悪役令嬢に転生しましたが、断罪される前に第一王子との婚約を破棄し、ついでに私を陥れた連中へざまあいたします
断頭台の夢を見た。
冷たい石畳、ざわめく群衆、空は青く澄んでいて、だからこそ刃の銀色がいやにきれいだった。
私は白い処刑衣を着せられ、両手を後ろで縛られたまま、無数の目に見下ろされていた。
その中で、最も冷たい視線を向けていたのは――婚約者である第一王子、ルシアン・エーヴェルハルトだった。
『アーデルハイト・フォン・ローゼンベルク。貴様はその傲慢と悪意をもって王国の秩序を乱し、聖女を害そうとした』
玉座の間で聞いたはずの断罪の言葉が、処刑台の上でもこだましていた。
『よって、婚約を破棄し、そのすべての爵位と財産を没収する』
違う。
私は何もしていない。
そう叫びたかったのに、喉はひどく乾いていて、形にならない。
やがて刃が落ち、世界は赤く染まった。
――そこで私は目を覚ました。
「お嬢様、お加減が悪うございますか?」
天蓋つきのベッド。琥珀色の光を通すレースのカーテン。刺繍の施された寝衣。
そして、心配そうに覗き込む侍女の顔。
私は、まばたきを繰り返した。
「……リゼ?」
「はい。お水をお持ちいたします」
かなり年若い侍女は、記憶の中と寸分違わぬ声で返事をした。
その瞬間、血の気が引いた。
ここは、乙女ゲーム『銀薔薇の誓約』の世界だ。
私はその悪役令嬢――**アーデルハイト・フォン・ローゼンベルク**に転生している。
前世の私は、平凡な会社員だった。残業帰りの交差点でトラックに撥ねられ――それ以降の記憶は曖昧だ。けれど、今ここに確かなのは、アーデルハイトとしての豪奢な寝室と、彼女が辿る末路だった。
アーデルハイトは侯爵令嬢。美しく、有能で、誇り高い。
けれど同時に気位が高く、婚約者の第一王子ルシアンを深く愛するあまり、彼が心惹かれる平民出身の少女――“聖女”ミレイユを執拗にいじめ抜く。
その結果、卒業記念舞踏会で全ての罪を暴かれ、婚約破棄。
ルートによっては修道院送り、国外追放、そして最悪の場合、処刑。
いわゆる定番の「悪役令嬢」だ。
そして私は、その処刑エンドの夢を、あまりにも鮮明に見てしまった。
「今は……何年?」
震える声で問うと、リゼは不思議そうに首をかしげた。
「王暦三八二年でございます。王立学園ご入学の、ひと月前かと」
間に合う。
ゲーム開始前。
まだ断罪イベントのはるか手前。
つまり――運命は変えられる。
私は毛布を握りしめ、深く息を吸った。
やるべきことはひとつ。
**ルシアン殿下から婚約を破棄される前に、こちらから婚約を破棄する。**
しかもただ逃げるのではなく、
ローゼンベルク侯爵家を守り、処刑フラグをへし折り、できればあの王子に一泡吹かせて。
私は鏡台の前に立った。
鏡の向こうのアーデルハイトは、絵画のように美しい少女だった。白金の髪、翡翠の瞳。可憐なのに、目元には棘のような気高さが宿る。
なるほど。これなら“悪徳令嬢”と恐れられるのも分かる。
私は鏡の中の自分に向かって、静かに宣言した。
「今世の私は、誰にも断罪されないわ。婚約破棄は――私の意志で行う」
そうして、悪役令嬢アーデルハイトの反撃が始まった。
ローゼンベルク侯爵家は、王国でも指折りの名門だった。
北方の広大な領地を治め、鉄鉱と葡萄酒で莫大な富を築いている。王家との結びつきも強く、アーデルハイトが幼い頃に第一王子ルシアンとの婚約が結ばれたのも、半ば政略として当然の流れだった。
ただし、ゲームの中ではその“当然”が崩れる。
王子が平民出身の聖女に恋をし、アーデルハイトが嫉妬で暴走するからだ。
現実に置き換えてみれば、だいぶ腹立たしい話である。
政略で婚約を結んでおいて、都合が悪くなったら「真実の愛」に逃げる。しかも婚約者に罪を着せて排除するのだから、勝手もいいところだ。
「お父様、お話があります」
朝食の席で、私は父――クラウス・フォン・ローゼンベルク侯爵に切り出した。
厳格で寡黙な人だが、娘には案外甘い。もっともゲームでは、アーデルハイトの行いを止めきれず、最後には家ごと転落するのだけれど。
侯爵は新聞から目を上げた。
「珍しいな。お前から政治の話でもする顔だ」
「婚約の件です」
銀のナイフが、皿の上で止まった。
母のソフィア夫人は目を丸くし、兄のフェルディナンドは面白そうに口端を上げた。
いかにも目ざとい家族だ。
「……アーデル」
「申し上げます。今のままでは、わたくしと殿下の婚約は、いずれ家に災いをもたらします」
食堂の空気が張り詰める。
けれど私は、ひるまなかった。
「理由は三つ。第一に、殿下が近頃、財務卿ガスパール公爵家と過度に接近していること。第二に、王妃殿下の派閥と距離を取り始めたこと。第三に、殿下ご自身が婚約を“義務”としてしか見ていないことです」
お父様の目が細くなった。
完全に試す目だ。
「それらが何を意味する?」
「殿下は、既存の勢力図を崩そうとしておいでです。ですが、その手段が拙い。政略的な婚約を維持するだけの覚悟もなく、王太子教育に必要な均衡を軽んじておいでになる。いずれ婚約者であるわたくしか、支える侯爵家のどちらかを切り捨てるでしょう」
この辺りは、ゲーム知識もあるが、ここ数日の観察と記憶から組み立てた推測でもあった。
ルシアンは聡明だ。けれど、プライドが高く、理想に酔いやすい。自分なら古い秩序を正しく壊せると信じている節がある。
そういう人間は、往々にして、自分の足場を見誤る。
兄のフェルディナンドが、くつくつと笑った。
「へえ。恋するお嬢様が、ずいぶん冷静なことを言う」
「恋などしておりませんわ」
「そうか?」
「少なくとも、家を滅ぼすほどには」
沈黙のあと、父は低く息を吐いた。
「……誰に吹き込まれた」
「誰にも。わたくし自身の考えです」
本当は、前世の知識とゲームの記憶に吹き込まれたようなものだけれど、それは言えない。
侯爵はしばらく私を見つめ、やがて言った。
「婚約の解消は、そう簡単ではない。王家の面目に関わる」
「ええ。ですから、**向こうから切られる前に、こちらが“正当”に外す必要があります**」
私がそう言うと、兄が吹き出し、母が「まあ」と扇を口元に当てた。
「アーデル、お前、怖いな」
「褒め言葉と受け取っておきますわ」
この日から、私は二つの仮面を使い分けることにした。
ひとつは、社交界で噂される通りの“傲慢な令嬢”の仮面。
ルシアンが油断するように。周囲が私を感情的で短絡的な女だと見誤るように。
もうひとつは、家の中だけで見せる、冷静な計算者の顔。
資料室にこもり、王家と侯爵家の契約書を読み漁り、婚約に関する法や慣習を確認し、財務記録や領地経営の数字も一から学び直した。
ゲームでは、アーデルハイトは感情で動いて自滅した。
ならば私は、感情を一番最後に回す。
真っ先に手を打つべきは、未来の“ヒロイン”――聖女ミレイユとの接触だった。
ゲームでは、彼女への嫌がらせが破滅の決定打になる。
だったら最初から、敵にしなければいい。
……いや、それだけでは足りない。
**彼女を味方につける。**
それができれば、ルシアンが「聖女を守るために悪役令嬢を断罪する」という大義名分は失われる。
「リゼ、学園入学の準備を急ぎなさい」
「はい、お嬢様」
「あと、私の噂について、止めなくていいわ」
「えっ?」
「高慢で、意地悪で、恐ろしい令嬢。結構よ。その方が動きやすい」
侍女はぽかんとしていたが、私は口元だけで笑った。
人は、怪物を見たがる。
ならば見せてあげる。
ただし、その牙が誰に向くかは――私が決める。
王立学園の入学式の日。
講堂は眩い制服と宝石で埋め尽くされ、貴族の子弟たちはそれぞれの派閥ごとにさざめいていた。
そして私は、柱の陰に立つひとりの少女を見つけた。
淡い栗色の髪に、澄んだ灰青色の瞳。平民出身の特待生であり、神殿から「聖女の素質あり」と認められた少女――**ミレイユ・アスター**。
ゲームでは、彼女がルシアンと出会い、恋に落ちるところから物語が始まる。
私は彼女に近づいた。
周囲の空気がざわつく。悪役令嬢が、ついに獲物を見つけた――そんな期待が見え透いていた。
「あなたがミレイユ・アスターさんね」
彼女は一瞬だけ身を固くした。だが、すぐにこちらをまっすぐ見返した。
「はい。アーデルハイト様……で、いらっしゃいますね」
怯えてはいる。けれど、折れてはいない。
芯のある子だ。
「少し、よろしいかしら」
講堂の外、人目の少ない回廊まで歩くあいだ、彼女の緊張は手に取るように伝わってきた。
当然だろう。ゲーム知識がなくても、私はいかにも“いじめてきそうな権力者”だ。
回廊に着くと、私は立ち止まり、彼女に向き直った。
「単刀直入に言うわ。あなたを害するつもりはありません」
「……はい?」
「むしろ逆。可能であれば、協力関係を築きたいと思っています」
ミレイユは瞬きをした。
予想していた台詞と違いすぎて、頭が追いついていないらしい。
「なぜ、わたしと?」
「いずれあなたは、望むと望まざるとにかかわらず、王太子殿下周辺の争いに巻き込まれるからよ」
彼女の瞳が揺れた。
それは、ただの一般論への反応ではなかった。
私は、あえて核心に触れる。
「……あなたも、何かを知っているのでしょう?」
沈黙。
回廊を渡る春風が、白いカーテンを揺らした。
やがてミレイユは小さく息を吐き、苦笑した。
「ずるいです、アーデルハイト様」
「何がかしら」
「そんな言い方をされたら、否定しにくいじゃありませんか」
私は目を細めた。
やはり。
「前世の記憶があるのね」
「……はい」
彼女は観念したように頷いた。
やっぱりそうだ。
ヒロインも転生者。しかも、ゲームの記憶を持っている。
「わたし、前世ではこのゲームのプレイヤーでした。だから、あなたが……その……悪役令嬢だってことも知ってます」
「ええ」
「でも、入学前から様子がおかしいと思ってたんです。噂はひどいのに、実際には誰も怪我してないし、嫌がらせも始まらないし。わたしの寮の設備、匿名で改善されてましたよね?」
私は少しだけ視線を逸らした。
平民出身の特待生が使う女子寮は、ゲームでもかなり劣悪だった。冬は寒く、食事も粗末。聖女の力に目をつけた神殿と、体面だけを気にする学園が責任を押し付け合って放置していたのだ。
だから私は、匿名の寄付という形で暖炉と寝具と給仕体制を整えさせた。
未来の味方づくり、という打算がなかったわけではない。だがそれ以前に、見過ごせなかった。
ミレイユは、じっと私を見た。
「どうして、そこまで?」
私は少し考えてから言った。
「生き残りたいからよ」
それは、嘘ではない。
「処刑なんてまっぴらだもの」
すると彼女は、くすりと笑った。
その笑顔は、ゲームの“清楚で正しくて愛されるヒロイン”という印象より、ずっと人間らしかった。
「そういうところ、好きです」
「軽率に人を好きと言わないでちょうだい。誤解を招くわ」
「じゃあ、信頼できそう、にします」
「それなら構わない」
私は一歩近づいて、声を潜めた。
「ミレイユ。あなたはルシアン殿下に近づきすぎないで。少なくとも、誰もいない場所で二人きりになるのは避けなさい」
彼女は眉を寄せた。
「……イベント、ですか?」
「ええ。向こうはおそらく、あなたを“象徴”として利用する。平民の希望、聖女、古い貴族政治を壊す旗印。実際に恋情があるかは別として、政治の駒にされる危険が高い」
「ひどい話ですね」
「王族の恋愛は、たいていそういうものよ」
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
見れば、取り巻きを連れたルシアンがこちらへ歩いてくる。
端整な金髪に青い瞳。誰もが見惚れる王子然とした美貌。
――けれど私は、その顔の下にある慢心を知っている。
「アーデル。何をしている」
「新入生への親切な声かけですわ、殿下」
「ふん。君が?」
ルシアンは露骨に嘲った。
傍らのミレイユに視線を向けると、その表情だけがわずかに柔らかくなる。
ああ、本当に分かりやすい。
「君がミレイユ・アスターか。話は聞いている。困ったことがあれば、私に言うといい」
ミレイユは礼儀正しく頭を下げた。
だが、私の横顔を一瞬だけ見て、小さく心の準備をしたのが分かった。
賢い子だ。
「それは光栄です、殿下」
「アーデルに何かされたのなら、遠慮はいらない」
私はにこやかに笑った。
「殿下、まるでわたくしが問題児みたいにおっしゃるのですね」
「違うのか?」
「少なくとも、この方に何かをした覚えはございませんわ」
ルシアンはほんの少し眉をひそめた。
彼の想定では、私はミレイユに棘のある言葉のひとつでも浴びせているはずだったのだろう。
残念。
私はもう、あなたの筋書き通りには踊らない。
その日から学園では、妙な噂が流れ始めた。
**“悪徳令嬢アーデルハイトが、なぜか聖女候補に手を出さない”**
その違和感こそが、私の第一手だった。
学園生活は、思った以上に面倒だった。
貴族社会の縮図である王立学園では、昼食を誰と取るか、どのサロンに出入りするか、ダンスの相手を誰に頼むか、そのひとつひとつが政治的意味を持つ。
ルシアンの周囲には当然ながら人が集まり、私の周囲には「未来の王妃候補」として媚びる者と、「悪徳令嬢」の失脚を望む者が群がった。
私はその中で、意図的に\*\*“敵を増やしすぎない悪役”\*\*を演じた。
軽い皮肉は言う。高慢な態度も崩さない。だが決定的な暴言や暴力は避ける。噂だけが先行し、実害の証拠は残らない。
すると面白いことに、人は勝手に物語を補完してくれる。
「アーデルハイト様って怖い」
「でも、実際に何をされたの?」
「……え、別に何も」
「いやでも、雰囲気が」
雰囲気で悪女認定されるのは、やや理不尽だ。
もっとも、その“理不尽な先入観”は、いずれ逆に使わせてもらう。
一方でルシアンは、ミレイユを随分と目にかけていた。
図書館で声をかけ、魔術実技で助言し、時に取り巻きを遠ざけてまで彼女と話していた。
だが、ミレイユは以前とは違う。
彼に必要以上に心を開かず、常に距離を測っている。二人きりを避け、何か頼まれても必ず他の生徒か教師の目がある場を選ぶ。おかげで「密会」「誘惑」といった下世話な噂はほぼ立たなかった。
その変化は、ルシアンを苛立たせているようだった。
「君が妙なことを吹き込んだのか」
ある日、中庭で呼び止められた私は、開口一番そう言われた。
「何のことかしら」
「ミレイユの態度だ。以前より私を警戒している」
「気のせいでは?」
「とぼけるな、アーデル」
彼は私の腕を掴んだ。痛いほどではないが、無遠慮な力だった。
見れば、周囲には人払いがなされている。おそらく近衛見習いたちが気を利かせたのだろう。
私はゆっくりと、その手を見下ろした。
「離してくださいませ、殿下」
「答えろ」
「お断りします」
すると彼の眸が冷えた。
この人は、誰かに拒まれることに慣れていない。
「君は最近、おかしい」
「それは光栄です。退屈しなくて済みますもの」
「私を愚弄するつもりか」
「まさか。婚約者として忠告して差し上げているのですわ。周囲の評判にもう少し気を配るべきだ、と」
「……何?」
私は小さく微笑んだ。
「特待生の少女に王太子が過剰に入れ込んで見えるのは、あまりよろしくありませんでしょう? しかも婚約者がいる身で」
ルシアンの表情が強張る。
図星だ。
「私は彼女を才ある者として評価しているだけだ」
「ええ、そういうことにしておきましょう」
「アーデル!」
彼が声を荒らげた瞬間、私は彼の手首を軽く振りほどいた。
前世ではごく普通のOLだったが、この体は意外に剣術と護身の基礎が入っている。侯爵令嬢教育、侮れない。
「婚約者に疑われるような行動は慎むべきです、殿下」
「お前がそれを言うのか」
「少なくとも、わたくしは学園中の目の前で誰かを特別扱いしたりはしておりませんわ」
実際、私は誰にもそんな隙を見せていない。
それもまた、武器になる。
ルシアンは私を睨みつけたあと、低く言った。
「……最近のお前は、まるで別人だ」
胸が少しだけ跳ねた。
けれど私は、優雅に一礼してみせる。
「失礼いたします、殿下。これ以上の長話は、よろしくないでしょう?」
私はその場を去った。
背後から追ってくる足音はなかった。
回廊を曲がった先で、木陰からひょいと顔を出したのはミレイユだった。
「大丈夫でした?」
「見ていたの?」
「ちょっとだけ。というか、かなり」
「趣味が悪いわね」
「アーデルハイト様ほどではないです」
この子、割と遠慮がなくなってきた。
だがそれが、妙に心地いい。
私は木陰のベンチに腰を下ろした。
ミレイユも隣に座る。
「殿下、思ったより性急ですね」
「ええ。たぶん、あなたを通じて民意を味方につけたいのよ。平民出身の聖女と心を通わせる王子、という絵は強いから」
「でも、恋愛感情も……少しはありますよね」
私は肩をすくめた。
「あるでしょうね。自分の理想を映してくれる相手に、人は簡単に恋をするもの」
「理想、ですか」
「手を差し伸べる自分、古い制度に囚われない自分、善良で高潔な自分。そういう像に」
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「アーデルハイト様って、ときどきすごく冷たいです」
「褒め言葉かしら」
「いいえ。でも、その冷たさに助けられてる人もいます」
私は彼女を見た。
灰青色の瞳は、まっすぐだった。
「……あなた、前世では何をしていたの」
「看護師です」
なるほど、と私は頷いた。
人の痛みを見る目だ。
「アーデルハイト様は?」
「会社員」
「じゃあ、社畜仲間ですね」
「その言い方はやめなさい」
二人で笑った。
そのとき私は初めて、この世界で孤独ではないのかもしれないと思った。
けれど同時に、状況はゆっくり悪化し始めていた。
ルシアンの背後にいるガスパール公爵派が、水面下で動き出したのだ。
彼らの目的は明白だった。
王妃派と結びついたローゼンベルク侯爵家を削ぎ、ルシアンを自分たちの傀儡として立てること。
そのために最も都合がいいのは、
**“傲慢な婚約者が聖女をいじめる”** という分かりやすい劇だ。
ならば私は、その舞台装置ごと壊すしかない。
最初の罠は、あまりにも古典的だった。
ミレイユのロッカーから、王家に関する禁書の写本が見つかったのである。
しかも「アーデルハイト様に渡された」と証言する下級貴族の令嬢までついてきた。
ゲームでも似たイベントがあった。
悪役令嬢がヒロインに禁書を持たせ、国家反逆の疑いを着せるシーン。ここで庇うのが攻略対象――という流れだ。
問題は、現実では冤罪をかけられた側があっさり潰されうることだ。
昼休み、教師たちに呼び出された私は、資料室に赴いた。
そこには泣きそうな顔のミレイユ、勝ち誇ったような証言者の令嬢、そして偶然を装って立ち会うルシアンがいた。
「アーデルハイト・フォン・ローゼンベルク。君はミレイユ・アスターに禁書を渡したか」
老教師が厳しく問いかける。
私は一瞥で室内を見回した。
証拠品の封蝋、鍵の管理記録、出入りした使用人の顔ぶれ。
――雑だ。
「いいえ」
「だが証言がある」
「証言だけで有罪ですの? 学園の規則はずいぶん軽くなったのですね」
教師が眉をひそめる。
私は続けた。
「そもそも、その写本は禁書庫から持ち出されたものではなく、去年の図書整理で廃棄予定となった一般閲覧用写本の一部ですわ。表紙だけ差し替えて“禁書らしく”見せている」
その場の空気が止まった。
証言者の令嬢が顔色を変える。
「な、何を――」
