昔の話、昔の病院 2
昭和の中頃、子どもの頃の家庭医療、お浣腸の思い出について
皆さまは滋養浣腸という言葉をご存じでしょうか?お浣腸をする機会すら減ってきています昨今では、聞いたことはない方も多いですよね。この滋養浣腸は、その名の通り浣腸には変わりないのですが、いわゆる、排便を促すものではないのでございます。先に滋養と書かれております通り、滋養、栄養を付けるためのものでありました。それでなんで浣腸なのかと言いますと、その栄養分を肛門から入れて直腸で吸収させるというもので、具合が悪くなると、浣腸排便後にまま行われることもあった処置でもありました。そんな、ウソをおっしゃいと思う方もいるかもしれませんが、あの当時は大まじめに行われていたものでした。そもそも常識ある皆さまならわかるかと思いますが、通常は直腸と言えば口から食べたものを胃で消化し栄養吸収後、消化しきれなかったものを、小腸・大腸を経由し、その先の直腸を介して肛門から便として出すものです。私も医学の事はとんと疎いのでございますが、この位の知識は皆さまもお持ちかと存じ上げます。ですので、通常の浣腸は排便の為ですが、滋養浣腸は弱った体に栄養を送り込むためにされていた真逆のものになります。
私はこの滋養浣腸を、通常の浣腸と比べるとはるかに頻度は少ないのでございますが、度々されることがございました。育った時代背景を先に、少々お話しさせて頂きます。
年代は先の大戦が終わってから20年程の事、戦後の物資の無い時からは少し時間は経っていますが、なにせ田舎なものですから都会にあるものでも中々、手元に入ってきません。電気や水道こそありますが、下水の完備は無く、排水は近くの小川に流し、便所に至っては汲み取りで、衛生状態などは決して良いとは言えるものではございませんでした。おまけに未熟児で生まれた私は、初孫であったこともあり、周りには過剰なくらい過保護に育てられたのかなと思っております。それでいてお転婆でしたので、外に行って遅くまで外で近所の子供たちと一緒に遊んでおりました。当時は授業や部活動などでも水を飲む習慣が無く、今の常識が全く通用しない環境でした。それでいて水も飲まずに炎天下駆けずり回っておりましたので、家に帰ったときは真っ赤な顔をして帰ってくることもしばしば。そんな時はちょっとはぐったりはしつつも、水を飲んで少し休んでいれば問題ありませんでしたが、ある時そうもいかないこともありました。まだ年若い叔母が夕方帰ってきて、居間で寝ている私を見て、日射病じゃないかと言い始めたのです。日射病なんて言う時代ですね。今では熱中症と言うのでしょうか。この当時はこうなる原因は太陽に当たっているときだけと思われていたので、熱を帯びた湿気のある家の中でも熱中症になることがあるとは、今だからわかっていますが、あの時分は中々に医療の知識が乏しかったものです。兎に角、お医者様に見せなければと言う事で、病院に行くのか、往診を頼むのか当時祖父、祖母から叔母迄がああでもないこうでもないと言っていたのは覚えています。
結局、顔見知りのお医者様に電話を掛けて、診察しますから来なさいと言う事にでもなったのです。ハイカラな叔母が持っていた田舎ではまだ珍しい車に母も乗って、小さかった私は後部座席に寝させられて、診療所に向かったと思います。このとき、通例通りお浣腸もされましたが、初めて滋養浣腸と言うものをされたと記憶しております。一通り診察を受け、浣腸もした後でやっと帰れると思ったら、牛乳瓶を逆さにしたようなものを持った看護婦さんが来られて、これをしますから、もう少しヨと言うようなことを言われたかなと思います。この時はその容器が分かりませんでしたが、その後、数はお浣腸に比べはるかに少ないながらも何回かされたことを辿って行きますと、イルリガートルと言われるものがありますがあれほどは大きくなく、また下部も円錐状に窄まってはいません。どちらかと言うと円柱状で肉厚のゴムの様なもので蓋をしてあり、出口が見当たらないものです。また瓶はガラス素材ですが着色されており、量は200㏄位だったのかなと言うこと以外は、質的な中身が何なのか全くわかっておりません。
それも昭和30年代も終わり、40年代に入ってくると田舎も豊かになってきて、欲しいものは手に入る様になります。3Cと言われる、カラーテレビ、クーラー、車(CAR)なども手に入るころになると医療制度も良くなります。その中で、点滴としてブドウ糖、リンゲルが安定的に供給されるようになってからでしょうか、滋養浣腸をされた記憶が無い事を考えると、これらに変わられる成分と同じように電解質分の様な水の一種であったのではないかと思いますが、今となってはどういうものであったか全くわかりません。ただ1つ言えることは、通常の浣腸をされてお便をしたにもかかわらず、排便がしたくなると言う事です。強烈と言うほどではないのですが、やっぱり我慢できません。当然、滋養と言う名の薬なのでお浣腸として掛けた後は、たとえ息みが生じても耐えて出してはいけないものになります。今回は、この時のお話を少しだけさせて頂ければと思います。
