狩人
地球。
人類発祥の地にして現在においてもなお人類社会へ強い影響力を持つ惑星である。
経済の中枢として統一通貨ギルダの発行と管理を司る。
「とんでもない事をやってくれる! そもそもお前は何様のつもりだ」
ローマ教皇イノケンティウスは暗闇に向かって叫んだ。
その闇から教皇の聖座をのぞく者がある。その者の四つの赤黒い眼球が教皇の問いを受けて細かく明滅した。
この奇ッ怪な四つ目の持ち主こそはマルタ騎士団の団長エンデミオン、ローマ教会の抑圧的側面を体現する者である。
『とんでも、ない?』
エンデミオンの顔面下半分を覆う鈍色の覆面から無機質な合成音声が発せられた。ザーッ、と雑音が入り合成音声が発言の途中で途切れる。
『私が何か、聖下のご機嫌を損ねるような失態を?』
「とぼけるな! お前がやったのであろう? 月の──」
イノケンティウスが端末を操作すると二人の間にホログラム映像が浮かび上がった。ニュース屋が伝えるのは月の総合病院で先日起きた火災の詳細だった。
エンデミオンは微動だにせず、そのまま謁見の間の柱の影の一つとして会話を続けた。
『大きな事故にも関わらず、犠牲者は、ゼロ、不幸中の幸いでありましょう』
四つ目の男の物言いが癪に触ったのか、温厚で知られる庶民派の教皇は鮮やかな錦糸の刺繍で彩られた白帽子を脱ぎ捨て頭皮をかきむしる。
「犠牲者がいないだと? この火事騒ぎの直後に宇宙軍幕僚会議のオービル元帥が息を引き取ったのをどう説明する?」
厳しく追及を続ける教皇の姿勢に驚いたのか、初めて影が身体を震わせた。
『オービル。かの罪深き魂は、このローマで裁かれ清められる、べき、でありました、残念でなりません──』
イノケンティウスの額に皺が寄る、肩を小刻みに震わせて立ち上がり、暗闇と対峙した
「なぜ元帥を殺した! マルタ騎士団は野蛮な暗殺集団か? ああ? なんとか言って見ろ!」
『殺した、とおっしゃるので?』
キャメロットを自称するテロリストによる幕僚本部ビルの爆破によって長らく生死の境をさまよっていたオービルであったが、ここ数日の容態はけっして悪くなかった。宇宙軍幹部が出席した慰霊式典には間に合わなかったが再生治療を受けるための体力は取り戻しつつあった。
その老元帥の急死にはエンデミオンが絡んでいるに違いない、教皇には確信があった。木星帝国残党がオービルを通じて獲得した軍艦と禁忌技術の数々について、エンデミオンは納得していない。彼の瞳に映るユイ・ファルシナは、理想郷創造とロンドンの浄化という教会の意志を阻む邪悪そのものだ。
(この潔癖症の狂信者ならやりかねない)
「バッキンガム宮殿の晩餐会で私の護衛から離れた後、あの後すぐに月へ向かったのなら十分間に合う、言い逃れしても無駄だぞ」
『お怒りを、お静め、くださいますよう……』
「エンデミオン、お前はあのユイ・ファルシナの禁忌破りが気にくわないようだが? それだけで皇女の後援者を殺してよいことにはならぬ。リオルは敗れ去り、民はユイ・ファルシナを支持した。この流れもまた神の思し召しとは考えないのか?」
『ユイ・ファルシナが何か? 私には何故聖下がお怒りなのか見当がつきませぬ』
「強情なやつめ! このイノケンティウスを愚弄するか!」
あくまでしらを切る部下にイノケンティウスは手元にあった杯を闇に投げつけた。
狙いは大きく外れ、真鍮の杯はカンカランという高音を響かせて大理石の床を跳ね回った。
欧州時間でちょうど深夜三時を回った頃、人気の無い教会に教皇の怒号が響き渡る。人当たりの良い昼間の聖人イノケンティウスとは別人のようですらある。これが本来の成人男性アレッシオ・フランチェスコーニの気性なのだろう。
「えいくそ!」
『聖下、どうかこの神聖なる場ではそのような言葉はお控えくださいませ。神が見ておいでになります。聖人となられた御身でございます、いついかなる時でもすべての信者の模範となられますよう』
「貴殿の行いこそ神が赦さぬ、あの老人は何故死ななければならなかった? どうしてだエンデミオン? 元帥の死をもってユイ・ファルシナへの警告とするつもりか?」
