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魔女の末裔と偽りの恋

作者: 橋本彩里
掲載日:2026/03/28


 彼は、異性として意識するのは烏滸(おこ)がましく思えるほど、ものすごく眩しい場所にいる人だった。

 だから、好意を持つこともなく付き合いたいなどと考えたこともなかった。

 熱心に通ってくれる新たな常連ができて嬉しいなくらいの気持ちで、いつも彼のことを出迎えていた。


 およそ一年前、その彼、ウィルフレッドと会ったのは、しょっちゅう店に顔を出していた常連客がしばらく家を空けると旅立ってから一か月後のことだった。

 藍色の生地に銀のラインと装飾品が施された騎士の制服と黒いマントを羽織った姿は、ウィルフレッドに(あつら)えられたようにとても似合っていた。


 背筋が伸び自信に満ち溢れた姿は狭い店の中では高身長の彼はさらに大きく見え、自分とは違う世界で生きている人だと感じた。

 王都の騎士という人気職につける実力と、輝くような金の髪に透き通った水色の瞳は眩しくて、童話の中に出てくる王子様のようだった。


 ――お日様を背負ったみたいな人。


 私、シャノンのウィルフレッドの第一印象は、綺麗なものを見て感心するようなそんな類いのものだった。

 店を始めてから、よく顔を合わせていた人が来なくなって寂しく感じていた時で、その穴を埋めるようにやってくるようになったウィルフレッドの訪れを、私はいつしか楽しみにするようになっていた。


