藤堂君は意外と鬼畜3
「娘がお世話になりましてぇ~」
と言いながら女が入ってきた。
身体はまだ店の入り口にいるのに、ぷーんときつい香水が先にやってきて美里の鼻をついた。
「林です。ご迷惑をおかけしてぇ」
「あ、林さんの奥様ですか? あの…」
と言いかける美里の横をすり抜けて、女はカウンターの奥にいる藤堂の方へ走り寄った。
「…」
「オーナーさん? この度はぁ子供達がお世話になっちゃって~ごめんなさいね。あたしが身体が弱くってぇ、実家で療養してたもんだからぁ。あたし、陽子って言いますぅ」
チョコレート・ハウスは入って右手に喫茶室へ入る扉がある。そこはたいてい開いているので、由香の母やその茶飲み友達が首をのばしてこちらを見ている。
美里は店内の棚に焼き菓子やチョコレートの箱詰めをディスプレイしていた。藤堂はガラスケースの横のレジカウンターに立っていて、その隣で由香が並んでいる客の注文を聞いているところだった。
「いえ、礼にはおよびませんよ。林さんに休まれるとこちらが困るので」
と藤堂が答えた。
カウンターの奥は透明のガラス窓になっていて、厨房の中が見えるようになっている。ケーキ作りをしている職人の姿が見えるという設計だ。
「これぇ、つまらないものだけど、お礼にと思って」
と陽子が酒の瓶を差しだした。
「せっかくですが…」
「大きなお店ねぇ!! 凄いわぁ。この上は? ご自宅なの? へえ、こんないい場所にねぇ。さぞかし儲かってるのねぇ。うらやましいわぁ」
陽子は予想よりも美人だった。黙っていれば。
五人も生んだと思えないスタイルに派手なサマードレスを着て、ピンヒールを履いていた。陽子より十歳年下の美里でも着るのに勇気がいるデザインのサマードレスだ。
それなりに年相応の格好をすればもっと落ち着いた美人なのに、と美里は思った。
若作り分だけ損をしている。そしてその真っ赤な口から出る言葉の端々が彼女を下品にさせている。
「ねえ、一度ご自宅に伺いたいわぁ。子供が言ってたけど、ずいぶんとお洒落なんですってね」
「ええ、まあ。イタリア製のソファにお宅のお子さんがクレヨンで落書きしてくれてずいぶんと芸術的になりましたよ」
この件に関しては掃除スキーの美里がきちんと落としたので問題はないし、林にも気にするなとは言ってある。しかし林の妻がなんだか厚かましそうな女だなと感じたので藤堂はちくっと嫌味を言ってみた。陽子の噂は藤堂も聞いている。若い男に入れあげて、ずいぶんと林をないがしろにしているらしい。
「あらぁ、ごめんなさい。ね、じゃあ、あたし掃除するわ。ちょっとお邪魔しようかしら」
話の通じない女に出会ったのは人生で二度目だ。藤堂はため息をついた。
「結構です」
「あらぁでもぉ」
しなしなと身体をくねくねする陽子を見て厨房から飛び出して来たのは林だった。
「陽子、何やってるんだ」
「何って、子供がお世話になったからお礼に来たんじゃないの」
林は藤堂と美里の方へ向いてぺこぺこと頭を下げた。
「すみません、すぐに帰らせますんで」
「何よぉ」
林は陽子の腕を掴んで店の外に押し出した。
しばらく店の前で押し問答をしていたが、誰が見ても口げんかでは林の惨敗が明らかのようで、陽子は林を言い負かして腰をふりふり帰って行った。
その直前に店内の藤堂に向かって笑顔で手を振って。
「何なんですかね、あの奥さん。ちょっとアレですね。ねじが足りないんですね。百本くらい」
と由香が言ったので、美里が、
「由香ちゃん!」と注意した。林が店の中に入ってきた瞬間だったのだ。
「あら、ごめんなさーい」
「いや…いいんだ…確かに、ちょっと変だから。オーナー、美里さん、すみませんでした」
林はがっくりと肩を落としてまた厨房の方へ戻って行った。
「…ってあげるわ」と聞こえたので、美里は振り返った。
スーパーで買い物をしていた時だ。
「え?」
振り返ると、陽子が立っていた。
「こんにちは」と美里が言うと、
「もらってあげるわ」と陽子が言った。
「え?」
一瞬、おごってあげるわ、と言ったのかと思った。子供を見ていた礼に何かおごってくれるのか、と美里は思ったのだが、スーパーでおごってあげる、というのも変な話だ。
しかももらってあげる、と更に美里から何かを引きだそうとしている。
「何をですか?」
「あなたのご主人! あたしの方が似合ってると思わない?」
「?」
「あなたは林と再婚すればいいじゃない? 子供達もなついてるんでしょ? 美里さん、美里さんってうるさいのよ。あなたが母親になった方が上手くいくと思わない? 子供はあげるから、あなた林と結婚しなさいよ。あなたのご主人はあたしが再婚してあげるわ」
トイレットペーパー売り場の前だった。
美里は12ロールの包みを取り上げようとしていた所だったのだが、手を止めた。
陽子は金さえあれば子供は捨ててもいいとはっきり言ったのだ。五人も生んでおいて、自分の快楽の為には捨ててもいいのだ。それでも人間か、母親か。
「お金持ちなんですってねぇ。ケーキ屋さんてそんなに儲かるの?」
にやっとして美里を見るその顔に、お金ちょうだい、と書いてあるような気がした。
しかも藤堂と結婚してあげるわって…あげるわって…
「頭、おかしいんですか」
と美里が言った。陽子の顔がむっとして歪む。
「すみません、急いでるので失礼します。今夜、主人と食事に行く予定なので…三丁目の「フェリシテ」というフランス料理店へ行くんです。だから、あなたと主人の取り替えっこしてる暇はありません」
そう言ってから美里はにこっと笑った。陽子は少しあっけにとられたような顔をしていたが、美里は無視してその場を去った。
結局、からの買い物かごを入り口へ戻して、美里は何も買い物をせずにスーパーから出て行った。
美里がチョコレート・ハウスに戻った時、時計は夕方の五時だった。
営業時間は午後七時までだ。
藤堂が店を閉めるまでに美里は買い物や夕飯の支度をし、手が空けば店の手伝いもする。バイトが急に休むとか、客が混んで忙しいという時などは店に入る。
美里は店に戻ると、厨房でチョコレートを作っている藤堂へ、
「お願いがあるんだけど、聞いてもらえる?」と言った。
「俺が君のお願いをきかなかった事があるかい?」
と藤堂が作っているチョコレートより甘い返事をすると、美里は嬉しそうに笑った。
「笹本さんの店へ食事に行きたいの。今夜」
「いいけど」
「じゃ、笹本さんに電話しておくわ」
そう言いながら店を出て行く美里の顔を見て藤堂は首をかしげたがまた作業に戻った。
「では個室でお願いします」
と美里が言うと、電話の向こうで笹本が「了解、了解」と答えた。
「それからもし、私の友達だっていう人が来たら通してあげてください」
「友達?」
「ええ、多分、来ると思うんですけど。来なかったら、それでいいんです」
「分かった」
電話を切って、美里はうふふっと笑った。
食事の時間までにシャワーを浴びて、服を着替えて、メイクをして、それから、三階の美里のコレクションルームヘ行って、武器を選ばなくてはいけない。
「今日はどれを持って行こうかしら? 笹本さんのお店をあんまり汚したら駄目よね?」
美里はまたうふふっと笑った。