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プリン奪還戦記

作者: 憂姫
掲載日:2026/04/25

佐藤明が最後に考えていたのは、手に持った「極上とろふわプリン」の賞味期限が明日までだったことだ。コンビニの自動ドアを一歩踏み出した瞬間、視界が激しく歪んだ。


アスファルトの無機質なグレーは、目に刺さるような発光エメラルドグリーンへと塗り替えられ、排気ガスの匂いは甘いシナモンの熱風へと変わる。気がつくと、佐藤は巨大な紫色のキノコの上に座り込んでいた。空を見上げれば、そこにはピンクと水色のストライプ柄が地平線のかなたまで続いている。


「……なんだ、ここ」


状況を理解しようと周囲を見渡すと、茂みがガサガサと揺れた。現れたのは、体長三十センチほどのウサギだった。しかし、その顔はどう見ても無精髭を蓄えた中年男性のそれであり、瞳には人生の荒波に揉まれたような深い哀愁が漂っている。


「おい、新入り。お前、醤油を持っていないか?」


ウサギが渋い低音ボイスで問いかけてくる。佐藤は困惑しながらも、手元に残ったコンビニ袋を確認した。中にあるのは割り箸とおしぼり、そしてなぜか中身が消失した空のプリンの容器だけだった。


「醤油はない……というか、ここがどこなのか教えてくれないか」


「ここはアルカディアの辺境だ。醤油がないなら用はないが、まあ、生きていたいなら自分の『力』くらいは把握しておけ。強く念じて手をかざしてみろ。お前の魂の形が見えるはずだ」


佐藤が半信半疑で空中に手をかざすと、淡い光と共に半透明の文字が浮かび上がった。


【固有能力:二度見リテイク

対象を注視し、強い違和感を抱くことで、直前の事象を一度だけ強制的にやり直させる。


「二度見……?」


佐藤がその奇妙な能力について考えようとした時、上空から轟音が響いた。全身を眩いラメでコーティングしたような巨大なトカゲ――ドラゴンが、ストライプの空を割って降りてきたのだ。ドラゴンは大きく口を開くと、凄まじい圧力を持った光を放った。


それは炎ではなく、物理的な質量を伴った「文字」の弾丸だった。


『尊い!』『マジ尊い!』


眩い文字がキノコの傘を粉砕し、佐藤のすぐ横を掠めていく。直撃すれば命はない。ドラゴンは恍惚とした表情で、言葉にならない感情を物理攻撃へと変換して吐き出し続けている。


「おい、サトウ! ぼーっとするな、能力を使え!」


おっさん顔のウサギが叫ぶ。佐藤は迫り来る『エモい』という巨大な文字の塊を凝視した。死の恐怖と共に、こんな馬鹿げた状況に対する強烈な拒絶感が胸を突き上げる。


「んなもん、あってたまるか!」


佐藤が必死に目を見開き、その光景を「二度見」した瞬間。


世界が一瞬だけ静止し、ビデオを巻き戻すような音を立てて光の文字がドラゴンの口内へと逆流していった。本来放たれるはずだった衝撃がドラゴンの喉元で爆発し、自らの放った熱量に耐えきれなくなったドラゴンは、虹色の煙を吹き出しながら空の彼方へと墜落していった。


静寂が戻った。佐藤は膝をつき、激しく肩で息をする。


「……助かったのか」


「ああ。だが、おしぼりと割り箸しかないお前の旅は、相当に前途多難そうだぞ」


ウサギは佐藤のポケットから半分はみ出していたおしぼりを器用に奪い取ると、それを美味そうに咀嚼し始めた。


おっさん顔のウサギは、おしぼりの袋まで器用に畳んで飲み込むと、満足げに喉を鳴らした。源三と名乗ったそのウサギは、短い後ろ足で器用に立ち上がり、ストライプの空を指差した。


「いつまでもその毒キノコの上で震えていても始まらん。とりあえず、人の住んでいる場所へ行くぞ。お前のその『二度見』とかいう力、使い道次第では飯の種くらいにはなるだろうからな」


佐藤はしぶしぶキノコから飛び降りた。足元の草は、踏むたびにアコーディオンのような音を立てて縮み、離すと元の形に戻る。二人が歩みを進めるにつれ、シナモンの風は次第に香ばしい「焼きたてのパン」の匂いへと変わっていった。


森を抜けると、そこには巨大な食器が乱立する街が広がっていた。住居はどれも巨大なティーカップやひっくり返したボウルでできており、中央には噴水ならぬ「コンソメスープの泉」が沸き立っている。


「ここが食卓都市『カトラリ』だ。いいかサトウ、この街では『味』がすべてだ。不味い奴は門前払い、美味い奴は王族扱い。お前のような無一文の異邦人が入るには、門番にそれなりの献上物を見せなきゃならん」


街の入り口には、全身を銀色の甲冑で包んだ巨大な「フォークの騎士」が立っていた。騎士は佐藤のコンビニ袋をじろりと睨みつけると、金属音を響かせて声を上げた。


「止まれ。入街を望むなら、我が舌を唸らせる未知の風味を差し出せ。さもなくば、その身をパスタの具材として刻んでくれるわ」


源三が「おい、何か出せ」と佐藤の脇腹を小突く。佐藤は焦った。袋の中にあるのは、空のプリン容器と割り箸だけだ。彼は震える手で、せめてもの抵抗として割り箸を差し出した。