数回の滋養浣腸の経験。その数回とも、同じ診療での経験になりますが、最初の頃、大方排便した後の滋養浣腸であったのですが、とても我慢できなくなって漏らしてしまったことがあります。
「がまんできない」
そう看護婦さんに訴えますが、
「あとちょっとだから頑張ろうね」
とか、
「もし出したら、やり直しになるのよ。いやでしょ、さぁ頑張ろう」
とか、気休めにもならない事しか言ってくれません。こちらは、本当に出したいのです。滋養浣腸の瓶を吊り下げている点滴台を見ると、その成分は分かりませんが、着色された瓶の中身があとどれくらいあるのか、その向こうにある蛍光灯の光を通して影が教えてくれます。あと1/3、いや4/1位でしょうか。まだまだあります。
「本当なの、ほ、本当に出したいの」
と言うと、看護婦さんがこちらを見ずにその点滴台に向かい、チューブを挟んでいるクランプ状の鉗子を緩めたのでしょうか、ガラス状になっている点滴筒の中の雫の落ち方が幾分早まったように思えます。
「少し、早めたから、あとちょっと頑張ろう」
そう言って、励ましてくれました。でも、それも無駄だと分かっています。滋養浣腸、その名の通り、直腸から栄養分を吸収させなければなりません。そうです、入れ切ったからと言って排便などできるはずがありません。もう絶望と思える時間が過ぎます。その間にも、瓶から筒に養分が流れ、筒の中から管に雫が落ちます。そしてようやく最後の雫が落ちた時、
「さぁ、終ったわよ。よく頑張った…」
「だ、だ、だっめぇ」
と言ったとたん、肛門から管が吹き飛び、今入れたばかりの養分が汚物となって吐き出されました。
「…ごめんなさい」
と言うのがやっとです。
「出っちゃったの?我慢できなかったか~」
「ごめんなさい…いま…」
今片づけますと言おうとしたら、
「大丈夫ョ、こういう風になる人が時々いて、そのための床だから、その代わりそのまま寝ていて、もう一回だから」
そう言うや、床を洗い始めました。床はタイルです。おまけに排水用の溝もあります。丁度、診察室にはビニール張りの診察台が部屋の中央にあり、排便した側にその溝があります。大きな施設のお便所やお風呂と同じ作りです。そう言えば、玄関でズックを脱いでスリッパでしたが、灌腸室と書かれたこの部屋に入るときは、靴下を脱いで素足で下駄の様な物に履き替えました。水で濡れることを考えての履き替えだったのでしょうか。若い看護婦も応援に来て手分けして対応しています。待った時間もものの数分でしょうか、10分もかかっていなかったかと思います。床の清掃も終わり、次の滋養浣腸の準備も整ったようです。でももう一回されても我慢できない、出来る自信もありません。そのことを言おうとしたら、
「こうなることもあるのよ。だけど、2回目はダメよ。ごめんなさいね。着ているのも全部脱いじゃおうか」
謝るのは私であって、何の意味があって看護婦さんがごめんなさいと言っているのか分からず、
「はい、バンザイして。上の下着も脱いじゃおうね」
と言われて、バンザイをして首から下着を脱がされています。もう何も着ているものは無く、11歳ながらまだ自分でも幼く丸っこいぽっちゃりな幼児体型が恥ずかしくお股を隠そうとしたら、
「ごめんなさいね、まだバンザイしいて」
と言われたので慌ててバンザイしていたら、診察台に寝た頭の後ろから若手の看護婦さんに抑えられて縛られてしまいました。
「ごめんね、ちょっとお縛りするけどいいかしら」
ごめんなさいは、こういう意味だったのですね。
「うちに病院には小さい子の多いのョ。小さい子がその時、浣腸すると暴れるので、こうしてお縛りもするのよ」
それはそうかもしれませんが、私は身体は小さくても、幼児ではありません。来年の春には小学校も卒業する身で今更、抑止とは言えお縛りなんて。
「私、暴れたりしませんので…」
言ったところで解いてくれそうもない事は、直感的に分かっていますが、
「それに、それに…」
「それに?なに?」
「お、お浣腸をされても、今度はちゃんとがまんします。それに来年はもう中学生です。もう小さい子じゃありません」
「まだ半年も先じゃない、それにまだ中学生なんて子供ョ。でもね、普通のお浣腸はお便を付けるものだから、掛けたら、排泄できるの。でも滋養浣腸は排泄できないのよ。さっきみたいに出したら駄目よ。だからこれからするのに栓をするのョ、ちょっと大変だから念のためお縛りもしましょうね。お薬も高いんだから」
さっきみたいに出しませんから、とは言いたいのですが約束ができません。