『私はただ神の手足となりて、そのご意志に従うのみです。ユイ・ファルシナが無知ゆえに禁忌をもてあそんでいたのならば──仲間の老人の死を警告と捉え、大人しく我らに従いましょう』
「何も殺す事はなかった!」
『魂の汚れを浄化するには──時に煉獄の炎を必要とします』
シュー、と言葉にならない吐息がエンデミオンのマスクから吐き出される。ここにきて異形の戦士はようやく柱の影から出でて教皇の正面に出ると深く首部を垂れた。上下二組、あわせて四つの瞳は順々にゆっくりと閉じられていく。
教皇はその容姿に思わず顔をしかめた。多少は見慣れた、と思っていたがやはりこのエンデミオンという異形の存在は、人々を導く神父として相応しくないどころか『悪魔』的ですらあった。生物本来の在り方を無視した逸脱者、忌み子の容姿。
面長の青白い顔には細く釣り上がった双眸が二組と、それとは別に額とこめかみの辺りに小さな孔が空いていた。そしてそれぞれに大小様々の眼球が埋め込まれている。本来、耳が有るべき部分に孔はなく顎の下に鮫のエラのような器官が備わっていた。それを若いルナリアンの女性のように艶々とした黒髪が覆い隠す。マスクの下にある口は長年寝食を共にしてきた修道士ですら見た事がない。もっとも、誰も見たいとは思わないだろうが。
(火星開拓事業団は砂嵐で気が狂ったに違いない、同朋をこんな悪魔に改造してまでも、人類は火星のテラフォーミングを急ぐ必要があったのか──)
悪魔の子孫め、と教皇は声にならない小さな呟きを発した。
長身細躯、細長い手足と──脇から伸びるもう一組の腕。この異形こそ、遺伝子操作によって産み出された人類の新たな可能性、新人類の試作品である。
エンデミオンの先祖は精密機器が役に立たない火星の過酷な環境下でロボットの代わりに宇宙害獣を駆逐し、インフラを構築してきた。
(──大きな、化け蜘蛛だ)
『おお聖下──貴方が神の声を聞くがごとく、私の耳にも神の御言葉が聞こえます。その御言葉は私に、そうせよ、そのようにあれ、と私自身を衝き動かします。これにはどうしても抗えませぬ』
「では何か? 貴殿の神がオービルを殺せと言ったのか?」
『はい聖下、おそれながら』
エンデミオンは頷いた。
『悪魔に汚され堕ちた魂、疾く浄化すべし。これは救済なのです、殺人ではありません』
教皇の胸焼けは酷くなり胃の内容物を吐き出しそうになる。
この血に飢えたケダモノは本来、禁忌の守護者である。聖棺に封印された過去のテクノロジーを見張り、私利私欲のために手に入れようとする賊や、禁忌の誘惑に負けた修道士達をことごとく抹殺してきた。教会の権威と管理委員会の神秘性を長年護ってきた守護天使、マルタ騎士団の長。
「お前の信じる神と、我々が信仰を捧げている神が同じである事を願うばかりだよ、クソッタレ! 理不尽な生贄を要求する血に飢えた邪神の類に騙されてなければ良いがな」
エンデミオンはあくまで『彼の信じている神』の忠実なる下僕であって一般的な秩序や大衆の味方ではない。教皇、枢機卿、果てはマルタ騎士団の仲間達にすら恐れられるような、一片の慈悲すら持ち合わせていない存在なのだ。
『邪神、ですと?』
エンデミオンは立ち上がると、音もなくゆっくりとイノケンティウスの座る玉座に近付いた。
「お、おい……どうした? 何だ、怒ったのか」
手の届く位置まで近寄るエンデミオン、彼の長い腕なら容易に教皇を害することが出来る距離。
身をそらし手で首と顔をかばう教皇の前でエンデミオンは腰を折り教皇の爪先に接吻をするかのように赤絨毯の上に這いつくばった。そして四本の腕で先程教皇が投げた杯を頭の上に掲げ丁重に教皇の足元へ差し出した。
『この身に背負うマルタ十字に誓って、私エンデミオンは教皇聖下と枢機卿会議の忠実なる剣です。常に聖下のため、教会のために世に蔓延る邪悪を監視しています』
平伏したエンデミオンはその首筋から肩口にかけて彫られた大きな刺青を露わにした。
騎士団の掲げるマルタ十字、八本の尖った部分は騎士の剣、八つの誓いを表現しているという。