「これ……日本の、伝統的な竹細工です。食べられませんが、香りは良いかと……」


フォークの騎士は割り箸をひったくるように受け取ると、あろうことかそれをそのままらしきスリットに放り込み、バリバリと咀嚼し始めた。数秒の沈黙の後、騎士の甲冑から真っ赤な蒸気が噴き出した。


「苦い! 硬い! そして何より、無味乾燥! 貴様、この私を侮辱したな!」


騎士が巨大なフォークの槍を振り上げる。佐藤は死を覚悟したが、その瞬間、脳裏に自分のスキルが浮かんだ。彼は必死に目を見開き、騎士が割り箸を口に運ぶ直前の光景を強く意識した。

「そんな食べ方、あるかよ!」


視界が激しく点滅し、時間が急速に巻き戻る。気がつくと、騎士はまだ割り箸を手に持ち、口へ運ぼうとしているところだった。佐藤は全速力でその手を止め、叫んだ。


「待った! それはそのまま食べるもんじゃない! 先を割って、こうして使うんだ!」


佐藤は騎士の手から割り箸を奪い、手際よく二つに割った。そして、近くに生えていた肉厚な多肉植物の葉を器用に挟んで見せた。


「こうして、食べ物を掴むための道具なんだよ。直接食う奴があるか!」


一度目の失敗を「二度見」で回避し、正しい使い方を提示した佐藤。騎士は割られた箸の断面をまじまじと見つめ、その機能美に感銘を受けたのか、槍をゆっくりと下ろした。


「ほう……直接的な味ではなく、所作の美を追求する道具か。その発想はなかった。面白い、通るがいい」


門が開く。源三は呆れたように鼻を鳴らしながらも、佐藤の肩に飛び乗った。


「運のいい野郎だ。だがな、サトウ。その箸一本でいつまで生き延びられるか、見ものだな」

佐藤は空のプリン容器を握り締め、パンの香りが漂う未知の街へと足を踏み入れた。彼が次に二度見することになるのは、コンソメスープの泉で水浴びをする、頭がクロワッサンの形をした美女だった。


泉の中央で優雅に身を翻すその女性は、確かに人間の体つきをしていたが、首から上はどこからどう見ても、焼きたてのように艶やかなクロワッサンだった。彼女が動くたびに、コンソメスープの熱気に乗ってバターの芳醇な香りが周囲に振りまかれる。


「おい、サトウ。あんまり見惚れるな。ありゃ『小麦の一族』の令嬢だ。この街じゃ最高級の身分だぞ」


源三が肩の上で忠告するが、佐藤の視線は釘付けだった。美しさへの感動というよりは、「あの頭はどうやって維持されているのか」という純粋な物理的疑問が勝っていたからだ。


クロワッサン令嬢は、スープの中に浮いた巨大なパセリの葉をボートのように使い、優雅にこちらへと近づいてきた。だが、その足取りならぬかいさばきが、どこか危うい。


「大変……どなたか、どなたか助けてくださいまし! このままでは私、浸かりすぎて『しなふにゃ』になってしまいますわ!」



彼女の叫びと共に、泉の底から異音が響いた。ゴボゴボという不穏な音と共に、さらさらだったコンソメスープが急激に粘度を増していく。


どうやら泉の温度調節機能が故障し、デンプン質の何かが異常に溶け出し始めたらしい。スープは瞬く間に濃厚なグレービーソースのようなとろみを帯び、彼女のパセリボートを飲み込もうとしていた。


「まずいぞ、パン系の一族にとって湿気ととろみは天敵だ! 腰まで浸かったら最後、二度とサクサクには戻れねぇ!」


源三が慌てて逃げ出そうとする中、佐藤は令嬢の頭、そのサクサクとした層の一部が、重いスープを吸って無残に垂れ下がるのを見た。彼女の絶望的な悲鳴が響く。


佐藤は反射的に叫んでいた。


「ふざけるな! クロワッサンはサクサクであってこそだろ!」


彼がその光景に猛烈な違和感「あってはならない」という確信を抱いて凝視した瞬間、視界が歪んだ。


能力が発動する。時間が数秒だけ巻き戻り、スープがドロドロになる直前の静寂が戻ってきた。

「令嬢、今すぐそこから離れろ!」


佐藤は叫ぶと同時に、足元に落ちていた先ほどの割り箸を全力で投げた。箸は令嬢の乗るパセリボートの縁に突き刺さり、その衝撃でボートは泉の縁へと押し流される。


「えっ……きゃあっ!?」


令嬢が縁に倒れ込むのと同時に、泉の底から泥のようなスープが噴き出した。間一髪だった。彼女のクロワッサンヘッドは、一滴のスープに汚されることもなく、見事な黄金色を保ったままだった。


「……助かりましたの? 私のレイヤーが、無事ですの……?」


令嬢は震える手で自分の頭に触れ、その硬質な手触りを確認すると、佐藤の方を向いて深々と頭を下げた。クロワッサンの先端が、佐藤の胸元をかすめる。


「見事な判断でしたわ。そちらの『二本の聖なる棒』を操るお方。私、バター伯爵家の令嬢、クロワ・サンスと申します。命の恩人であるあなたを、ぜひ我が家の晩餐会へ招待させてくださいまし」


「晩餐会? 飯が食えるのか?」


佐藤の問いに、令嬢は芳しいバターの香りを漂わせながら微笑んだ。


「ええ。この街で最も『香ばしい』最高のひとときを約束しますわ」


源三は佐藤の耳元で「棚ぼただな」と囁いたが、佐藤は令嬢の背後に広がる街の景色を見て、少しだけ不安になった。


晩餐会と言いつつ、自分たちが「食材」として扱われない保証はどこにもないのだから。


バター伯爵家の邸宅は、巨大な銀のバターケースをひっくり返したような形をしていた。邸内はひんやりと冷房が効いている。どうやら住人たちが溶けて形状を損なわないための配慮らしい。


