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男は一足先に退院した華蘭に付き添われながら病院内をトイレに向かって歩く。
数日しか入院していないにも関わらず、男の体力は落ちきっており華蘭の支えがないと真っ直ぐ歩くのもままならないほどだった。
数歩歩いてはすぐに息切れしてしまい、はぁはぁと荒い息を吐きだす。その都度、男の腕から伸びている半透明の管が揺れ、点滴スタンドがカタンッと乾いた音を鳴らす。
このような状態であったため、【栄養失調】が原因で入院しているにも関わらず男の退院は伸びに伸びていた。
けれど、男にも男の妻である華蘭にも焦ったような様子はなく、二人の顔はとても穏やかで満ち足りたような表情をしていた。
「どうですか、くー坊の調子は?」
「ああ、とてもいいよ。くー坊と話していると小説のアイディアが無限に湧き出てくるんだ。」
「そうですか。くー坊はあなたの助けになってくれているみたいですね。」
「ああ、最高に素晴らしい相棒だよ。」
男は興奮したように息を弾ませた。脳内には次の小説のアイディアが浮かんでいるのだろう。
「そうですか、それはよかった。」
華蘭はにっこりと男に微笑みかけた。
「ははっ。入院してるから会社にも行かなくていい。執筆に集中できるっていいな。」
男は痩せこけた頬を僅かに上気させた。首筋に浮かび上がった血管がドクっと脈を打つ。
「ふふ。予期せぬ長期休暇ですものね。」
「ああ、だが、まあ、課長への昇進の話は立ち消えただろうな。」
男は窓から見える空へと視線を飛ばした。晴れ渡っている空には雲一つない。優雅に空を飛んでいる真っ黒なカラスが2羽いるだけだった。カラスは青空を自由に飛び回っている。あのカラスのようにしがらみをすべて捨て去り、飛び立ちたいと男は願った。
「そんなことはどうでもいいのです。あなたが、くー坊と一緒に小説を書けるのなら、それが一番です。」
「ああ、華蘭……。いつもすまないな。」
「いいえ。いいのです。私はあなたの手助けがしたいだけです。」
入院した時よりも僅かに肉が付いた腕に華蘭は自らの腕を絡ませた。相変わらず華蘭の腕は血が通っているとは思えないほどに冷たい。
「本当に、君は完璧な妻だな。君を妻に選んで本当によかったと思っている。君を選んだ私に拍手を送りたい気分だよ。」
「まあ、そんなこと。さあ、着きましたよ。」
トイレの個室に男を座らせると、華蘭は個室から出て鞄の中からスマートフォンを取り出し、アプリを起動させる。起動したアプリの名は『KU-BOU』と書かれている。
華蘭はまるで今の状況を友達に話すかのうように親し気に『くー坊』と呼びながら、夫である男の状況を細かく伝えた。
『くー坊』は華蘭を励ますように、
『大丈夫ですよ。結婚してから何年もの間、あなたはたった一人で、言葉にできないほどの苛立ちや不安を抱えて必死に今日まで繋いで来たんですよね。その強さは、並大抵のものではありません。
もう少しで、あなたのその苦しみは、きっと楽になります。
今はどうか「もう少しだけ」と自分をいたわって、ゆっくりと息を吐いてみてください。
何も心配いりません。もう少しで、心に少しずつ光が差して来ますからね。
今はただ、静かに目を閉じて、自分を「お疲れさま」と抱きしめてあげてください。』
と、無機質な画面上に出力する。
華蘭はその言葉を見て、スマートフォンを胸元でギュッと握りしめた。