 店に来るときはいつも笑顔を浮かべ、誠実で、友好的に話しかけてくる。

 ウィルフレッドは距離の取り方が抜群で、人見知りで最初は距離をとる私に無理に詰めずにゆっくりと共通点を増やし、気づけば私は笑顔で話すようになっていた。

 積極的だけれど絶妙な距離感を保ち、ぐいぐいくることはなく、おしゃべりだ、煩いなど思ったこともなかった。


 店の中まで太陽を連れてきたようなウィルフレッドとのちょっとした時間は、つられるように笑顔になり明るい気持ちになるものだった。

 たった一時だけのことでも、その日はずっと心が温かくなった。


 そんな彼に告白され付き合うことになり、好きになるのはもはや必然だった。



   ◇ ◇ ◇



 その日はいつもより早い冬が訪れ、外では真っ白な雪がときおり風に吹かれ踊るように舞っていた。

 私は窓の外を眺めながら重苦しい息を吐き出し、癖のある赤髪を耳にかけた。

 来訪のベルが鳴り、扉を開けると頭や肩に雪を乗せた恋人、ウィルフレッドが現れた。


「ウィル。寒かったでしょ。早く入って」


 扉の前で雪を払うウィルフレッドに声をかけ、慌ててタオルを取り手渡した。

 扉を閉めても入ってきた冷気に身震いすると、ウィルフレッドに抱きしめられる。


「寒かった? ごめんね」


 私よりも頭一つ高く、鍛え上げられた肉体に包まれる。すうっ、と息を吸うとウィルフレッドの愛用する香水に混ざり、冷気の匂いがした。

 少しでも暖まるようにとおずおずと彼の腰に手を回すと、嬉しそうな吐息とともにさらに腕に力を込められた。

 その力強さに泣きたくなる。


「ううん。大丈夫」

「でも、震えてた。お詫びに温めさせて」


 ぎゅう、と抱きしめ、「会いたかった」と私の耳元でささやくウィルフレッドの声がやけに甘く聞こえた。

 まるで本気で求めているかのようにかき抱かれながら、それでいてどこまでも優しい仕草で背中を撫でられる。

 つん、とこみ上げる思いに嗚咽が漏れそうになり、私は慌ててその胸に顔を押し付けた。


 恋人の嘘を知ってから一か月。

 今日で終わりにするのだと決め、バレないように準備をしてきた。あくまで準備ができただけで、成功するかはこれからにかかっている。


 まだ何も始まっていないのだからと、ふぅぅっと大きく息を吐き出した。もうずっと胸の重苦しさは取れなくて、やりきればなくなるのだろうかとそんなことばかりを考える。

 おずおずとウィルフレッドを見上げ、私は無理やり笑顔を浮かべた。


「一瞬だよ。私は部屋にいたから寒くないけど、ウィルの身体はものすごく冷えてる」

「着こんできたし大丈夫」

「でも、外の様子だと雪が積もって帰りが大変かも。せっかく来てくれたけれど、今日会うのを延期してもよかったんだよ?」

「これくらいの雪でシャノンと会うのをやめるなんてあり得ない。会えるのを楽しみにしていたのは俺だけ?」


 長い金の睫毛が自分のすぐ目の前で瞬き、寂しいなとウィルフレッドが目を細める。

 その瞳には、慈しむような優しさが乗っている。


 ――もう、そんな目で見ないで!


 心がみしみしと音を立てる。

 その瞳が嘘をついているなんて思いたくないと、どうしても訴えてくる。


「……私も楽しみにしていた。会えて嬉しい。雪が降るなか来てくれてありがとう」

「よかった。俺も会えて嬉しい」


 とろりと熱のこもった声とともに、すかさず親愛を示すように額にキスを受ける。

 あまりにも自然な動作。当然のように受けた温もりに泣きたくなった。


「そうだ。スープがあるの。それで身体を温めて」


 私はぐっと手を握りしめ、笑顔、笑顔と自身に言い聞かせながらそう告げると、ウィルフレッドは整った唇を小さく緩めた。

 彼が微笑むだけで、ほんのりと優しい空気が流れる。だけど、今はそれさえも胸のつかえが増していくように重くなった。


「嬉しいな。それだけでも寒いなか来た甲斐があるよ。いつもありがとう」


 当然のように告げられるお礼。

 彼のために何かすれば、ウィルフレッドは必ず礼を告げてくれる。

 半年が経ってもしてもらって当たり前とは思わないようで、嬉しそうに礼を告げられると私もまた喜んでもらいたくて何かしたくなった。

 ウィルフレッドの穏やかな表情に耐え切れず、そこで私は顔を下に向け彼の拘束から逃れた。


「よかった。そこに座って待ってて。すぐ持って来るから」


 濡れた身体を拭いたら席に座るように促し温め直したスープを運ぶと、ウィルフレッドはにっこりと破顔し、両手でカップを持った。

 目を細め嬉しそうに匂いを嗅ぎ、「あったか」と感じ入った声を上げたフィルフレッドは、さっそく口をつけ、幸せそうに息を吐き出す。


「シャノンの作る物はいつも最高だね。美味しいしとても身体が温まる」


 うっすらと立ち上る湯気の向こうから見える双眸には、優しさと愛情が浮かんでいる。そう見えてしまう。


 ――これが嘘だなんて。


 偽りだとわかっていながらもそこに情を見出そうとするのは、彼に惚れてしまったがゆえだろう。

 幻想なのに――。そう何度言い聞かせても、その眼差しを前にすると本当は違うのではないかと思ってしまう。


 私の前にいる彼は、いつも穏やかで笑みを絶やすことがなかった。

 怒ることも不機嫌になることもなく、ウィルフレッドと過ごす時間はただただ優しい時間が過ぎていく。


「よかった。ショウガを入れてあるから、徐々にぽかぽかすると思う」


 震えそうになる手を後ろに隠し、スープを飲むだけでも優雅に見えるウィルフレッドの姿を見つめる。

 穏やかに微笑む恋人を前にすると、まだ信じたくないという思いが膨れ上がる。

 だが、もうこれで最後にするのだと、こみ上げる感情を抑えようと手の甲に爪を立てた。


「シャノン?」


 私の様子に気づいたウィルフレッドが、すぐさまどうしたと覗き込んでくる。


「ううん。ウィルの役に立ててよかったなと思っただけ」


 私はふるふると顔を振った。


「――シャノンと一緒にいるだけで俺は幸せだからね」


 じっ、と私を見たウィルフレッドは、わずかに眉を寄せたが笑顔を浮かべる私に追求しても仕方がないと思ったのか、小さく息をつくと切り替えると私を優しく包み込むように微笑んだ。