「お父様、命の恩人をお連れしましたわ」


クロワ・サンス令嬢が弾むような声で紹介した先には、シルクハットを被った巨大な四角い塊が鎮座していた。


エシレ村出身だというバター伯爵は、佐藤の顔を見るなり、脂の乗った艶やかな顔をわずかに綻ばせた。


「ほう、君がクロワを救ってくれたという異邦人か。手に持っているのは……伝説の『二本の聖なる杖』ではないか! まさか実在したとは」


伯爵が感極まったようにプルプルと震えると、その拍子に彼の肩から一筋の黄色い雫が垂れた。佐藤は慌てて「ただの割り箸です」と言いかけたが、隣で源三が「黙って合わせろ、飯にありつけなくなる」と耳打ちしてきたので、静かに会釈した。


案内された食堂には、目も眩むような豪華な食卓が用意されていた。


しかし、並んでいるのは皿だけで、肝心の料理が見当たらない。代わりにテーブルの中央には、見たこともないほど巨大で真っ白な「豆腐」のような立方体が鎮座していた。


「さあ、サトウ殿。我が家に伝わる秘宝『沈黙の白絹』を、その聖なる杖で捌いて見せてくれ。これこそが晩餐会のメインイベントだ。成功すれば、君を最高の調味料として市民権を授けよう」


「調味料ってなんだよ……」


佐藤が困惑しながらテーブルに近づくと、周囲に控えていたメイド(頭部がマフィンの少女たち)がいっせいに拍手を始めた。どうやら、この滑りやすい巨大な物体を割り箸で美しく切り分けることが、この家における最高の礼儀であるらしい。


佐藤は深呼吸をし、割り箸を構えた。だが、彼が箸を伸ばそうとしたその瞬間、窓を突き破って黒い影が飛び込んできた。


「その白絹、我がバルサミコ侯爵家がいただく!」


現れたのは、真っ黒なマントを羽織った男だった。彼の頭部はガラス瓶になっており、中にはどろりとした黒い液体が詰まっている。侯爵がマントを翻すと、その衝撃でテーブルが激しく揺れた。


「あっ!?」


揺れに耐えきれず巨大な豆腐、沈黙の白絹が、テーブルから滑り落ちた。床に叩きつけられれば、この繊細な秘宝は跡形もなく崩れてしまうだろう。令嬢の悲鳴と、伯爵の絶望したような震えが部屋を満たした。


佐藤の脳が、反射的にその光景を拒絶した。


(せっかくの食事が、台無しじゃないか!)


「ふざけるな、まだ一口も食ってないんだぞ!」


佐藤がその落下する立方体を、眼球が飛び出すほどの勢いで「二度見」した。


視界が白濁し、時間が逆流する。バルサミコ侯爵が窓を突き破る直前まで、世界が巻き戻された。


佐藤は即座に動いた。巻き戻る前の記憶を頼りに、侯爵が飛び込んでくるであろう窓の直下へ駆け寄り、持っていたおしぼりの袋を破って床に広げた。


「そこだ!」


ガシャーンという音と共に侯爵が乱入してくる。しかし、今度は佐藤がテーブルの端をがっちりと押さえていた。激しい揺れが襲うが、白絹はわずかに震えただけで、その場に留まった。


「な……!? なぜ私の乱入を予見していたのだ!」


驚愕するバルサミコ侯爵を無視し、佐藤は素早く割り箸を割り、電光石火の早業で白絹の角を小さく摘み取った。そして、そのまま自分の口へと運ぶ。


「……美味い」


それは豆腐ではなく、濃厚なレアチーズとミルクを凝縮したような、天国のような味わいだった。佐藤の至福の表情を見て、邸内は割れんばかりの歓声に包まれた。


「素晴らしい! 襲撃を予見し、秘宝を救い、さらにはその味を誰よりも先に定義してみせるとは!」


バター伯爵は感激のあまり、自分の身体を削って作った「バタークッキーの勲章」を佐藤の胸に叩きつけた。一方、面目を潰されたバルサミコ侯爵は「覚えていろ、次はサラダボウルで会おう!」と捨て台詞を吐き、再び窓から飛び去っていった。


「やったなサトウ。これで当分は食いっぱぐれないぞ」


源三が満足げに佐藤の肩で欠伸をした。しかし佐藤は、胸元の勲章から漂う濃厚なバターの香りに鼻をくすぐられながら、ふと思った。この世界、もしかして「まともな人間」は自分一人だけなのではないだろうか、と。


バター伯爵から授与された「バタークッキーの勲章」は、佐藤の胸元で体温に温められ、あたりに抗いがたい背徳的な香りを撒き散らしていた。源三がその勲章を虎視眈々と狙い、佐藤の肩口で涎を垂らしている。二人は伯爵家を後にし、バルサミコ侯爵が去り際に言い放った「サラダボウル」を目指して、街の北側に広がる「ドレッシング街道」へと足を踏み入れていた。


街道沿いの並木は、巨大なアスパラガスやブロッコリーで形成されており、時折、空から酸味の効いた「フレンチドレッシングの雨」がパラパラと降り注ぐ。佐藤はコンビニ袋を傘代わりに掲げながら、ぬかるんだシーザーサラダのような地面を慎重に歩いた。