「さらに言えば、その封蝋。王立学園の備品ではなく、ガスパール公爵家が後援する文具商会の特注品です。わたくしの家では使いません」
ルシアンの目が細くなった。
教師は慌てて封蝋を確認する。
私は畳みかけた。
「ミレイユさんのロッカーの鍵は、昨夜、寮監室に保管されていたはず。ですが寮監補佐の記録には、深夜に一度だけ鍵束が持ち出されています。返却署名は代筆。筆圧が違う」
「な……」
「犯人捜しは先生方のお仕事ですわ。ですが、少なくとも、わたくしとミレイユさんを結びつけるには穴が多すぎます」
教師たちは顔を見合わせた。
ルシアンは無言のまま、私を見ている。
私はそこで、あえて最後の一手を打った。
「それとも――**わたくしが犯人であることにしなければ困る方でも、いらっしゃるのですか?**」
言外の挑発は、十分届いたはずだった。
その日のうちに、偽装工作に関わった下級令嬢と寮監補佐は処分された。
黒幕の名は出ない。もちろんだ。こんな小さな失敗でガスパール公爵派まで辿るのは無理がある。
けれど、十分だった。
**“悪徳令嬢アーデルハイトに、実は簡単な罠は通用しない”**
その認識が広まったからだ。
放課後、温室でミレイユと合流すると、彼女は開口一番で言った。
「かっこよすぎません?」
「やめてちょうだい。照れるわ」
「わたし本気で、半分くらい惚れました」
「残り半分は?」
「怖いので保留」
私は吹き出した。
温室には薔薇が咲き誇り、甘い香りが漂っている。
ガラス越しの西日が、ミレイユの髪を淡く染めていた。
「でも、これで向こうも引き下がらないでしょうね」
「ええ。むしろ次は本命が来る」
「本命」
「金か、書類か、人命か」
ミレイユが顔を引きつらせる。
私は静かに続けた。
「ガスパール公爵派は王国の救貧資金や北方の軍需にまで食い込んでいる。もしルシアン殿下が本格的に彼らと組む気なら、婚約解消だけでは済まない。ローゼンベルク家を失脚させ、邪魔な王妃派を一掃しようとするはず」
「つまり……」
「いずれ、私個人ではなく家を狙ってくる」
ミレイユは唇を噛んだ。
「それ、止められるんですか」
「止めるわ。そのためにここにいるのだもの」
私は温室のテーブルに広げた帳簿の写しを指で叩いた。
これは兄フェルディナンドを通じて取り寄せた、北方の鉱山税と軍需輸送費の推移だ。数値に不自然な欠損がある。帳尻が合わない。
「お金が消えてる」
「ええ。しかも、複数年にわたって」
「横領……?」
「たぶん。あるいは架空の輸送契約。どちらにせよ、誰かが国を食い物にしている」
そして、その痕跡はルシアンが新たに近づいている派閥へ繋がっていた。
私は決意を固めた。
婚約破棄をただの恋愛沙汰で終わらせない。
これは、王子の気まぐれな“真実の愛”を叩き潰すだけの話ではない。
**王子が私を切り札に使う前に、私が王子の足場を崩す。**
悪評は、盾になる。
皆が私を“感情で動く悪女”だと思っているからこそ、誰も水面下の計算に気づかない。
そうして私は、社交界でも動き始めた。
慈善舞踏会、夜会、茶会、領主会議の同席。
そこで私はわざと傲慢に振る舞いながら、同時に必要な人間へ耳打ちをしていく。
「北方の会計、気をつけた方がいいですわ」
「ガスパール家の商会、最近ずいぶん羽振りがよろしいのね」
「王太子殿下のご判断、軽率に利用する者がいなければよいのですが」
棘のある令嬢の噂話に聞こえる程度の、ぎりぎりの線。
だが、それで十分だった。
貴族は疑念を好む。
一度火種が落ちれば、勝手に広がる。
そしてある夜、兄フェルディナンドが執務室にやって来て、机に一冊の帳簿を投げた。
「釣れたぞ、アーデル」
私はページをめくり、息を止めた。
そこにあったのは、王都の救貧院へ届けられるはずだった寄付金の一部が、何年にもわたり架空商会を通じて抜かれていた証拠だった。
名義の先には、ガスパール公爵家家令の署名。
そして、その監査承認欄には――ルシアン付き会計官の印。
舞台は整い始めていた。
婚約破棄の日は、そう遠くない。
その頃、王宮では別の火種が燻っていた。
王妃エレノアは聡明で温厚な人だが、病弱で公の場に出ることが少ない。
そのため近年は、財務卿ガスパール公爵や、その娘婿筋にあたる宰相補佐たちが発言力を増していた。
ルシアンは本来、王妃派の筆頭であるローゼンベルク家と結びついて王太子の座を固めるはずだった。
けれど彼は、逆にそれを「古いしがらみ」と見て、外そうとしている。
問題は、その結果、彼が“改革派”ではなく“食い物にしたい大人たち”に担がれていることだ。
王宮に呼ばれたある日、私は王妃の私的サロンに招かれた。
白い椿が飾られた静かな部屋で、王妃は柔らかく微笑んだ。
「アーデルハイト、あなたと二人で話したかったの」
「お目にかかれて光栄です、王妃殿下」
彼女は私に座るよう勧めると、しばらく黙って私を見つめた。
その目には、母親の不安と、政治家の慎重さが同居している。
「ルシアンと、うまくいっていないのですね」
私は少しだけ目を伏せた。
「……率直に申し上げるなら」
「ええ。ここでは飾らなくていいわ」
「殿下は、わたくしとの婚約を重荷とお考えです」
王妃の指先が、カップの取っ手でわずかに止まる。
「ですがそれ以上に、殿下は周囲の意図を見誤っておいでです。改革を志しているつもりで、利に飢えた者たちに利用されつつある」
王妃は長く息を吐いた。
「あなたは……本当に変わったのね」
「おかしなことを申しておりますか?」
「いいえ。むしろ、とても頼もしいわ」
その言葉は、少し胸に刺さった。
前世でも今世でも、私は“頼られること”に弱い。
王妃は静かに言った。
「ルシアンは優しい子でした。幼い頃は、庭で怪我をした鳥を抱いて泣くような」
「だからこそ、でしょう」
「え?」
「優しい人ほど、王宮では“自分は正しい”と思い込みやすい。誰かを救おうとした行為そのものが、免罪符になるから」
自分で言っていて、少し残酷だと思った。
けれど、王妃は否定しなかった。
「……あの子を、助けられると思いますか」
その問いに、私は少しだけ迷った。
助ける。
それは、未来を変えることと同じではない。
時には、一度転ばせる方がその人のためになることもある。
「殿下がご自分で間違いを認められるなら」
「そうでなければ?」
私は王妃をまっすぐ見た。
「わたくしは、婚約者としてではなく、王国の一貴族として対処いたします」
王妃はしばらく沈黙したのち、小さく笑った。
「本当に、頼もしいわ。……少し怖いくらいに」
「今さらですわ。わたくし、悪徳令嬢ですもの」
王妃は声を立てて笑った。
その笑い方は、ずっと年若く見えた。
サロンを辞した後、廊下の角で待っていたのは兄フェルディナンドだった。
「どうだった?」
「王妃殿下は、もう気づいていらっしゃる。あとは証拠次第ね」
兄は私と並んで歩きながら、肩をすくめた。
「しかし、お前が王妃派の大駒になるとはな。昔はルシアン殿下の似顔絵ばかり描いてたくせに」
「黒歴史を掘り返さないで」
「いや、あれは傑作だった。目だけ十枚分くらい練習してた」
「兄上」
「はいはい」
兄は笑ってから、不意に真面目な顔になった。
「アーデル。お前、本当に大丈夫か」
「何が?」
「これは“婚約破棄を有利に進める”程度の話じゃない。下手をすれば王家の継承問題に波及する」
「分かってるわ」
「なら、なおさらだ。お前が矢面に立ちすぎるな」
私は歩みを止めた。
磨き込まれた窓に、自分の姿が映る。
アーデルハイト・フォン・ローゼンベルク。
気高く、美しく、悪女と噂される少女。
「兄上」
「ん?」
「もし私が、誰かに嫌われることで家を守れるなら、それでも構わないと思ってる」
兄は少しだけ目を見開いた。
「前のお前なら、そんな言い方はしなかったな」
「前の私は、少し子どもでしたの」
「今は?」
私は窓に映る自分へ微笑む。
「悪女よ」
兄は呆れたように笑ったが、その目には心配が残っていた。
その心配は、すぐに現実のものとなる。
数日後、王都南区の救貧院で火災が起きた。
死者は出なかったが、支援物資の倉庫が焼け、帳簿の一部も失われた。
私は報告を受けた瞬間、確信した。
**証拠隠滅だ。**
そしてその夜、ミレイユが青い顔で私の部屋へ飛び込んできた。
「アーデルハイト様、大変です!」
「何があったの」
「神殿に呼び出されました。明日、“聖女認定の儀”を前倒しするって」
私は立ち上がった。
ゲームでは、その儀式を境にミレイユの立場が一気に強くなり、ルシアンが彼女を公然と庇い始める。
もし今それが行われれば、彼らは“神殿お墨付きの聖女”を旗印にできる。
「急ぎすぎね。何を狙っているのかしら」
「わたし、怖いです」
ミレイユの声は小さく震えていた。
私は彼女の両肩を掴んだ。
「聞いて。明日の儀式には出る。でも、一人で祈りの間に入らないこと。必ず複数の証人をつける。何を言われても、書類にはすぐ署名しない」
「はい」
「それと――もし異変があったら、迷わず私の名を出して」
ミレイユは目を瞬かせた。
「“悪徳令嬢アーデルハイトが知っている”って?」
「ええ。たぶん、その方が相手は嫌がるわ」
彼女は緊張の中でも、かすかに笑った。
「……本当に、悪役みたいですね」
「今さら?」
でもその夜、私の心は妙にざわついていた。
何かが早すぎる。相手が焦っている。
追い詰められた者は、予定外の手を打つ。
そして――その手はたいてい、最も卑劣だ。
神殿は朝から異様な熱気に包まれていた。
本来なら半年後のはずの聖女認定の儀。
それが突然前倒しされ、学園からも王宮からも見物人が集められている。あまりに見世物じみていた。
白い大理石の回廊を進みながら、私は周囲を観察した。
神官長、若い司祭たち、貴族の夫人たち、ルシアン、そしてガスパール公爵派の面々。役者は揃っている。
「嫌な感じですね」
隣でミレイユが囁く。
今日は簡素な白い儀礼服を着ているが、その顔色はやはり固い。
「ええ。でも、怖がっていることを見せすぎないで」
「無茶言います」
「大丈夫。あなたは強いわ」
私がそう言うと、ミレイユは一瞬だけ目をまるくして、それから小さく頷いた。
儀式は大聖堂の中央祭壇で始まった。
神官長が祝詞を唱え、聖灯が灯され、ミレイユが前に進み出る。淡い光が彼女の周囲に集まり、確かに聖属性の魔力反応が生じる。
会場がどよめいた。
本物だ。少なくとも素質は間違いない。
だが私は、その光の揺らぎに違和感を覚えた。
規則的すぎる。自然というより、外から“整えられている”感じがする。
次の瞬間、神官長が高らかに告げた。
「ミレイユ・アスター。汝は聖女として選ばれし――」
その言葉を遮るように、別の光が走った。
紫に近い白。
祭壇の真上で一瞬だけ揺らめき、空気が凍る。
神殿にいた一部の者だけが知る“禁呪反応”の色だ。
ざわめきが悲鳴に変わる。
「な、何だ……!?」
「禁呪だと!?」
「聖女ではなく魔女か!」
まるで筋書きが決まっていたかのような騒ぎだった。
私は舌打ちしたくなった。
罠だ。
ミレイユを一度持ち上げ、その後に“穢れた力を持つ危険人物”として囲い込むつもりだ。聖女の名も汚し、都合よく管理できる駒にする。最悪だ。
「ミレイユ、動かないで!」
彼女は祭壇の前で凍りついていた。
神官たちが半円を描くように取り囲み、どこからともなく神殿騎士が現れる。
ルシアンが一歩前に出た。
「落ち着け! 彼女に害意はない!」
守る王子の演出。
だがその声には、本物の驚きも混じっていた。どうやら彼自身は、ここまでの筋書きは知らされていなかったらしい。
私は祭壇に向かって歩き出した。
神官が止めようとする。
「お待ちください、アーデルハイト様!」
「どきなさい」
「ですが――」
「今、彼女に触れるなと言ったの。聞こえなかった?」
私の声に含めた魔力で、若い神官は思わず一歩下がった。
その隙に祭壇の縁まで上がる。
近くで見ると、床石の継ぎ目に新しい銀粉が塗られていた。
術式刻印だ。しかもかなり粗雑な。
私はしゃがみこみ、指先でなぞる。
「やっぱり」
「何が分かった」
ルシアンが緊張した声で問う。
私は振り返り、はっきりと言った。
「これはミレイユさんの魔力じゃありません。祭壇そのものに細工がされています」
「な……!」
「神官長。つまりあなた方は、認定の儀の場に禁呪反応を模した術式を仕込み、彼女に罪を着せようとしたのですね」
場が凍りつく。
神官長は顔色を変えたが、すぐに威厳を装った。
「無礼な! 根拠もなく――」
「ありますわ」
私は立ち上がり、袖から小さな水晶板を取り出した。
昨夜のうちに兄が渡してくれた、魔力波形を記録する簡易装置だ。
「儀式開始前から、祭壇下層に固定魔力が残っていました。起動の瞬間も記録済み。さらに、この銀粉は神殿工房製ではなく、王都南区の錬金術商会製。先月、大量購入したのは神殿会計補佐官――あなたの部下ですね」
神官長の額に汗がにじむ。
周囲が騒然となった。
ガスパール公爵の顔が強張る。おそらく神殿まで抱き込んでいたのだろう。
「アーデル、君――」
「殿下」
私はルシアンを見た。
「今ここで彼女を庇えば、殿下は“聖女に心奪われた婚約者”として都合よく消費されます。庇うなら、感情ではなく、手続きで庇いなさい」
彼は息を呑んだ。
私の言葉が、思った以上に刺さったらしい。
そのとき、ミレイユが震える声で言った。
「わたし、やっていません」
「分かってるわ」
「怖かった……でも、アーデルハイト様が来てくれると思った」
胸が、きゅっとした。
私は彼女の前に立ち、神殿騎士たちを見渡した。
「この件は王家と学園、そして侯爵家立会いのもと再調査といたします。異論があるなら、今ここでローゼンベルク家への敵対と見なします」
その一言で、誰も動けなくなった。
結局、儀式は中止。
神官長は病を理由に“しばらく静養”となり、神殿会計補佐官は拘束された。
だが帰りの馬車で、ルシアンは珍しく黙り込んでいた。
そして王宮門の前で私を呼び止めた。
「アーデル」
「何ですの」
彼はしばらく迷うように視線を泳がせ、やがて絞り出すように言った。
「……今日のこと、礼を言う」
私は軽く目を見開いた。
ルシアンが謝意を示すのは珍しい。
けれど私は、首を横に振った。
「礼には及びません。わたくしはわたくしの利益のために動いただけですわ」
「利益?」
「婚約者が愚かな醜聞に巻き込まれれば、私も迷惑なのです」
彼の顔に、苦いものがよぎる。
たぶん、本心ではないと分かっているのだろう。
「……君は、私が思っていたような人間ではないのかもしれない」
「それは残念。殿下の観察眼を疑います」
私は一礼して馬車に乗った。
窓の外、ルシアンは長く立ち尽くしていた。
だが私は知っている。
人は、一度ぐらついたくらいでは変わらない。
とくに王子のように、周囲から赦され続けてきた人間は。
彼が本当に変わるとすれば、それは――
自分の選択で、大切なものを失ったときだ。
聖女認定騒動の後、学園の空気は目に見えて変わった。
ミレイユを公然と侮る者は減り、逆に神殿やガスパール派への不信がじわじわと広がっていく。
一方で、私に対する評価は妙な方向へねじれた。
「アーデルハイト様って、やっぱり怖い」
「でも、あの場で神殿を黙らせたのよね」
「聖女候補を助けたって本当?」
「理由はどうあれ、結果的には……」
なかには
「悪女だけど有能」
という、褒めているのか貶しているのか分からない噂まであった。
悪くない。
むしろ好都合だ。
そんなある日、私は王宮から正式な招待を受けた。
差出人は国王陛下その人。内容は、第一王子ルシアンとの今後についての私的な面談。
応接間に通されると、国王は思いのほか疲れた顔をしていた。
王冠こそ戴いていないが、鋭い目と圧のある声はやはり王そのものだ。
「座れ、アーデルハイト嬢」
「失礼いたします」
「近頃、よく働いているようだな」
「恐れ入ります」
遠回しな探り合いは無意味だろう。
私は姿勢を正し、先に切り込んだ。
「陛下、率直に申し上げます。わたくしはルシアン殿下との婚約について、再考を願いたく存じます」
国王の片眉が上がった。
「ほう。そなたから言い出すとはな」
「現状のまま婚約を維持しても、王家と侯爵家、双方にとって損失が大きいと判断いたしました」
「理由を述べよ」
私は用意してきた書類を差し出した。
婚約契約書の写し、付帯条項、贈与と領地保障の一覧、そして王家・侯爵家間の政治的均衡に関する簡易整理。
「第一に、婚約は王位継承の安定化を目的として結ばれました。しかし殿下ご自身がそれを軽視し、他派閥との個人的結びつきを優先しておいでです。第二に、近頃の神殿・財務系統の不祥事には、殿下近辺の行政官が複数関与している疑いがある。第三に、これらが続けば、婚約者であるわたくしが“責任を負うべき顔”として消費されます」
国王は黙って話を聞いていた。
その腕組みは頑固だが、思考は止まっていない。
「……つまり、そなたは“切られる側”になる前に、自ら盤を降りたいと」
「違います」
私は静かに言った。
「**盤を降りるのではなく、盤面を正したいのです**」
その一言に、国王の目がわずかに細まる。
「続けよ」
「婚約破棄は、恋愛の清算ではなく政治的手続きとして行うべきです。罪の捏造や感情論を避け、正当な理由と再発防止策を明文化する。そうでなければ、今後どの高位貴族も王家との婚約を信用しなくなります」
部屋が静まり返った。
私は賭けに出ていた。
ただ婚約を外したいだけの小娘ではなく、\*\*“制度の毀損”を問題視する政治的当事者”\*\*として話さなければ、王は動かない。
やがて国王は低く笑った。
「ローゼンベルク侯爵の娘とは思えぬほど、面白いことを言う」
「光栄です」
「父親譲りではなく、そなた自身の頭のようだ」
返しに困る褒め方をする人だな、と少し思う。
国王は机を指で叩きながら言った。
「実のところ、ルシアンにも同じ問いを投げた。婚約をどう考えるか、とな」
私は息を潜めた。
「殿下は何と?」
「“義務ではあるが、必ずしも最善ではない”と答えた」
予想通りだ。
責任は認めるが覚悟はない。最も危うい状態。
「陛下」
「何だ」
「殿下はまだ、ご自身の立場を“選べるもの”だと思っておいでです。ですが王族の婚約は、選択ではなく契約。そして契約とは、双方が果たしてこそ意味がある」
国王はしばらく黙ったまま、私を見つめた。
その視線に、王としての冷たさと、父親としての諦めが混じる。
「そなたは、あやつを見限ったか」
私は少しだけ考えて答えた。
「婚約者としては、はい」
「個人としては?」
「まだ判断保留です」
国王はふっと息を漏らした。
「なるほど。完全には捨てておらぬのだな」
「……陛下には、そう見えますか」
「そなたは徹底しているようで、根が甘い」
全くもって不本意だ。
けれどその“甘さ”のおかげで、私はミレイユを助け、王妃に心を寄せ、ルシアンをただの敵として切り捨て切れずにいるのかもしれない。
面談の最後、国王は言った。
「今年の冬季大舞踏会。そこで王太子継承に関する公的発表を行う可能性がある」
私は顔を上げた。
「……まさか」
「まだ決定ではない。だが、婚約について整理をつけるならその場が最も適している」
つまり、卒業舞踏会ならぬ**冬季大舞踏会での婚約問題決着**。
ゲームの断罪イベントを、王が政治の場へ引き上げるつもりだ。
「準備をしておけ、アーデルハイト嬢」
「承知いたしました」
部屋を辞したあと、私は長い回廊を一人で歩いた。
冬の光が石床に落ちている。
ここまで来たら、もう後戻りはできない。
ルシアンが私を断罪するか。
私がルシアンの未熟さと周囲の腐敗を暴き、婚約を破棄するか。