『私の信仰にお疑いがあるなら、この身の十字ごと短剣にて引き裂いていただきたい。殉教する覚悟はとうに出来ております』
「──わかった、わかったもういい」
『ありがとうございます』
教皇が杯を受け取ると──いつの間にかエンデミオンは玉座の脇に移動しており、教皇が脱ぎ捨てた白帽子を彼の頭の上にゆっくりと置いた。
(い、いつの間に)
教皇の背筋を悪寒が走る、その気になれば一瞬で四本の長い腕がイノケンティウスの首に絡みつき、あっという間にねじ切ることだろう。それほど接近しているにも関わらずエンデミオンはその場にいない幻のようにも感じられた。
まるで幽鬼。
(生気が──気配が、薄い。音も臭いもこの世のものではないようだ)
教皇は目前にいる修道士の異常性を再認識した。このエンデミオン、戦士としての総合能力や統治者としての知能において優性遺伝子的怪物には遠く及ば無いかも知れないが、間違い無く人類史上最も有能な狩人である事は疑いようが無い。ヴェルデ・アルマデュラのステルス機能を借りずともこの者は生身でも獲物に気付かれることなく狩りを成し遂げるだろう。
(生粋の狩人だ)
教皇は生唾を飲み込み、緊張で汗ばんだ襟元を開け空気を入れる。どうにも息苦しい。
『聖下には聞こえませなんだか、神のお嘆きの声が。聖下には見えませなんだか、禁忌技術をもてあそぶ愚か者に心を痛める神の姿が』
「残念ながら余にはわからぬ」
『聖下はお疲れなのです、どうぞ存分にご静養を──スケジュールに余裕ができたはずです』
「そうだな──査問の対象が死んでしまったからには、枢機卿を招集する必要は無くなった。スケジュールは空いたよ、それだけは確かだがな」
『聖下をはじめ枢機卿の皆様方のお役に立てて何よりです』
心なしかエンデミオンの目尻が下がる。
(馬鹿にしおってコイツめ、遠回しに自分の仕業であると認めおった)
教皇は歯軋りをする。
「しかしな調子に乗るでないぞエンデミオン。今後、このような勝手をすることは許さん。ひとりの修道士の判断が教皇である余や、神聖なる枢機卿会議を飛び越えて良いはずも無い。今回の貴殿の蛮行は褒められたものでは無いことを認識せよ! オービルを殺したことが明るみになれば、ローマ教会と月の宇宙軍の関係にひびが入る。そればかりか、あの木星の皇女に痛くもない腹を探られるきっかけを作ってしまったのだぞ?」
『はい、ごもっともでございます──これからは尚一層、聖人集うヴァチカンのご意志に耳を傾け、独断を戒めます』
「わかったのならもうよい、下がれ」
『それでは、私は団員を連れてマルタ要塞に戻ります』
エンデミオンは首部を垂れたまま踵を返すとゆっくりゆっくり謁見の間を去っていく。音もなく歩を進めるその様子を教皇は苦々しげに見守った。
「クソッ、まずいことになった──」
表向きは無関係だが、死んだオービル元帥は木星のユイ皇女の後援者であった。学生時代に木星王家と親交のあったオービルにとって、ユイ皇女を助けるのは彼女の親族を処刑したことへの罪滅ぼしだったのだろう。
そんなオービルの死は木星の皇女にとって大きな不利益をもたらすのは間違いない。宇宙軍上層部との密な関係が切れただけでなく、禁忌技術へのアクセス権も切れた。
皇女は若いながら地球閥の黒幕リオル老人と渡り合って勝利したほどの人物である、オービルの死が不自然なものであるることぐらいは簡単に見抜いてしまうだろう。
その死に教会が関与していると知れば──ユイの心証は最悪なものになる。教会と木星の不和は将来的に争乱の火種になりかねない。
「要らぬ揉め事を増やしおって──これからのローマカトリック教会と木星帝国は、かつての教会と地球閥のように親密な間柄にならねばならぬ」
(おおそうだった、あのリオルから禁忌技術取扱いに関してユイ・ファルシナに特例を認めるよう言われておったな、渡りに船とはこのことよ)
教皇は少女の姿となったリオル大将との会談を思い出した。パチンと指を鳴らすと教皇は聖座の脇にある書記台に向かった。