「なあ源三、さっきの侯爵は何者なんだ? あいつ、中身が液体だったぞ」


「ありゃ発酵貴族の一種だ。この世界じゃ、熟成された液体ほどプライドが高い。特にバルサミコ家は、あらゆる食材を自分の色に染め上げなきゃ気が済まない、独占欲の塊みたいな連中さ。おそらく、お前が持っている『二本の聖なる杖』を狙って、また刺客を送り込んでくるだろうよ」


源三の予感は的中した。街道の先、巨大なボウル状の盆地に差し掛かったところで、地面が激しく揺れ動いた。前方から押し寄せてきたのは、真っ赤に熟れた「自走式ミニトマト」の軍団だった。その後方には、先ほどのバルサミコ侯爵が、今度は巨大なスプーンの騎馬に跨って不敵に笑っている。


「サトウ殿、再会が早かったな! その杖を差し出し、我が家の専属箸使いとなるがいい。断れば、このボウルの中でお前を完膚なきまでに和えてくれる!」


侯爵の合図と共に、ミニトマトたちが一斉に跳躍した。ただのトマトではない。彼らは空中で自らを爆発させ、中から粘り気のある種と酸味の強い果汁を散弾のように撒き散らしてくる。佐藤は必死に身を翻したが、足元のレタスがドレッシングで滑り、無様に転倒した。


頭上から、巨大な完熟トマトが佐藤を目掛けて急降下してくる。直撃すれば、佐藤は真っ赤な果汁にまみれ、一生取れないシミを刻まれることになるだろう。その瞬間、佐藤の脳裏に「洗濯が面倒くさい」という、極めて世俗的で切実な拒絶感が走った。


「誰が赤いシャツを着るって言ったよ!」


佐藤が、自分に向かってくるトマトの軌道を「二度見」した。


能力が発動し、時間が数秒巻き戻る。トマトが爆発する直前、佐藤はまだ転倒していなかった。彼は即座に、胸元の「バタークッキーの勲章」を引き剥がし、それをフリスビーのようにトマトの群れに向かって投げつけた。


「源三、あいつらを食え!」


「待ってました!」


源三が空中で驚異的な跳躍を見せ、投げられたクッキーを起点に、飛来するトマトたちを次々と口に放り込んでいく。バターの脂質とトマトの酸味が口内で完璧なマリアージュを果たしたのか、源三のおっさんはかつてないほどに恍惚とした表情に染まった。


「美味い……! 脂質と酸味の波が、俺の胃袋を浄化していく……!」


爆発の連鎖は止まり、空には平和なバジルの香りが漂った。バルサミコ侯爵は、自分の兵隊が完食されるという前代未聞の事態に、瓶の中身を激しく泡立たせて狼狽している。


「バカな……我が精鋭たちが、ただのウサギの胃袋に収まるだと!?」


「侯爵さん、悪いが俺はもう腹一杯だ。次はデザートの街で会おうぜ」


佐藤は、半分欠けた割り箸を騎士のように構え、侯爵を威嚇した。侯爵は「これほど屈辱的な敗北があるか!」と叫びながら、自身の液体を半分ほどこぼしながら逃げ去っていった。

騒ぎが収まり、佐藤はふと自分の手元を見た。割り箸は先ほどトマトを弾いた衝撃で、ついに一本がポッキリと折れてしまっていた。


「……これじゃあ、もう物は掴めないな」


「気にするなサトウ。一本になったなら、それはもう『串』だ。この先には、串刺しの肉が支配する『バーベキュー荒野』が待ってるからな」


源三はトマトで膨れた腹をさすりながら、平然と言い放った。


街道を抜けると、空気は一変して焦げた炭の匂いと、脂の焼ける暴力的な芳香に包まれた。地面は黒々とした鉄板のような岩肌に変わり、至る所の亀裂からオレンジ色の種火がパチパチと爆ぜている。源三が言った通り、そこは焼かれるか焼くかの二択しかない「バーベキュー荒野」だった。


「いいか、サトウ。このエリアの連中は気が荒い。特に『生焼け』を極端に嫌うからな。常に表面はカリッとさせておけ」


源三は器用に熱い地面を飛び跳ねながら進むが、佐藤はスニーカーの底が溶けそうな熱気に悲鳴を上げていた。そんな二人の前に、地響きと共に巨大な影が立ちはだかる。それは、全身が霜降りの赤身肉で構成された、体長三メートルを超える「リブアイ・サイ」だった。サイの角は鋭利な金串になっており、その先端にはこれまでに仕留めたのであろう、巨大な玉ねぎやピーマンがぶら下がっている。


リブアイ・サイは佐藤の持つ折れた箸(一本の棒)を見るなり、鼻から熱い蒸気を噴き出した。


「……串が一本、だと? 貴様、我が荒野において『つくね』以下の存在と見なしてよいのだな!」


サイが猛然と突進してくる。その速度は見た目に反して凄まじく、逃げる隙など微塵もない。佐藤は咄嗟に折れた箸を前に突き出したが、物理的な強度で勝てるはずがなかった。金串の角が佐藤の喉元に迫り、死の予感が全身を駆け抜ける。


「そんな、強引な……!」


佐藤がその突撃の軌道に「二度見」を叩きつけた。


視界が歪み、一瞬だけ世界が静止する。時間がわずかに巻き戻り、サイが前脚を蹴り上げた瞬間まで戻った。佐藤は今度は逃げるのではなく、サイの足元にある「火が噴き出している地面の亀裂」に注目した。