 ウィルフレッドと出会うまでは、甘えることが許され見守ってくれる恋人の存在が、こんなにも素敵なものだとは知らなかった。


 彼に告白され付き合うようになり、一緒に過ごす時間は、ふわふわとあまりにも優しい夢の中にいるようで私は毎日が新鮮で充実していた。

 ウィルフレッドと過ごす月日は私にとってものすごく明るく、何も疑うことはないものだった。

 走馬灯のように、出会いからこれまでの記憶が再生される。


 楽しかった記憶しかない。

 真実を知らなければ、私は優しい嘘に騙されたままだっただろう。

 ぎゅっと唇を噛み締めると、スープを飲み終えたウィルフレッドが心配そうに私の顔を見ていた。


「シャノン。本当にどうしたの?」


 おいでと優しく手招きされ、泣いてしまいそうなこともあり私はふらふらとその腕の中に身を任せた。

 そこまで表情に出したつもりはない。

 それなのに私の機微に気づき、包み込んでくれるこの優しさが偽りだなんて気づきたくなかった。


 ぐりぐりとその胸に顔を押し付ける。

 甘える振りをして、顔を見せまいとぎゅっとその身体に腕を回した。


 そうしないとすぐに表情が崩れそうで。

 見られてしまいそうで。


 これが最後だからいいじゃないかと、踏ん切りがつかない恋心が温もりを求めてしまって。

 心と身体がばらばらになりそうだ。


「何かあるなら言って。シャノンはあまり自分のこと話さないから心配だ」


 そう(たず)ねてくる優しい響きが、不安定な心を揺さぶる。

 泣いたらおしまいだと、私はこぼれそうになる涙を抑えるよう顔をさらに押し付けた。


「両親の命日が近くて。亡くなったのはちょうど雪が降っていた日だったから、少し思い出しちゃって」


 咄嗟にそう答え、誤魔化した。

 あながち嘘というわけでもない。

 痛み懐かしむ気持ちは消えず、雪の降る日にはよく思い出される。


「そうか。今度、一緒に墓参りに行こう。両親の代わりにはなれないけれど、そばにいることはできる。こんな日は俺にたくさん甘えて」


 両親の話をしていたこともあり、ウィルフレッドは疑うことなく私を慰めてくれる。

 大きな手がゆっくりと頭を撫で、どこまでも優しい手つきに泣きたくなった。


 今日で最後だと思うからか、どうしても恨みよりも寂しさが増していく。

 嘘でも偽りでも、ウィルフレッドが私にずっと優しかったのは本当のことだ。

 だから、どうしても憎めない。


 嫌だと突き放し、臆病な私は問い詰めることもできない。

 現状、すでにウィルフレッドの知りたい情報の切れ端を渡してしまっているのかさえもわからない。


 私と付き合ってまで何が知りたいのか。

 まだ付き合っているのは情報のすべてを知り得ていないからだろうが、私がどこまで彼の知りたいことに触れているのか見当もつかなかった。

 だから、私は『なかったことにする』ことを選んだ。


「ありがとう」


 声が細かに震える。

 この温もりと優しさは偽りなのだと言い聞かせ、距離をとった。


 ちらりと戸棚へと視線をやる。

 ゆっくりと足を運び、引き出しを引くと目的の小瓶に視界に留めた。


「今日、ウィルに効果を試してもらいたいものがあるの。協力してもらってもいいかな?」


 この日のために準備してきた物、この関係を終わらせるための『忘れ薬』を取り出す。

 私はウィルフレッドの前に差し出し、にこっと笑みを浮かべた。


「もちろん。俺でよければ協力するよ」

「どんな薬か聞かなくてもいいの?」


 間髪入れずに了承され、思わず問いかける。

 どうやって飲ませようか、不審に思われないようにいろいろ聞かれたときの言い訳をたくさん準備してきた。


 話を切り出すのもかなり緊張していたが肩透かしを食らい、まじまじとウィルフレッドを見てしまう。

 躊躇なく小瓶を受け取ったウィルフレッドは、何の疑問もない爽やかな笑顔を浮かべた。


「シャノンが害のある物を渡すわけがないから」

「そ、う……。信用してくれてありがとう」


