美里の優雅な一日
朝、七時に起きる。
夫である藤堂竜也はケーキ作りの為に早朝は三時くらいから起きている。
美里は起きて朝食を作る。いれたてのコーヒーと朝食を階下の厨房で作業中のオーナーと従業員の林に差し入れる。林は五人の子持ちの上、妻が行方不明なので生活が大変そうである。仕事ももちろん、子供の世話に追われているようだ。今は林の母親が同居して子供の面倒を見ているらしいが、林の妻を切り刻んだ美里としては少々の責任を感じるのかもしれない。朝食を差し入れると、林は申し訳なさそうに受け取る。
八時、真夜中にこそこそと戻ってきたらしい弟のアキラを起こす。
文字通りたたき起こして、朝食を食べさせて仕事場に追いやる。
九時、家中の掃除と洗濯をする。アキラの部屋から出て来た、赤い染みのついたシャツは漂白剤につけておいて、洗ってから捨てる。
十時、余計な手間をかけさせるな、と小一時間アキラに説教をする。むくれたアキラが「うるせえよ、ばばぁ」とよそを向いてつぶやいたので、たこ焼き器についていたたこやきをひっくり返す奴で太ももを少し刺す。
十一時、昼食の用意をする。
十二時~二時、オーナーとアキラが昼食をとる間、店を手伝う。
三時、夕食の買い物に出かける。
近くのショッピングセンターの中のスーパーで食材を買い外に出ようとした時、男と小さい女の子を見かけた。親子には見えない。男はまだ若くて兄妹かもしれない。だが手をひっぱって入って行く姿がどうも怪しいような気がした。男は女の子の手を引いて外のトイレに方へ歩いて行った。
一階のトイレは建物の外にあるが、裏の端っこの目立たない場所にある。
男が女の子を連れてトイレの中に入った。
美里は買い物袋を下げたままトイレに近寄って行った。
ショッピングセンターの中にもトイレはある。そして清潔に保たれていて、清掃員が時間通りに掃除をしている。客はたいていそちらを使う。外にあるトイレは外でガーデン用品を扱っている従業員がたまに使っている。だから扉を開けたらすぐに便器があるような簡易的なトイレである。
美里は薄いビニールの手袋をしてからトイレの扉を開けた。
ズボンをずらした男とその前で泣いている女の子がいた。
「きゃーーーーーーーーーーーー」
と美里は悲鳴を上げた。
「きゃー、変態! 助けて~~~」
とありったけの声で叫んだ。
平日とはいえ真っ昼間のショッピングセンターである。
たちまち人が集まってくる。
男は慌ててズボンを上げると、美里を突き飛ばして逃げ去って行った。
四時、集まってきた人間に事の次第と犯人の人相などをやってきた警察官、食人鬼の安田に伝える。安田は「最近、幼女を狙った猥褻な犯罪が増えておりまして、ご協力感謝します!」と律儀に敬礼してから帰った。
五時、夕食の準備をしたり、急いで洗濯物を取り込んだりする。
六時、夕方の混んできた時間になるとまた店で手伝う。
七時、店が閉店する。
八時、オーナーとアキラが家へ戻って夕食をとる。
九時、いつもなら風呂へ入る時間だが、今日はもう少し遅くしようと考える。オーナーもいつもならもう寝てしまうのに、まだ起きている。笹本が注文していたデザートを取りに来るらしい。アキラの部屋から何かを研いでいるような音がしゃりしゃりとする。
十時、明日は生ゴミの日なので店の裏口から出て、大きなポリバケツにゴミを捨てる。
がさっと音がした。
振り返ると、男が立っていた。
チョコレート・ハウスの裏はビスケットのような模様の塀で庭を囲んである。
近所の幼稚園の子供が散歩がてら通る時に、「おいしそー」と歓声をあげるのが微笑ましく、評判がいい。
その塀の向こうに男が立っている。塀といっても誰でも乗り越えられる高さなので、男は塀に手をついてからひょいとまたぐように塀を越えた。
美里はそれを黙って見ていた。
「昼間はよくも騒いでくれたな! 恥、かかせやがって!」
と男が言った。
「……」