「そこだ!」


二度目の瞬間、佐藤はあえてサイの懐へと飛び込み、折れた箸を亀裂の隙間に差し込んだ。テコの原理で岩を跳ね上げると、中から巨大な火柱が噴き出し、サイの腹部を一気に炙り上げる。


「ヌオオォッ!? 良い加減だ、いや、熱すぎるッ!」


腹側を完璧なミディアム・レアに焼き上げられたサイは、そのあまりの「旨味の凝縮」に悶絶し、バランスを崩して横転した。自重で転がったサイは、さらに熱い鉄板の上で全面を均一に焼き上げられ、やがて香ばしい匂いと共に動かなくなった。


「まさか、自分自身を調理させて戦意を喪失させるとはな。お前、意外とえげつないことするじゃねぇか」


源三が感心したようにサイの背中に飛び乗り、その一部を失敬しようと爪を立てる。しかし、佐藤はそれどころではなかった。折れた箸の先端が、先ほどの熱で真っ赤に熱せられ、鈍い光を放っている。それはもはや食器ではなく、どんな硬い肉をも貫く「焼印」のような武器へと変貌していた。


佐藤は熱せられた一本の棒を握り直し、遠くに見える煙の上がる山を見据えた。そこには、この世界の「主食」が住まうと言われる巨大な城がそびえ立っている。彼は、失ったプリンの代わりに、この世界のあらゆる食材を「二度見」でねじ伏せていく覚悟を決め始めていた。


鉄板の荒野を抜けると、空気は一変して湿り気を帯び、巨大な炊飯器の中に放り込まれたような熱気に包まれた。足元の地面は白く粘り気のある土壌「白米の湿地帯」へと変わっている。一歩踏み出すたびに足が沈み込み、芳醇な米の甘い香りが鼻腔を突く。


「おい、足元に気をつけろ。ここは油断すると糖分で動けなくなるぞ」


源三が忠告した矢先、湿地の中央が大きく盛り上がった。現れたのは、巨大な三角形の塊「オニギリ・ゴーレム」だ。全身を漆黒の海苔の鎧で固め、その隙間からは炊き立ての米が眩いばかりの光を放っている。ゴーレムは佐藤の持つ熱せられた箸を見つけるなり、怒りの咆哮を上げた。


「……具材のない、ただの棒だと? 貴様、米の神聖さを汚す不純物め!」


ゴーレムが巨大な腕を振り下ろす。その一撃は重く、着弾した地点の米が弾け飛ぶ。佐藤は辛うじて避けたが、飛び散った「粘り気」が足に絡みつき、次の回避を封じられてしまった。ゴーレムは勝ち誇ったように、今度は腹部から大量の「高圧醤油」を噴射しようと構える。


(あんなのを食らったら、服が真っ黒になるだけじゃ済まない……!)


佐藤は眼前に迫る黒い液体の圧力に対し、視界が焼き付くほどの集中力で「二度見」を発動させた。


時間が巻き戻る。ゴーレムが醤油を噴射する直前、佐藤はまだ自由な足で立っていた。彼はあえて回避せず、赤く熱せられた一本の箸を、ゴーレムの海苔の鎧の「継ぎ目」へと突き立てた。

「焼きおにぎりになっちまえ!」


熱せられた箸が海苔を焼き切り、中の米に直接触れる。熱せられた米は一気に香ばしさを増し、その部分だけが急激に硬化して弾けた。内部の圧力が狂ったゴーレムは、醤油を噴射するタイミングを失い、自らの体内で黒い液体を逆流させた。


「グ、グオオッ……中まで……味が染みていく……!」


ゴーレムは全身から湯気を上げながら、その場に崩れ落ちた。ただの米の塊に戻ったゴーレムの残骸から、佐藤は奇妙な光を放つ小さな石を拾い上げた。それは、この世界のエネルギー源とされる「岩塩の欠片」だった。


「いい腕だ。その熱い棒と岩塩があれば、次の『パンの防壁』も突破できるかもしれねぇな」

源三は、佐藤が手に入れた岩塩を物欲しそうに眺めながら、さらに北の空を指差した。そこには、巨大な食パンを積み上げたような城壁が、夕闇に溶け込むようにそびえ立っていた。佐藤は熱せられた箸を冷ます暇もなく、米の粘り気を振り払って次なる戦地へと歩き出した。


米の湿地帯を抜けた先に立ちふさがったのは、これまでの牧歌的な風景をあざ笑うかのような巨大な建造物だった。厚さ数メートルはある巨大な山型食パンを、建築資材のように交互に積み上げて作られた巨大な城壁「パンの防壁」。その隙間からは、絶えず発酵による熱気と、どこか酸っぱいイースト菌の匂いが立ち上っている。


源三が耳をピクつかせ、湿った鼻を動かした直後、上空から巨大な影が降り注いだ。轟音と共に着地したのは、全身が硬質化したフランスパンの羽毛で覆われた伝説の魔獣、ガーリック・バゲット・グリフォンだ。その嘴は鋭利にカットされたバゲットの先端のように尖り、一吹きで周囲を「食欲の嵐」に巻き込む高濃度のガーリック・オイルを喉の奥に湛えている。


佐藤は一本になった箸を構えた。手の中にある「岩塩の欠片」が、グリフォンの放つ威圧感に反応するように青白く脈動し始める。グリフォンが大きく翼を広げると、その隙間から熱せられたガーリック・バターが飛沫となって降り注いだ。地面の「米」たちは瞬時にガーリックライスへと変貌し、佐藤の靴にこびりついてその自由を奪う。