「そうでしょう。だから、これからこれもしますから」
年配の看護婦がグロテスクな先が蛇腹状になった管を見せて言いました。手を結わかれたままで、今度は若い看護婦は足をグイっと持って横に捻ります。上半身捻られた状態で、足を抑えられています。その拍子にお尻に何か塗られました。同時にぐにゅーっと何か柔らかなそれでいて肛門よりはるかに大きなものが入ってきます。さっきの蛇腹を腸内に送り込んでいるのです。ぐぐっぐと肛門が広がるのが分かります。怖くなって、
「あっ、あっ、や、やめて」
そんな言葉が出るくらい初めての体験です。
「入ったわよ。これから膨らませるわね。どう?」
お尻の中が、何かで広がるのが分かります。
「ほうら、こうしても抜けないでしょう、これでよし」
肛門部から天然ゴムの管が出ていて、看護婦さんがそれを引っ張ります。
「もう一度、滋養浣腸するけど、今度は出してはダメよ。と言っても出そうと思っても出せないから、ちょっと辛いけど頑張ろうね」
横向きの態勢を仰向けにされて、足首もお紐でお縛りされてしまいました。瓶から伸びるゴム管が接続され、調整用の鉗子も開けられます。肛門に繋がったゴム管は閉じた両足の間を通って、足側に点滴台を用意したので、ガラスの調整窓に雫が落ちるのが目に入ります。
前回同様ゆっくりした注入ですので、時間にして20分位でしょうか、あと少しと言う処になって前回同様、便意が高まってきました。最後の1滴が終わった時には、もうどうしようもないくらいに便意があります。
「す、すいません」
近くにいる年配の看護婦さんに、無駄と分っていても聞きます。
「どうしたの?」
「出したの」
そう私が言った時に、最後の一滴が注がれ、看護婦さんに無言で肛門部に近い管に金属製の鉗子を挟まれてしまいました。これで、この管を通しての薬剤の通過は内にも外にも流れ出ないことになります。
「出したい?ああ、便ね。もう便は無いと思うので液だけだと思うけど、出来ないと思うけど、良いわよ」
出しても良いと言われると思っていなかったので、
「お縛り…」
排便するのに縛られたままでは自由にできません。もうお浣腸も終わったので、取ってくださいとお願いしようとしましたが、
「それは取れないわ。そのままでかまいませんよ。でも我慢はしてね」
「もう我慢できません…お、おか、お浣腸、もう済んだので取ってください」
「まだよ。これからが肝心なの、だから取りませんよ」
そう看護婦さんが告げます。ならばと、このまま出すしかないと思い、勢いよく息みますが…出ません。
「出ません…出せません」
出したいのに出ない、身体を結わかれているので、何もできません。これはされたものでないと分かりませんが、もうパニックになります。
「出ないでしょ?さっきお尻にいれたでしょ?空気を入れると膨らむ栓をしたのよ。だから出ないのョ」
その間も体を揺すりますが、どうにもできません。自分の意思があるのに排便ができないと言う事程、気がおかしくなることはありません。
「だめよ、腸が栄養を吸収するまで。それにその便意はお便によるものではなく、腹圧によるものよ。あと10分か15分もしたら収まるわよ。それまで我慢よ」
普通のお便を付けるお浣腸は、便意もずっとあると言うわけではないのです。波があるのですが、その波が強かったり弱かったりです。でも滋養のお薬は排泄用の薬に比べて強さは弱いのですが、波はずっと押し寄せる感じでいっこうに引いてくれません。なのでずっと便意が起こっていてそれで我慢できなくって、何とか出したい気持ちでお縛りされている体を無駄だと分かっていても捩ってみますが、なんともならず自然に涙が出てきます。それくらい厳しいお浣腸です。ただそれも看護婦さんに言われた通り徐々に弱まって、10分経過か15分経過か時間は分かりませんが、最後はほとんど便意を感じなくなってきました。
「さあ、もういいわよ」
お縛りを解いてもらって、上体を起こしてもらいました。
待合室で待っていた母や叔母も、私の叫び声にも似た声が夜の病院内にこだましていたでしょうから、気が気ではなかったと思います。今は、診察室に招き入れられて、叔母に私の下履きを重ねて履かせてもらい、下着、服を着させてくれるのを手伝ってもらいながら、母は処置の内容や今後の事を聞いています。
「栄養分を直腸から取らせましたので、もう大丈夫でしょう。脈も熱も問題なくなってきているので、あとはお家に帰っておやすみなさいね。明日は、念のため、学校は朝様子見てね。できたらお休みした方がいいかな。大きくなったと言え、身体弱いんだから、用心ョ。お薬も出しておくから、ハイお大事に」
「先生、ありがとうございました」
と、母や叔母が頭を下げてお礼を言っています。そんな昔の病院の昔の話でした。