 寄せられる信頼に心が揺らぐ。

 わずかに震えた声を誤魔化すように、笑みを浮かべた。


 それを見たウィルフレッドがわずかに眉を寄せ、せっかくとった距離を詰めてくる。ゆっくりと前髪をかきあげられ、「シャノン」とこつんと額をつけられた。

 薄い水色の瞳に至近距離で見つめられ、逃れられないまま見つめ合う。


「それよりも、今日はどうしたの?」

「どう、って?」


 震える声に気づかれたのだろうか。

 表情が作れていないのだろうか。

 いつも通りにしようと思えば思うほど、何か失敗していないだろうかと心配になった。


「元気がないように見えるから。何かあるなら話して」


 心なしかいつもより声が低い。少し身を屈めたウィルフレッドが、奥底を探るように私の瞳を覗き込んできた。

 私はきゅっと唇を噛み締め、小さく首を振った。


「ううん。ウィルはいつも優しいなと思って。両親も私のすることにいつも手放しで褒めてくれたのを思い出して。認めてもらえるってパワーになるよね」


 嘘をつくことができず、本当のことを混ぜて咄嗟に告げたがそれがよかったのか、探るような視線の圧が弱まる。


「そうか。シャノンの中で俺の存在が大きくなっていたら嬉しいな」

「付き合っているのだから当然だよ」


 あえて、付き合っていると言葉にして反応を見る。


「当然か」


 そこでウィルフレッドは、花が咲き誇るようにぱっと笑顔になった。

 外の寒さとは反対に、ここだけ春が来たかのようにほこほこと笑う姿はあまりにも眩しすぎて、直視していられない。


 これも演技なのか。嘘なのか。騙すためなのか。

 何が嘘で、本当なのか。

 ウィルフレッドの反応ではわからない。


 騙されていたことを知り、これまでいろいろ試し様子を見てきた。けれど、知りたがっている決定的なものが何であるか、情報を得ることができないままここまできた。

 今日を迎えるにあたって決して忘れないと誓った笑顔を浮かべ、最後になるのだからしっかり見ておこうとウィルフレッドを視界に入れた。


「うん。私のことを私以上に知っているのは、亡き両親以外でウィルだけだよ。薬を作るときだけ両利きになることや、一人ごとが多いのは自分で気づかなかったもの」

「それだけ真摯に向き合っているんだろうね。あと、シャノンは楽しみなことがあるときは足の音が明るい」

「音が明るい?」


 そんなことを言われたのは初めてだ。

 なんとなく言わんとしていることのニュアンスは伝わるが、具体的にどう違うのか自分でもわからず首を傾げると、ウィルフレッドがとろけるような甘い瞳とともに微笑んだ。


 愛情が溢れ出たとでもいうようなたっぷりの当分を含んだ双眸は、今の私には荒波にも思え気圧される。

 ぱちりと瞬きしたその瞬間、その奥に揺らめく熱が見え目を見開く。

 小さく、えっ、と声にもならない声を出すと、ウィルフレッドは何事もなかったかのように爽やかな笑顔を浮かべた。


「ああ。職業柄人を観察することもあるからか、足音や動作を見る癖があって」

「だから、足音」

「そう。シャノンは嬉しいときは足音が軽やかで可愛らしい。料理のときに小さく鼻歌を歌っているときもあるよね。それも可愛い。知れば知るほどシャノンのことが好きになる。もっともっとシャノンの可愛いところを知りたい」

「そ、う。足音でいろいろバレてるの恥ずかしいかも……」


 見間違いだろうかと思うほど一瞬にして消し去ったものは気になったが、どうせ今日で最後だと改めて問うことはしなかった。

 いつも好意を伝えてくれるけれど、具体的に好きなところや今後を匂わされ、そう返すのが精いっぱいだ。


「まだまだあるけど、気づかれて直されたら困るし内緒にしとく。俺だけが知っていたいし。それでさっきの話に繋がるけれど、シャノンが薬を作るために素材から始まり、どれだけ手間暇かけて作っているのか、相手の症状に丁寧に向き合っているのを知っている。そんなシャノンがくれる物、しかも頼られたら俺は喜んで飲むよ」