グリフォンが咆哮し、喉の奥で黄金色の高熱オイルがチャージされた。あれを正面から食らえば、佐藤は「香ばしい異邦人のソテー」として生涯を終えることになる。佐藤は、グリフォンの喉元が発光し、破壊のブレスが放たれた瞬間の光景を、強烈な拒絶感とともに凝視した。


「お前の焼き加減、注文と違うんだよ!」


佐藤が叫ぶと同時に、世界がモノクロに反転した。スキル「二度見リテイク」が発動し、時間は強引に数秒前へと巻き戻される。佐藤は巻き戻る時間の流れの中で、手に持っていた岩塩の欠片を、一本の箸でゴルフのパットのように弾き飛ばした。


時間は正常な流れに戻る。グリフォンがブレスを放つまさにその瞬間、佐藤が弾いた岩塩が、その喉奥へと吸い込まれる。


高熱のガーリック・オイルと、魔力を帯びた岩塩が接触し、グリフォンの口内で爆発的な「塩分浸透圧の崩壊」が発生した。あまりの塩分濃度にグリフォンは「塩辛すぎる!」と悶絶し、破壊的な熱線となるはずだったブレスは、ただの白い煙となって霧散した。


喉を痛めて涙目になったグリフォンがパンの城壁の向こう側へと逃げ去ると、岩塩が爆発した衝撃で、山型食パンの城壁に巨大な亀裂が入った。


熱と塩分によってパンの組織が急速に劣化し、あんなに堅牢だった壁が、まるでラスクのようにボロボロと崩れ落ちていく。


「見事だサトウ。岩塩を『調味』ではなく『妨害』に使うとはな」


源三は崩れたパンの破片を拾い上げ、贅沢にも「ガーリック風味のラスク」として頬張り始めた。佐藤は折れた箸を見つめた。先端の熱は岩塩の魔力を吸い、今や鈍い銀色の輝きを放っている。


崩れた防壁の向こう側には、空にそびえる「巨大なステーキの塔」と、それを包囲する「サラダの森」が広がる、この世界の中心部が見え始めていた。


佐藤は、どこかにあるはずの「普通の冷蔵庫」と、そこに入っているはずのプリンを思い、重い足取りで前へ進んだ。


崩れた防壁の破片を乗り越え、佐藤と源三が足を踏み入れたのは、むせ返るような青臭さと酸味が支配するサラダの森だった。


そこは、高さ10メートルを超える巨大なロメインレタスが幾重にも重なり、日光を遮る深い緑の世界だった。


地面は常に湿っており、白濁したシーザードレッシングの沼が至る所に点在している。一歩進むたびに、足元からパルメザンチーズのような独特の香りが立ち上り、佐藤の鼻を突いた。


「サトウ、気をつけろ。この森のドレッシング霧は、吸い込みすぎると体内の塩分バランスを狂わされる。意識をしっかり持て」


源三が鼻をヒクつかせながら忠告した。佐藤は言われた通り、口元をコンビニ袋の残骸で覆い、銀色に輝く一本の箸を握りしめる。


森の奥へ進むにつれ、周囲のレタスの葉が不気味にざわめき始めた。風もないのに、巨大な葉の陰から何かがこちらを伺っている気配がする。


突如、シュッという鋭い風切り音と共に、佐藤の頬を何かが掠めた。後ろのレタスに突き刺さったのは、一辺が5センチほどもある、岩のように硬く焼き上げられたクルトンの弾丸だった。


「どこだ!?」


佐藤が顔を上げると、レタスの天蓋の上に、全身をトウモロコシの粒で着飾ったコーン・アーチャーたちが待ち構えていた。


彼らは背負ったクルトンの筒から、次々と硬質の弾丸を放ってくる。回避しようにも、足元のドレッシング沼が粘着質に変化し、佐藤の動きを封じにかかっていた。


「くそっ、これじゃ的じゃないか!」


頭上から、十数発のクルトンが一斉に佐藤の脳天を目掛けて降り注ぐ。直撃すれば、頭蓋骨がクルトン並みに粉砕されるのは明白だった。


佐藤は極限の集中状態で、降り注ぐ弾丸の軌道を凝視した。一発一発の弾道が、スローモーションのように脳裏に焼き付く。


「そんな健康的な死に方、ごめんだ!」


スキル二度見リテイクが発動する。世界から色が消え、時間が数秒前へと巻き戻された。クルトンが発射される直前、佐藤はまだ沼に足を取られていなかった。彼は巻き戻る意識の中で、銀色の箸を沼の表面に叩きつけた。


「凍れ……いや、固まれ!」


箸に宿る岩塩の魔力と熱がドレッシングに伝わり、瞬時に表面がカリカリのチーズのように焼き固められた。


足場を得た佐藤は、クルトンが放たれた瞬間に前方へと大きくダイブする。背後の地面がクルトンの雨で激しく爆ぜる中、佐藤は着地の勢いを利用して、銀色の箸をアーチャーたちが潜むレタスの根元へ突き立てた。


熱せられた銀の箸が、レタスの水分を瞬時に蒸発させ、爆発的な蒸気を発生させる。レタスの巨木が大きく傾き、上にいたコーン・アーチャーたちはバランスを崩してドレッシングの沼へと次々に転落していった。


「ふぅ……サラダを食うのも命がけか」


「いい動きだったぜ、サトウ。だがあのアーチャーどもは前座に過ぎねぇ。見てみろ、森の主がお目見えだ」


源三が指差した先、レタスのカーテンを切り裂いて現れたのは、全身がアボカドの皮のような鱗で覆われた巨大なアボカド・ドラゴンだった。その背中には、真っ赤なパプリカの翼が誇らしげに生えている。


