ない。
その時、シュエリの隣に髪の長い女性が現れた。その人は細い腕でシュエリを包み込むように抱き締める。シュエリは何の抵抗もしない。
やめて、シュエリに触らないで。シュエリは私の……!!
「シュエリ!!」
私は弾かれるように飛び起きた。
「カノン?」
声のした方を振り向けば、シュエリが驚いたように私を見ていた。
「シュエリ…!」
私は無我夢中でシュエリにしがみ付く。恐怖で身体が震える。じわり、と目の端に涙が浮かんだ。
「カノン…どうした?よしよし」
シュエリは私を抱きとめ、背中をさすってくれる。でもなかなか恐怖心は消えなかった。
「怖い夢でも見たのか?ほら、もう大丈夫だって。ここは現実だぞ。な?ほら」
シュエリが私の頬を包み込んで上を向かせる。そこにはいつもと変わらない笑みを浮かべたシュエリの顔があった。
「俺はここにいるぞ?いつだってカノンの傍にいただろ?」
「………ん」
優しく諭されて、ようやく心臓が落ち着いてきた。
「ごめん、もう大丈夫…」
「よっぽど怖い夢見たんだなぁ。あーあ、泣いちゃってもう」
指で涙を拭われ、頬にキスされる。
「いったいどんな夢見たんだ?カノンがそこまで怯えるなんてさ」
「………ないしょ」
口に出すと現実になってしまいそうな気がして、私は口をつぐむ。でも不安は消えなかったので
「…ねぇ、シュエリはどこにも行かないよね?ずっと私と一緒にいてくれるよね?」
抱き締められたままシュエリに確認する。
「当たり前だろ。嫌だって言っても俺はカノンの傍にいる。誰にも渡さないし、誰の所にも行かせねーよ。…なんだ、俺が他のとこに行く夢でも見たのか?」
私が頷くと、シュエリは大げさにため息をついた。
「ばっかだなぁカノンは。俺はカノン以外いらねーよ。何があってもカノンを守るって約束しただろ?信じてねーの?」
「し、信じてるよ!…だからこそあんな夢見たのが怖くて…」
「心配性だなぁカノンは。こんなにカノンの事愛してるのに、どっか行く訳ないだろ。ずっと一緒だから安心しろって。な?」
「うん…ありがと、落ち着いた」
そうだ。シュエリが私を見捨ててどこかに行くわけがない。16年間ずっと一緒にいたんだもの、これからも変わらずにいられる…よね?
「良かった。…じゃ、慰めたお礼ちょうだい」
「え?」
「カノンからキスしてよ。…どこにも行かないって約束。俺にもちょうだい」
「…う、うん」
私はシュエリに顔を近づける。…でも、なかなかシュエリは目を閉じてくれない。
「しゅ、シュエリ…目、閉じて…」
「ん?閉じないよ。閉じたらカノンがキスしてくれてるとこ見えないじゃん」
「え、えぇっ!?」
「ほら、早く。…じゃないと俺からするよ?」
私は勇気を出して、ちゅ、とシュエリに口付けた。すぐに離そうとしたものの、シュエリは私の後頭部を押さえ込み、更に深く口付けて来た。
「んぅーっ!」
じたばたと暴れる私を面白そうに見つめながら、ようやくシュエリは唇を離してくれた。
「あー、ほんっとカノンって面白くて可愛い」
「せめて可愛いを先に言って!」
そう言ってシュエリに食ってかかろうとしたとき、ノックもなしにいきなり勢い良くドアが開かれた。私はびくりとしてドアの方を見る。
「やはりここでしたか、シュエリ殿」
そこにはとてつもなく大柄な男性が、威圧的な空気を出しながら仁王立ちしていた。髭もじゃでいかつい顔立ちの男性は、全身がっちりと鎧で固められており、どう考えても軍人の出で立ちだった。
「なんだ、今の今まで伸びてたの?結構弱いんだね、帝国の軍人って」
シュエリが事も無げに言い放つ。………って、え?
「シュエリ、まさかぶっ飛ばして来たって言ってたの、この人…?」
「そうだよ。軍隊の偉いさんだとか言ってたけど弱くてびっくりした」
「……シュエリ殿が拳に精力を込めるからでしょう。あれはそうそう止められる物ではありませぬ」
額に青筋を浮かび上がらせて、その軍人さんは渋い顔で呻いた。
「……精力?」
聞いた事ない言葉だ。
「そなた達幻者が持っている力の事だ。その力は計り知れぬ威力が備わっておる故、我々凡人には到底防ぎきれるものではない。…鎧が弾け飛ぶかと思ったぞ」
よく見ると、鎧の一部がへこんでいる。…どう見ても分厚い金属で出来ている鎧を、シュエリが…?