勝敗という意味では、もうほとんど決まっている。
必要なのは、誰をどこまで傷つけ、どこまで救うか、その線引きだけだった。
そしてその夜、部屋に戻った私を待っていたのは、一本の招待状だった。
差出人――第一王子ルシアン・エーヴェルハルト。
文面は簡潔だった。
**『明夜、温室にて話がしたい。二人きりで』**
私はしばらくその文字を見つめ、最後には静かに笑った。
「遅いのよ、殿下」
でも――行く。
逃げない。
今の彼が何を言うのか、聞いておく必要がある。
婚約破棄の前に。
すべてが終わる、その前に。
夜の温室は、昼とは別世界だった。
ランプの灯りがガラスに反射し、薔薇の影を幾重にも重ねている。
約束通り、そこにはルシアンが一人で立っていた。
護衛も従者もいない。
少なくとも、表向きは。
「来たか」
「ええ。二人きりをご所望だったのでしょう?」
皮肉を込めたのに、彼は言い返さなかった。
その時点でかなりいつもと違う。
私は距離を保ったまま立ち止まる。
「ご用件は?」
ルシアンは少し迷うように視線を落とし、それから言った。
「……私は君に、謝らねばならない」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
「何について、ですの」
「いろいろだ」
「曖昧ですわね」
「そうだな。私は、君に対してずっと不誠実だった」
温室に水滴の落ちる音が響く。
ルシアンは続けた。
「婚約を“決められたもの”として疎み、君を古い制度の象徴のように見ていた。ミレイユのことでも、君を必要以上に疑った。神殿の件では、私は何も知らなかったとはいえ、結果的に彼女を危険に晒した」
彼の声は固かった。
たぶん、こういう形で自分の非を認めるのは初めてなのだろう。
私は静かに聞いた。
途中で遮らなかったのは、その方が残酷だからだ。
「……それで?」
ルシアンは顔を上げる。
「君が望むなら、婚約を見直そう」
私は目を細めた。
「見直す?」
「ああ。君の不利益にならぬ形で、条件を――」
「殿下」
私は一歩だけ近づいた。
「条件の問題ではありません」
「何?」
「分かっておられないのですね。最後まで」
彼の表情がわずかに揺れる。
「わたくしが問題にしているのは、婚約の損得だけではないのです。殿下は“見直す”と言えばまだ間に合うと思っておいでだ。でもそれは、**ご自身がまだ選ぶ側だと思っている**から」
「私は――」
「違いますか?」
ルシアンは言葉を失った。
私は息を吐き、できるだけ平坦に告げた。
「殿下はわたくしを疎みながらも、わたくしがそこに在り続けると信じていた。ミレイユさんには手を差し伸べれば応えてもらえると思っていた。王妃殿下も、陛下も、臣下も、最後には殿下を支えるものだと」
「……」
「その前提が、甘いのです」
夜気が冷え、薔薇の香りが重くなる。
「あなたが本当に私へ謝りたいと言うなら、婚約の“条件調整”ではなく、王太子として何を背負うかを先に語るべきでした」
ルシアンは痛みを堪えるように目を伏せた。
その顔を見て、私はほんの少しだけ胸が軋む。
この人は、愚かだ。
だが悪辣一辺倒ではない。
だからこそ厄介なのだ。
「君は……私を許さないのか」
問いが、あまりにも幼く聞こえてしまって、私は苦く笑った。
「許す、許さないの話ではありません。責任の話です」
「責任……」
「わたくしは冬季大舞踏会で、正式に婚約解消を申し出ます」
彼が顔を上げた。
「待て。陛下から何か――」
「ええ。陛下もご承知の上です。必要な証拠も、手続きも整えています」
「証拠?」
「ガスパール公爵派の救貧資金流用、神殿への不正工作、北方輸送費の架空契約。殿下ご自身がどこまで関与なさったかは、わたくしはあえて断定しません」
「……!」
「ですが、少なくとも、殿下の名と権威が利用されていた。その管理責任は問われます」
ルシアンの顔から、はっきりと血の気が引いた。
知らなかったのだろう。利用されていた程度は理解していても、ここまで具体的に腐敗が進んでいるとは。
私は最後に、静かに言った。
「殿下。わたくしはあなたを断罪したいわけではありません」
「では、なぜ」
「**これ以上、あなたにわたくしの人生を使わせたくないからです**」
その一言は、自分で思っていた以上に本音だった。
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
やがて、力の抜けた声で問う。
「……私に、もう遅くない道はあるのか」
私はしばらく彼を見つめた。
「あります」
「教えてくれ」
「まず、自分が無知であったことを認めること。次に、切るべき相手を間違えないこと。そして最後に――婚約者でも聖女でもなく、王国そのものに向き合うこと」
ルシアンは、長い沈黙の末に頷いた。
その頷きが本物かどうか、私はまだ信じない。
だが少なくとも今、彼は初めて、自分の足元にある亀裂を見たはずだ。
私は踵を返した。
「アーデル」
呼び止められても、振り返らない。
「冬の舞踏会で……君は私を、公の場で切るのだな」
「はい」
「容赦なく?」
「必要なだけ」
少しの間をおいて、彼は言った。
「……君らしい」
私はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
「ええ。悪徳令嬢ですから」
その言葉を最後に、私は温室を出た。
扉の向こうは冷たい冬の夜。
空には細い月がかかっていた。
もうすぐ終わる。
長かった婚約も、誰かに押しつけられた役割も、悪役令嬢という筋書きさえも。
そして私は、自分の意志で終わらせる。
冬季大舞踏会は、王都最大の社交行事だ。
貴族たちは一年で最も豪奢な衣装を競い、王家はそこで人事や婚姻、外交上の重要発表を行う。噂話が現実になり、現実が歴史になる夜でもある。
私は舞踏会の前夜、兄フェルディナンドと侯爵家の執務室で最後の確認をしていた。
机の上には書類が積み上がり、封蝋済みの証拠箱が並ぶ。
救貧資金流用の会計記録、架空商会の名義一覧、神殿への不正発注書、そして婚約契約書に付随する解除条項の写し。
「これだけ揃えば十分だろう」
兄が言う。
「十分、だけれど……」
「何だ」
私は一枚の書類を見つめた。
ルシアン付き会計官の署名がある監査承認書。その下には、わずかに乱れた筆跡の指示書がある。内容は曖昧で、直接の犯意を示すものではない。だが責任を問うには足りる。
「殿下本人を、どこまで追い込むか迷ってる」
兄は私を見た。
からかう気配のない、真面目な顔だった。
「甘いな」
「ええ、自覚はあるわ」
「だが、お前がそこを迷うなら、まだ人間だ」
私は苦笑した。
「悪女失格かしら」
「いいや。むしろ悪女向きだ。完全に冷たい人間より、温度の残ったやつの方が怖い」
「褒めてるの?」
「たぶん」
そのとき、扉がノックされ、ミレイユが入ってきた。
今日は学園ではなく私服のコート姿だが、顔つきは引き締まっている。
「遅くにすみません」
「ちょうどよかったわ。明日の確認をしたかったの」
私は三人分の席を用意させた。
「ミレイユ、明日は王妃殿下側の席に座って。神殿関係者に近づかないこと。誰かに呼ばれても、一人では動かない」
「はい」
「もし公の場であなたの名が出ても、反論は最低限でいい。必要なら私が言う」
「でも、アーデルハイト様だけに全部背負わせるのは」
「背負うわけじゃない。奪い返すのよ」
私がそう言うと、ミレイユは目を見開いて、それからゆっくり笑った。
「……やっぱり、あなたが好きです」
「だから軽率に人を好きと言わないで」
兄がわざとらしく咳払いをした。
「お二人さん、この場に兄がいることを忘れてないか?」
「兄上は黙って」
「ひどいな」
少しだけ和んだ空気のあと、私は真剣な声に戻った。
「明日、私は婚約を破棄する。でもそれは、殿下へ復讐するためだけではない。ローゼンベルク家を守るためであり、王家との契約の在り方を正すためであり――この国が“恋に浮かれた王子の気分”で動かないようにするためでもある」
兄が頷き、ミレイユもしっかりと頷いた。
「一つだけ、忘れないでください」
ミレイユが言った。
「アーデルハイト様がどれだけ悪女らしく振る舞っても、わたしたちは知ってます」
「何を?」
「あなたが、本当は誰より不器用に、人を守ろうとしてること」
私は少しだけ言葉に詰まった。
そういう正面突破はずるい。
「……明日が終わったら、あなたには礼儀作法の再教育が必要ね」
「えぇっ」
兄が声を立てて笑った。
だが、夜が更けて一人になったとき、私は眠れなかった。
机の引き出しには、幼い頃のアーデルハイトが書いたルシアン宛ての未送信の手紙が入っている。
王宮のお茶会は楽しかったとか、次は乗馬を見せてほしいとか、他愛ないことばかりが丁寧な文字で綴られている。
たぶん、本来のアーデルハイトは彼を好きだった。
きっと、心から。
だからこそ、ゲームの彼女は壊れたのだろう。
恋を利用され、誇りを踏みにじられ、正しさの側に立つ人々から一方的に裁かれて。
私はその手紙を燃やした。
ぱちり、と小さく火が立つ。
紙はすぐに黒く縮み、淡い灰になった。
「さよなら」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
ただ確かなのは、明日、私はもう“婚約者アーデルハイト”ではなくなるということだった。
冬季大舞踏会の大広間は、まるで氷の宮殿のようだった。
巨大なシャンデリアが銀の光を撒き、磨かれた床に貴族たちの姿を映している。
楽団の奏でる音楽も、今夜ばかりはどこか張りつめて聞こえた。
私は白銀のドレスに、ローゼンベルク家の翡翠を飾って会場へ入った。
ざわめきがさっと広がる。
第一王子の婚約者。
悪徳令嬢。
そして近頃、聖女候補を救い、神殿を下がらせた危険な少女。
人々の視線が突き刺さる。
でももう慣れた。
ルシアンは壇前に立っていた。深い青の正装はよく似合っているが、その表情には以前の余裕がない。
国王と王妃も上座に着き、主要貴族が揃い、神殿からの使者までいる。
やがて国王が立ち上がり、会場は静まり返った。
「諸卿。本日は冬季大舞踏会に先立ち、王家に関わる重要な議を述べる」
それだけで空気が変わる。
誰もが息を潜めた。
「第一王子ルシアンと、ローゼンベルク侯爵令嬢アーデルハイトの婚約に関し、双方より再考の申し出があった」
ざわめき。
ルシアンがわずかに目を閉じる。
国王は続ける。
「よって、ここに当事者の言葉を許す」
先に名を呼ばれたのは、私だった。
大広間の中央へ進み出る。
無数の視線。高い天井。眩しすぎるほどの灯り。けれど、不思議と恐くなかった。
私は国王に一礼し、次いでルシアンへ向き直る。
「ルシアン・エーヴェルハルト第一王子殿下」
自分でも驚くほど、声は澄んでいた。
「わたくし、アーデルハイト・フォン・ローゼンベルクは、本日この場をもって、殿下との婚約の解消を正式に申し出ます」
息を呑む音が、波のように広がった。
私は続ける。
「理由は三つ。第一に、当該婚約が王家と侯爵家の信義、および王位継承の安定を目的として結ばれたにもかかわらず、その前提が既に損なわれていること」
「第二に、殿下近辺の行政・財務・神殿関係者による不正行為が看過され、その権威が私的に利用されたこと」
「第三に、婚約者たるわたくしが、その不正や派閥工作の“都合のよい責任の受け皿”として機能する危険が極めて高いこと」
会場が騒然となる。
ガスパール公爵が一歩出ようとしたが、国王の視線だけで止まった。
私は封書を掲げた。
「ここに、救貧資金流用、架空輸送契約、ならびに神殿儀式への不正工作に関する資料一式を提出いたします。殿下ご本人の直接命令を断定するものではありません。しかし少なくとも、殿下の名と立場が適切に管理されておらず、婚約者たるわたくしと侯爵家に不当な危険を及ぼした事実を示すには十分です」
ルシアンは黙って聞いていた。
逃げないだけ、前よりはましだ。
私は最後の言葉を選ぶ。
「婚約とは飾りではございません。王家が高位貴族と信を結ぶ契約そのものです。ゆえに、これを感情や都合で曖昧にすることは、王国の根幹を損ないます」
「以上の理由により、ローゼンベルク家は当婚約の継続を不適当と判断いたしました。わたくしはここに、婚約の証たる指輪と誓約書の副本を返上いたします」
私は手袋を外し、左手の指輪を抜いた。
その瞬間、ずっと張りつめていたものが、一本すっと切れた気がした。
侍従が進み出て、銀盆の上に指輪を受ける。
広間は水を打ったように静かだった。
国王が、ルシアンに視線を向ける。
「ルシアン。答えよ」
彼はゆっくり私の前へ歩み出た。
昔の彼なら、ここで威厳を保つために反論し、私を感情的な女と断じたかもしれない。
けれど今の彼は、違った。
「……アーデルハイト嬢の申し出を、受ける」
どよめきが起こる。
ルシアンは自分の剣帯を解き、そこにつけられていた小さな紋章飾り――婚約成立時に王家が侯爵家へ与えた証の対になる品を外した。
「婚約が王国にとっての契約であるなら、私の未熟さは、その契約を支えるに足りなかった」
彼の声は痛々しいほどまっすぐだった。
「私は、自らの理想に酔い、周囲の思惑を見誤り、結果として婚約者と臣下を危険に晒した。言い訳はしない」
会場の空気が変わる。
この告白は、貴族たちに予想されていなかった。
ルシアンは私を見た。
「アーデルハイト嬢。あなたの指摘と申し出を、第一王子として受諾する」
一拍置いて、はっきりと告げる。
「ここに、我らの婚約は解消される」
その瞬間、何かが終わった。
ゲームで見た断罪イベントとは全く違う。
一方的に悪役令嬢が裁かれるのではなく、契約の破綻を双方が認め、公の手続きとして外す。
“真実の愛”だの“嫉妬深い悪女”だの、そんな安っぽい物語の入り込む隙はない。
国王が立ち上がった。
「よろしい。婚約は本日をもって解消とする。なお提出資料に基づき、財務・神殿両系の調査と責任者の処分を行う」
ガスパール公爵が青ざめる。
神殿使者も顔を失っている。
そして王妃が静かに言った。
「アーデルハイト嬢。王家は、今回の件においてそなたに不当な負担を負わせた。ここに感謝と謝意を示します」
私は深く礼をした。
これで、終わりだ。
そう思った瞬間、会場後方から拍手が一つ、二つと起こった。
誰が始めたのか分からない。けれどやがて、それは大広間全体へ波のように広がった。
婚約破棄に拍手なんて、普通ならあり得ない。
でもそれはきっと、私個人への賞賛ではなく、誰もが薄々感じていた“おかしさ”に、ようやく名前がついたことへの安堵だったのだろう。
私は壇を降りた。
ミレイユが王妃席の近くで、泣きそうな顔をして立っている。
「終わったわ」
そう言うと、彼女は本当に涙ぐんでしまった。
「おつかれさまです……!」
「泣かないでちょうだい。せっかくの化粧が崩れるでしょう」
「そんなこと言う人います?」
私は笑った。
そのとき、ルシアンが近づいてきた。
一瞬だけ周囲が息を呑む。
彼は私の前で立ち止まり、低く言った。
「今さらだが……ありがとう」
「何に対して?」
「私を、公の場で逃がさなかったことに」
私は少しだけ目を細めた。
「感謝される筋合いはありませんわ。殿下が受け止めたから、形になっただけです」
「それでも」
彼はそこで言葉を切り、ほんのわずかに頭を下げた。
王子が。
私に。
それでようやく、胸の奥に残っていた棘の一部が抜けた気がした。
「お元気で、殿下」
「ああ。……君も」
それが、婚約者として交わす最後の言葉になった。
婚約解消の夜が明けてから、王都は大騒ぎだった。
各紙の見出しは競うように派手になる。
『ローゼンベルク令嬢、自ら婚約を返上』
『冬季大舞踏会にて契約解消、公的手続きで成立』
『財務・神殿不正、王家が本格調査へ』
当然ながら、社交界の噂もすさまじい。
だがその中心で、私は妙に静かだった。
肩の荷が下りた、という表現では足りない。
もっと根本的に、ずっと他人の台本で演じていた役をやめたような感覚。
数週間のうちに、ガスパール公爵家は大きく失脚した。
救貧資金流用と架空契約の責任を問われ、重要職から外される。神殿側も神官長派が一掃され、認定制度そのものが見直されることになった。
ミレイユは正式に“聖務補佐”として登録されたが、王家や神殿の専属とはならず、学園卒業までは自由な立場を守られることになった。
王妃と国王が、あえてそうしたのだろう。
そしてルシアンは、しばらく公の場から身を引いた。
継承権を失ったわけではない。だが財務監査と地方視察を兼ねて、北方へ赴くことになったと聞いている。
要するに、“お勉強のやり直し”だ。
必要なことだと思う。
春先、ローゼンベルク領地からの帰り道、私は王都郊外の丘で馬車を降りた。
葡萄畑の新芽が風に揺れ、遠くに白い街並みが見える。
ミレイユが隣に来て、同じ景色を眺めた。
「きれいですね」
「ええ」
「これから、どうするんですか」
私は少し考えた。
婚約者の座はなくなった。
未来の王妃、という肩書きも消えた。
けれど、不思議と不安はなかった。
「領地をもう少し整えるわ。救貧院の再建もしたいし、女子寮みたいに放置されてる場所も多いもの」
「政務一直線ですね」
「何か文句ある?」
「いいえ。ただ、恋愛とかは?」
「必要になったら考えるわ」
ミレイユがじっとこちらを見る。
「……アーデルハイト様って、案外、幸せになるのが下手ですよね」
「余計なお世話よ」
「でも、前よりずっと楽しそうです」
私は返事をしなかった。
代わりに、春風を胸いっぱいに吸った。
そう、きっと前より自由だ。
誰かに愛されるためでも、誰かに選ばれるためでもなく、自分の意志で立っている。
そのとき、後ろから馬の足音が聞こえた。
振り返ると、見慣れない濃紺の騎士服を着た青年が馬上で一礼する。
「ローゼンベルク令嬢」
「あなたは?」
「北方監査団の特使です。第一王子殿下――いえ、ルシアン殿下より、侯爵家へ書簡を預かっております」
私は封を受け取った。
達筆な文字。差出人も確かだ。
その場で開く気にはなれず、私は胸元にしまった。
ミレイユがにやにやしている。
「何です、その顔」
「別にー?」
「何か言いたいならおっしゃい」
「いいえ。ただ、春だなあって」
「本当に礼儀作法がなってないわね」
私たちは笑いながら馬車へ戻った。
後でひとりになってから、私はその手紙を開いた。
内容は簡潔だった。
――北方の救貧制度を見直していること。
――自分がこれまでいかに現場を知らなかったかを痛感したこと。
――婚約解消の判断は正しかったと、今なら分かること。
そして最後に、たった一行。
**『いつか王都で再び会うとき、せめて君に恥じぬ働きをしたと言えるよう努める』**
私はその文をしばらく見つめ、やがて封筒に戻した。
恋が再燃する、みたいな甘い気配はなかった。
けれど、少なくともこれは、あの温室の夜よりずっと誠実な言葉だ。
「……まあ、頑張りなさいな」
呟いて、私は空を見上げる。
青く高い春の空。
処刑台の夢で見たのと同じ色なのに、今はもう怖くない。
私は悪役令嬢アーデルハイト・フォン・ローゼンベルク。
かつて破滅するはずだった女。
噂では悪徳、実態は喰えない侯爵令嬢。
そして今日、私は誰の婚約者でもない。
その自由を、こんなにも美しいと思う日が来るなんて、前世の私も、元のアーデルハイトも、きっと想像しなかっただろう。
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外で葡萄畑が遠ざかり、春の光がきらめいた。
私は微笑む。
婚約破棄?