ドラゴンの咆哮と共に、森全体のドレッシング霧が渦を巻き始めた。佐藤は箸を構え直し、この森を抜けた先にあるはずの、肉の香りが漂うステーキの塔を睨みつけた。


アボカド・ドラゴンの咆哮は、森の空気を震わせるだけでなく、周囲のドレッシング霧を物理的な質量へと変えていった。


ドラゴンの鱗の間から溢れ出した濃厚な油分が、レタスの葉を伝って佐藤の足元へ押し寄せる。それは単なる液体ではなく、触れたものを強制的に「熟成」させる魔力を帯びていた。


「サトウ! まともに相手をするな。あいつのブレスを食らえば、お前は一瞬で食べ頃を過ぎた茶色の泥になっちまうぞ!」


源三が叫びながら、レタスの茎を駆け上がっていく。佐藤は銀色の箸を構え直すが、アボカド・ドラゴンの巨体は圧倒的だった。ドラゴンがそのパプリカの翼を羽ばたかせると、鋭利なパルメザンチーズの破片が嵐のように降り注ぐ。


佐藤は飛来するチーズの破片を箸の先で弾き飛ばしながら、ドラゴンの動きを凝視した。


ドラゴンの喉元が不気味に膨らみ、緑色の粘り気のある光が漏れ出す。それが放たれる直前、佐藤は反射的に「二度見」のトリガーを引いた。


視界が白黒に反転し、時間が逆流する。ブレスが放たれるコンマ数秒前。佐藤は回避するのではなく、あえてドラゴンの足元へ向かって滑り込んだ。手に持っていた「岩塩の欠片」を、銀色の箸の熱で一気に加熱し、ドレッシングの沼へと叩きつける。


「リテイク……ここで、煮詰まれ!」


岩塩の魔力と箸の熱、そしてドレッシングが反応し、佐藤の周囲に爆発的な蒸気の膜が形成された。時間が正常に戻った瞬間、ドラゴンの放ったアボカド・ブレスが蒸気の膜に直撃する。本来なら佐藤を溶かすはずの緑の光は、急激な熱変化によって中和され、あたりには巨大な「ワカモレ」の山が築かれた。


「何っ!?」


ドラゴンが困惑した隙に、佐藤はワカモレの斜面を駆け上がり、ドラゴンの脳天目掛けて銀の箸を突き立てた。


箸に宿る岩塩の力がドラゴンの神経系を刺激し、全身に強烈な「塩味」が駆け巡る。あまりの浸透圧の変化に耐えきれなくなったドラゴンは、パプリカの翼を力なくバタつかせ、そのまま森の奥へと逃げ去っていった。


静寂が戻った森で、佐藤は肩で息をしながら、箸の先から滴る緑色の果汁を振り払った。


森の向こう側、ついに視界を遮るものがなくなり、空高くそびえ立つ「ステーキの塔」がその全貌を現した。それは幾層にも重なる巨大なサーロインの断層であり、頂上からは肉汁の滝が黄金色に輝きながら流れ落ちている。


「ようやくメインディッシュか。だがなサトウ、あそこを守っているのは、これまでのような食材の化け物じゃねぇ。この世界の料理長を気取っている『人間』だ」


源三の言葉に、佐藤は無言で頷いた。手に持った箸は、度重なるリテイクと魔力の酷使により、今や美しい銀色の光を放つ短槍へと進化していた。


失ったプリンへの執着が、いつの間にかこの不条理な世界の核心を暴きたいという意志に変わりつつあるのを、佐藤は自覚していた。二人はドレッシングのぬかるみを抜け、肉の香ばしい煙が立ち込める塔の麓へと歩を進めた。


ステーキの塔の麓に辿り着いた佐藤を待っていたのは、芳醇な肉の匂いだけではなかった。塔の入り口、巨大な牛の頭骨を象った門の前には、白衣を纏った一人の男が立っていた。男は巨大なペッパーミルを肩に担ぎ、冷徹な瞳で佐藤の持つ銀色の箸を見つめている。


「まさか、サラダの森の番人を『過剰な味付け』で退ける者が現れるとはな。だが、ここから先は甘くないぞ」


男がそう言うと、背後の塔から肉汁が激しく噴き出し、周囲に立ち込める霧を赤く染め上げた。男はこの異世界を管理する「マスターシェフ」の一人であり、佐藤のような漂流者を食材として格付けし、世界の歯車に組み込む役割を担っていた。


「俺はただ、家でプリンを食べたいだけなんだ。邪魔をするなら、あんたもリテイクの対象だ」


佐藤が銀色の箸を構えると、シェフは鼻で笑い、担いでいたペッパーミルを勢いよく回転させた。放たれたのは、一粒が弾丸に匹敵する衝撃を持つ「ブラックペッパー弾」の弾幕だった。一発が佐藤の足元を砕き、火花を散らす。


「プリンだと? そんな脆弱な軟体スイーツを求める者が、この肉の聖域に足を踏み入れるなど片腹痛い。貴様には『完膚なきまでのウェルダン』がお似合いだ!」


シェフがミルを突き出すと、ブラックペッパーの弾丸が一点に集中し、佐藤の心臓を狙って加速した。回避不能の距離。佐藤は限界まで意識を研ぎ澄まし、飛来する弾丸の「黒い影」を、三十二年の人生で最も強い違和感として網膜に焼き付けた。