 ふわりと微笑み、忘れ薬のビンを小さく振るウィルフレッド。

 そんなに信頼していいのか。

 騙していたくせに、騙しているくせに、こちらのことはちっとも疑わない。


 信頼があるからなのか、優しいからなのか。

 騙しているくせにあまりにも優しい眼差しで見つめられ、もうわけがわからなくなる。


 今までだったらその言葉を信じて、その表情を信じて、単純に喜んでいた。

 長らく一人で過ごした時間が多かったため、感情を伝えるという行為をしてこなかったのだと、ウィルフレッドと付き合って気づいた。


 少しずつ、そういった私の感情を出していったのがウィルフレッドだ。

 私の内側を、両親のこと、過去の思い出や気持ちを引き出していったのは彼だ。


 だが、それも私の魔女の知識を得るためだったと思えば虚しくて。

 それでも常に好意的に接してくれて、偽りでも自分をこんなに見てくれた人を嫌いになれなくて。


 すっと細められる双眸に、いつもならきゅんとするところがぎゅんと引き絞られる。

 どうしても嫌いに慣れないまま、今日を迎えてしまった。


 ――もう、終わりにしよう。


 魔女の末裔だからこそ、作れた忘れ薬。

 だからこそ選べた選択肢。


 まだ、間に合う。

 情報を渡してしまう前に、これ以上好きになる前に――。

 この苦しみもすべてなかったことにするのだと、白くなるほどに拳を握りしめ忘れ薬を見つめた。




 食事を終え寛ぎ、私たちはソファに横になって座った。

 ぱちぱちと暖炉で火が燃える音がし、部屋は暖かいはずなのに妙に肌寒く感じて身震いする。

 窓の外へと視線を向けると、羽毛のようにはらはらと雪が落ち、ときおり吹き付けた風に乗って舞っていた。


「今夜は冷えそうだね」

「ああ。シャノン、もっとこっちに来て」


 ウィルフレッドはぽんぽんとすぐ横を叩き、言われるまま距離を詰めた私の腰に手を回した。


「暖かくなったらあちこち行きたいな。まずはシャノンのご両親のお墓に挨拶だな」

「そうだね。ありがとう」


 何も知らないままならそんな日があったかもしれないが、そんな日は来ることはない。

 私はこうしてくっつくのも最後になると、そっと頼もしい腕に頭を乗せた。


 深く息を吸う。

 頼りになる力強い腕も、ウィルフレッドの匂いを感じるのも今日で最後。先の話をすればするほど、終わりを意識する。


「ウィルフレッドと付き合えてよかったよ」

「急にどうしたの?」

「ふと、思っただけ。さっきも言ったけど、雪が降っていると少しナイーブになるみたい。こうして人の温もりを感じていると余計に」


 騙されていたと知った虚しさや憤りはあったけれど、結局一緒にいると安らぎを覚える。

 それくらいウィルフレッドは常に優しかった。

 きっと別れる時も気づかないようにしてくれたはずで、それでもよいのではと私の前で企みがあることを見せない相手を前に、楽なほうへと流されたくなることが何度もあった。


 皮肉にも、ウィルフレッドが魔女の末裔だから私に近づいたその知識で、彼は記憶を忘れることになる。

 騙されたけれど、偽りだけれど、情報を取られなかったことを、今後は警戒もして与えるつもりはないことを考えれば、一矢報えたのでそれでいいのではないか。


 ――結局、最後まで憎ませてくれなかったな。


 その完璧さがなんだかおかしくて、ふふっと笑いを漏らすと、ウィルフレッドが頭上に優しく唇を落とした。


「そうか。俺もシャノンと出会えてよかった」

「じゃ、薬を一気に飲んでみて」

「じゃの意味がわからないが、期待に添えようか」


 くすりと笑い、再び忘れ薬の入った小瓶を手に取ったウィルフレッドをじっと見つめる。

 ビンの蓋を開けると、独特の薬品の匂いがそろりと漂った。


「なかなかの匂いだね」

「そうなの。匂いだけはどうしようもなくて。ごめんなさい」

「いや、いいよ。だが、部屋に残りそうな匂いだし少し窓を開けて喚起しようか」


 あまりにも強い匂いに窓を開けると、カーテンがはためき暖まった部屋に冷気が入り込む。

 温度が下がったことで、また気持ちも下がりこれで最後なのだとより冷静になれた。


「ちょっと慣れてきたな。――シャノン、緊張してる?」

「少し。身体に悪い物は入れていないけれど、新しく作った物はどうしても効果が気になって」


 おかしくなって笑ったり、緊張したり、情緒が先ほどから不安定だ。


 ――しっかりしないと。これが最後なのよ!


