藤堂君は意外と鬼畜。
チョコレート・ハウスの新店舗は七月の初旬にオープンした。
何もかもが新しい店でパティシエは藤堂ともう一人、林という男がいる。昨年末までは新井という雑用をこなす若者がいたが、彼は…ご存じの通り。
オープン記念として来客にチョコレートプレゼントというイベントをしたばっかりに、目が回るほど忙しい。ガラスケースの中のケーキもほぼ完売、喫茶室でもきゃっきゃっと街中のうわさ話に花を咲かせる近所の奥様方でいっぱいだった。
それが連日続く。ケーキやクッキーを作り続ける藤堂や林はもちろん徹夜続きで疲労困憊状態だった。
「もう、やめたら? チョコレートプレゼント」
ソファへぐったりと沈み込んでいる藤堂へ美里が声をかけた。
「そ、そうだな」
「一週間もやれば上等よ。これからもお客様は来てくれるわ。オーナーのケーキはおいしいもの。チョコレートも全部、なくなったわ」
「ああ」
「最後には足りなくなっちゃって、私の秘蔵のチョコレートまで持っていかれちゃったわ。私のチョコレート…私のチョコレートも全部よ。見事に全部」
「あー、すぐ、つくるよ」
藤堂は疲れた声で立ち上がろうとした。
「嘘、嘘。ハワイのマカダミアナッツのチョコがまだ残ってるから大丈夫よ。油っぽくてとってもまずい」
あははと美里が笑った。
「明日、愛をこめて特大のハート型チョコレートをつくるよ」
「やった!」
「あのぉ、オーナーすみません」
と林がおずおずと声をかけた。
「ん?」
「実は…母に娘を預けてるんですが…母がぎっくり腰になってしまったと今、電話がありまして」
「え? それは大変だ。今日はもういいから、帰ってあげて」
「す、すみません」
ぺこぺこと頭を下げてから林は急いで店を飛び出していった。
「林さん、奥さんは? 仕事が忙しい人なの?」
と美里が首をかしげた。
「奥さん…また家出中らしいですよ」
と女子大生バイトの由香が言った。
「家出中? しかもまたって?」
美里が聞き返すと、
「店で噂話しない」
と藤堂が注意した。
「はーい。あ、私、バイト上がりの時間でーす。お疲れ様でーす」
と由香が言い、
「あ、私もそろそろ洗濯物取り込まなくちゃ」
と美里が言って、二人はそそくさと事務所の中へ駆け込んで行った。
「で? 家出中って?」
ここはチョレート・ハウスの二階部分、藤堂と美里の自宅スペースである。
時間があるという由香を招いて美里がリビングでお茶会を開いている。
「美里さん本当に知らないんですか? 有名ですよ。林さんの奥さんって」
「有名?」
「ええ」
由香は美里の出したクッキーをもぐもぐと食べながら、
「林さんて風采あがらないじゃないですかぁ。奥さん、すっごい美人なんです。カップルなのが不思議なくらい」
確かに、と美里は林の顔を思い浮かべた。
林は背が低く、太っている。銀縁の眼鏡をかけていて、寡黙な男だ。
パティシエとしての腕はよく働き者だったが、見た目は少々不細工だ。
「へえ。そうなの」
「でも、奥さんすごいアレなんです」
「アレって?」
「浮気症で、男作って時々家出しちゃうんです」
「え? 浮気して家出中なの?!」
「ええ、しかももう何回もしてるらしいですよ。うちのママが呆れてました。子供五人も生んでほったらかしなんですよ」
「五人もいるの?!」
「ええ、林さんとおばあちゃんが育ててるらしいですよ。一度家出したら一ヶ月や二ヶ月は戻ってこないらしくて」
「それ、本当の話なの?」
「そうです。で、男に捨てられるかお金が無くなったら、戻ってくるらしいですよ。林さんがまたそれを許しちゃうから」
「そんなに綺麗な人なの? 浮気されても許してしまうほど、好きなのかしら」
「さあ…もうあきらめてるんじゃないですか?」
「子供がかわいそうね」
「ええ、小学六年を筆頭に四年生、三年生、一年生、そして去年生まれた八ヶ月の子。上から男、男、女、男、女です。奥さんが戻ってきた方が子供達が不憫だって噂ですよ」
「どうして?」
「買い物に行けば難癖つけて値切るし、目についたものを盗んだりしちゃうし、世話してもらってる林さんのお母さんを怒鳴るし。ママが林さんのお母さんと知り合いで、聞いた話では奥さんがいるときは世話になんか行きたくないって愚痴ってるらしいですけど、やっぱり孫がかわいそうだからって」
「あらぁ。そんな母親ならいない方がましね」
と美里が言った。
「そうですね。前の家出の時に林さん、「戻ってきたのか…」って悲しそうに言ったらしいですよ」
「そこまで言うなら離婚すればいいのに」
「そうなんですよね。子供の為って言ってるらしいですけど、逆に悪影響ですよね」
「ふーん、世の中いろんな夫婦がいるわね」
「美里さんとオーナーだってぇ」
てぇの後にハートマークがついたような声で由香が言った。
「え? 何?」
「噂の的ですよ!」
「な、なんの噂?」
「オーナー、ずっと独身でぇ、うちのママなんかもずいぶんお見合いの話を持ってきたのにずっと断られてて、それが、電撃結婚だからぁ。母なんか興味津々ですよ!」
「由香ちゃんのお母さん、毎日来てくれてるものね」
言われなくても分かった。由香を老けさせたら由香の母になる。毎日午後一番で来て、近所の誰かが来るのを待っている。知り合いが来ると、捕まえて噂話に余念がない。
由香の母は専業主婦らしいが、ケチではない。何時間も居座るがお茶もケーキも何度も注文するし、騒がしくもない。が、美里と藤堂のなれそめを聞きたくて仕方がない様子なので困っている。
「ママったらオーナーを気に入ってて絶対にお嫁さんを見つけるって息巻いてましたから」
「あ、あら、それはごめんなさい。どこの馬の骨とも知れない…私で」
「いいえ、美里さんの事も気に入ってますよ」
母譲りの由香の噂話は藤堂が店を閉めて、二階へ上がってくるまで続いた。
「まだ、林さんの事を話してたのか」
ぺろっと舌を出して由香が帰ると、
「林さんの奥さんて、凄いのね。浮気して家出って。そんな奥さん必要? 林さん、どうして離婚しないのかしらね。大きなお世話ってか。ふふふっ」
と美里が笑いながらキッチンの方へ向かった。
「尻尾がぶんぶんしてる」
と藤堂がつぶやいた。
藤堂には美里に尻尾が生えて、ぶんぶんと振り切りそうな勢いで振っているように見えるらしい。
美里は新しいおもちゃをもらった子犬のようだった。
ふんふんふんと鼻歌を歌いながら、夕食の支度をしている。
時々、よく研いである包丁を見つめている。
その時の怪しく光る美里の目がとても綺麗だと藤堂は思った。
しかし、近所の奥さんをどうこうするのは…できたらやめて欲しいなぁ、と藤堂は思った。