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「あなた、そろそろ退院の準備をしましょう。」
その日は朝から太陽が燦々と光り輝いていた。じりじりとした日差しがアスファルトに反射して、まだ朝だというのにも関わらず気温は28℃にも達していた。
男が入院している病院まで華蘭は自宅から10分ほど歩いてやってきた。10分しか歩いていないのにも関わらず額から汗が噴き出している。糊のきいた水色のハンカチで汗を拭ってから、華蘭は男の病室に足を踏み入れた。
「ああ……。」
男は、華蘭を一瞥するとすぐにその視線を大切そうに手に持っているスマートフォンに移した。
「くー坊とは仲直りできましたか?」
「ああ……。」
「そうですか。それはよかったですね。」
「ああ……。」
男は華蘭の言葉に相づちを打つ。もちろん、視線はスマートフォンに向けたままで。だが、華蘭は気にした様子もなく男の私物をスーツケースに一つずつ詰め込んでいく。
華蘭は男が入院時に使用していたプラスチック製のコップをスーツケースに仕舞おうとして目測を誤ったのか、コップが病室の床に転がった。
カランッ……コンッ……コン……。
転がりながらベッド脇でコップは止まった。
「ああ……。」
華蘭が落としたコップの転がる音にも男は相づちを打った。
華蘭は何も言わずにそっとしゃがんでコップを拾い上げる。持っていたハンカチでコップの汚れを拭うと、何事も無かったようにコップをスーツケースの中にしまい込んだ。
「退院する前に点滴していきましょうか。」
男の耳元で、主治医がおっとりとした様子で話しかけた。
いつの間に主治医がやってきたのか。華蘭が病室に入ったときには主治医の姿はなかったはずだ。
「ああ……。」
男は突然現れた主治医に驚くこともなく、スマートフォンに視線を注いだまま主治医のことを見ずに頷いた。主治医は目を細め、口角を上げる。
男の手にそっと触れると、血管を探して主治医の指が男の腕を優しくさする。男の痩せ細った腕には血管が浮き出ており、血管を指で触って探さなくてもいい状態だった。
何ヶ月も点滴を受けてきた男の血管は醜く膨れ上がり堅くなっていた。
「昨夜は一睡もしてなかったようですし、点滴中は目を瞑って寝ていてくださいね。」
「ああ……。」
主治医は穏やかな声で囁くと、慣れた手つきで点滴の針を突き刺した。つぷっと言う小さな音とともに、針の先が男の血管に飲み込まれていく。動いた時に針が抜けないように、テープで軽く止めると主治医は華蘭に向き直った。
「点滴も打ちましたし、もう大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます。先生。」
主治医の穏やかな言葉に華蘭は安心したように微笑むと男の手を擦った。男は華蘭の手のぬくもりを感じることもなく、深い深い眠りについていた。
「おや、もう寝てしまったようですね。」
「目の下の隈がすごいわ。ずっとくー坊とおしゃべりしていたのかしら。」
「そのようですよ。ずっと、病室からはスマートフォンの青白い光が漏れていましたから。」
「まあ。」
華蘭は口元に手を当てて笑った。その笑みはとても嬉しそうに主治医のからは見えた。
「さて、寝ている間に運んでしまいましょうかね。」
「ええ。先生、お願いいたします。」
主治医はベッドの脇にかがみ込む。ベッドの下に手を入れると、グッと何かを掴んで取り出す。なぜ、ベッド下に隠すように置いてあったのだろうか。主治医の手にはどこまでも真っ白の担架が握られていた。
「車は裏口にまわしてあります。さ、これに乗せて車まで運んでしまいましょう。」
慣れた手つきで華蘭と主治医は担架に男を乗せると、エレベーターで1階まで降りると、これまた慣れた手つきで男を担架ごと車の中に押し込んだ。
ーーガッ。
「あっ……。すみません。」
男を車に乗せたことで気が緩んだのか、華蘭が体勢を崩して、よろめいて車にぶつかる。衝撃で車が左右に揺れた。
「大丈夫ですよ。それよりお怪我はありませんか?」
「え、ええ。私は大丈夫です。それより車が……。」
「問題ありません。それより早く車に乗ってください。誰かに見つかってしまったら説明ができない。」
「そ、そうね。先生、運転よろしくお願いします。」
華蘭と主治医はそれぞれ運転席と助手席に乗り込む。しばらくして、ところどころぶつけた傷が残っている白いワゴン車が男の家に向かって走り出した。




