5章
グラード様が部屋から出て行った後、しばらく外の気配を探っていたが、どうやら本当に人払いをしてくれたらしく、しぃんと静まり返っている。
試しに恐る恐るドアから顔を出してみたが、ルビィの姿も見当たらない
「…………」
誰もいないなら、シュエリの所にも行けるんじゃないかな…
一瞬そう思ったものの、人払いをしてくれているのは私だけだったら、きっとシュエリの部屋にはまだ誰かがいる。グラード様がシュエリの所に行った気配もなかったし…
しばらく考えた後、私は大人しく部屋に引っ込んだ。
(問題になっても嫌だし…言われた通りじっとしていよう)
そのまま窓まで歩き、何を見るでもなくぼーっと赤い海を眺める。
「…いつになったら、青い海に戻るのかな…」
それにこれは、誰に対しての警告なんだろう。
いつも疑問に思っていた。
ばっちゃんから『赤い海は何かが起こる前触れ』と言い聞かせられて来たけれど、誰に対するものなんだろうと。
この世界には星の数ほど人が住んでいるのに、いったい誰に災厄なり幸福なりが降り注ぐのか一向に分からなかった。昔ばっちゃんに聞いてみたことがあるけど、うまくはぐらかされたし…
(もしかして、私たちに対する警告…?)
成人の儀が行われる数日前、海が突然赤く染まった。それまでかなり長い間海は深い、穏やかな青色をしていた。
もしこの海が、私たちに対して警鐘を鳴らしていたんだとすれば…
「……そんなわけ、ないか」
いくらなんでも、16歳になったばかりの人間二人に広大な海が動いたりはしないだろう。
自分の考えが少しおかしくなって、私は口の端で笑った。
「……ん?」
その時、窓の端に何かが映った。
「何だろ…?」
よくよく目をこらしてみると、何かがこちらに向かって飛んできているようだった。
「んーーー…?」
目を細めて飛んできているものが何か確かめていると、徐々にその姿がはっきり見えてきた。
「…え、何あれ?」
私は自分の見たものが信じられなかった。
「あれ…人間!?」
それはどう見ても人のようだった。窓のせいでどれぐらい近付いているのか分からなかったけれど、船まで到着するのにそう時間はかからないだろう。
「大変…!誰かに言わなきゃ…!」
私は慌てた。もしかしたら敵かもしれない。
あわあわとドアに駆け寄り、ノブに手を掛けた瞬間…
ばぁんっと勢い良く外側からドアが開き、
「きゃぁっ!!」
私はその勢いに圧されてころん、と後ろ向きに転がってしまう。
「カノン!?ごめん!!」
ひっくり返った私を心底驚いて見下ろしていたのは、なんとシュエリだった。
「いたたた…シュエリ、どうしたの?」
即座に差し伸べられた手を取りながら尋ねた。
「窓見てたら得体の知れない何かが飛んできてさ…カノンを守ろうと思って飛んできた」
「…え、シュエリの方は見張りいなかったの?」
「いるよ。部屋から出る時止められたけどぶっ飛ばして来た」
「ぶっ…!?」
なんてことだ。まさか見張りをぶっ飛ばしてまで来てたなんて!
「ちょ、その見張りの人大丈夫なの!?」
「さぁ、知らない。それより、あの人間どこまで近付いて来て…」
シュエリが窓に視線を移した瞬間凍りついた。
その表情を見上げた私はつられて窓の方に目をやり…
「……ひっ!!」
引きつった声を上げた。
窓には、一人の人間がべったりと張り付いていた。
その顔には表情が一切なく、のっぺりとしていて男女の区別がつかない。
顔色は異常に白く、髪も唇も真っ白。目だけが血のように赤く、その瞳はまっすぐに私たちを見据えていた。
「しゅ、シュエリ…」
私はがたがたと震えてシュエリにしがみつく。こんなに恐怖を感じる無表情は初めてで、得体の知れない恐怖心が心の底から滲み出て、歯の根がかみ合わない。
「…大丈夫、さすがに中までは進入出来ないよ」
私を『なにか』から守るようにぎゅぅっと抱き締めてくれるけど、視線は絶対に『なにか』からは外さない。
私も縫いとめられたかのように視線が外せない。
どれぐらいそうしていただろう。
にぃぃ、っと、『なにか』の口がつり上がった。
三日月のような形になったその中は、瞳と同じく血のように真っ赤だった。
歯も、舌もない。ただ真っ赤な空間が覗いているだけ。
「い、いやぁぁぁっ!!」
「カノン、見るな!」
咄嗟にシュエリが私の目を隠すけれど、いつまでも頭からあの赤い色が消えない。
そう、まるで今の海みたいに---
『ミィツケタ』
「っ!?」
不意に声が聞こえた。