ええ、いたしましたとも。
**だって、わたくしの人生ですもの。
奪われる前に、きっちり自分で取り戻してみせましたわ。**
春の王都は、見た目だけなら穏やかだった。
街路樹には若葉が芽吹き、広場では花売りの少女たちが声を張り上げ、馬車の車輪は乾いた石畳を軽やかに鳴らす。
けれど社交界の内側では、冬季大舞踏会の余波がまだ燻っていた。
当然だろう。
第一王子との婚約が、令嬢側からの正式な申し出によって解消されたのだ。しかも感情論や恋愛沙汰ではなく、王家と高位貴族との契約破綻として整理された。前例としてはあまりにも大きい。
そしてその中心にいたのが、私――アーデルハイト・フォン・ローゼンベルク。
婚約破棄の夜が明けてから、社交界の人々は実に忙しかった。
昨日まで私を「嫉妬深い悪女」「時代遅れの傲慢令嬢」と噂していた者たちが、今度は口を揃えてこう言い始めたのだから。
「やはりアーデルハイト様は聡明でいらした」
「最初から何か裏があると思っておりましたの」
「わたくしたち、ずっと味方でしたわ」
**――白々しい。**
私は侯爵家のサロンで茶を飲みながら、差し出された招待状の束をぱらぱらとめくった。
「春の園遊会、慈善晩餐会、王都婦人会の茶会、若手貴族同盟の交流夜会……」
向かいのソファに足を組んで座っている兄フェルディナンドが、心底面白そうに笑った。
「モテモテじゃないか、アーデル」
「やめてちょうだい。汚らわしい」
「そこまで言うか」
「昨日まで私の噂を飾り立てていた人たちよ? それが今日は“さすがローゼンベルクの令嬢”ですって。恥というものがないのかしら」
「社交界にそんなものを期待する方が間違いだ」
それはそうだ。
だが私は、ここで愛想よく笑って許してやるほど優しくない。
悪女の仮面をかぶっていると、人は勝手にこちらへ泥を投げてくる。
ならば一度くらい、その泥が相手の顔へ跳ね返るところを見せてやってもいいだろう。
「兄上」
「何だ」
「王都婦人会の茶会、受けますわ」
兄の片眉が上がる。
「珍しいな。最も面倒な集まりの一つだぞ」
「ええ。だからこそよ」
王都婦人会は、貴婦人たちの慈善活動を名目にした巨大な社交ネットワークだ。
寄付、評判、縁談、噂話。そういったものが、極めて上品な笑顔とともに取引される。
そしてここは同時に――**かつて私が最も悪く言われていた場所**でもある。
下手な男たちより、こういう場の方が遥かに残酷だ。
直接、手は下さない。
けれど、「あの令嬢、少し気性が激しいらしいわね」
たったそれだけで、縁談も後ろ盾も静かに壊される。
ゲームのアーデルハイトもまた、こうした場所で“高慢で嫉妬深い娘”という評判を固められ、逃げ場を失っていったのだろう。
私は招待状を閉じた。
「ちょうどいいわ。何人か、きちんと思い出していただきましょう。自分たちが誰に、何を言ってきたのか」
兄は笑いをこらえきれないように肩を揺らした。
「怖いなあ」
「ありがとうございます」
数日後、王都婦人会の茶会は、子爵夫人の屋敷で開かれた。
春薔薇の庭園が自慢の屋敷だが、この日はその薔薇より色とりどりのドレスがよほど目についた。
私が到着した瞬間、庭園のそこかしこで扇がぴたりと止まった。
目と目がぶつかり、囁きが走る。
来た。
そういう空気。
私は完璧な笑みを浮かべ、会釈ひとつでその中へ歩み込んだ。
「ごきげんよう、皆さま」
「ご、ごきげんよう、アーデルハイト様」
「冬季大舞踏会ではお見事でしたわ」
「ええ、本当に……立派でいらして」
声がわずかに上ずっている。
以前なら私を見下ろす側だったご婦人たちが、今は私の機嫌を測っている。
その変化は甘美だった。
けれど私は、ただそれを楽しむためだけに来たわけではない。
席に着き、茶と菓子が配られた頃、わざとらしく声を弾ませたのはフォルクナー伯爵夫人だった。
「まあ、アーデルハイト様も、これでようやくお心穏やかにお過ごしになれますわね。殿下との件は大変でいらしたでしょう?」
「ええ」
私はにこやかに頷いた。
「特に、事実無根の噂が多くて困りましたわ」
何人かの肩がぴくりと揺れる。
私は続ける。
「聖女候補への嫌がらせをしただの、嫉妬で取り乱しているだの、婚約を盾に殿下を縛っているだの。どなたが広めたのか存じませんけれど、随分と熱心な方がいらしたようで」
気まずい沈黙。
頬を引きつらせる婦人たちの中で、フォルクナー伯爵夫人だけがどうにか笑顔を保っていた。
「うふふ、まあ、噂というものは羽がございますから」
「そうですわね」
私は彼女を見た。
「例えば、昨年あなたが『アーデルハイト様は学園で平民の娘を階段から突き落とした』と仰った件も、羽が生えすぎた噂だったのでしょうね」
空気が凍った。
伯爵夫人の顔色が変わる。
「な、何のことか……」
「ええ、存じております。そんな事実はございませんもの」
私は優雅に紅茶を口へ運び、それからこともなげに言った。
「ただ、当日その場にいた侍女と教師の証言は、侯爵家で預かっておりますわ。今後もし同様の誹謗が続くなら、名誉毀損として正式に扱わせていただくだけのこと」
一人、また一人と視線が泳ぐ。
「皆さまも似たようなお話をなさっていませんでした? 温室で花を踏んだとか、聖女候補のドレスを裂いたとか、王太子殿下へ泣いて縋ったとか」
誰も答えない。
答えられるはずがない。
どれもこれも、実在しない“いかにも悪役令嬢がやりそうな話”\*\*として消費されてきた嘘ばかりなのだから。
私はカップを置いた。
「安心してくださいませ。わたくし、もう昔のように感情的ではありませんの」
そう。
ゲームのアーデルハイトなら、ここで怒鳴ったかもしれない。
泣いたかもしれない。
でも私は違う。
「ですから皆さまにも、落ち着いて選んでいただけますわ」
「え……」
「**今後もわたくしの虚偽を口にして敵対なさるか、それとも“誤解だった”と穏便に収めるか。**」
薔薇の香りが、妙に濃くなった気がした。
年嵩の公爵夫人が、扇を閉じて低く言う。
「……侯爵令嬢、それは脅しと受け取ってよろしいのかしら」
私は彼女へ微笑んだ。
「いいえ。ご提案ですわ」
「ずいぶんと強気ですこと」
「当然でしょう?」
私は静かに言った。
「**わたくしは一度も、皆さまを根拠なく悪女扱いしたことはありませんもの。**」
その一言で、勝負は決した。
社交界の婦人たちは愚かではない。
彼女たちは、自分がやられたときに何が一番痛いかをよく知っている。
だからこそ分かるのだ。今の私が本気で動けば、彼女たちの家の評判にも縁談にも響くと。
帰り際、フォルクナー伯爵夫人は青い顔で私の前へ来た。
「以前のこと……もし、お気を悪くされたのなら」
「お気を悪くしましたわ」
彼女が息を詰める。
私はそのまま続けた。
「ですが、謝罪を受け取るくらいの器量はございます。今後は、お口の軽さにお気をつけになって」
彼女は何度も頭を下げた。
馬車へ乗り込んだとき、同行していたリゼが小さく囁いた。
「お嬢様……今日の皆さま、顔色が真っ青でした」
「でしょうね」
「少しだけ、すっきりしました」
私は窓の外に流れる薔薇の庭を見ながら、ふっと笑った。
「ええ。
**悪女の名を着せたのなら、その悪女に睨まれたときの怖さくらいは覚えて帰っていただかないと。*
王都婦人会の茶会を境に、社交界の風向きは明らかに変わった。
私に無責任な噂を流していた者たちは急に口数が減り、逆にローゼンベルク家へすり寄る家が増える。
驚くべきことに、中には「以前からアーデルハイト様の有能さを評価しておりました」などと真顔で言い出す者までいた。
恥知らずにもほどがある。
けれど、そのくらいの変節は貴族社会では珍しくもない。
問題は、そんな表の評判ではなかった。
神殿である。
冬季大舞踏会後、神官長派の一部は処分されたが、それはあくまで“前任者の不正”として切り捨てられたにすぎない。
制度そのものはまだ染みついた腐臭を残している。
そしてその腐臭は、ミレイユのもとに再び届いた。
「匿名の投書?」
「はい」
ミレイユは侯爵家の書斎で、嫌そうな顔をしながら数枚の羊皮紙を差し出した。
“平民上がりの偽聖女”
“王子をたぶらかした娘”
“本物の聖性を持つ者なら、もっと慎ましく王家へ尽くすはずだ”
内容は、実に分かりやすく下劣だった。
嫉妬と格差意識を、宗教っぽい言葉で薄く塗っただけの代物。
私は一枚ずつ目を通した。
「字を変えてるつもりだけれど、筆癖が似てるわね」
「分かるんですか?」
「ええ。『祈り』の“り”の払い方と、『聖』の上の崩しが同じ」
「怖い……」
「褒め言葉として受け取るわ」
私は封筒も含めて確認し、ため息をついた。
「発信元はたぶん神殿の下働きか、それに近い誰か。使っている便箋が神殿付属工房のものだもの」
ミレイユは顔をしかめた。
「もう、放っておいてくれればいいのに」
「放っておけないのよ」
私ははっきり言った。
「あなたは彼らにとって、“本物であること”そのものが邪魔なの」
神殿の古い権威は、曖昧さの上に成り立っている。
誰を“聖なる者”と認め、誰を排除するのか。その線引きを神殿側が握っているからこそ価値があった。
ところがミレイユは、平民出身でありながら本当に聖属性を持ち、しかも冬の儀式で神殿側の不正を暴くきっかけになった。
こんな存在は、彼らにとって都合が悪すぎる。
「つまり神殿は、わたしを利用するか、潰すか、どっちかにしたいんですね」
「ええ。そして今は、利用できないと分かったから潰す方へ傾いてる」
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがて決意したように顔を上げた。
「だったら、もう逃げません」
「何をするつもり?」
「正式に告発します。投書も、冬の儀式の件も、全部まとめて。
わたし、今までは“騒ぎにしたくない”って思ってました。でも、黙ってる方が都合よく使われるなら意味がない」
私は少しだけ驚いた。
だが、すぐに頷く。
「いい判断よ」
「手伝ってくれますか」
「当然」
神殿の査問会は、一週間後、王家立会いのもとで行われることになった。
表向きは「認定制度改革に向けた事実確認」。だが実態は、神官長派の残党がどこまで根を張っているかを炙り出す場だ。
会場となった神殿大講堂には、司祭、司教、貴族の代表、王宮書記官が揃っていた。
そこへ白い簡礼服で現れたミレイユは、以前のような脆さを感じさせなかった。
私は傍聴席から、その横顔を見た。
この子は強くなった。
いや、違う。もともと強くて、ようやくその強さを表に出せるようになったのだ。
査問が始まると、まず神殿側は予想通りの言い訳を並べた。
「投書の件は個人の暴走であり、組織的関与はない」
「冬の儀式は一部補佐官の不手際」
「認定制度には長い歴史と伝統がある」
伝統。
便利な言葉だ。
人を黙らせたいときにも、責任を曖昧にしたいときにも使える。
だが今日は、その言葉が通じない。
王宮書記官の確認の後、ミレイユが証言台へ立った。
「わたしは聖女を名乗りたいわけではありません」
その第一声に、講堂が静まり返る。
「けれど、誰かが“聖なる者”であるかどうかを、権力の都合で決められるのは間違っていると思います」
神官たちの中に、不快そうな顔が浮かぶ。
ミレイユは構わず続けた。
「冬の儀式で、わたしは本当に怖かったです。
自分の知らない力を持っていると決めつけられ、囲まれて、説明も許されないまま“危険だ”と言われた。
もしあの日、アーデルハイト様や王家の方々がいなければ、わたしは多分、そのままどこかへ閉じこめられていました」
その声は震えていない。
一言一言が、講堂の奥まで届いていく。
「でも、もっと怖かったのは、その後です。匿名の投書、陰口、信仰を理由にした侮辱。
神に仕えるはずの人たちが、“自分たちの思いどおりにならないから”という理由で、誰かの尊厳を削ろうとする。
そんなものを、わたしは信仰だとは思いません」
ざわめきが広がった。
年配の司教が咳払いで遮ろうとするが、王妃付きの書記官が視線だけで黙らせる。
ミレイユは最後に言った。
「わたしは、誰かに祭り上げられたいわけでも、利用されたいわけでもありません。ただ、必要な人に必要な助けが届くよう働きたいだけです。
もし神殿が本当に人々のためにあるのなら、最初に正すべきは制度ではなく――**制度を私物化している人たちの方です**」
見事だった。
講堂の空気が完全に変わったのが分かった。
そして、その変化を決定づけたのは次に私が提出した資料だった。
冬の儀式前日から当日にかけての物品搬入記録。
工房から祭壇補助室へ運ばれた銀粉触媒。
補助司祭への支払い記録。
そして匿名投書に使われた便箋の納品一覧。
逃げ道は、もうない。
神殿側の若手司祭のひとりが、ついに耐えきれず証言した。
「……命じられたんです。
聖女候補が神殿直属にならないなら、少なくとも“危険視される存在”として管理できるようにしろと」
講堂がどよめく。
さらに追及が進むと、神官長派の残党が平民出身者への認定を意図的に遅らせ、寄付の多い貴族家の娘を“神託に近い”と優遇していた事実まで露見した。
結局その日のうちに、
* 補助司祭二名の身分剥奪
* 神殿会計係の拘束
* 認定制度の全面再監査
* 匿名投書に関わった書記見習いの追放
が決定された。
査問会の後、講堂の外へ出たミレイユは、ぐったりしたように石壁にもたれた。
「つ、疲れました……」
「よくやったわ」
「足が震えてます」
「見た目では分からなかった。立派だったわよ」
私がそう言うと、彼女は情けない顔で笑った。
「でも、ちょっとだけすっきりしました」
「でしょうね」
私は講堂の高窓を見上げた。
神の名を掲げて人を踏みにじるなら、その看板ごと叩き落としてやればいい。
信仰は誰かを救うためのもので、人を支配するための権力装置ではない。
そんな当たり前のことを、ようやくこの国も思い出し始めたのだ。
そのとき、後ろから聞き覚えのある声がした。
「……見事だった」
振り返ると、王宮の紺色の外套をまとったルシアンが立っていた。
北方から一時帰還したらしい。
以前より少し日焼けし、目元に疲れを滲ませている。
けれど、かつての“何でも自分が中心だと信じている王子”の光は、確かに薄れていた。
私は目を細める。
「殿下。神殿の外まで視察にいらっしゃるなんて、まめですこと」
「皮肉を言われる筋合いはある」
「自覚がおありなら何よりですわ」
ミレイユが気まずそうに会釈すると、ルシアンは真面目に頭を下げた。
「ミレイユ嬢。以前は君にも無用な負担をかけた。すまなかった」
彼女は驚いたように瞬きをしてから、小さく頷いた。
「……はい」
かつてなら考えられない光景だった。
けれど、だからといって何かが帳消しになるわけでもない。
私は先に歩き出した。
「お話はそれだけですか、殿下」
「アーデル」
彼は一歩だけ追ってきた。
「ガスパール公爵家の件で、新たな証拠が出た」
私は立ち止まる。
「どんな?」
「救貧資金だけではない。彼らは北方の飢饉対策用穀物まで横流ししていた。
そのせいで冬に小規模な餓死者が出ている」
私はゆっくり振り返った。
嗜虐的な興奮ではない。
けれど、胸の奥に、冷たい怒りが静かに立ち上がる。
「……そう」
「私は今まで、それを知らなかった」
「でしょうね」
「だが、知らなかったでは済まないと分かった」
私は彼の顔を見た。
そこで初めて、少しだけ本気の悔恨を見た気がした。
「だったら殿下」
