3章
自分の荷物をまとめ階下に下りると、ミューがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
一目散に私へ駆け寄ったミューは、そのまま思い切り私を抱き締めた。
「ミュー…」
「あぁカノン、なんて事!まさかこんなことになるなんて…!」
よく見ると目には涙が浮かんでいる。
「ミュー…泣かないで」
「泣かずにいられないわよ!まさかあんたたちが幻者だったなんて…!しかも皇帝の元に行くですって!?そんなの…辛すぎるわ!」
「…ねぇミュー、皇帝ってそんなに怖い人なの?」
ミューの異常なまでの怖がり方に、私は不安を隠せずに聞いた。
「…皇帝は、自分の思うようにならない人間は即座に残酷な方法で処刑するらしいわ。気に入った人間も、ボロボロになるまで道具みたいに酷使して、力尽きたらどこかに埋めてしまうとか…とにかく、そんな残虐な噂ばかりが付き纏ってるの」
私はぞっとした。…幻者だという私たちは、間違いなく皇帝にいいように利用されてしまうだろう。そして…用済みになったら捨てられる?
「ミュー…どうしよう、怖い…」
急に麻痺していた恐怖心がよみがえり、私はミューの腕の中で震えた。
「カノン…絶対にシュエリから離れちゃだめよ。あなたは女の子なんだから、皇帝に何されるか分かったもんじゃない。…絶対、シュエリから離れてはだめ」
今まで見たことないほど強い口調で言われ、私は震えながら必死に頷く。
「…もし、耐えられなくなったら私に連絡して来なさい。何があってもかくまってあげるからね。ゆうべここの皆とも相談したの。…もしもの時は、私たちが全力で二人を守ってあげる」
「ミュー…」
「あなたもシュエリも、私たちの可愛い子供。見殺しになんてしない」
そう言って私を抱く腕に力を込める。その強さと温かさに、確かな信頼を感じた。
「ありがとう、ミュー。…そろそろ行かなくちゃ」
「そうだね…ごめん、引き止めて。でも…さっき言った事、忘れないで」
「うん、絶対に忘れない」
そして私とミューはしっかり手を繋ぎ、シュエリたちが待つ玄関へ向かった。
「遅かったな」
玄関へ向かうと、皇帝とその部下たちが待っていた。その中にシュエリはいない。
「…シュエリは?」
「まだ来ておらん。そんなに荷物もあるまいに」
皇帝は抑揚のない低い声でつぶやくと、私と手を繋いでいるミューに目をやる。
「…お前はなんだ。なぜここにいる」
その威嚇するような口調に、私は思わずすくむ。だがミューは一向に意に介さず
「妹の門出に付き合うのは姉として当然の事でしょう?常識よ。ね、みんな?」
不意に後ろに声をかけたミュー。その方向を向くと、ここで働いている人がほぼ全員集合していた。皆一様に皇帝とその周辺の人間を睨みつけている。
「ここではこれが常識よ。いくら皇帝とはいえ、ここではルールに従ってもらうからね」
「貴様!皇帝に向かって何たる口の利き方だ!!」
一人がミューに向かって声を張り上げ、腰の剣に手を掛ける。が、
「よい。この者の言うことも一理ある。ここでは我らがよそ者だ」
皇帝は手で制し、あっさり男性を下がらせた。…思ったより、悪い人じゃないのかも?
これにはミューも面食らったようで、それ以上何も言おうとしなかった。
「お待たせ」
シュエリの声がしてそちらに顔を向けた私は仰天した。
「シュエリ、髪…!」
少し長めの髪を後ろで結んでいたシュエリだったが、バッサリと切り落としてツンツンになっている。
「ん、ちょっとね。鬱陶しかったし」
「…そう」
その目に何か秘めた物を感じ取ったが、私は黙っていた。なんとなく、聞いてはいけないような気がしたのだ。
「準備は整ったか?」
壁にもたれていた皇帝が身を起こしてシュエリに尋ねる。
「ああ、悪い」
シュエリも敬語を使う素振りは微塵もなかった。一瞬ひやりとしたものの、皇帝は気にする風もなく、部下になにやら指示を出す。
「ではカノン、シュエリ、城へ向かうぞ」
私たちの返事を待たず、皇帝は外へ出て行った。
扉が閉まった途端、遠巻きに見ていた皆がいっせいにこちらへ走って来た。
「シュエリ、カノンを頼むよ」
「辛かったら何とかして城を抜け出すんだよ」
「いつでも帰っておいで、待ってるからね」
口々に言うその目は全員潤んでいた。つられて私も涙ぐむ。
シュエリは冷静に頷いていたけど、私の方を見た時、ふ、と微笑んだ。
大丈夫、と言っているような気がして、私はシュエリに微笑み返す。
「……そろそろ行かなきゃ、怒られちゃうね」
本当はこのまま逃げ出したい。だけど私たちには行くあてがない。
「…怖いけど、選択肢はないもんね」
誰に言うでもなく呟いた言葉をシュエリは聞いていたらしい。私の所に来ると、手をぎゅっと握ってくれた。
何も言葉はなかったけれど、その手のぬくもりが何より嬉しかった。
「皆、ありがとう。…カノンは、何があっても守るから安心して」
「シュエリ…」
「シュエリがいれば大丈夫だろうけど、なんせあの皇帝だからねぇ…心配だよ」
口々に言う皆を、ミューは制した。
「皆の気持ちは二人とも痛いぐらい分かってるよ。…だから、笑って見送ってあげなきゃ」
「ミュー…」