スキル「二度見」が発動し、世界が一度だけ呼吸を止めた。


巻き戻る時間の中で、佐藤は弾丸を避けるのではなく、あえて一歩踏み込んだ。そして、銀色に輝く箸をブラックペッパーの弾道上に水平に掲げる。時間が再び動き出した瞬間、数十発の弾丸は箸の表面で弾け飛び、逆にシェフの方へと跳ね返っていった。


「なっ……反射だと!?」


驚愕に目を見開いたシェフの隙を突き、佐藤は肉汁の滝を蹴って跳躍した。箸の先端が、塔から流れる黄金色の脂を吸い上げ、眩いばかりの炎を纏う。


「焼き加減は、自分で決める!」


佐藤が放った渾身の一突きは、シェフの白衣を焦がし、牛の門を粉々に粉砕した。爆風と共に塔の内部が露わになり、そこには重厚な石造りの階段と、その頂上で異様な光を放つ「巨大な冷蔵庫」の影が見えた。


「行け、サトウ! あの冷蔵庫の奥に、お前をここに呼んだ『料理の神』が隠れてやがる!」


源三の叫びを背に、佐藤はステーキの塔を駆け上がった。階段を踏みしめるたびに、これまで倒してきた食材たちの記憶が駆け巡る。彼が求めるのは、世界の救済でも王座でもない。ただ一口の、完璧なプリン。その執念が、異世界の中心へと突き進んでいった。


塔の階段は、積み上げられた肉の断層が重力に従って絶妙に歪み、登る者の三半規管を狂わせる。佐藤は、銀の箸を杖代わりに突き立てながら、一歩ずつ脂で滑る階段を這い上がった。背後からは、敗北したシェフが放つブラックペッパーの残香が追いかけてくるが、視線の先にはただ一点、塔の頂上で冷たい冷気を放つ「巨大な冷蔵庫」だけがあった。


ついに最上階の扉を蹴り破ると、そこは下層の熱狂的な調理場とは対照的な、静謐な銀色の空間だった。部屋の中央に鎮座するその冷蔵庫は、高さ五メートルはある威容を誇り、扉の表面には「管理期限:無期限」と刻まれた金色のプレートが輝いている。


「よく来たな、異邦人。そして、私の管理を二度も三度も見直したイレギュラーよ」


冷蔵庫の影から現れたのは、真っ白なトックブランシュを被り、半透明の体を持つ「料理の神」だった。その姿は、佐藤がコンビニで見たプリンの精霊のようでもあり、あるいは空腹が生み出した幻影のようでもあった。


「あんたが神か。勝手に人を連れてきて、プリンまで没収して……。何のつもりだ」


「この世界は、飽和しているのだ。決まりきったレシピ、決まりきった焼き加減。私は、既存の調理工程を『リテイク』できる存在を求めていた。お前のその『二度見』という能力こそが、この腐敗しかけた美食の世界を再構築する唯一のスパイスなのだよ」


神が指を鳴らすと、冷蔵庫の重厚な扉が音を立てて開いた。中から溢れ出したのは、これまでの冒険で見てきたどの食材よりも純粋で、暴力的なまでに甘い香り。棚の最上段には、佐藤が失ったはずの「極上とろふわプリン」が、まるで世界の理そのものであるかのように鎮座していた。


「それを食べれば、お前はこの世界の王となり、すべての食材を自在に再構築できるだろう。だが、その瞬間に元の世界との繋がりは完全に断たれる。さあ、選ぶがいい」


佐藤は無言で歩み寄った。銀色の箸をゆっくりと下ろし、震える手でプリンの容器を手に取る。プラスチックの冷たい感触が、あまりにも懐かしく、そして現実味を帯びて掌に伝わる。


源三が部屋の隅で「食っちまえよ、サトウ。そいつを食えば、もうおしぼりを食わなくて済むんだ」と、どこか寂しげに笑った。


佐藤はプリンの蓋をゆっくりと剥がした。黄金色のカラメルが、内側に付着したクリームと混ざり合い、完璧なグラデーションを描いている。彼は一口、そのスプーン――ではなく、今は一本の槍と化した銀の箸の先で、慎重にその身を掬い上げた。


「……味気ないな」


佐藤は呟いた。神が眉をひそめる。


「何だと?」


「決まったレシピも、完璧な管理も、もう飽きたんだ。俺が見たいのは、予定調和のプリンじゃない」


佐藤は、プリンを口に運ぶ直前、その光景を全力で「二度見」した。


スキルがこれまでになく激しく発動し、冷蔵庫の冷気と、神の半透明な体が激しく明滅する。佐藤がリテイクしたのは、プリンの存在そのものではなく、自分がこの世界に来た「原因」だった。


世界が、凄まじい速度で逆再生を始める。ステーキの塔が崩れ、サラダの森がレタスの種へと戻り、おっさん顔のウサギがただの野ウサギへと姿を変えていく。


気がつくと、佐藤はコンビニの自動ドアの前に立っていた。手には、賞味期限が明日までのプリン。足元はアスファルトのグレー。シナモンの風はなく、排気ガスの匂いが鼻を掠める。


「……夢、か?」


佐藤がプリンの容器をじっと見つめると、そこには見覚えのある、銀色の小さな「箸の跡」が一口分だけ刻まれていた。そして、ポケットの中には、なぜか一本の焦げた割り箸と、少しだけバターの香りがするクッキーの欠片が残っていた。

よくあるファンタジー書くより筆が進みました…

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