「──枢機卿会議にかけている暇など無い、急ぎ余の名前で免状を出さねば」
教皇は公文書作成の作法にのっとり、本物の動物の皮から作られた羊皮紙を広げると羽根ペンに偽造防止の為の特殊インクを浸すとラテン語を用いてユイ・ファルシナ宛ての免状をしたため始めた。
「要らぬ勘ぐりが入る前に、余が味方であることをアピールせねば。オービルの代わりにこの教皇が木星王家の後ろ盾となって人類社会を導いていくのだ」
この免状は禁忌技術の利用に際してユイに特権を与えるもので、いわば管理委員会の決議を飛び越えて優先される「万能の許可書」である。ヴァチカン教区外への持ち出しを禁止された特製の赤蝋燭から垂れる蝋で封をすると教皇は指輪を押し当てる。蝋が冷えると三本の横棒が走った教皇十字のシンボルの形で固まった。
イノケンティウスは巻物状にした免状を木製の書簡に収めると足早に教皇庁職員の詰め所へ向かって駆け出した。
「今やユイ・ファルシナの木星残党はテロリストにあらず、軍事力と発言力を有する無視できぬ国家だ。つまらぬことで皇女の機嫌を損ねてはならぬ」
◇
「団長!」
「大将! 教皇のお召しは何事でありましたか」
『諸君、出迎えご苦労』
謁見の間から出て来たエンデミオンを待っていたのは修道士の僧服を着込んだ数名の男女である。騎士団長であるエンデミオンを取り囲む修道騎士達の多くは白地に黒のマルタ十字をあしらったものを着込んでいたが、三名ほどが赤地に黒の僧服を着ていた。これは修道士としての位階の高さを表しており、いわば兄弟子の証である。赤服の一人は巨大類人猿のような大男、一人は女、一人はエンデミオンの供としてバッキンガム宮殿に出向いていたブラザー・フランコであった。
大男、ブラザー・マースは一歩前に出るとエンデミオンにフードの着いた長めの僧衣を手渡した。
『ありがとう、ブラザー・マース。聖下は──イノケンティウス聖下は、魂の穢れも見抜けぬほど衰えておられる』
「大将も何かお咎めを受けられたので?」
『いいや』
エンデミオンは僧衣に袖を通しながら小さく首を振る。
『ややご立腹されていたようだったが? まあ、オービルの件はなんとか、ご納得していただけた、らしい。加えて──ヴェルデアルマデュラの損失とロンドンでの失態について──は特に話題には登らなかった……お咎めは無いと思ってよかろう、安心したかねフランコ』
赤黒い眼球が大男の後ろで小さくなっているイタリア男を睨み付ける。
「そ、それは良かった──助かった」
胸をなで下ろしたのはヴェルデアーマーを着用してブリジットと乱闘騒ぎを起こした修道士、ブラザー・フランコ。
『ところでフランコよ』
「は、はい大将?」
『何故ヴェルデアルマデュラの着用を解除していた? 禁忌技術の漏洩を防ぐためアーマーをやむを得ず破壊したらしいが……着込んでいれば君と一緒に脱出できたはずではないか?』
「あ、はい、ええと……それがその」
『またいつもの悪癖が鎌首をもたげたのかね』
「す、すみません……面目ねえことです」
『あれはただのスカウティングアーマーではない。複数の禁忌技術が用いられた特殊装備だ。我らが騎士団の装備品である前に、あれも本来は門外不出の禁忌技術である。神が我々の祖先にあたえたもうた貴重な聖遺物、命を賭してでもその秘密は守らねばならぬ。わかるかね? 禁忌技術の価値というのは時に我々の命よりも重いのだ』
ヒッ、と小さな悲鳴を上げるとフランコはますます小さく身をかがめた。
「す、すまねえ大将、俺ァ別に大将に恥をかかせるつもりなんてこれっぽっちも……わかるだろ? 長い付き合いだしその……俺、ご無沙汰だったもんでその、この通りだ勘弁してくれ、これからは女色は控えるよ」
ひざまずき、脂汗を流しながら引きつった笑いを浮かべるフランコ。その彼の下腹にエンデミオンの蹴りが突き刺さった。
「っ……!?」
フランコは鈍痛に顔を歪めた。ちょうど鳩尾に入ったらしく苦しそうに呻き声を漏らす。
『フランコ……何度姦淫の罪を犯せば君は満足するのか? 女人絡みでの失態は何度目だ? 言ってみたまえ』