「二人とも、気をつけて行くんだよ。忘れないで欲しいのは、ここはいつでもあんたたちの家なんだって事。それだけ!」
そしてにかっと笑ってくれた。…それが偽りの笑顔なんだとしても、最後の顔が笑顔なんだってだけで、救われる。
最後に全員と目を合わせ、シュエリと目を合わせ、私たちは外へ出た。
「別れは済んだか?」
外へ出ると、とんでもなく大きな船が目に飛び込んできて、唖然とする。
…今まで来たどの船よりも大きくて、豪華。これが皇帝の乗る船なんだろうか。
目を凝らすと、船のあちこちに金の装飾が施され、舳先には大きな宝石をあしらった女神像が据え付けられている。キラキラと眩しい。
「これに乗って…行くんですか?」
「そうだ。本当はもう少し質素な船にするつもりだったのだが、なぜかこの船になってしまった。…目立つから、あまり好きではないのだが」
「…皇帝は目立つのが仕事なんじゃないのか?」
さすがにこの船にはシュエリもあっけに取られたようで、思わずといった感じで呟く。
「普段ならこれぐらい目立つほうが良いのだが、今回は事情が事情だ。幻者が乗っていると感付かれたら後々面倒な事になる」
言われるがまま船内に乗り込んだ私たちは、甲板で出航の時を待つ。岸辺にはたくさんの見送りが出てくれていて、ハンカチで目を押さえている人も何人かいる。
「シュエリ…私たち、どうなるのかな」
「今は分からない。とにかくお城に着いて、それからだ」
「…シュエリ、何だか急に口調が大人っぽくなっちゃったね」
皇帝に引き取られる事が決まって以降、シュエリはあまり笑わなくなったし、いつもどこか冷めた目をするようになった。…何だかちょっと寂しい。
「昨日までのシュエリはどこ行っちゃったのかな…」
ぽつり、と呟くと、驚いたように私を見た。
「…俺、そんなに変わった?ただ髪の毛短くなっただけじゃん」
「なんか…うまく言えないけど、遠くに行っちゃったような気がする」
「そうか?カノンを愛してるって気持ちは変わらないけど?」
「な…っ」
真っ赤になってシュエリを見上げると、いつもの悪戯っぽい笑顔がそこにあった。
「カノンって、ほんと顔に出るよな」
「か、からかわないでよ、こんな時に…!」
「こんな時こそ、笑ってようぜ。笑ってたら…いつか良い事があるさ」
その時、出航を知らせる鐘の音が大音量で響き渡った。
「…子供たち、誰も出てこないね」
見送りに来ているのは大人たちばかりで、子供の姿は誰一人見えない。
「幻者ってだけで怖気づく子供もいるだろうから。ミューたちが配慮してくれたんだろう」
「……そっか」
もう私たちは特殊な人間になってしまったんだ。改めてそう思うと、寂しさが湧き上がって来て涙が零れそうになる。
船がゆっくりと動き出す。私は皆に手をちぎれるほど振って別れを告げた。ミュー達も何かを叫びながら思い切り手を振り返してくれる。
船はどんどん岸から遠ざかり、皆の姿も小さくなっていく。
と。
「カノン、あれ!」
別の方向を指差してシュエリが驚いた顔をした。
向くと、ホームから少し離れた丘の上で何人もの子供たちが走りながらこちらに手を振っている。
「みんな!!」
私は思わず船の端まで走った。身を思い切り乗り出して手を振る。
「カノン!シュエリ!元気でねー!!」
「おねえちゃん、また遊びに来てねー!!」
「おにーちゃん、かぜひくなよー!!」
口々に叫びながら全速力で船を追いかけてくる。私はボロボロと零れてくる涙をぬぐいもせず、ただただ必死に手を振った。
「みんなー!ありがとうー!元気でねー!!」
それ以上走れない場所まで来ると、子供たちは飛び跳ねながら手を振ってくれる。
私は、見えなくなるまでずっとそれに応じていた。
「……見えなくなっちゃった」
ノブリス自体も両手を広げた程度の大きさにまで遠ざかってしまった。もう、どう頑張っても自力では戻れない。
「まさか子供たちがあんな所で見送ってくれるなんてな。…意外だった」
シュエリもどことなくしんみりしている。
「私たち…避けられてたわけじゃなかったんだね」
「良かったな。正直、それが何より心強い」
「うん、そうだね」
あの笑顔を思い出せば、辛い事も耐えられるような気がする。
「シュエリ様、カノン様」
不意に名前を呼ばれ、二人同時に振り向く。…様?
「お別れは済みましたでしょうか」
そこには一人の女性が立っていた。メイドさんっぽい服を着ているが、その表情は能面のように動きがない。
「帝国まではしばらく時間がかかります。それまで寛いでいただけるお部屋にご案内致しますので着いて来てください」
私とシュエリは顔を見合わせる。…話し方は静かなのに、有無を言わせぬ迫力があった。
「あの…あなたは?」
「申し遅れました。お二人の世話を仰せつかっております、ルビィと申します。以後お見知りおきを。…それでは、こちらへ」
淡々と言って、私たちの返事を待たずに踵を返して歩き出した。
私たちは従わざるをえず、慌てて着いて行く。
船内に入る間際、私は一瞬後ろを振り向いた。
もうノブリスは見えなくなっていて、一面血のように真っ赤な水をたたえた海は不気味なほど静かで、どことなく不吉な予感がした。
私は慌ててその疑念を振り払い、船内へと歩を進めた。