私は穏やかに、けれど一切の容赦なく言った。
「**今度は“知らなかった”方ではなく、“奪った”方をきっちり潰してくださいませ。**」
ルシアンは私の視線を受け止め、静かに頷いた。
その頷きがどこまで本物か、私はまだ信じ切らない。
けれど少なくとも、次の舞台は整いつつあった。
神殿だけでなく、
**ガスパール公爵家そのものを、社交界と法廷の両方で沈める舞台が。**
ガスパール公爵家の調査は、当初の予想を超えて広がっていった。
救貧資金の流用。
架空商会を通じた軍需輸送費の横領。
神殿工作への資金提供。
貴族子弟の進学寄付を隠れ蓑にした派閥拡大。
さらに、一部の令嬢たちへ贈り物と引き換えに噂操作を依頼していた記録まで出てきた。
要するに、**腐っていた**のである。
末端の見苦しさではなく、家そのものが。
そしてその中に、私にとって見逃せない名前があった。
リディア・ベルナール。
学園でミレイユのロッカーへ偽装禁書を入れた、下級伯爵家の令嬢。
昨年、社交界で「アーデルハイトは聖女候補を階段から落とそうとした」と吹聴していた一人でもある。
彼女は単なる駒だと思っていた。
だが資料を見る限り、駒のふりをして随分積極的に動いていたらしい。
「面白いわね」
侯爵家の執務室で書類を読みながら、私は呟いた。
兄フェルディナンドが向かいで腕を組む。
「何がだ?」
「ベルナール伯爵家の借財。昨年から急激に減ってる。娘がガスパール公爵家主催の夜会に頻繁に招かれていた時期と一致してる」
「口止め料、あるいは成功報酬か」
「でしょうね。しかも彼女、最近になって『私は命じられただけ』って泣きつこうとしてるわ」
兄が鼻で笑う。
「見苦しいな」
「ええ。でも、ありがたいことでもある」
「どうして」
私は書類を閉じた。
「**泣けば被害者になれると思ってる人って、公開の場では実に脆いのよ。**」
王都の上級貴族は、不祥事を“私の知らないところで使用人が”“若気の至りで娘が”と縮小するのに慣れている。
だが、今回はそうはいかない。
被害の規模が大きすぎるし、何より王家がすでに調査の継続を明言している。
そして何より私は、彼女たちに一度くらい、
**「自分がやったことを自分の口で認める恥」**
を味わってもらいたかった。
機会は案外早く訪れた。
春の終わり、王都では王妃主催の慈善晩餐会が開かれた。
表向きは救貧院再建のための寄付集め。だが実際には、冬季大舞踏会後の勢力図を確認する場でもある。
当然、ガスパール公爵家の人間も来ていた。
失脚寸前でも、完全に切られるまでは貴族は顔を出す。
そうしなければ、本当に“終わった家”になってしまうからだ。
私が会場へ入ると、壁際に立つリディア・ベルナールの姿が見えた。
淡い桃色のドレス。大粒の涙でも似合いそうな、可憐な顔立ち。
以前はその容姿で「無垢な被害者」を演じていたのだろう。
彼女も私に気づき、唇を青ざめさせた。
私は微笑して、まっすぐ彼女の方へ向かった。
「ごきげんよう、ベルナール様」
「……ご、ごきげんよう、アーデルハイト様」
周囲の婦人たちが、会話を中断して耳をそばだてるのが分かる。
いい傾向だ。
「お元気そうで何よりですわ」
「は、はい……」
「学園の頃は随分お忙しそうでしたものね。ロッカーに禁書を入れたり、階段の噂を広めたり」
リディアの顔色が一気に変わった。
「わ、わたくし、そんな……!」
「あら、違いました?」
私は小首を傾げる。
「では、学園寮監補佐と文具商会店主の証言は、どなたのことを指しているのかしら。あなたのお名前が二度も出ていたのだけれど」
周囲の空気がぴんと張る。
リディアは扇を握りしめ、必死に首を振った。
「ち、違います! わたくしは命じられただけで……! ガスパール公爵家の方が、協力すれば父の借財を整理すると……!」
「まあ」
私はわざとらしく瞬きをした。
「つまり、あなたは事実を認めるのね」
「え……」
そこで彼女は、自分が自分の首を絞めたことに気づいたらしい。
だがもう遅い。
「違……っ、いえ、あの、わたくしは脅されていて……!」
「脅されていたから、同じ学園の生徒に冤罪をかけたの?」
「そ、それは……」
「脅されていたから、平民出身の少女を危険人物に見せかける噂を流したの?」
「……っ」
「脅されていたから、私を“嫉妬で狂った悪女”に仕立てる手伝いをした?」
彼女の目に涙が浮かぶ。
だが私は一歩も引かない。
「泣けば許される時期は、もう終わりです」
会場が静まり返る。
彼女は震える声で言った。
「わたくしだって、必死でしたの……! あのままでは家が……!」
「知っていますわ」
私は静かに言った。
「でも、それは**あなたが誰かを傷つけていい理由にはならない**の。
そんな当たり前のことも分からないなら、今後は社交界ではなく修道院で学び直した方がよろしくてよ」
その一言で、リディアはついに声を上げて泣き崩れた。
見苦しいほど大きな嗚咽。
以前なら、その涙で同情を集められたかもしれない。
だが今夜、同情する者はほとんどいなかった。
なぜなら皆、知ってしまったからだ。
この可憐な令嬢が、裏で進んで人を売っていたことを。
そして私が、その事実を曖昧にしてやる気はないことを。
そこへ、やや遅れてガスパール公爵夫人がやってきた。
豪奢な濃紫のドレスが、以前ほど似合って見えない。
「アーデルハイト様、どうかお待ちを。若い娘の一時の過ちに、そこまで厳しくなさらずとも――」
私は彼女へ向き直った。
「若い娘の一時の過ち?」
「ええ。もちろん悪いのは悪いのですが、周囲に流されてしまうことも……」
「では伺いますけれど」
私はにこやかに言った。
「その“若い娘”に報酬を渡していたのは、どちらの家でしたでしょう?」
公爵夫人の頬が強張る。
「証拠もないことを」
「ありますわ」
私は持っていた小さな封筒を開き、数枚の写しを差し出した。
ベルナール家への債務整理指示書。
差出人は、ガスパール家執事。
添えられた覚書には、リディアが“学園内における風聞形成へ協力的”である旨まで記されている。
公爵夫人の指先が震えた。
「あ……」
「どうぞご覧になって。文字が小さければ、読み上げましょうか?」
周囲の婦人たちが一斉に息を呑む。
誰もが聞き耳を立てている。
もう後には引けない。
私は公爵夫人をまっすぐ見た。
「人を悪女に仕立てるのって、簡単ですわよね。
少し高慢そうに見える娘がいれば、そこへ“嫉妬”“意地悪”“執着”という言葉を貼れば、それらしく見える。
でも――」
私はゆっくりと笑った。
「**本物の悪意って、案外こういう“上品な顔をした奥方”の方が上手に隠していらっしゃるのね。**」
公爵夫人は言葉を失った。
その夜のうちに、ガスパール公爵家とベルナール伯爵家の関係は社交界に知れ渡った。
“若い娘の過ち”で済ませるには、もうあまりにも具体的すぎる証拠が広まってしまったからだ。
帰りの馬車で、兄は腹を抱えて笑っていた。
「見たか、公爵夫人の顔」
「ええ。少し見ものだったわね」
「少しどころか傑作だった」
私は肩をすくめた。
「でもまだ終わりじゃない。
あれはただの前座よ」
「本番は?」
私は窓の外の夜景を見つめた。
「もちろん、
**家そのものが潰れるところまで見届けるの。**」
初夏、ルシアンは正式に北方視察から戻った。
以前より痩せ、日に焼け、肩の線には妙な固さがあった。
宮廷で守られていた頃の、きらびやかさだけの王子ではない。
だがだからといって、失われたものが戻るわけでもない。
彼がまず向かった先は、王宮ではなくローゼンベルク侯爵家だった。
「殿下が?」
玄関ホールで知らせを受けた私は、思わず眉を上げた。
突然すぎる。
「正確には、元殿下、ですわね」とリゼが小声で囁く。
失礼だが、その通りでもある。
継承権そのものが消えたわけではない。
しかし北方の失政と周辺行政の不正を受け、今の彼は“次の王”として扱われるには危うすぎる立場にいた。
応接間へ入ると、ルシアンは一人で立っていた。
従者は最低限。以前のような見栄え重視の随伴ではない。
「お久しぶりですわ」
「……ああ」
その間に流れる沈黙は、婚約者だった頃よりよほど大人びていた。
私は席につき、彼にも座るよう促した。
「ご用件は?」
「まず、礼を言いに来た」
「また?」
「今度は社交辞令ではない」
彼は真面目な顔で言った。
「北方へ行って分かった。あの冬、君が暴いた不正は氷山の一角だった。
私が何も見ていなかったせいで、地方では救えるはずのものがずっと削られていた」
私は黙って聞いた。
「飢えた子どもも見た。
形だけ残って中身のない倉庫も、王都向けの報告書だけ整った救貧院も見た」
彼の手がわずかに握られる。
「私は、自分が正しい方向へ進んでいるつもりだった。
古い制度を壊し、平民にも目を向ける王になるのだと。
だが実際は、都合のいい言葉に酔って、自分の権威を誰に使わせているのかすら分かっていなかった」
私は紅茶に口をつけてから、静かに言った。
「ええ。そうでしょうね」
「……手厳しいな」
「事実ですもの」
ルシアンは苦く笑った。
その笑い方に、以前のような驕りはなかった。
「君に一つ、頼みたいことがある」
「内容によります」
「北方の救貧制度改革に、ローゼンベルク家の知見を貸してほしい」
私はカップを置いた。
「それは侯爵家全体への依頼として?」
「ああ」
「ならば、私個人では判断できませんわ」
「分かっている。だが……できれば、君にも関わってほしい」
その言葉に、私は彼を見た。
後悔。
悔恨。
それだけではない。
どうにかして過去の失点を埋めたい、という焦りもある。
「なぜわたくしに」
「君は、私が見ようとしなかったものを見ていた。
そして必要なとき、私ではなく国の方を優先した」
「褒めても何も出ませんわよ」
「今のは、ただの事実だ」
私はしばらく考えた。
断ってもいい。
むしろ感情だけで言えば断りたい。
だが、公私を混同しないと決めたのは私自身だ。
「条件があります」
ルシアンの表情が引き締まる。
「何だ」
「第一に、これは“名誉挽回のための美談”ではないことを明文化する。
第二に、現地の領主・商人・神殿関係者・施療院を含めた監査記録をすべて開示する。
第三に、わたくしへ“昔の関係”を理由にした私的接触を行わないこと」
一瞬、ルシアンの目が揺れた。
だが、すぐに頷く。
「分かった」
「本当に?」
「……第三項は少し痛いが」
「当然です」
私はきっぱり言った。
「殿下。いえ、ルシアン様。
あなたが後悔を抱えているのは分かります。
でも、その後悔に私を使わないで」
彼ははっとしたように息を止めた。
「……ああ」
「あなたが取り戻すべき信頼は、わたくしからのものではない。王家の名で見過ごしてきた人たちからのものです」
しばらくの沈黙の後、彼は深く頭を下げた。
「その通りだ」
私はそこで、初めてほんの少しだけ彼に対する棘を緩めた。
「なら話は早いわ。
侯爵家としての協力は、父と兄にも諮ります。
ただし――」
「ただし?」
「ガスパール公爵家の処分が曖昧なら、こちらも引きます」
「分かっている。
今回だけは、逃がさない」
その言葉には、以前とは違う重みがあった。
ようやく、遅れて、彼は学び始めている。
けれど私は知っている。
学び始めることと、信頼が戻ることは別だ。
彼が帰った後、兄フェルディナンドが書斎に現れた。
「どうだった、“遅れてきた反省文の王子様”は」
「その言い方、ひどいわね」
「実際そうだろ?」
私は少し笑った。
「まあ、前よりはましになってた」
「で?」
「仕事はする。情は切る」
兄が感心したように口笛を吹く。
「怖い妹だ」
「今さら?」
「しかし、それでいい。下手に情に流されるなよ」
私は窓の外を見た。
庭では初夏の風が木々を揺らしている。
「流されないわ」
そう。
私が欲しかったのは、彼の後悔ではない。
謝罪でも未練でもない。
必要なのはただ一つ。
**やるべき人間が、やるべき責任をきちんと果たすこと。**
そしてその責任の行き先は、
いよいよガスパール公爵家へ向かおうとしていた。
ガスパール公爵家への最終裁問会は、王宮の大法廷で行われることになった。
異例だった。
高位貴族の不正は、たとえ事実でも“内々に処理”されることが多い。
家名を守るためだとか、王国の安定のためだとか、もっともらしい理由はいくらでもつく。
だが今回は、それができなかった。
被害が大きすぎたから。
証拠が明白すぎたから。
そして何より、冬季大舞踏会以降、
**「王家と高位貴族の契約や責任を曖昧にしない」**
という流れができてしまったからだ。
つまり、もう揉み消せない。
法廷傍聴席には主要貴族、王宮官僚、神殿代表、各紙の記録官まで並んでいた。
私はローゼンベルク家代表の一人として前列に座り、ミレイユと兄も同席している。
被告席に立つガスパール公爵は、以前より十歳は老けて見えた。
太い首、重たい顎、いかにも権勢家然とした体格。けれど今は、その豪奢な衣の下に冷や汗を隠しきれていない。
告発内容が読み上げられるたび、法廷の空気が少しずつ冷えていく。
* 救貧資金の横領
* 北方穀物の横流し
* 架空商会を通じた賄賂と資金洗浄
* 神殿認定儀式への不正介入
* 学園内における風聞操作と冤罪誘導
最後の一項目で、傍聴席の視線が一斉にこちらへ向いた。
億劫だが、慣れてしまった自分が少し嫌だ。
公爵は最初、徹底して否認した。
「会計上の誤差にすぎぬ」
「部下の独断だ」
「北方の被害は天候不順によるもの」
「学園の風聞など、公爵家が知るはずもない」
見苦しい。
けれど予想通りでもあった。
問題は、その見苦しさを誰が切るかだ。
やがて法廷中央へ進み出たのは、国王ではなくルシアンだった。
王命による北方監査団の代表として、正式に立つ形で。
私は少しだけ目を細める。
ここを逃げなかったのは評価してもいい。
ルシアンは一礼し、淡々と口を開いた。
「北方における倉庫記録、施療院死亡報告、移送命令書、および関係商会の帳簿を照合した結果、穀物不足は天候起因ではなく流通途中での意図的な抜き取りによるものと判断される」
彼の声はよく通った。
「また、不正に用いられた架空商会の一部は、ガスパール公爵家の使用人名義だけでなく、公爵本人の署名付き短期融資許可書を伴っていた」
公爵の顔色が変わる。
「さらに――」
ルシアンは一拍おき、法廷全体を見渡した。
「冬季大舞踏会以前、私の名を用いた複数の“口頭許可”が公爵家側近へ伝えられていた形跡がある。
だがそれらはいずれも、私自身が内容を認識しないまま、曖昧な返答を拡大解釈されたものだった」
法廷がざわめく。
これは、自分の落ち度も含んだ証言だ。
彼にとってはかなり痛い。
だが同時に、責任の所在をあいまいにせず切り分けるためには必要な一手だった。
「私の管理不足は免れない。
だが、それをもって他者が王家権威を私物化し、人命を損なうことは決して許されない」
被告席の公爵が、ついに声を荒げた。
「偽善だ! 殿下!」
全員の視線が集中する。
公爵はもはや体面を捨てていた。
「殿下もまた、平民娘に心を奪われ、婚約者を疎み、旧派閥をうっとうしく思っていたではありませぬか!
我らはただ、殿下の望みをより実現しやすい形に整えただけ!」
――きた。
私は背筋を伸ばす。
法廷全体が息を潜めた。
公爵は止まらない。
「ローゼンベルクの娘など、殿下にとって邪魔な札でしかなかった!
学園の噂も、神殿の演出も、王都の空気を整えるために必要だった!