エンデミオンは四本の腕を器用に操ってフランコを立たせると胸倉を掴んで宙吊りにした。
「ひ、ヒィ──!?」
第二の右手がフランコの縮みあがった局部を鷲掴みにする。
『その悪癖、治らぬのならば去勢するしかあるまい』
「や、やめ──冗談? やめっ──やめてえぇっ!? しょんな、タマ潰したら死ぬって? おいちょっとまっ、大将待って、死んじゃううう!?」
『女色を控える、と言ったな? では今から女人への性欲の源を排除してやろう。そうすれば信仰だけが残り、君は皆から愛される素晴らしい修道士として生まれ変わる』
エンデミオンがゆっくり力を込めるとフランコの顔から見る見る内に血の気が引いていく。
マルタ騎士団一同、これには肝を冷やしてエンデミオンの身体にしがみついて許しを請うた。
この異形の騎士団長が一旦口にしたからには単なる脅しではなく、本当に「この場で握り潰す」ぐらいの事はするだろう。それでフランコがショック死する可能性もあるだろうが恐らくエンデミオンの心は痛むまい。『十戒』のひとつ「汝姦淫することなかれ」を守らない修道士など最早仲間ではない。
「大将いけませんぜ! 兄貴が再起不能になっちまうよ!」
「私からもお願いします、フランコにお慈悲を。下半身にだらしがないことに目をつぶれば後輩の面倒見のよい有能な人材です。それは我々の長であるあなたが一番ご存知のはず」
同僚のマルチェロが平伏し、大男のマースがエンデミオンの肩と腕を掴み引き剥がしにかかる。
『君も、この色情狂をかばうのか?』
「暴力で締め付けるのは蛮人の振る舞いですぞ大将、およそ聖職者の行いとは程遠い」
『我々は信仰を守る騎士でもある。騎士には暴力をふるってでも守らねばならぬものがある』
「では君の友として言うぞエンデミオン、やめるんだ」
エンデミオンの悪魔のようにつり上がった四つの瞳は、糸のように細く垂れ気味のマースの目の奥を真っ直ぐに睨み付けた。
「頼む」
マースの強い制止を振り切ってまで罰を加えるのは躊躇われたらしい、エンデミオンは首を振りながら低く唸った。
『──良かろう、ブラザー・マースがそうまで言うなら、去勢は延期だ──』
エンデミオンの力が緩み、フランコはその四本の腕から自由になった。股を抱え込むようにして教会エントランスの冷たい石床にへたり込む。
「えあ、ヒィ──た、助かった……」
『対象の血液サンプルの採取、には成功していることだしな──フランコ、神と友人達の慈悲に感謝したまえ』
「すまねえ大将、こ、今回の件しっかりとタマに銘じるよ……」
「肝に銘じろよ!」
マルチェロがボケるフランコの頭を叩く。
エンデミオンは騎士団員達を一瞥するとフードを深く被り教会の敷地を後にした。
『マルタ騎士団、撤収する』
騎士団員を引き連れてゆっくりと明け方のヴァチカン市街を歩くエンデミオン。後ろから赤服を着た女性の騎士団員が声を掛けてくる。彼女はレジーナ、線は細いが暴力集団であるマルタ騎士団の副団長を務めている女傑だ。
「団長、例の女の件ですが」
『例の、とは? ユイ・ファルシナのことか?』
「いえ──素手でフランコ達三人と互角に闘った皇女の護衛のほうです」
『何かわかったか? ミュータントかサイボーグか……』
「一般的な医療用ナノマシンしか検出できませんでした。染色体も既存のデータベースには類似のケースがありません。人為的な操作の痕跡も認められず──何というかこの女、よくわかりません。未知の存在です」
『ジーン・バンクに登録されている優良遺伝子保持者の家系図か犯罪者の家系図を遡ってみればおおよその素性は知れるはずだが』
「いえ、これは特殊環境下において自然に進化したヒト──ヒューマンの突然変異種ではないか、と推測します」
『ほーぅ……』
レジーナの言葉を聞いてエンデミオンは歩を止めた。騎士団全体もそれにあわせてピタリ、と行進を中断した。
『新種が──人類社会が待ち望んだ、次世代の進化体のサンプルが見つかったと? それがこの大女か?』
巻物状のホロシートを受け取り、記載された分析結果に目を通すエンデミオン。