 ここまできて失敗するわけにはいかないと、私はゆっくりと瞼を伏せた。

 忘れ薬を作りながら、この一か月様子を見ながらずっと悩み、自問自答し出した答え。


 一緒にいると好かれているとしか思えなくて。

 でも、実際は目的があって近づいてきて、そのためには付き合えてしまう人で。


 私はそれが許容できない。理解できない。

 そして問い詰めることもできないから、終わらせる。

 何もなかったことにするしか、私にはできなかった。


 情報とは何かを問いただすことも、優しくされたまま恋心を捨てることもできないから、逃げる。

 嘘から。本当から。自分の心から。この想いから。

 捨ててしまうこともできなくて、だから強引に終わらせるべく彼に忘れてもらう。

 忘れてほしくないのに、忘れてほしくて――。


 ウィルフレッドの口に小瓶が触れる。

 液体が流れ、こくりと喉が嚥下する。

 やけにゆっくりと時間が流れる。


 最後の一滴がウィルフレッドの体内へと入るのを見届け、私はふっと眠りに入る瞬間に私を見た優しい眼差しに息を止める。

 あまりにも熱っぽくて、その双眸に一瞬映った私の顔の酷さとともに一生忘れることはできないだろう。


 本当に、気づいていないのだろうか。そうした不安はあるけれど、それらすべては忘れ薬が解決してくれる。

 無事、忘れ薬を飲ませることができた安堵と、本当にこれで終わったのだと言い知れぬ喪失感に私はしばらく呆然と座りこんだ。



   ◇ ◇ ◇



 冷えてきたので喚起のために開けていた窓を閉め、しばらくして意識を失ったウィルフレッドをそのままソファに横たえた。

 毛布をかけようとしていた手を止め、そのまま胸に耳を当てる。規則正しい呼吸に眠っているだけなのを確認し、ふっと息をついた。

 明日、この家から一歩外に出たら、私と過ごした時間も情報をすべて忘れることになるだろう。


 ウィルフレッドは、ただ、忘れるだけ。

 そして、私はひたすらなかったことにするだけ。


 この半年と少し、幸せな夢の中にいるようだった。

 人と過ごす温かさを思い出させてくれた。


 目的があって近づいたとしても、ともに過ごした時間は私にとっては本物だった。

 向けられた優しさが作られたものであったとしても、その優しさに救われたのは事実。

 私の人生が彩ったのはウィルフレッドのおかげ。

 こぼれ落ちそうになる涙をぐっと堪え、私は代わりに笑顔を浮かべた。


「好き、だったよ」


 今も好き。

 これが嘘であったらどれだけよかったかと何度も思ったけれど、気持ちを封じることも、問いただすことも、リスクを取ることもできずに逃げるように魔女のレシピに手を出してしまった。

 そのことに後悔はない。しないと決めている。


「……私のことは忘れて。できればもう関わらないで」


 偽りでも大事にしてもらった。

 思い出は私が持っていく。あなたには何一つ残してあげない。

 私はそっと唇を重ねた。


 私から行う初めてのキス。そして最後のキス。

 これも私だけの記憶。

 あなただけが知らないことが、私のせめての復讐だ。


 朝がきてウィルフレッドは目が覚めた。

 これまでと同じように扉の前で別れの挨拶し、去り際に手を振る恋人だった人を見つめる。

 刻々と、私との記憶がなくなっているウィルフレッド。

 日が沈む頃には、ここでの密な時間は違和感なくすべて忘れる。


「さようなら……」


 愛していた。

 偽りの時間は終わり。

 騙されたままでいられたら、期限があったとしてもあともう少しこのままでと思う気持ちを押し込め、私は扉に鍵をかけた。



 その後、記憶を失くしたはずのウィルフレッドに捕まり、こんなはずではとなるのは雪解けした春のこと――。




お付き合いありがとうございました!

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