「……あ、あの…」
おずおずと男性に声をかけると、男性は思い出したように私に向かって一礼する。
「申し遅れた。私の名はジュール。セレニティスで軍を指揮する役目を仰せつかっておる。貴殿はカノン殿…でよろしいか」
「あ、は、はい」
「カノン殿は精力を上手く制御しておられるようだな」
「……あの、私…そんな力なんて持ってません…」
精力なんて言われても、何の事だかさっぱり分からない。それに、鎧をへこませる程の力なんて、私にあるなんて到底思えない。
「…ジュール、余計な事カノンに吹き込むな。カノンはまだ何も知らない。精力の事も、幻者の事も」
シュエリが鋭い目つきでジュールを睨みつける。
「…ふむ。カノンはまだ覚醒していないという事か」
ジュールの後ろから、いきなりグラード様が姿を現した。
「ぐ、グラード様!?」
突然の登場に私は驚き、ジュールはすぐさま跪いて礼を取り、シュエリは無言で私を抱き寄せてグラード様を睨む。
「シュエリが覚醒しているようだったのでジュールを付けたのだが、まさかここまでの威力を持っているとはな。興味深い」
その顔は相変わらず無表情だったけれど、シュエリを見つめるその瞳には言いようのない冷たさが宿っており、私はその場から動けずにいた。
…さっき、私と二人でいた時は、優しい目をしていたのに…
「ジュール、立て。まずはその鎧を着替えて来るがよい。部下に示しが付かぬだろう」
「しかし、陛下…」
「構わぬ、行け。心配せずとも良い」
「……はっ」
ジュールは立ち上がり、入り口で再度深く一礼すると部屋を出て行った。念のためもあるのだろう、ドアは開けたままだった。
しばらくグラード様とシュエリは睨みあい、私はどうすれば良いのか分からずにあたふたしていた。
ややあって先に口を開いたのはシュエリだった。
「……俺が覚醒したと、いつ分かった」
「ホームから出る時には分かっておったよ。カノンは分かっておらぬようだったが、そなたの周りの空気が歪んでおった。まだ制御は出来ておらぬようだな、神の子」
「…お前、なぜ覚醒を知っている」
「皇帝たるもの、様々な知識を持っておらねばならぬのでな。まさか現実にいるとは思うておらなんだが、こうなると色々と動かねばならぬな。カノン」
急に名前を呼ばれ、私はグラード様の方を向く。
「すまぬが城に戻ってからの同室は叶わぬ。覚醒して、己の力を制御出来ぬシュエリは危険な存在なのでな。最悪の場合、暴走した精力がそなたを傷つけぬとは言えぬ」
淡々と言い放つグラード様。私は愕然とする。
「そ、そんな…!シュエリは私の事傷つけたりなんかしないわ!」
「違う。シュエリの意思関係なく力が暴走する可能性がある。そうなった場合、力の持ち主ですら抑えられぬ恐れがあるのだよ」
「で、でも…!」
「……さっきから好き勝手言ってくれてるけど」
頭上から低い低い声が降ってきた。私はその言いようのない迫力に思わずびくりと身を震わせる。恐る恐る見上げると、シュエリが今まで見たことがないような形相でグラード様を睨みつけていた。
「………シュエリ……?」
「俺は自分の意思であいつの鎧を打ちつけた。精力が暴走?だとしたらとっくに暴走しているよ。怒りに応じて暴走する危険性が増すらしいけど、していないよ?…お前を今すぐ殺したいほど怒りを覚えていても、ね」
その話し口調はまるで小さい頃のシュエリ。だけど、放つ空気は歯の根が噛み合わないほど、寒い。
……私の目の前にいるのは、私を抱き締めているのは…誰?
「ふむ」
そんなシュエリが放つ威圧感をものともせず、グラード様は納得したように一人頷いた。
「そなたは感情が昂ぶると残虐性が増すようだ。それで精力の暴走を抑えているのか。…面白い」
「俺が飛び掛る前にさっさと出て行きなよ。…じゃないと今度はその鎧、ぶち抜くよ?」
「シュエリ…もうやめて!」
私は耐え切れずに叫んだ。
これ以上私の知らないシュエリを見せないで。
これ以上壊れていかないで…!
「カノン…どうしたの?」
「もうやめてシュエリ…怖いこと、言わないで…」
「……ごめん」
途端、シュエリの纏わり付いていた寒い空気が嘘のように霧散した。シュエリはバツが悪そうに私の頭を撫でる。
「ふむ…カノン。礼を言うぞ。そなたが止めてくれなければ今頃船が崩壊していたかもしれんな」
「グラード様も、変な事ばっかり言わないで下さい!も、もし暴走しても、今みたいに止めれば」
「………止まれば、良いのだがな」
グラード様が誰にともなく呟いた時、新しい鎧を纏ったジュールが戻ってきて、何事かグラード様に耳打ちをした。
「セレニティスに到着した。このまま馬車に移り、城を目指すぞ」
そして私たちの返事を待たず、グラード様とジュールは部屋を出て行った。
私たちはそのままルビィが迎えに来るまで何も話さず、ただ寄り添っていた…。