幼女をトイレに連れ込むような男が、恥をかかされたという言葉を知っているのに驚いたが、顔をまじまじと見て納得した。男は近所でも有名なエリート男子高生だった。非常に頭がよく、礼儀も正しい。両親ともに学校の教師、祖父母も医師やら弁護士やらの家系というのを聞いた事がある。
今日、幼女にいたずらをするのを失敗した事でストレスが爆発しそうなのだろう。髪もくしゃくしゃで洋服もだらしなく着崩れている。裸足に健康サンダルという、普段のきりっとした様子からは考えられない乱れようだ。
「代わりにお前を殺してやるからな! 泣き叫べ!」
美里はそれを無視して、庭の水道で手を洗った。
「おい!」
美里が振り返ると男は小さいナイフを持っていた。十徳ナイフのような、缶切りとか爪切りとかドライバーとかがついている奴だ。
「便利そうなナイフね。お父様のコレクションから失敬してきたの?」
「う、うるさい!」
「一回だけ忠告しておくわ。今日はもう帰って寝なさい。それに近所の子供を襲うなんてやめなさい。あなた、エリートなんでしょ? そんな事で捕まったら将来が台無しよ」
「う、うるさい! うるさい! うるさい!」
狂気のように光った目が美里の言葉を跳ね返した。
「そう、自分でもどうしようもないのね。その気持ちは分かるわ」
と美里が優しげに言った。
「え……」
「あなた、世の中、みんな自分より馬鹿で愚図だと思ってるんでしょう? 頭がいいらしいから、そう思うのはしょうがないわね。でもね、そうでもないのよ? いつの間にかあなたの方が哀れな獲物になってるかもしれないわよ。今回は不注意過ぎたわね」
「え?」
と言った瞬間に、男は側頭部を殴られて膝をついてから、庭に倒れ込んだ。
身体がぴくぴくと動いているが、怯えた視線がこちらを見ているので、意識はまだあるようだ。
「不注意なのはてめえだろ。何、のんきに話し込んでんだ」
とアキラが大きなサバイバルナイフを持ったままで言った。ぴかぴかに光っている。
「だって、子供は殺らないのよ、私」
と美里は肩をすくめた。
「はいはい、ご立派な意見です」
「アキラ君、いつもお姉ちゃんを助けてくれるしー」
「け」
男は倒れたままで二人を見上げているが、その顔に恐怖の表情が浮かんでいる。
「どうする? ここで殺るのはまずいな」
「庭が汚れちゃうわ。昨日せっかく芝刈りしたのに」
「芝刈り機でこいつの頭も皮膚ごと刈ってやれば?」
「誘惑しないで……ちょっとだけやってみようかしら?」
「た…すけて」
と小さい声がした。美里とアキラが同時に下を見る。
その冷たい視線に男は絶望を知った。
「あなたは助けてと言った相手を今まで助けてあげた事があるの?」
と美里が言った。
「俺はない」
とアキラも言った。
そこへ、
「二人とも何やってるんだ?」
と声がして、オーナーが出て来た。
二人が振り返る。その足下を見て、オーナーは、
「困るなー君たち、庭はまずいだろう」
と言った。そして、
「あれ、この子、山内さんちの息子君じゃないのか?」
と言った。
「そうなの、山内君、幼女趣味でね、今日、ショッピングセンターのトイレに女の子を連れ込もうとしてね、私が騒いだから失敗して。その腹いせに私を殺しに来たの」
「美里を殺しに? 勇気があるなぁ、裸でライオンの口の中に入るようなもんだろ」
とオーナーが言ったのでアキラが笑った。
「美里が子供は殺さないって言うから俺が殺しちゃっていい?」
とアキラが言った。
「もうすぐ、笹本さんが来るからそっちへ運べば?」
とオーナーが言った。
アキラは山内君と一緒にうきうきと笹本の車に同乗していった。
「ほんと見境いがないんだから、アキラは」
と美里が言った。
「ああ、あした生ゴミの日だもんな。君、生ゴミの前の日は殺さないんだっけ」
「そうよ」
「じゃ、風呂へ入って寝るか」
「ええ」
二人は仲良く家に戻り、仲良く風呂へ入り、そして仲良くベッドへ潜り込んだ。
十二時、就寝。 了