「はい。体内の残留ナノマシン量が極端に少ない割に血小板と白血球の働きが活発で、遺伝子操作された強化人間並の数値を示しています。このサンプルは一般的な欧州風邪のウイルスに最近罹患したようなのですが、我々連邦市民が普通に持っている抗体が〈変化〉いえ〈進化〉していました。このサンプルの身体は地球圏にあるただの風邪をもっと危険な別のウイルスと誤認して免疫異常の状態を引き起こしているようです」
『珍しくもない話だろう。進化というよりそれは単なる〈疾患〉なのではないか。免疫不全の病だ、薬剤投与ですぐ治る』
「いえ、これは簡単には治りません……このサンプルから抜き出した抗体は──宇宙生活者が罹患しやすい病原体38種類を駆逐することの出来る万能抗体ですが、非常に攻撃的で投与した薬剤すら破壊します。こんな強烈で特殊で、不便な抗体は他にはありませんよ」
『何だと?』
「この一連の分析結果から私は、特殊環境下にあったこの個体の身体の中で今まさに進化の枝分かれが始まっている、と判断します」
エンデミオンは首を傾げた。
『人類種の進化の分岐点にある存在──ということか? 俄には信じがたいな。木星残党が独自に開発した生物兵器、超人兵士の可能性は?』
「スキャンデータを見る限りでは生物兵器の可能性は薄いでしょう、人類の負の特徴を多く残しており兵器としての合理性に欠けているからです」
マルタ騎士団の構成員は禁忌技術に触れる機会が誰よりも多いため、科学者や医療従事者並みの見識が自然と備わっていく。レジーナもその例に漏れず細菌医療、ナノマシン、遺伝子工学、薬学、脳科学について非凡な知識を有している。
「──団長、木星残党はアラミス恒星系主星アラミスに流罪となっています。この女が皇女の護衛になったのは偶然で他意は無さそうです」
『ふむ、初代のアラミス入植者から数えて何世代目、に当たるのか知らぬが──教会の威光届かぬ野蛮なる僻地で育った野生児、といったところか』
高級リゾート地として名高いアラミスも、海を隔てた別の大陸では不法投棄された宇宙害獣が闊歩し、連邦の支配地域に居られなくなったお尋ね者達が徒党を組んで覇権争いにいそしむような未開の辺境と聞き及んでいる。そのような環境が育てた新しい人種なのだろう。
『……異星の太陽が育んだ新しい種族、アラミス星系人とでも呼べ、と? アラミス出身者は皆、この女のように超人的な身体能力を得る可能性があるなら脅威だな』
「このサンプル個体の能力、さすがにレアなケースと信じたいですね」
『この身体能力は子孫に遺伝しそうなのか』
「おそらくは、そうでしょう」
優性遺伝子的怪物が白兵戦闘において木星王家の兵士に敗北したという話、どうやら誤情報ではなかったらしい。
『アラミスは治外法権だが──早めに事実関係を確かめねば人類社会の脅威となるやも知れぬな。この女の存在そのものが禁忌だ。管理委員会による監視が必要だろう』
「はい団長、私もそう思います──本件について団長から教皇聖下に報告されるのであれば紙媒体で正式な提出資料を作っておきます。いかがなされますか?」
レジーナが問うとエンデミオンは目を細めながら軽く首を振った。
『いや、その必要はない。イノケンティウス18世聖下は今、お疲れで正常な判断が出来ぬ。現在の聖下はかつての型破りの破戒僧、個人としてのアレッシオ・フランチェスコーニに戻っておられる。およそ公人として神の声、を聞く教皇の役目は果たせまい』
「そ、そうですか──」
レジーナはエンデミオンの口から出る教皇批判が普段より激しくなっていることに動揺を隠せなかった。
『案ずるなシスター・レジーナ。このアラミス星系人の女、いずれ我々騎士団、の手で生け捕りにして聖棺に保管することになるだろう』
「は、はい」
『その時は存分に献体を研究すると良い』
エンデミオンの合成音声は無機質で抑揚がないため、声色から彼の感情を類推するのが困難である。しかし、この時のレジーナはエンデミオンの言葉の調子から愉悦の感情を読み取ったのだった。