皆そうしてきたのだ、今さら何を清廉ぶる――」
「黙れ」
ルシアンの声が、短く、鋭く響いた。
あの王子が、こんな声を出すのかと少し驚くほど低かった。
「私が未熟だったことは事実だ。
だが、お前がその未熟さを利用してよい理由にはならない」
公爵が息を呑む。
「婚約者を邪魔だと思った時期が、確かに私にはあった。
それは私の恥だ。
だが――」
彼はそこで、はっきりと私の方を見た。
「**彼女の名誉を泥で塗り潰し、平民の娘を政治の餌にし、飢えた民から食糧まで奪ったことを、私は一度たりとも望んでいない。**」
法廷の空気が変わる。
これは強い。
あまりにも強い否定だ。
公爵は何か言い返そうとしたが、すでに遅い。
彼は自分で認めてしまったのだ。
アーデルハイトを排除対象と見なし、噂と神殿工作を“環境整備”として行ったと。
そこへ追撃したのは、兄フェルディナンドだった。
彼は証拠箱から新たな書類を取り出し、法廷へ提出した。
「追加資料です。
ガスパール公爵家会計頭が隠し持っていた私記録で、公爵夫人とベルナール伯爵令嬢への支払い明細が記されています。用途欄には『令嬢評判対策』『聖女候補監視』『殿下周辺世論形成』」
傍聴席から、低い悲鳴にも似たざわめきが上がる。
終わった。
完全に。
判決はその日のうちに下された。
* ガスパール公爵の爵位剥奪
* 家領の大半没収
* 関連財産の凍結
* 神殿工作・資金流用・穀物横流しについて王国法廷での追加刑事審理
* 公爵夫人は社交界から追放処分相当として領地蟄居
* 関係伯爵家・子爵家への連座処分
高位貴族としては破格の重さだ。
いや、人命が絡んでいるのだから本来これでも軽いくらいかもしれない。
判決の瞬間、公爵は膝から崩れ落ちた。
その顔には怒りも威厳もなく、ただ自分だけが信じていた“特別扱い”が消えた者の虚脱があった。
私はそれを見下ろし、胸の奥で静かに息を吐いた。
これが、ざまあかと言われれば、きっとそうなのだろう。
でも痛快さより先に来るのは、やはり冷えた現実感だ。
この男が奪ったものは、取り返せない。
飢えた冬も、失われた命も、壊された評判も、完全には戻らない。
だからせめて、
**奪った側が“何も失わずに済む”というだけは、絶対にあってはならない。**
法廷を出るとき、ルシアンが近づいてきた。
「終わったな」
「ええ。ようやく」
彼は少しだけ疲れた笑みを見せた。
「君にとっては、まだ足りないかもしれないが」
私は彼を見上げた。
「いいえ」
そして、はっきり答える。
「**人の人生を勝手に“物語の都合”で踏みにじった者が、ちゃんと現実で代償を払った。
それなら、今は十分ですわ。**」
ルシアンは何か言いかけて、結局何も言わなかった。
その沈黙は、以前よりよほど誠実だった。
ガスパール公爵家が潰れてからというもの、王都の風は露骨に変わった。
公爵家と繋がりの深かった家々は急いで距離を取り、逆にローゼンベルク家へ取り入ろうとする者が増える。
晩餐会では皆が私へ愛想よく微笑み、婦人会では席を譲られ、学園では後輩令嬢たちが「アーデルハイト様みたいになりたいです」とか言い出した。
**やめてほしい。**
本当にやめてほしい。
私はただ、そんな立派な存在ではない。
死にたくなかったし、理不尽に負けたくなかったし、利用されたくなかっただけだ。
たまたまそのために必要なことをしたら、結果的にそれが“強い令嬢”に見えただけで。
だが、世間は勝手に像を作る。
“冷静で有能”
“王家にも物申す侯爵令嬢”
“悪女の仮面をかぶった改革派の華”
最後のは、ちょっとだけ言い得て妙で悔しい。
そんな喧騒の中で、王妃からお茶会への招待が届いた。
私的なものだ。
王妃の離宮は初夏の陽射しに包まれ、白い椿の代わりに薄紅の芍薬が飾られていた。
以前と同じサロンへ通されると、王妃は穏やかに微笑んだ。
「来てくれてありがとう、アーデルハイト」
「お招きに預かり光栄です、王妃殿下」
茶を勧められて席に着く。
王妃はしばらく私を見てから、ふっと笑った。
「あなた、少しやつれたわね」
「最近、持ち上げられることが増えましたので」
「あら、普通はそこを喜ぶものよ」
「わたくし、普通ではございませんの」
王妃は声を立てて笑った。
そのあと、柔らかな目で言う。
「ありがとう」
私は瞬きをする。
「何に対して、でしょう」
「いろいろと。ルシアンのことも、王家のことも、この国の体面のことも」
私は少しだけ目を伏せた。
「わたくしは、別に王家のために動いたわけではありません」
「ええ。知っているわ」
王妃は頷く。
「でも、自分の身を守るために動いた結果が、多くの人を守ることになる。そういう人は、案外少ないの」
その言葉は少し、胸に残った。
王妃は続ける。
「今日は一つ、提案があるの」
「提案?」
「王立学園と神殿、救貧院をつなぐ新しい支援制度を作ります。
身分に関わらず才能ある若者に学びと実務の場を与える制度よ。
その設計に、あなたの名を入れたいの」
私は目を見開いた。
「……わたくしの?」
「嫌かしら」
嫌というより、驚きが先だった。
未来の王妃からも外れた、ただの侯爵令嬢だ。
そんな私の名が、制度に。
「過分ですわ」
「過分ではないわ」
王妃ははっきりと言った。
「あなたは、契約と責任が曖昧にされる怖さを知っている。
同時に、平民や弱い立場の者が“物語の都合”で踏まれる理不尽も知った。
なら、その両方を見られる人が一人は必要でしょう」
私は沈黙した。
断ってもいい。
けれど断る理由が、見つからない。
「……お受けします」
王妃の顔がやわらいだ。
「よかった」
その後、しばらく穏やかな茶の時間が続いた。
帰り際、王妃はふと思い出したように問う。
「ルシアンとは、その後どう?」
私は思わずむせそうになった。
「いきなりでございますね」
「母ですもの」
ずるい返しだ。
「どうもこうもございません。必要な話をする程度です」
「そう」
「そうです」
王妃は少しだけいたずらっぽく笑った。
「でも、あの子はずいぶんとあなたに追いつきたいと思っているみたい」
「追いつくべき対象を間違えております」
「まあ、そう言わないで。
あの子も今、生まれて初めて“自分が主役ではない場所”で生き方を学んでいるところなの」
それは――少し分かる気がした。
かつてのルシアンは、誰かが自分に期待し、誰かが自分を許し、誰かが自分を愛してくれることを当然だと思っていた。
今は違う。
だからこそ、苦しいだろう。
けれどその苦しみは、必要な罰であり、必要な学びでもある。
離宮を出ると、外庭でミレイユが待っていた。
最近は王妃付きの補佐として出入りすることも増えている。
「どうでした?」
「面倒な仕事が増えたわ」
「よかったですね」
「よくないわよ」
「でも、顔は少しうれしそうです」
私は反論しかけて、やめた。
確かに少しだけ、前向きな疲れ方をしている気がしたから。
「……そうかもしれないわね」
ミレイユは笑う。
「アーデルハイト様、もう“悪女”じゃなくて、“ローゼンベルクの令嬢”として見られてますよ」
私は庭の空を見上げた。
淡い雲が流れていく。
「それでもいいかしら」
「もちろんです」
私は小さく息を吐いた。
悪徳令嬢。
悪役令嬢。
その名は確かに私を守る仮面だった。
けれどもう、必要な場面は減ってきたのかもしれない。
……まあ、完全に捨てる気もないけれど。
だって、たまに使うと便利なのだ。
本当に。
夏の終わり、王都では小さな夜会が開かれた。
大舞踏会のような公式性はない。
けれど王家、主要貴族、学園関係者、神殿新体制の代表まで顔を揃える、いわば“新しい均衡”を確認する場だった。
私は深緑のドレスを選んだ。
以前なら王子の婚約者らしくもっと華やかな色を勧められただろう。
けれど今はもう、誰の趣味にも合わせる必要がない。
会場へ入ると、視線は集まる。
だがその温度は以前とは違う。
好奇。
怖れ。
打算。
そして今は、それに少しだけ敬意が混じっている。
私はそれを感じながら、壁際のテーブルで軽くグラスを取った。
そのとき、入り口付近がわずかにざわついた。
振り返ると、そこには見覚えのある姿がある。
ガスパール公爵夫人――だった女。
爵位剥奪と領地蟄居の後、特別な恩赦で王都滞在を短く許されたのだと聞いていた。
派手だった紫の好みは影を潜め、今日は地味な銀鼠色のドレスに身を包んでいる。
けれど、その顔からはまだ消えきらない“私は本来ここにいるべき人間だ”という癖が滲んでいた。
愚かだ。
彼女は周囲の視線に耐えかねたように、やがてこちらへ近づいてきた。
おそらく最後の賭けなのだろう。
私に頭を下げ、少しでも許しを得られれば、社交界復帰の口実にできる。
「アーデルハイト様」
「ごきげんよう」
「少し……お話しできませんか」
私は頷いた。
逃げる理由はない。
人の少ない回廊へ移ると、彼女は絞り出すように言った。
「以前の数々の無礼、心よりお詫び申し上げます」
「そう」
「わたくしたちも、家を守るのに必死で――」
「あら」
私は微笑んだ。
「その言い訳、最近とても流行っておりますのね」
夫人の顔がひきつる。
「違うのです、あれは本当に、公爵がすべてを主導していて……わたくしは女の身で、逆らえず……」
「でも、ベルナール令嬢への支払い指示書には、あなたの筆跡もございましたわよ」
「……!」
「匿名の噂話の方向性も、ずいぶん“貴婦人的”でしたし」
夫人は口を開閉した。
反論できない。
私は扇を閉じ、静かに続けた。
「あなたは賢い方でした。
だから、分かっていたはずです。
名門の令嬢一人の評判を壊すことが、その家にどれほどの打撃を与えるか。
平民出身の娘を“危険”に見せれば、どれほど簡単に孤立させられるか」
「わたくしは……」
「ええ、知っています。
あなたは“自分では手を汚していない”と思っていたのでしょう」
私は一歩だけ近づく。
「でもね、公爵夫人。
**毒を混ぜたのが自分でなくても、その杯を配ったなら同罪ですわ。**」
夫人の目に涙がにじむ。
だがもう、私はその涙に何も感じない。
「どうか……一度だけ、寛恕を……」
「嫌ですわ」
私ははっきり言った。
彼女は絶望したように私を見た。
私は微笑みを崩さない。
「わたくし、十分寛大だと思っておりますの。
あなたに叫びもせず、扇で打ちもせず、公の場で土下座を求めもしない。
ただ――」
回廊の窓から、夜会の灯りが見える。
楽しげな音楽。
笑う人々。
その中に、もう彼女の居場所はない。
「**あなたが失ったものを、わたくしがわざわざ拾って差し上げる気はありませんの。**」
それで終わりだった。
夫人は泣き崩れることもできず、ただうなだれて立ち尽くした。
私は振り返りもせず会場へ戻る。
戻った先で、ミレイユがこちらを見ていた。
何があったか、だいたい察している顔だ。
「終わったんですか」
「ええ」
「スッキリしました?」
私は少し考えてから答えた。
「……まあ、それなりに」
すると彼女はふっと笑った。
「アーデルハイト様って、“ざまあ”の後でも意外と静かですよね」
「そんなものよ」
私はグラスを傾ける。
「本当に勝った側は、大騒ぎしないものだわ」
そのとき、会場の向こうからルシアンがこちらへ来るのが見えた。
以前のように、彼が歩くだけで人の輪が割れることはない。
けれど、無視もされていない。
少しずつ、自分の足で立ち直り始めているのだろう。
彼は私たちの前で立ち止まり、礼儀正しく一礼した。
「アーデルハイト嬢、ミレイユ嬢」
「ごきげんよう」
「こんばんは、殿下」
ルシアンは一瞬だけ私を見つめ、穏やかに言った。
「北方の再建計画、王宮で正式採択された。
ローゼンベルク家からの提案も、王妃案と合わせて制度化される」
「それは結構ですわ」
「君のおかげだ」
私は首を横に振る。
「いいえ。動いた人がいたから形になったのです」
彼は少しだけ笑った。
以前ならもっと眩しく見えただろうその笑みを、今の私は落ち着いて見られる。
「そうかもしれない」
短い沈黙の後、彼は言った。
「君はもう、誰かの婚約者としてではなく、この国に必要な人材だ」
私は目を瞬かせた。
お世辞ではない声音だった。
「そんな言い方をされると困りますわ」
「なぜ」
「面映ゆいもの」
ルシアンは少し驚いて、それから本当に少しだけ、楽しそうに笑った。
「君にもそういう顔があるんだな」
「失礼ですこと」
ミレイユが横でにやにやしている。
後で叱る。
けれど、その会話にもう、昔の痛みはなかった。
すべてが消えたわけではない。
でも少なくとも、
**“誰かに断罪される悪役令嬢”**
という歪んだ物語は、完全に終わったのだ。
夜会の音楽が切り替わる。
窓の外には、夏の終わりの星が瞬いていた。
私はグラスを置き、ゆっくりと息を吐く。
悪徳令嬢。
そう呼ばれたこともあった。
たぶん今後も、畏れ半分でそう囁く者はいるだろう。
でも、それでいい。
もし悪女であることが、
理不尽に踏まれそうになったとき自分と大切な人を守るための牙になるのなら――
私はいくらでも、その名を引き受ける。
ただし今度は、誰かに与えられた役としてではなく、
**自分で選んだ強さとして。**
私は微笑む。
そして静かに、胸の内でつぶやいた。
秋が近づく頃には、ローゼンベルク侯爵家の朝はだいぶ騒々しいものになっていた。
主な原因は、執事長の背後に積み上がる色とりどりの封書である。
「お嬢様。本日分のご招待状と、ご提案書と、縁談の打診でございます」
「最後の分類をいますぐ燃やして」
「困ります」
執事長は涼しい顔で言った。
年季の入った有能な男で、こういう時だけ妙に機嫌がよい。
書類机に座った私は、こめかみを押さえた。
「どうしてここまで急に増えるの」
「理由は明白でございましょう。お嬢様は今や、名門侯爵家の嫡令嬢でありながら王家にも制度にも物申せる実務家、しかも社交界での評判も上向き。未婚。性格の点を除けば極上です」
「最後の一言が聞き捨てならないわね」
「皆さま、そこは覚悟の上でいらっしゃいます」
ひどい言われようである。
けれど実際、王都中の貴族たちが色めき立っているのは事実だった。
一度は「王太子妃になり損ねた女」と陰で囁かれたはずの私が、今や逆に「王家と対等に交渉し得る侯爵令嬢」として価値を持ち始めている。
なんとも現金な話だ。
「こちらなどいかがでしょう。南方の伯爵家嫡男。温厚で、芸術関係に明るく……」
「借財があるでしょう、その家」
「ではこちらは。西方の侯爵家次男、現在は宮廷法務官」
「母方が元ガスパール派」
「こちらは――」
「顔だけはいいけれど頭が軽い」
執事長が、とうとう咳払いで笑いを誤魔化した。
私は封書の山を横目に、深々と息をついた。
正直に言えば、私はまだ「次の婚約」を考えられるほど器用ではなかった。
以前の婚約は、愛だの夢だのというより、政治と役割と期待に塗れた結びつきだった。
それを自分の手で断ち切ったばかりなのだ。すぐにまた誰かの名の隣へ自分の名を並べたいとは思えない。
けれど、私がそう考えるのと、周囲が私を放っておくかは別問題らしい。
「お父様は何と仰ってるの」
「『本人の意志を最優先に』とのことです」
「そう」
「ただし『価値の分かる相手を選べ』と」
思わず笑った。
なんとも父らしい。
その日の午後、私は王妃の依頼を受けて、王宮の制度設計会議へ向かった。
新たに立ち上げる学園・神殿・救貧院連携制度――仮に“共助院”と呼ばれ始めたその仕組みは、表向きこそ慈善と教育の新制度だが、実態はかなり大きな改革だった。
才能ある平民や下級貴族の子弟に、学びと実務の道を開く。
神殿による一方的な認定権を弱める。
そして貴族の寄付が「評判づくり」だけで終わらぬよう、金の流れを透明化する。
つまり、今まで曖昧にしてきた“善意の利権”を片っ端から見える形にする制度である。
当然、反感も大きい。
会議室へ入ると、すでに数名の官僚と貴族代表が揃っていた。
その中で、初めて顔を合わせる男が一人いる。
灰青の髪を後ろへ流し、黒に近い濃紺の衣をきっちり着こなした青年。
年は兄と同じくらいだろうか。細身だが線が鋭く、眼鏡の奥の目がいかにも人の嘘を見抜きそうに冷静だった。
「ご紹介いたします、アーデルハイト様」
王妃付き書記官が言う。
「宰相府より、制度設計の実務監理として派遣されました。
**ユリウス・ヴァイス宰相補佐**にございます」
青年は一礼した。
「お初にお目にかかります、ローゼンベルク令嬢。お噂はかねがね」
「良い噂か悪い噂かで、印象が変わるわね」
「両方を踏まえた上で、期待しております」
……嫌な返しをする人だ。
だが私は、こういう手合いが嫌いではない。
むしろ変に媚びられるより楽だ。
会議が始まると、その印象はますます強まった。
ユリウスは極めて実務的で、話が早い。
「神殿側に残す権限は“認証”ではなく“確認”に限定しましょう。
認定という言葉を使うから、所有権めいた発想が生まれる」
「賛成ですわ」
私が言うと、彼は紙面から顔を上げた。
「理由を伺っても?」
「人材も聖性も、神殿の私物ではないからです。
それを“認めてやる”構造にする限り、また囲い込みが起きる」
ユリウスはわずかに目を細めた。
「明快ですね」
「曖昧な言葉は嫌いなの」
「奇遇です。私もです」
少しだけ、会議室の空気が変わる。
官僚たちはこういう、言葉を削りながら制度の骨組みを作るやりとりに慣れている。だが貴婦人がそこへ自然に混ざるのは珍しいのだろう。
終了後、資料をまとめていると、ユリウスが横に来た。
「先ほどの修正案、見事でした」
「褒めても何も出ませんわよ」
「褒めているのではなく、評価しています」
さらりと言ってのける。
こういう人種は、慣れるまで少し危険だ。
「あなた、女を戸惑わせる言い方に慣れていらっしゃるのね」
「いいえ。令嬢と雑談するのは得意ではありません」
「そうは見えないけれど」
「雑談ではなく、実務の確認ですから」
私はほんの少しだけ笑った。
そのとき、会議室の外でざわめきが起きた。
振り返ると、廊下の先にルシアンが立っていた。
以前ほどの華やかな取り巻きはいない。
それでも、人が道を開けるくらいには王子の余韻が残っている。
彼の視線はまっすぐこちらへ向いていた。
私と――隣にいるユリウスへ。
胸の奥で、小さく何かが軋んだ気がした。
それが未練ではなく、ただ“終わったものが終わったままであることの確認”だと、今の私はもう知っている。
「ローゼンベルク嬢」
ルシアンは以前より落ち着いた声で言った。
「少し、時間をもらえるだろうか」
私は書類を整えながら答える。
「制度関係の話なら、この場でいいでしょう」
「私的な話だ」
「なら、なおのこと必要ありません」
ユリウスが一歩だけ引いた。
だが完全には離れない。妙な気遣いをせず、私に任せているのが分かる。
ルシアンは一瞬だけ唇を結び、それから静かに言った。
「……そうか」
私は顔を上げた。
「殿下。わたくしは、必要な仕事の話から逃げるつもりはありません。
ですが、終わった関係へ“私的な余白”を与えるつもりもございません」
「分かっている」
「本当に?」
「痛いほどにな」
その言葉だけ残して、彼は去っていった。
廊下の向こうで背を向けたその姿を見送りながら、私は妙な気分になった。
ようやく、彼にも“すぐには取り戻せない距離”というものが実感として分かってきたのだろう。
隣でユリウスが淡々と資料を重ねる。
「邪魔をしたなら失礼しました」
「いいえ」
「……ですが、あれは放置すると長引きそうですね」
「ええ。分かってるわ」
私は紙束を抱え直した。
元婚約者の後悔は、案外しつこい。
しかも厄介なのは、それが以前のような横柄さではなく、妙に誠実さを帯び始めていることだ。
