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聖光寺の桜

 七回忌の日。ほんのわずかな招待客の中に、堺良二はいた。その堺に、私は、

「父の事で話がしたい」と言うと、堺は七回忌の後、急いで東京に行くのだが、少しだけなら、と、聖光寺の境内の中に座って話し始めたのだった。


「父のことを教えてほしいのです。」

「克己のこと?」

「はい」

 私がまっすぐに堺を見据えると、

「もう、本当に大人なんだな。」

 堺はそう言って話し始めた。

「知りたいのは、手紙の主のことだね…」

「母が可哀想で。どうしても父の事を知っておきたいのです。」

「そうか、それなら、お母さんに訊くのが一番なんだが。話せる範囲できみに話すよ。」


「ぼくが離婚したのは知っているよね。ぼくが離婚したのは、妻が浮気をしたからなんだが、どうして、妻が浮気をしたか、きみには想像できるかい?

実は、夫のぼくでさえよく理解できない。妻はね、「淋しかった」そう言っていたよ。

なんて身勝手な、と思ったけどね、年に半分は出張でね。ぼくたちは子どもにも恵まれなかったし、妻が淋しいというのは、身体の事を言っているのかと思ったんだが、実は違っていたんだ。どうやら、気持ちだったらしい。ぼくは、ほったらかしにしたからね。

 「淋しい」と妻に言われて、漠然と離婚を考え始めた頃だったと思うが、今度はきみの父親、克己がどうやら、出張先で親しくなった女性と、本気で恋をしていると、ぼくは気がついたんだ。で、忠告したさ。克己にはぼくと違って、きみたちのようなかわいい子どもがいたしね。すべてを失うようなことになってもいいのかってね。でも、克己はどんどん深見にはまっていったようにぼくには思えた。相手の女性にぼくは会ったことがあるけれど、その人はね、きみには言い難いが、克己だけを必死に愛していたよ。必要としていたと思う。どんな事情があったかはしらないが、克己はその人に「必要」とされていたんだ。

 克己は自分の居場所を探していたんじゃないかな、とぼくは思う。相手の人は、克己より早くに遠い世界に逝ってしまったんだ。それから、克己は足の病気を再発した。あっと言う間だった。支えていたものが無くなったことの証じゃないかな。

 さっきも言ったけど、克己は自分の居場所を探していた。きっとね。

ばかな奴だと思うけど、男なんて、みんな意気地無しだからねぇ。ほんとうに弱虫なんだよ。

たくさんの手紙を、わざわざ自分の女房の目につくところにおいて亡くなった。それは、早く気付いてくれ、という克己からのメッセージだったんじゃないかな。


 ぼくが話せるのはこれくらいかな。何しろ、もう克己に確かめることもできないし、相手の女性も死んでしまったし、本当のところはだれにもわからない。でも、克己は、きみたちのお母さんに、気づいてほしかったんだろうな。自分の離婚と重ねてね、そう思うよ。」


 長く一気に話して、堺は、ふっと煙草を揺らした。そうして、その紫煙に踊るように、一片の桜が舞い降りた。

「きみのお母さんにも、知っていたのなら、話してくれたらよかった、と、散々なじられた…」

 と、堺が言った時、また桜が散った。

「母は、どこまで知っているのでしょう。」

「同じさ。これ以上、何も知ることはできない。残った手紙も、少しずつ克己の墓前で、きみのお母さんは燃やしたようだから、もう、何も知ることができないんだよ。」

「母が、燃やした?」

「そうさ。読んでは封筒に戻し、涙し、また、読み。そうして、墓前で燃したんだ。何度か一緒に墓参りもしたしね。そう言えば、よくリンドウを持ってきていたな。克己が好きな花だと言っていたよ。」


 そう言われて、まだ中学のころ、母が結城紬の着物を着て、リンドウの花を下げて出かけたことを思い出した。父がリンドウを好きだった…。そうだったかな、と思う。私は、父が好きだった花など覚えてもいないのだ。


「ぼくが知っていることは、これがすべて。きみのお母さんにも克己が亡くなったころに全部話したよ。

克己は淋しかったんだ。そんなことで、許せない、そうきみは思うのだろうね。」


 私は、黙ってうなずいた。

「でも、お母さんは。きみのお母さんは、克己が自分に伝えたかった事を必死で探しているようだよ。きみたちと向かい合いながら、答えを探しているんだ。わかるかい?」


 堺良二のうつむきかけたその横顔に、垂れた髪は、すでに白髪だった。一瞬のうちに白髪に変わった母は、今ではおしゃれ染めをして、あの頃の、もうただ死を待つような老母の姿ではない。なぜだろう、少しずつあの頃のショックから立ち直ったのか、若くなっていっているような気がする。妹の妊娠にも動じない。父のいない子の母となる妹も、私なんかより、しゃんとしている。


「妹は元気なのかい?」

「…」

 唐突に楓の話になり、私がなぜ?という顔をすると、

「いや、なんだか、顔色が冴えなかった気がしてね。もっと、元気な子だったと…。」

 そう言われ、少し考えて、私は真実を告げた。あと半年もしない間に、妹には子どもが生まれるのだから。

「えっ」

 一瞬、堺は絶句した。瞬間に血の気がひいたように見えた。

「堺さん?」

「いや、ごめん。まだまだ子どもだと思っていたんだ。びっくりしてしまった。」

「お恥ずかしい。父親のいない子どもを産むのだそうです。やけに頑固で、父親の名を言いません。」

「お母さんは?お母さんは知っているの?」

「ええ。父親のいない子どもの、おばあちゃんになるようです。」

「そ、そうか。」

 堺は腕時計に目をやった。

「申し訳ない。この後、用事があるんでね。これで失礼するよ。」

 そう言って、軽く会釈をして、堺は駐車場の方へ歩いて行った。

 堺の様子が変だ、まさか、まさか、楓のお腹の子は…、そう思って、私が後ろを振り向いたとき、もうそこには堺の姿はなかった。


 ただ、その時、春の嵐のような一陣の風が蓼科山から舞い降りて、目の前を、それこそ、桜吹雪が一瞬のうちに翔け抜けていったのだった。父が大好きだった茅野・聖光寺のソメイヨシノは毎年鮮やかに散り耐えて、石畳を桜色に変え続けている。こんな景色を見続けることなく、あっという間の人生を終えた父は、なぜあの手紙を残して逝ってしまったのだろう。

 父の事を私は何も知らないようだ。

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