シュエリを見上げると、顔は『なにか』に向けたまま、声の主を探すように視線をさ迷わせていた。
「……今の…」
「……ん…」
私が口を開いた時、シュエリが小さく呻いた。
「どうしたの…?」
「今の声…頭の中から聞こえた」
「え」
言われてみれば…
『ヤッパリイタンダ、幻者』
再び聞こえてきた声は、シュエリの言う通り頭に直接響いてきた。
恐らくこの声は…目の前の『なにか』。
『ウフフ、シカモ男女揃ッテルナンテネ。300年待ッタ甲斐ガアルッテモンダヨ』
「……お前、何者だ」
シュエリが低い声で尋ねる。声ですらも『なにか』の性別は掴めない。少年のような女性のような音域の声…
『知ッテドウスルノ?知ッタトコロデナニモ出来ナイデショ?しゅえり』
ぴく、とシュエリの肩が跳ね上がった。私も弾かれたように『なにか』の顔を見つめる。
……なんで、シュエリの名前…
『僕達ハ、ズット幻者ガ番デ生マレ落チルノヲ待ッテタンダ。…ウフフ、楽シミダナァ』
……何を言われているのか理解出来ないけれど、私たちを何かに利用しようとしている事だけは何となく理解出来た。思わず後ずさる私を見て、
『逃ゲナイデヨ、かのん』
「…………!!」
びくり、と身を竦ませる私をシュエリは『なにか』の視界から遮るように抱き締めてくれる。
「…お前が何を考えてるか知らないが、俺たちはお前の思い通りにはならない。…消えろ」
今まで聞いた事ないほど低いシュエリの声には、静かな怒りが含まれていた。
すると『なにか』は興醒めしたように口を閉じ、くきっと首を傾けた。
『…アーア、セッカクぐらーどカラ解放シテ僕達ノ世界ニ導イテアゲヨウト思ッタノニ、今ハヤーメタ。…セイゼイ後悔スルトイインダ』
一方的に言い捨て、窓の外の『なにか』は急に視界から消えた。
『幻者…絶対僕達ノ物ニシテヤル』
最後に不吉な言葉を残して。
「……………」
「……………」
『なにか』が完全に視界から消えた後も、私達は抱き合ったままその場から動けなかった。
かなり時間が経ってから、シュエリがふぅ、と息を吐き出す。
その瞬間、張り詰めていた糸がぶっつり切れたみたいに私はへにゃり、と崩れ落ちそうになった。
「カノン!」
咄嗟に抱き留めてくれたシュエリの腕にしがみ付き、何とか体勢を立て直す。
「ご、ごめん…ちょっと、気が抜けちゃって」
「…とりあえず、ソファーに座ろう」
私をソファーに座らせたシュエリはカウンターに置かれていたポットからコップに水を注ぎ、まず自分が勢い良く飲み干し、再び水を注いで私のところに持って来てくれた。
「…ごめん、先に飲んじゃった。拭く…」
「いいよ、気にしなくても。…恋人同士、だもん」
躊躇いがちに呟いてコップを受け取ると、シュエリが小さく笑った。
「それもそうか。キスもしてるしな」
私は危うく水を吹き出すところだった。
「う、げほっ、げほっ」
必死に我慢したせいで水が器官に入り、涙目で咳き込む。
「あーもう照れちゃって。可愛いなぁカノンは」
よしよし、と背中をさすりながらシュエリは笑う。
「もう…シュエリの意地悪」
軽く睨みつけ、私も笑う。…シュエリの笑顔を見ると、心が落ち着く。
「……それにしても、さっきの奴は何だったんだろうな」
私の隣に座ってシュエリが腕を組む。
「分かんない…あんなの、ホームの図書室で読んだどの伝承にも載ってなかった…」
「……不本意だけど、皇帝に聞くしかないか」
「グラード様に?」
「……カノン、そんな呼び方してたっけ?」
「…あ、これはそう呼べって、さっき部屋に来た時に言われて…」
「皇帝がカノンの部屋に来たの?」
「うん。…シュエリのところには来てないの?」
「いや、来てない。…ふぅん」
「ど、どうしたの?」
急に黙り込んでしまったシュエリを私は下から覗き込む。
「……いや、なんでもない。とりあえず、セレニティスに着くまで俺ここにいるよ」
「ホント?嬉しい!シュエリがいてくれたら何も怖くないわ」
嬉しくてシュエリの腕にぎゅっと抱きつくと、頭を優しく撫でてくれた。すると緊張の糸が解けたのか、急に眠気が襲ってきた。
「カノン、眠いんだろ。…ちょっと寝ろよ」
そう言って、そっと私の頭をシュエリの肩に乗せる。
「……ん…じゃ、ちょっとだけ…」
言って目を閉じた私は、すぐに眠りについた。
「……カノン…カノンは俺のものだ…何があっても守ってやるから…」
暗い顔で呟いたシュエリの言葉は、私の耳には届かなかった。