けれど誠実になったからといって、間に合うとは限らない。
むしろ、
**“本当に誠実になるのが遅すぎた”**
という事実の方が、時に人を一層苦しめる。
その苦しみを、私はわざわざ軽くしてやる気はなかった。
共助院の設計は予想以上に難航した。
神殿側は認定権限の縮小を嫌がり、地方領主の中には「平民へ機会を与えすぎれば身分の秩序が崩れる」と反発する者もいる。
一方で、学園出身の若手官僚たちは概ね前向きで、王妃派も支援に回っていた。
その綱引きの中心に立っているうちに、私はいつの間にか、社交界より会議室にいる時間の方が長くなっていた。
「お嬢様、もう少し人並みに休まれては」
侍女のリゼが珍しく渋い顔で言う。
「人並みって何かしら」
「少なくとも、夜会の招待状を読みながら会計表に書き込みしない生活です」
「効率的でしょう?」
「たぶん違います」
私は笑って誤魔化したが、実際かなり忙しかった。
王妃からの依頼、侯爵家の領地関係、救貧院再建、神殿改革の経過確認。
そこへ社交界が放り込んでくる縁談と夜会が重なるのだから、たまったものではない。
そんな中、王都ではじわじわと、私に対する呼び方が変わり始めていた。
以前は「悪徳令嬢」「元婚約者」「ローゼンベルクの高慢な娘」。
今は違う。
「あの制度の中心にいる令嬢」
「王妃殿下のお気に入り」
「共助院設立の立役者」
そして時には、
「アーデルハイト様」
ただ、名前だけで。
その変化に最初に気づいたのは、学園の後輩令嬢たちだった。
秋の学園祭に招かれて訪れたとき、リゼットという一年生の子爵令嬢が、緊張を隠しきれない様子でやって来た。
「あ、あの……アーデルハイト様」
「何かしら」
「わたくし、以前……噂を信じておりました。
聖女候補をいじめる恐ろしい方だと……」
「あら」
「でも、今は違うと分かっております。
その……申し訳ございませんでした」
私はしばらく彼女を見た。
まだ幼い丸い頬。真面目そうな目。
損得より先に、ちゃんと謝るべきだと思って来たのだろう。
「顔を上げなさい」
彼女が恐る恐るそうする。
「噂を信じたこと自体より、確かめもせず誰かを断じたことを覚えておきなさい。
それが分かっているなら、謝罪は受け取るわ」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます……!」
「その代わり、次からはあなたが誰かの噂話に加担しないこと。約束できる?」
「はい!」
そんなやりとりを何人かと交わしながら、私は少し不思議な気分になっていた。
かつて“悪役令嬢”であることは、私を守るための武装だった。
舐められないために、高圧的で、皮肉で、近づきにくい女を演じる必要があった。
でも今は、それだけではなくなっている。
恐れさせるだけではなく、
**「あの人の前で、安易に誰かを悪く言えない」**
と思わせる位置へ変わりつつあるのだ。
それは少しだけ、誇らしかった。
帰り際、学園の旧図書館前でミレイユと落ち合うと、彼女が笑った。
「今日、後輩たちがすごかったですよ」
「何が?」
「『アーデルハイト様に叱られたい』って子までいました」
「意味が分からないわね」
「分からない方が健全です」
本当にそうである。
歩きながら、私はふと図書館の石段を見た。
ゲームのイベントではここで何度か、アーデルハイトがミレイユへ嫌味をぶつけるシーンがあった。
私はその記憶を知識として持っている。だが、今この場所に立っても、それが“私の人生”だった感じはもう薄い。
「ねえ、ミレイユ」
「はい?」
「もし今、この世界が本来の筋書き通りに進んでいたら、どうなっていたと思う?」
彼女は少し考えた。
「たぶん、わたしは最初もっと殿下に頼って、周りから嫉妬を買って……
アーデルハイト様は、そのぶん余計に追い詰められていたと思います」
「ええ」
「でも、今は違います。
だって、アーデルハイト様は最初から“悪役にならない”って決めたんじゃなくて、“悪役にされても自分で立つ”って決めたから」
私は足を止めた。
風が吹き、古い銀杏の葉が揺れる。
「……それ、いい言い方ね」
「でしょ?」
ミレイユはちょっと得意そうに胸を張った。
そのとき、図書館脇の回廊からユリウスが現れた。
どうやら今日は学園側と制度関連の打ち合わせがあるらしい。
「お二人とも、こちらにいらしたのですか」
「ええ。今終わったところ」
「ちょうどよかった。ローゼンベルク令嬢、後ほど王宮へ提出する草案を見ていただけますか」
「今?」
「今です」
躊躇がない。
私は呆れたように笑った。
「あなた、本当に女へ花を贈る代わりに資料を渡すのね」
「花より紙の方が役に立つでしょう」
「色気がないわ」
「その評価は受け入れます」
ミレイユが横で吹き出した。
「お似合いですね」
「どこが」
「テンポが」
「余計なお世話よ」
ユリウスは表情を崩さなかったが、眼鏡の奥でわずかに笑った気がした。
そうして私は、学園の回廊を歩きながらふと思う。
昔の私なら、誰かの隣にいるとき、その人が自分をどう見るかばかり気にしていたかもしれない。
婚約者として価値があるか、女として選ばれるか、家の駒として不足がないか。
でも今、隣にいるこの人は、私をまず“意見を持つ一人の人間”として扱う。
それがどうにも、新鮮で心地いい。
そんな変化を自覚した瞬間、少しだけ頬が熱くなった。
……面倒だ。
本当に。
問題の夜は、予想していたより早く来た。
王妃主催の小規模な月見の宴。
名目は穏やかだが、実際には共助院の最終調整前に関係者同士の空気を和らげるための集まりだった。
庭園の池には月が映り、風は秋めいている。
私は人の輪から少し離れ、石橋のたもとで息をついていた。
「ここにいたか」
聞き覚えのある声に、振り返る前から分かった。
ルシアンだった。
濃紺の礼装、整えられた金髪。
以前のような“絵に描いた王子”の美しさは変わらない。
けれど今は、その顔に浮かぶ表情の方が以前よりずっと人間らしい。
「一人で来るなんて、珍しいですわね」
「逃げられないようにと思ってな」
「そういう言い方は嫌いよ」
「……すまない」
彼はすぐに謝った。
本当に変わったのだと思う。
でも、変わったことと、手遅れであることは両立する。
私は橋の欄干に軽く指を置いたまま、静かに言う。
「ご用件は?」
「君に伝えるべきことがある」
「仕事の話なら明日にして」
「違う」
その声が妙に低くて、私はようやく彼の顔を正面から見た。
覚悟している顔だった。
嫌な予感がした。
だが止めはしない。ここで逃げれば後を引く。
ルシアンは少しだけ息を吸い、それからまっすぐ言った。
「私は、君を失ってから、ようやく君を見た」
――ああ。やっぱり。
私は何も言わない。
「婚約者としてそこにいることを当然だと思っていた。
賢さも誇りも、意地の強さも、全部“昔からそういうものだ”と見過ごしていた。
だが離れてから、君がどれだけのものを背負い、どれだけのものを支えていたか思い知った」
彼の声は震えていない。
だからこそ、逃げ場がない。
「今さらだと分かっている。
それでも伝えたい。
私は、今の君を尊敬している。
そして――」
私はそこで、先に口を開いた。
「好きになった、と?」
ルシアンは黙って頷いた。
胸がまったく高鳴らないわけではなかった。
かつてのアーデルハイトは、たぶんこの言葉を夢見ていたのだろう。
ようやく自分を見てくれた。ようやく愛してくれた、と。
でも今の私は、違う。
「殿下」
「ルシアンでいい」
「なら、ルシアン様」
私は池に映る月を見た。
「あなたの言葉は、たぶん本物なのでしょうね」
彼の呼吸がわずかに揺れる。
「なら――」
「でも、遅いわ」
はっきりと、そう告げた。
秋の夜気が冷たく頬を撫でる。
「わたくしが欲しかったのは、“失ってから惜しむ視線”ではありませんでした。
婚約者だった頃に、正面から見てくれること。
疑う前に話を聞いてくれること。
守るつもりなら、他の誰かではなくまず契約を守ること。
ただ、それだけでした」
ルシアンは何も言えない。
私は続ける。
「あなたは今、わたくしを見ている。
ええ、それは伝わる。
でもその視線は、今のわたくしが積み上げたものを見ているのであって、婚約者だった頃のわたくしに対して向けられたものではない」
「……違わない」
「違うわ」
私はきっぱり言った。
「だって、あの頃のわたくしがどれほど寂しかったか、あなたは知らないもの」
その一言だけで、彼の表情が崩れた。
痛みを真正面から受けた顔だった。
私はそこでようやく、少しだけ優しくなる。
「責めるために言っているのではありません」
「……なら、なぜ」
「あなたに“後悔が恋へ名前を変えれば許される”と思ってほしくないからよ」
ルシアンは長く黙り、それから絞り出すように問う。
「私に、もう可能性はないのか」
私はその問いに、しばらく答えなかった。
だって、それは単に彼に対する判決ではなく、
私自身が“何を選べるようになったか”という確認でもあったから。
そして最後に、ゆっくりと言う。
「ありません」
彼が息を止める。
「少なくとも、わたくしがあなたのもとへ戻る未来は、もうないわ。
だって一度、自分で取り戻した人生ですもの。
そこへ“今度はちゃんと愛すから”と言われて差し出す気にはなれません」
ルシアンは目を閉じた。
その姿を見て、胸が少しだけ軋む。
残酷だと思う。
でも必要な残酷さだ。
「……そうか」
「ええ」
「君は、本当に強いな」
「いいえ」
私は静かに笑った。
「強くなったのよ。あなたが間に合わなかっただけ」
その言葉に、彼はほんの少しだけ苦く笑った。
「その通りだ」
長い沈黙が落ちたあと、ルシアンは一歩下がった。
「なら、これで終わりにしよう」
「ええ」
「今後はもう、私情で君を煩わせない」
「そうしてくださると助かります」
「ただし」
彼は最後に、以前よりずっと穏やかな目で私を見た。
「君が選ぶ未来が幸せであることは、祈らせてくれ」
それだけ言って、彼は去っていった。
私はしばらくその背を見送り、やがて息を吐いた。
これで本当に終わりだ。
婚約だけではなく、あの頃の未練も、期待も、傷も。
橋の向こうから足音がした。
振り返ると、ユリウスが立っていた。
「……聞いていたの?」
「途中から」
「趣味が悪いわね」
「同意します。ですが、今行くと足音で邪魔をすると思ったので」
私は少し困ったように笑う。
「慰めるならやめておいて」
「そのつもりはありません」
即答だった。
「あなたはあれを必要な会話として終えた。
なら、外から勝手に感傷を足すのは無粋でしょう」
私は思わず、じっと彼を見た。
「本当に、面倒なくらい正しい人ね」
「不本意です」
「どうして」
「正しいだけでは、好かれないことも多いので」
珍しい。
ほんの少しだけ、自分のことを言った声だった。
風が吹き、月が揺れる。
「……今日は帰りたいわ」
私が言うと、ユリウスは頷いた。
「では、お送りします」
「それも実務の範囲?」
「半分は」
「残り半分は?」
彼は一瞬だけ間を置いてから答えた。
「私的な好意です」
今度、頬が熱くなったのは私の方だった。
ルシアンの言葉ではなく、この淡々とした一言で。
なんだかとても、癪だった。
物語が終盤へ向かうとき、たいてい敵は一度、見苦しいほどに暴れるものだ。
現実も同じらしい。
共助院設立の最終布告を目前に控えたある日、王都で妙な噂が広がり始めた。
――アーデルハイト・フォン・ローゼンベルクは、王妃の信任を利用して新制度を私物化しようとしている。
――平民を取り立てるふりをして、自家の派閥を広げるつもりだ。
――今度は元婚約者ではなく宰相府の若手官僚を誑かして権力を握る気らしい。
……あまりにも分かりやすい。
「手口が古いわね」
侯爵家の書斎で投書の束を見ながら、私は言った。
兄フェルディナンドが肩をすくめる。
「切羽詰まると人は発想が貧しくなる」
「ええ。本当にそう」
ただ、くだらないからといって放置できるわけではない。
共助院は今や王妃、学園、神殿新体制、若手官僚、地方支援網まで絡んだ大きな政策だ。ここで“女の野心”という分かりやすい噂を広げられると、保守層が「ほら見ろ」と騒ぎ始める。
しかも今回の噂には、明らかに誰かの意図がある。
単なる社交界の井戸端ではない。
「出所は?」
「今追ってる。だがどうも王宮内にも手がいるな」
私は机を指で叩いた。
ガスパール家の残党か、王妃派を快く思わぬ保守貴族か、あるいは両方。
だが、いずれにせよやることは同じだ。
「表で潰すわ」
「派手に行く気か」
「最初からそのつもりよ」
ちょうど翌週、王宮で共助院設立前の最終評議会が開かれる。
なら、その場でまとめて逆手に取るのが早い。
評議会当日、大広間には国王、王妃、主要貴族、神殿代表、学園長、宰相、そして関係官僚たちが集った。
私は侯爵家代表の補佐という立場で前列に座る。
開会後しばらくは予定通り議事が進んだ。
だが、中盤に入ったところで西方のハルベルト侯が立ち上がる。
「恐れながら陛下。共助院制度そのものには異論ありません。
ただし、その設計と運用に一部特定家門の意思が濃く入りすぎている懸念がございます」
きた。
大広間の空気が変わる。
ハルベルト侯は続ける。
「ローゼンベルク令嬢の尽力は認めましょう。ですが、未婚の高位令嬢が王妃の後ろ盾を得て制度へ深く関与することは、将来的に新たな派閥装置となりかねない。
まして宰相府若手官僚との個人的結びつきまで噂される現状では――」
私は心の中でため息をついた。
あまりに予想通りで、欠伸が出そうだ。
周囲にざわめきが広がる。
数名の保守貴族が、ここぞとばかりに頷いていた。
国王は何も言わない。
王妃も、あえて口を挟まない。
つまり、**私にやれ**ということだ。
私は椅子から立ち上がった。
「発言をお許しいただけますか」
国王が頷く。
大広間の中央へ進み出ると、視線が一斉に集まった。
懐かしい感覚だ。
断罪台に立たされる代わりに、自分から中央へ歩いていくこの感じ。
「ハルベルト侯のご懸念、もっともらしく聞こえますわね」
数人が息を呑む。
私は微笑んだ。
「ですが、確認いたします。
“高位令嬢が制度へ関与するのは派閥化の危険がある”と仰る一方で、これまで貴族夫人方が慈善寄付を通じて孤児院や施療院へ影響を及ぼしてきた慣習については、お咎めにならないのですか?」
侯の顔が止まる。
「そ、それとこれとは――」
「同じですわ。
ただ違うのは、これまでのやり方が“帳簿も責任も曖昧な善意”として見逃されてきたこと。
そして共助院は、それを見える形に変えることです」
私は周囲を見渡す。
「わたくしが関与しているから問題なのではなく、
**わたくしのような立場の者が関わっても中身を公開せねばならない仕組み**だから、不都合な方がいるのでしょう?」
ざわめきが強くなる。
ハルベルト侯が顔を赤くして言い返す。
「では、宰相府補佐との関係はどう説明なさる!」
「ユリウス・ヴァイス宰相補佐とのことかしら」
私はさらりと言った。
会場の視線が当人へ向く。
ユリウスは席から立ち、いつも通り無表情に近い顔で一礼した。
「私から申し上げます。
ローゼンベルク令嬢とのやり取りは、制度設計に関する文書・会議・記録上すべて保全されています。
私的贈与、便宜供与、監査外の決裁経路は一切ありません」
「しかし噂では――」
「噂は証拠になりません」
ユリウスは淡々と言う。
「むしろ、そうした噂を意図的に流した者がいるのであれば、制度妨害の一環として調査対象です」
その一言で、何人かの顔色が変わった。
当たりだ。
私はそこで最後の札を切る。
「参考までに」
侍従へ合図すると、封書が配られる。
昨夜までに兄とユリウスがまとめてくれた調査報告の抜粋だ。
「ここ一か月、共助院とローゼンベルク侯爵家を結びつける匿名投書の写しでございます。
紙質、筆跡、配送経路を照合したところ、王都西区のハルベルト侯家別宅に出入りする書記の一人と一致しました」
ハルベルト侯の顔が青白くなる。
「なっ……!」
「加えて、その書記へ支払われた臨時手当の会計線を追った結果、保守派数家からの共同拠出が確認されております。必要なら全名を読み上げてもよろしいかしら?」
大広間が完全に凍りついた。
国王がゆっくり口を開く。
「……十分だ」
その一言は重かった。
「共助院への妨害、および虚偽風聞の流布については別件として調査する。
評議会は予定通り進める」
ハルベルト侯は崩れ落ちそうな顔をしていた。
ざまあとしては派手ではない。だがこういう男には、公開の場で“自分こそ旧弊な妨害者だった”と晒されるのが一番痛い。
議事はその後、ほぼ異論なく進んだ。
布告文最終案が採択され、共助院設立は正式決定となる。
評議会終了後、回廊へ出た私に兄が追いついた。
「見事だった」
「ありがとう」
「しかし、あそこまで全部揃えてたのか」
「もちろん。
相手が“女の噂”を使ってくるなら、こちらは“紙と金の流れ”で返すに決まってるでしょう」
兄が声を立てて笑う。
その横へユリウスも来た。
「先ほどの返し、鮮やかでした」
「あなたの追撃も」
「実務でお返ししただけです」
私は少しだけ彼を見た。
「……ねえ、あなた」
「はい」
「もし今、“個人的関係”が噂されたとしても、否定しきれない程度には親しいのかしら、私たち」
兄があからさまに目を見開いた。
ユリウスだけが少し沈黙し、それから静かに答えた。
「私としては、そう望んでおります」
今度は私が言葉に詰まる番だった。
兄がにやけ顔で口を挟む。
「邪魔かな?」
「ええ、かなり」
「ひどい妹だなあ」
でも、その場の空気は妙に温かかった。
ざまあの真っ最中なのに、どうしてだか少しだけ笑ってしまう。
たぶんそれは、もう私は“戦うためだけ”に生きていないと分かり始めたからだ。
共助院の設立布告は、盛大に行われた。
王都広場には市民も集まり、王妃が自ら趣旨を述べ、学園長と神殿新代表、そして地方支援網の代表が署名する。
私の名は制度文書の発起協力者に連なった。
驚くほど多くの拍手が上がり、少しだけ眩暈がした。
だが、華々しい門出にはたいてい影がある。
その夜、王都南区の仮事務局が火に包まれた。
共助院設立に伴ってまとめられた施療院名簿、奨学候補生登録、寄付会計の写し。
それらを保管していた建物である。
「放火です」
駆けつけた兄が、煙の匂いの残る現場で低く言った。
「戸締りは破られていない。裏口の合鍵を使われた形だ」
私は真っ黒になった扉を見上げた。
中からはまだ赤い火の粉が舞っている。
幸い死者は出ていないが、夜番の青年が怪我をしたと聞く。
胸の奥に冷たいものが走った。
ここまで来ても、まだやるのか。
制度が動き始めた今になってなお、自分たちの都合を守るために。
「書類は?」
「主要原本は別保管だ。ここは写しと中間整理分が中心。
だが名簿の一部が持ち出された形跡がある」
私は振り返った。
「持ち出された?」
「焼くだけならその場で済む。
わざわざ抜いたってことは――」
「狙いは候補生ね」
共助院に登録された平民出身者、下級貴族、神殿外で修練する治癒術者見習い。
そうした者たちの名簿が渡れば、脅しにも囲い込みにも使える。
「最悪だわ」
「ええ」
そのとき、現場の向こうで馬が止まる音がした。
見るとルシアンとユリウスがほぼ同時に到着していた。
王宮側もすぐ動いたらしい。
ルシアンは状況を見るなり顔を険しくした。
「怪我人は?」
「一人。命に別状はない」
ユリウスはすでに衛兵へ指示を飛ばしている。
「周辺の出入り記録と、倉庫鍵の管理表をすべて押さえてください。
今夜中に西門、南門の馬車検分を」
私は二人を見ながら、妙な既視感を覚えた。
以前ならルシアンだけが前へ出て、周囲がそれに従っていた。
今は違う。
彼はもう“象徴的な王子”ではなく、ユリウスのような実務家と並び、必要な役目を分け合って動いている。
良い変化だ。
でも今、それを感慨深く見ている場合ではない。
「狙われた名簿の中身、覚えている範囲で洗い出すわ」
私が言うと、ユリウスがすぐ首を横に振った。
「だめです」
「どうして」
「あなたも狙いに含まれている可能性が高い。
今夜は一人で動かないでください」
「そんなこと――」
「アーデル」
ルシアンが低く呼んだ。
「今回は彼の言う通りだ」
苛立ちが湧きかけた。
守られるだけの立場へ戻されたようで。
だが次の瞬間、煙の奥から一人の男が取り押さえられながら引き出されてくるのが見えた。
倉庫番の補助係。顔には煤がつき、腰には小袋。中には焼け残った名簿の切れ端が入っていた。
「証人だ!」
誰かが叫ぶ。
男は狼狽えながらわめいた。
「し、知らない! 俺は運べと言われただけで……!」
「誰に」
「わ、分からない、黒い外套の――」
そのとき、男の背後の路地から矢が飛んだ。
一瞬のことだった。
狙いは明らかに、口封じ。
「伏せろ!」
叫んだのが誰だったか分からない。
ただ次の瞬間、私は強い力で肩を引かれていた。
体が横へ流れ、衣擦れと、硬い胸板と、地面を踏みしめる足音。
矢は私のいた位置の後ろの柱へ突き刺さる。
「……っ」
息が詰まる。
抱き留めた腕の主はユリウスだった。
彼は私を背に庇うように立ち、もう片方の手で衛兵へ怒鳴る。
「屋根上だ! 囲め!」
ルシアンはすでに剣を抜いて路地へ走っていた。
夜の混乱、衛兵の足音、誰かの悲鳴。
数分後、矢を放ったと思しき男は取り逃がされたが、口封じ役と倉庫番、鍵管理の不正を手伝った事務員の一部は捕らえられた。
騒ぎが落ち着いたあと、私はようやく自分がユリウスの腕に守られたままだと気づいた。
「……もう大丈夫よ」
「そう見えません」
「見た目の問題でしょう」
「脈も少し早い」
「そこまで分かるの」
「近いので」
言われて、ようやく自分から離れた。
頬が熱い。火事のせいだけではない。
ルシアンが戻ってきて、剣を鞘へ収めながら言った。
「取り逃がした。だが背後関係は絞れる。
倉庫番は、旧ガスパール派の残党と接触していた」
「やっぱりね」
私は深く息を吐いた。
制度の最後に残党が焦って噛みついてきたのだ。
だが今度は、こちらももう以前のように無防備ではない。
怪我人の搬送が終わり、周辺封鎖も進んだ頃、ルシアンが私を見た。
「無事でよかった」
その声には本心しかない。
でも、私が先に見るのは別の人だった。
「ユリウス」
「はい」
「さっきはありがとう」
彼は少しだけ目を伏せた。
「間に合ってよかった」
それだけだった。
恩を着せるでもなく、格好をつけるでもない。
ただ、間に合ってよかったと。
それが妙に胸に残る。
その夜、私は侯爵家へ戻ったあともなかなか眠れなかった。
テーブルの上には焼け焦げた紙片。
窓の外には冷たい星。
そして頭の中には、矢が飛んだ瞬間に自分の前へ出た人の姿が何度もよぎる。
ルシアンもまた動いた。
でも彼に対して感じるのは、もう痛みと静かな納得だけだ。
一方でユリウスを思い出すと、胸の奥が落ち着かない。
どうにもこれは、厄介な兆候だった。
「……本当に面倒だわ」
独り言をこぼし、私は枕へ顔を埋めた。
悪役令嬢が恋をするなんて、あまりにも似合わない。
けれど、もしするとしても今度は誰かに与えられる役ではなく、自分で選ぶものだ。
その違いが、こんなにも大きいなんて、昔は知らなかった。
放火事件から一週間後、黒幕はほぼ出揃った。
旧ガスパール派の会計残党、ハルベルト侯家の書記、共助院で職を失う予定だった神殿旧派の事務官。
要するに、“透明化されると困る連中”の寄せ集めである。
彼らは共助院の候補生名簿を押さえ、平民・下級貴族側へ圧力をかけて制度そのものを骨抜きにしようとしていた。
さらに放火で証拠を曖昧にし、混乱の責任を「急進的改革の無理」に転嫁するつもりだったらしい。
浅ましい。
だが現実的ではある。
王家は即座に追加処分を下し、ハルベルト侯は謹慎、関連実務官は罷免、神殿旧派の残党も一掃された。
こうしてようやく、共助院は“生まれる前に殺される”危機を越えたのだった。
その頃、私は少しだけ役目を減らし、領地へ戻る準備を進めていた。
王都の制度が形になった以上、次は自領で運用の土台を作る番だ。
救貧院だけでなく、女子向けの学寮、薬草園、寒村の巡回施療所。やりたいことはいくらでもある。
荷造り前の午後、私は侯爵家の温室で一人、書類を見ていた。
珍しく約束のない時間だった。
すると扉がノックされ、入ってきたのはユリウスだった。
「勝手に失礼します」
「あなた、最近侯爵家に馴染みすぎではなくて?」
「執事長から許可はいただいています」
「どうしてあの人はあなたに甘いのかしら」
「書類の整理が速いからでは」
あり得る。
とてもあり得る。
ユリウスは私の向かいに立ち、封書を差し出した。
「共助院の正式発足文書です。最終署名済み」
私は受け取って目を通し、静かに頷く。
「……ようやくね」
「ええ」
温室には冬薔薇の蕾が並び、ガラス越しの光が柔らかかった。
少しの沈黙のあと、ユリウスが言う。
「放火事件の日から、あなたの警護体制が厳しくなりました」
「ええ。不本意だけど」
「不本意ですか」
「だって、守られているばかりみたいで」
彼は少しだけ眉を動かした。
「あなたはご自分を、あまりにも“守られない側”に置きすぎです」
「そうかしら」
「そうです」
その断言があまりに迷いなくて、私は目を瞬いた。
ユリウスは続ける。
「あなたは十分に強い。
ですが、強い人間は守られなくていい、にはなりません」
言葉が、すっと胸の中へ入ってきた。
私はこれまで、守られることにどこか抵抗があった。
守られる女は、守られなくなった途端に終わる気がしていたから。
婚約者という立場も、王子の庇護も、“誰かが自分を選ぶこと”も、信用し切れなかった。
でも今の私は違う。
もし誰かが手を差し伸べてくれても、それは“なくなったら終わる命綱”ではない。
自分の足で立った上で、なお差し出される手だ。
それは、以前とは全然意味が違う。
「……あなたって、ときどき本当にずるいわね」
「なぜです」
「欲しい言葉を、欲しい瞬間にだけ置いていくから」
ユリウスは少し黙っていたが、やがて静かに言った。
「では、もう少しずるくてもよろしいですか」
「内容によるわ」
彼はまっすぐ私を見る。
「私は、あなたに正式に求婚するつもりでいます」
完全に不意を突かれて、私は固まった。
「……いきなりね」
「いきなりではありません。私の中ではかなり前から決めていました」
「あなたの中の進行状況なんて知るわけないでしょう」
「そうですね」
平然としている。
困る。
「ただし、今すぐ答えを求めるつもりはありません」
「……」
「あなたはようやく、ご自分の人生を取り戻したばかりだ。
そのタイミングで、別の名前の隣へすぐ移るよう迫るのは不誠実でしょう」
私は息を呑んだ。
ああ、この人は本当に分かっている。
私が何に傷つき、何を嫌がり、どこでようやく息ができるようになったのか。
「ですから、これは申し込みではなく、表明です」
ユリウスは淡々と言う。
「私はあなたを大切にしたい。
家門の札としてでも、制度設計の便利な相棒としてでもなく、一人の女性として。
ですが選ぶのはあなたです。
それがいつでも、あるいは永遠に来なくても、そこは尊重します」
温室が静まる。
遠くで水滴の落ちる音がした。
私は、すぐには答えられなかった。
だってそんな風に、選ぶ権利を丸ごとこちらへ渡されたことなんて、これまでなかったから。
婚約は決められるものだった。
期待は押しつけられるものだった。
愛は“応えるべきもの”として差し出されると思っていた。
でも今、目の前の男は違う。
差し出して、それを受け取るかどうかを私に委ねている。
「……少し、考えさせて」
「もちろんです」
「待てるの?」
「待ちます」
「長いかもしれないわよ」
「長い方がいいこともあります」
本当にずるい。
私は思わず笑ってしまった。
泣きたいような、笑いたいような、妙な気持ちだった。
「ありがとう、ユリウス」
「はい」
彼はそれ以上、何も迫らなかった。
その夜、私は久しぶりに、昔の未送信の手紙たちを思い出した。
けれど今回は、それを燃やす必要はなかった。
だってもう、誰かに見てほしかった過去の私も、誇り高く戦い抜いた今の私も、どちらも私の中にちゃんと残っているから。
そしてその両方を抱えたまま、次を選んでいいのだとようやく思えた。
冬が再び近づく頃、王宮では大きな方針転換が発表された。
第一王子ルシアンは継承権そのものを失わないものの、今後数年は王位継承の最終決定を保留し、地方行政と監査任務を継続する。
同時に、王家周辺の婚約・後見・神殿認証に関する慣習も見直されることになった。
要するに、
**“王家だから、王子だから、曖昧でも許される”**
という時代の終わりである。
その布告は大きな意味を持った。
社交界はざわつき、神殿はなお渋い顔をし、若手官僚たちは静かに沸いた。
私にとっても、それは一区切りだった。
ある夕暮れ、王宮書庫からの帰りに、私は中庭でルシアンと会った。
偶然にしては出来すぎているが、たぶん本当に偶然だ。
彼は以前より簡素な外套姿で、手には地方監査の資料を抱えていた。
「アーデルハイト嬢」
「ごきげんよう」
少しの間があって、彼は言う。
「布告は見たか」
「ええ」
「驚かないな」
「驚くほどではありませんもの。むしろ妥当ですわ」
ルシアンは苦笑した。
「君は相変わらず手厳しい」
「今さら褒めて差し上げるのも不自然でしょう?」
「そうだな」
中庭には冬前の薄い光が差して、噴水の水が冷たくきらめいている。
ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「以前の私なら、この決定を屈辱だと思っただろう」
「今は?」
「必要な時間だと思っている」
私は頷く。
「なら良い変化だわ」
「……君にそう言われると、少し報われる」
「それは違うでしょう」
私はゆるく首を振った。
「あなたが欲しがるべきは、私からの評価ではなく、現場であなたに救われる人や、あなたを信じ直す臣下の目よ」
ルシアンは目を伏せ、それからふっと笑った。
「本当に、君は最後までそうだな」
「どういう意味ですの」
「一度も私を甘やかさなかった」
「当然です」
「だが、そのおかげで私は今ここにいるのかもしれない」
私は答えなかった。
彼の変化は本物だと思う。
王子のまま完璧に善人へ生まれ変わったわけではない。けれど少なくとも、自分の未熟さを認め、そこから逃げずに歩こうとしている。
それはそれで、彼自身の物語としては救いなのだろう。
「そういえば」
ルシアンが少しだけ視線を上げる。
「ヴァイス補佐とは、うまくやっているのか」
……本当に、最後の最後でそういうところだ。
私はため息まじりに答える。
「仕事は順調ですわ」
「仕事は、か」
「それ以上を知る権利はありません」
「分かっている」
彼は微笑んだ。
少し寂しげで、でも前のように相手を縛ろうとする色はない。
「もし君が、いつか誰かを選ぶなら」
「選ぶわ」
私は先に言った。
「……そうか」
「ええ。今度は自分で」
ルシアンは一瞬目を見開き、やがてゆっくり頷いた。
「なら、それでいい」
本当に、それで終わりだった。
幼い頃から結ばれていた婚約者。
かつて夢見たかもしれない相手。
でももう、彼は過去だ。
そしてその過去を、私はようやく静かに手放せる。
別れ際、ルシアンは最後に一礼した。
「元気で」
「あなたも」
それは、今度こそ完全に、終わりの挨拶だった。
領地に戻った冬は忙しくも穏やかだった。
共助院の地方試験運用として、ローゼンベルク領では女子学寮と巡回施療所が動き始める。
北方の寒村に薬草庫を増やし、子ども向けの読み書き講義も始めた。
侯爵家の古参家臣は最初渋い顔をしたが、数字を見せると黙る。そこは変わらない。
ミレイユも時折滞在し、治癒補助の講習を担当してくれた。
彼女は王都と地方を行き来しながら、以前よりずっと自由に働いている。
「わたし、前より今の方が好きです」
雪の残る渡り廊下で、彼女はそう言った。
「何が?」
「“聖女候補”って呼ばれるより、“ミレイユさん”って言われる方」
私は頷く。
「分かる気がするわ」
ラベルは便利だ。
でも、ときどき人を檻にもする。
悪役令嬢も聖女候補も、結局は他人が分かりやすく並べた札にすぎない。
春の兆しが見え始めた頃、ユリウスが領地へ来た。
表向きは共助院運用視察。
実際、それも本当なのだろう。彼はそういう意味で抜かりがない。
雪解け水の流れる丘で、私は彼と並んで歩いた。
遠くには葡萄畑が広がり、まだ芽吹き前の枝が風に鳴る。
「王都へ戻る時期は決まりましたか」
彼が問う。
「春の終わり頃には」
「そうですか」
「何か困る?」
「少し」
私は横目で彼を見る。
「あなた、待つって言ったでしょう」
「ええ。ですから待っています」
「その割に、少し残念そうね」
「待つことと、寂しいことは矛盾しません」
本当に、この人は淡々とした顔でこういうことを言う。
私は少し笑ってから、立ち止まった。
丘の下には、まだ若い施療所と学寮の白い屋根が見える。
人が行き交い、煙突から細い煙が上がる。
私が守りたくて、作りたくて、ここまで来たものたち。
そしてその隣に、今は誰かに与えられたのではなく、自分で選ぼうとしている未来がある。
「ユリウス」
「はい」
「前に言ったわね。少し考えさせてって」
彼が静かに頷く。
「はい」
「考えたの」
春の風が吹く。
冷たいのに、どこかやわらかい。
「わたくし、婚約という言葉そのものに、まだ少し身構えてしまうわ。
誰かの都合で並べられた契約とか、役目とか、そういうものを思い出して」
「無理に慣れる必要はありません」
「ええ。でも」
私は彼をまっすぐ見た。
「それでもあなたと一緒にいる未来を、嫌だと思わなかった。
むしろ、少し見てみたいと思った」
ユリウスの呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
珍しく、表情が揺れた。
「……それは」
「だから」
私は少しだけ笑う。
「いきなり婚約、ではなくていいでしょう?」
彼は数秒黙ってから、低く、柔らかく答えた。
「ええ。
むしろ、その方があなたらしい」
「でしょう?」
「はい」
「まずは、正式にお付き合いから」
言ってしまってから、一気に照れくさくなる。
こんな言い方、前世でもしたことがない気がする。
けれどユリウスは、ふっと笑って一礼した。
「光栄です、アーデルハイト様」
「その呼び方、少し他人行儀ね」
「では、アーデルハイト」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。
不意に彼が手を差し出す。
「触れても?」
その確認が、どうしようもなく彼らしい。
私はその手を見下ろし、少しだけためてから、そっと重ねた。
「ええ」
指先が触れ合う。
冷たい風の中で、その温度だけがやけにはっきりしていた。
私は思う。
かつて婚約は、人生を奪う鎖だった。
でも今、誰かの手を取ることは、鎖ではなく並んで歩く選択になり得るのだと。
自分で選べるなら、それはもう全然違う。
それから一年後。
王都の春は、去年よりずっと澄んで見えた。
共助院は本格稼働し、学園から地方施療所へ派遣される若者も、神殿外で学べる治癒補助者も増えた。
女子学寮の制度は他領にも広がり始め、王妃は穏やかな笑みでそれを見守っている。
ガスパール家の名はほとんど歴史の注釈になった。
ハルベルト侯もすっかりおとなしくなり、婦人会の面々は私を見ると妙に姿勢を正す。
リディア・ベルナールは修道院へ入ったと聞いた。
泣けば許される時期が終わったあと、人がどう生き直すかは、その人次第だ。
ルシアンは依然、地方行政と監査を続けている。
時折王都へ戻るたび、以前より少ない言葉で必要な報告をし、以前より確かな手つきで仕事を片づけていくようになった。
彼はもう、私の人生の中心にはいない。
でもそれでいい。
それが正しい距離だ。
そして私は今、王都の新しい共助院本局の回廊を歩いている。
窓から春の光が差し、白い壁に柔らかな影を落としていた。
侍女ではなく実務補佐の若い娘たちが忙しく行き来し、階下では候補生たちが講義へ向かっている。
途中、見習いの少女が慌てて頭を下げた。
「アーデルハイト様、おはようございます!」
「おはよう。転ばないように走りなさい」
「はい!」
その背を見送りながら、私は少しだけ笑った。
もう誰も、私を“悪役令嬢”として恐れてはいない。
……いや、少しは恐れているかもしれない。
でもそれは、理不尽に誰かを潰す女としてではなく、筋の通らぬことを見逃さない人間としての怖れだ。
それなら悪くない。
会議室へ入ると、ユリウスがすでに資料を整えていた。
相変わらず隙がない。
「おはようございます――いえ、おはよう、アーデルハイト」
「おはよう。もう始めてるのね」
「あなたが遅れると聞いていなかったので」
「優しくないわね」
「甘やかすとつけあがるでしょう」
「何ですって?」
そんなやりとりをすると、周囲の若手官僚たちが微妙に目を逸らす。
たぶん気を遣っているのだろう。
だが今や私たちの関係は、隠す類のものではなかった。
正式な婚約はまだしていない。
焦るつもりもない。
でも王都ではすでに、「ローゼンベルク令嬢と宰相補佐は真面目に交際している」というのが半ば公然の事実になっている。
その事実に対して、誰も不自然な顔をしなくなった。
それが、少しうれしい。
会議が終わり、窓辺で一息ついていると、ミレイユがひょこりと顔を出した。
「終わりました?」
「ええ」
「じゃあお昼、ご一緒しません?」
「いいわよ。ユリウスも?」
彼は書類から目を上げる。
「喜んで」
ミレイユがにこにこしている。
たぶん、こういう穏やかな光景を見たかったのだろう。
三人で廊下を歩きながら、私はふと窓の外を見た。
中庭の薔薇が咲き始めている。
かつて処刑台の夢で見たのと同じくらい青い空の下で、今はただ風が心地いい。
「ねえ、アーデルハイト様」
ミレイユが小声で言う。
「何?」
「今、幸せですか」
私は少し考えた。
派手な熱狂でも、少女趣味の夢でもない。
でも、胸の底がちゃんと温かくて、自分の足で立っていて、隣に並んで歩ける人がいて、守りたいものに手が届く。
それを何と呼ぶのかなんて、もう分かっている。
「ええ」
私は笑った。
「とても」
ミレイユも笑った。
ユリウスは何も言わなかったが、そっと私の手に触れた。
人目のある回廊で、必要以上に親密にならない程度の、ほんの少しの温度。
それだけで十分だった。
私はアーデルハイト・フォン・ローゼンベルク。
かつて悪徳令嬢と呼ばれ、誰かに断罪されるはずだった女。
でももう違う。
婚約は、自分の手で破棄した。
奪われかけた名誉も人生も、取り返した。
私を利用した者たちには、相応の代償を払わせた。
そして最後に、私はちゃんと、自分の幸福を自分で選んだ。
だからもし今も誰かが陰でこう囁くのなら、どうぞ好きに言えばいい。
悪徳令嬢?
結構。
**ただし、その“悪”が理不尽に屈しない強さのことなら、わたくしは喜んで引き受けますわ。**
そうして春の光の中、私は前を向いて歩き出す。
もう、誰かの物語の悪役ではない。
これは最初から最後まで、
**わたくし自身の人生の物語なのだから。**




